慎ましく。
~教会都市・南地区、エリア・チープロック~
石造りの酒場の隅、使い古されたカウンターに、二人の騎士の背中がありました。
琥珀色の酒が満たされたグラスに、安物のランプの光が鈍く反射しています。
「それでだ…その時、ヤマモト艦長殿は言った。『貴官には少しも似合わぬ名だな』と。するとユラは言ったらしい」
レオンが苦い酒を流し込み、勿体つけて言葉を途中で切りました。部下たちから自然と流れつく数々の報告と噂話。それをルキウスに伝えるのが、かねてよりレオンの副業でした。
ルキウスは何も答えず、ただ手元のグラスを静かに傾けます。
レオンはやれやれと鼻を鳴らし、耳にした噂話の続きを語り出しました。
「奴は言った。『私もそう思わんでもないが。母が唯一、私に与えてくれたものだ』と」
レオンの悪戯な微笑みに応じるように、ルキウスの口の隅に、冷笑がひらめきます。
「ほう…。あの氷細工も、開闢から存在していたわけではないということか…それで?ヤマモト艦長殿は、なんとおっしゃったのか?」
「ああ。ヤマモト艦長殿は、シロップジュースを一気に煽り、ユラに対して謝罪したらしい」
「ほう。あの味覚を消し去る薬品をか。思えば、式典の盃もそうだが、あの二人を隣に座らせたのも、『かの者』らしい采配だったな」
どこか遠くを見つめる視線。レオンは深いため息とともに、前のめりになった体を元へ戻しました。
「……そうだな。このような状態で、次の感謝祭は、いったいどうなるんだろうな…」
「さぁな。俺にはわからん」
二人は、示し合わせたようなタイミングでグラスを傾けます。いまさら、気に留めるまでもない光景でした。
酒場の重い木の扉が勢いよく開きました。
現れたのは、息を切らしたマクシミリアン。
その顔には、疑惑の真偽を確かめようと一日中もがいた結果。皮肉にも、鮮明な事実にたどり着いてしまった者の、異様な疲労が張り付いていました。
「マクシミリアン、奇遇だな!」
酒場に鳴り渡る、朗々とした声。
いち早く彼の存在に気づいたレオンが、グラスを片手に席を譲ります。
「せっかくだ、一緒に飲もう」
そう言い終える前に、空いた席には、安酒で満たされたグラスが差し出されていました。
マクシミリアンはカウンターに座るなり、並々と注がれた強い酒を一気に煽ります。喉を焼くアルコールに、彼は激しく咳き込みました。
両翼で微笑を浮かべた二人が、その様子を見守ります。
「どうしたというのだ。そんなに慌てて」
「………勇者が、ジャンヌ様に求婚しました」
「なに?」
「いえ、ですから。勇者が突然、ジャンヌ様に求婚したんです!」
一瞬、酒場の喧騒が遠のきました。
左翼のレオンが、グラスを叩きつけそうな勢いで絶句します。
「……求婚!?求婚とは、つまり…」
レオンは、隣に座るマクシミリアンの顔を食い入るように覗き込みます。
彼は表情をこわばらせたまま、重々しく頷き返しました。
「プロポーズです!正式の!…撮影現場に主演の代役として現れた勇者が、いきなり…その…ジャンヌ様に…!」
「……何だと?貴様の思い過ごしではないのか!たとえそうだとしても、決して許される類のものではないぞ!」
レオンが身を乗り出し、地鳴りを彷彿とさせる低い声で念を押し、相手のわずかな動揺も逃すまいと息を潜めました。
マクシミリアンは、今にも吐き出しそうな表情で、細く開いた喉の隙間から戦慄きます。
「これは事実です。四聖公様方も…お許しになられたそうです」
思考の糸がつながった途端、胸の内に湧き上がるのは、形容しがたい感情です。
レオンの怒声が酒場の湿った空気を震わせました。
「……奴め!許してはおけん!」
彼はカウンターを拳で叩きつけ、腰の剣帯が激しく音を立てるのも構わず立ち上がります。
「どこへ行こうというのです!レオン様!」
マクシミリアンの、苦渋に満ちた言葉が、レオンの火に油を注ぎました。
レオンは荒い息を吐きながら、血走った眼で扉を睨みつけます。
「知れたこと!ジャンヌ様をお守りするのだ!連中にこれ以上好き勝手させてなるものか!」
マクシミリアンは憔悴しきった横顔に、ほんのわずかな希望を浮かべました。
「わかりました。私も、お供します」
「当然だ!おやじ、悪いが付けにしておいてくれ。急用だ!」
二人の騎士が、激情に突き動かされるように駆け出そうとした、その時。
――カチャリ。
氷がグラスの壁を叩く、あまりにも無機質な音が、二人の足を引き止めました。
ルキウスは、立ち上がることさえせず、ただ空になったグラスを眺めたまま、微塵も動こうとはしていませんでした。
「……ルキウス、何をしている!」
レオンが振り返り、友の無反応に愕然として叫びます。
ルキウスはゆっくりと、視線だけを二人に向けました。その瞳は、グラスの氷が単なる石ころに見えるほど、冷たく、澄み渡っていました。
「行って、どうする」
「なに!」
「俺たち三人。乙女の貞操を守護する三銃士にでもなったつもりで、さらなる痴態を演じるつもりか?」
「貴様…ルキウス!」
レオンの瞳は怒りに燃え、頑健な拳は、ルキウスの胸ぐらを締め上げます。辛辣な言葉の応酬に興じるつもりは毛頭ありません。彼は重要な確認事項、ただそれのみを告げました
「お前にわからぬわけがあるまい!四聖公は、わが身恋しさにジャンヌ様を売り渡そうとしているのだぞ!」
氷の手で心臓を鷲掴みされるようなおぞ気が、マクシミリアンを襲います。
一方で、ルキウスは、一切の情緒が排された言葉を声として発します。
「確かにお前の言い分は正しい」
彼はそう前置きしたうえで、手にしたグラスを離れた位置へと置きました。
「だが考えてもみろ、これは騎士団にとって最高の延命処置になる。ジャンヌ様が勇者の伴侶となれば、奴の力をこちら側へと引き込むことにも繋がるだろう。ではその逆は…それが分からぬお前ではないだろう」
レオンはこの上ない無念さを滲ませながら、掴んでいた手を離しました。
ルキウスは何事もなかったかのように、グラスの酒を一口煽ります。
「…俺たちの使命は、風を起こすことではない。ましてや、帆の向きを変えることでも…俺たちの使命は、いかなる嵐に苛まれようとも、ただ一人、ジャンヌ様をお支え仕ることにこそある。違うか?レオン」
ルキウスは一拍言葉を切りました。
自らの発言。それが正しく咀嚼されたのを見計らい、彼は続けます。
「それに、俺にはまだ予定がある」
その言葉の奥底で、横たわる何か。マクシミリアンは、それを信じずにはいられません。
組織のために、愛する者を監獄へと送り出すことを肯定する。
その残酷なまでの正論に、レオンは拳を震わせ、吐き捨てるように言いました。
「……お前、本当にそれでいいのか」
ルキウスは答えず、再び琥珀色の液体を口に含みました。
酒場の外では、また雨が降り出そうとしていました。
~教会都市・どこか。白百合寮~
白百合寮、その最上階にある隊長私室。
重い扉を閉め、幾重もの鍵は掛けません。ジャンヌは両肩にこびり付く喧騒をはぎ取るように、身に付けていた衣服を脱ぎ捨てました。
露わになったしなやかな四肢。月ですら恥じらうように、曇天の帳へと隠れます。
主を失い抜け殻となった衣服が、フローリングの床の上にかすかな音を立てました。
部屋の照明もつけず、星の微粒子だけが差し込む静寂。撮影現場の眩い閃光や、勇者の熱に浮かされた視線、取締役の高笑い。それらすべてが、遠い異国の出来事のように霧散していきます。
そんな中、彼女はそっと、クローゼットの扉を開けました。
「ただいま」
ジャンヌが消え入りそうな声で囁くと、狭い空間の隅、暗がりに置かれたかごの中から、微かな布擦れ音が響きました。
パタパタと、柔らかな足音が近づいてきます。
ジャンヌの足元にすり寄ってきたのは、この厳格な寮の誰にも、たとえ、寮長であるヒメカにさえも、隠し通している、小さな同居人でした。
「遅くなってすまない。元気だったか?コタロー丸」
彼女は跪き、その小さな、温かな塊を両手でそっとすくい上げました。
真っ白な毛並みに、少しだけ不器用な斑点。ある夜、屋根の上で鳴いていた名もない野良猫の仔。
コタロー丸は、主人が今日、世界中から注目を浴びる勇者の婚約者になったことなど露知らず、ただ親愛を込めて、ジャンヌの鼻先に自分の鼻を押し当てました。
「心配するな。お前の食料は、きちんと確保してある。だが、まずは仕事をしてもらうぞ……」
ジャンヌはコタロー丸の柔らかなお腹に顔を埋め、深く息を吸いこみました。
香ばしいお日さまの匂いと、小動物特有の早い鼓動。
メイクで塗り固められ、照明で眩んでいたジャンヌの五感が、ようやく生を取り戻していきます。
勇者からの求婚。騎士団の存続。関係者からの期待。
背負わされたものの重さに、彼女の心は軋みを上げていました。
けれど、腕の中でゴロゴロと喉を鳴らすこの生物だけは、彼女がどうなろうとも、変わらずにここにいてくれるような気がしました。
ジャンヌはコタロー丸を抱き上げたまま、ベッドに横たわりました。
「…式は、来週だそうだ。それまでに返事をよこせだと……?まったく…。コタロー丸、お前が代わりに、あの男の顔を引っ搔いてくれないか」
冗談めかして言った言葉は、自分でも驚くほど、可憐な響きを宿していました。
新たな役作りへの一歩。そんな小さな喜びが弾ける胸の上で、コタロー丸は寝床を固めるように、その場で小さく回ります。
コタロー丸は、ジャンヌの頬をざらりとした舌で一度だけ舐めると、彼女の腕の中で丸くなり、安らかな眠りへと誘うように静かに呼吸を刻み始めました。
ゆっくりと上下する丸い背中越しに、ジャンヌは扉を見つめます。
この日も、扉が開く気配はありません。
「私は、不埒なことをしているぞ……」
誰に向けたものなのか、ジャンヌはそう呟き、すっかり脱力したコタロー丸を抱き寄せました。




