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花たち。

 降り続く雨が、石畳にこびり付いた傷の上を流れていきます。

 少女の鳴き声と、勇者一行の傲慢な沈黙が支配するその場に、いくつもの足音が近づいてきました。

 

「ジャンヌ様。撮影スケジュールが迫っています」


 後方で待機していた部隊とともに現れたのは、この日の広報管理官。多忙なジャンヌを補佐するためのマネージャーの役割を担っていました。

 未だにすすり泣く少女。その肩を支えるジャンヌ。そして、その様子を見下ろす幾人か。

 冷たい雨の中、彼女は眉一つ動かしませんでした。


「あ…ああ、しかし」


 ジャンヌの声は、雨音に消されそうなほど、か細く発せられました。

 彼女は、規律そのものといった体で立ち尽くす広報管理官を一瞥し、泥にまみれた少女の肩を、なおも強く抱き寄せます。

 

「ジャンヌ様」


 そんな二人を雨から遮るように、ルキウスは風上に立ちました。

 彼は努めて穏やかに、落ち着きを取り戻しつつある部隊を見据え、言葉を繋ぎます。


「ジャンヌ様。この者の処遇…いいえ。この者のことは、どうか我らにお任せください」


 ルキウスは、普段の傲慢さからは想像もつかないほど、懇願に近い響きをその声に乗せました。それは彼にとって、弱みとも捉えかねない祈りに等しい態度でした。

 

「…だが」


 煮え切らない様子のジャンヌ。言葉を失ったルキウスに代わり、次はレオンが、視界を塞ぐ壁になるように前へと歩み出ました。 


「ジャンヌ様。どうかこの場は、このルキウスに一任ください。私が知る限り、最も信用のおける者です。ですから、何卒」


 深々と頭を下げたレオンの瞳にも、また、いつもの闘志とは違う、深い悲しみと決意が宿っていました。


「…そうか、すまない」


 泥にまみれた招待状を抱える少女を、一度だけ強く抱き寄せ。ジャンヌは立ち上がりました。

 入れ替わるようにルキウスが跪き、少女の震える肩を支えます。


「ではジャンヌ様。シップを待機させてあります。メイクなどは、その中で」

「ああ」


 歩き出す去り際、ジャンヌは不気味に立ち尽くしていた勇者たちを、鋭く睨みつけました。


「……」


 勇者は、ただジャンヌを見つめ。沈黙を貫き続けておりました。

その瞳に映っているのは、英雄への敬意か、あるいは羽虫を眺めるような無関心か。

降りしきる雨が、二人の間に越えられない断絶を刻んでいるかのようでした。




 シップの重い扉が開くと、そこは先ほどまでの雨と泥の戦場とは、あまりにもかけ離れた楽園でした。


 眩いほどのルーン照明が雨粒を宝石のように散し、華やかに着飾った群衆が、英雄の登場を今か今かと待ちわびています。


 メイクを施され、傷痕を完璧に隠したジャンヌがシップから降りてきました。

 白銀の甲冑は磨き上げられ、彼女の頬には先ほどの熱を感じさせない、陶器のような紅が差されています。

 

「遅いじゃない、ジャンヌ!配置について!」


 スタッフの怒号が飛び交う中、現場は異様な殺気と混乱に包まれていました。

 撮影用の巨大なカメラを抱えた男たちが右往左往し、ディレクターが頭を抱えて叫んでいます。


「どういうことだ!主演との連絡はまだ取れないのか?!」

「それが…いつもは、直前に連絡があるのですが…今日はそれどころか、連絡すら繋がりません…」

「どうなっている!誰か託を受けた者は!?お前は!?お前は!?」

「い…いえ」「何も…すみません」

「街中を探してこい!今すぐだ!」

『はい!』


 ジャンヌはその喧騒を、他人事のように見つめていました。

 主演の俳優がいない。彼女にとって、さほど珍しいものではありません。

 その滑稽な混乱を、冷ややかな沈黙が切り裂きました。

 

 怒りに震える表情を即座に覆い隠し、ディレクターは手もみしながらそちらへと向かいます。


「これはこれは!代表殿。お見苦しい所をお見せして大変申し訳ございません。ただいま、撮影の準備をしている最中でございます。期限には必ず間に合わせますので、どうかご安心ください!」


 人混みを割り、威圧的な靴音を響かせて現れたのは、豪奢な毛皮を羽織った初老の男でした。

 数多の組織の商業部門を統括する取締役、あるいはこの映画の出資者。


 スタッフたちの安堵も束の間、取締役の男は、全てを見透かしたように鼻を鳴らしました。


「代役だ」 

「はい?」


 彼の言葉に、現場はしんと静まり返ります。彼は困惑するスタッフたちを一瞥し、背後の暗がりに向かって顎をしゃくりました。


「主演は今日限りでクビだ…代わりに、本人が『やる』といって聞かなくてな。本来なら上級聖務特使殿をこんな見世物に出すなど契約外だが、本人の強い希望だ。サツ殿も、宣伝効果としては最高だと許可を出された。もちろん、四聖公どももだ」


「本人…?代わり、と言いますと…」


 ディレクターの問いに答えるように、照明の渦の中へと足を踏み出した影がありました。

 真紅のマント。夜を払う眩い装備。

 先ほど、北外郭でジャンヌに頬を張られ、沈黙貫いていた――あの勇者でした。


「ッ………貴様っ!何をしに…!」


 ジャンヌが思わず小道具の剣の柄に手をかけますが、勇者はそれに応じません。

 彼はメイク道具や台本が散らばる混乱の爆心地など微塵も気にすることなく、ただ真っすぐに、吸い寄せられるようにジャンヌの前に立ちました。


 その瞳は、先ほどの戦場で見せた、達観する強者の視線ではありませんでした。

 そこには、熱に浮かされたような、あるいは未知の衝撃に打ち震えるような、あまりにも生々しい執着が宿っています。


「……」


 口を閉ざす勇者。彼の背後から、上級聖務特使がひとり、可憐な少女ロロが前へと躍り出ました。

 その細い腕には、華奢な体を覆い尽くすほどの、巨大な花束が握られています。

  

「勇者様より。親愛なるジャンヌ様へお伝え申し上げます。この度わたくし勇者は、あなたに正式に……正式に……っ」


 ロロは、吐き気でも堪えるかのように言葉を喉に詰まらせました。

 現場に立ち込める、強烈なまでの不安と困惑。しかし、取締役も、カメラを構えるスタッフも誰もそれを止めることなどできません。

  

 ロロは震える呼吸を整え、絞り出すように再び続けました。


「わたくし勇者は。あなたに正式に………求婚いたします!」

  

 ロロの放った一撃は、眩いルーン照明の光でさえ凍り付かせました。

 

 自分の心臓が激しく高鳴る音を、ジャンヌは耳元で聞きました。

 目の前の光景が、色彩を失って歪んでいきます。北外郭の崩壊、泥の中の少女、混乱する現場。それらすべての現実が、このたった一言の狂気によって、あまりにも呆気なく、過去へと吹き飛ばされたのです。

 

「な゛っ!!!」


 ジャンヌの口から漏れたのは、言葉というよりは、壊れた楽器が鳴らすような歪な音でした。

 彼女の視線の先。煌めく『神話等級』の鎧を身に纏い、神々しいまでの威厳を放っていたはずの勇者は、あろうことか、少年のようなあどけなさで頬を真っ赤に染め、視線を泳がせていました。


 先ほどジャンヌが張った指の跡が、まるで恋の刻印であるかのように、彼の白い肌の上で熱を帯びて浮き上がっています。


「ばっ!こんなバカな話があるか!大体こいつは……!」

「は、ははははははっ!!最高だ!期待以上のリテイクじゃないか!」


 ジャンヌの抗議を遮るように、取締役の高笑いが響きます。

 彼は膝を叩き、身をよじらせて、涙が出るほどにこの喜劇を謳歌しています。


「いいぞこれだ!暴力による拒絶が、真実の愛を呼び覚ます!これこそ民衆が望んでいた、野性的で情熱的な聖譚曲(オラトリオ)だ!回せ!カメラを止めるな!一秒たりとも逃さず記録しろ!」


 取締役の号令に、呆然と立ち尽くしていたスタッフたちが、沸かした湯のように慌ただしく動き出しました。

 しかし、その動きはぎこちなく、誰もが「これは台本なのか?本気なのか?」という正体不明の恐怖に顔をこわばらせています。音声担当の手元は震え、カメラマンはあまりの画の強さに、ピントを合わせるのさえ忘れていました。


 そんな喧騒の中心で、花束を差し出したままのロロは、石像のように固まっていました。

 今や彼女は、この場で最も恥じらいを見せています。


 ロロの指先が、花束の茎をミリミリと握りつぶします。


 勇者は、もじもじと落ち着きなく指を動かし、ようやく意を決したように、上目遣いでジャンヌを見つめます。


「…」


 ジャンヌの指先が、怒りと困惑で激しく震えはじめます。

 

 思い出されるのは、街の惨状。仲間たちの顔。そして、彼らの名でした。


「……ふざけるな」


 地を這うような声。誰の耳にも届きません。取締役の目には、それは瑞々しい恥じらいを含んだ、極上の演技にさえ映っていました。


 一方で、しばらく放心した状態で、その場に存在していただけの男。ディレクターは、現実に引き戻されたように、苛立ち込めて頭を掻きむしりました。

 爪の間に詰まる脂と、肩に飛び散るフケ。いまさら気にするスタッフなど、この場には誰一人として存在していません。


「……脚本家を呼べ」

「…はい?」

「脚本家を呼べってんだよ!今すぐだ!」

「はっ、はいぃっ!」


 弾かれたように駆け出したスタッフの背中を見送り、彼は呆然と、ルーン照明に照らされた撮影現場を視界に収めました。





~教会都市・北西地区、聖護区ノーブルハーミット~



 上級聖務特使たちが集う宿舎の談話室。

 そこには、戦場の熱気も、撮影現場の喧騒も、一滴たりとも入り込む余地はありませんでした。


 部屋の中央、真紅の長椅子にだらしなく寝そべり、古ぼけた本に視線を落としている男が一人。クラウゼです。彼はページをめくる指先一つにさえ、世界に対する深い倦怠を滲ませていました。


 そこへ、撮影現場から一足先に戻ったロロが姿を現します。

 その足取りは重く、手には先ほど拒絶された、あるいは、捧げられた、あの花束の残骸が、無残に握り締められていました。


 ロロの尋常ならざる気配。しかし、クラウゼは本から目を離すことすらありません。


「…酷い顔だ。鏡を見てきたらどうだい、ロロ」


 それは感情を乗せることさえ億劫な、ただの拒絶でした。


「クラウゼ、あなたは…」

「聞きたくないな。君がその子供じみた忠誠心のせいで、どんな無様な道化を演じて来たのかなど。…その花、死臭がするぞ。僕の読書の邪魔をしないでくれないか」


 クラウゼは冷たく言い放つと、まるで目に入れたくないものから逃れるように本の位置をずらし、視界からロロを完全に排斥しました。


「そうだロロ。僕はしばらく戻らない。粘膜による契約など、おぞましいことこの上ないからね」


 ロロの奥歯が、ぎり、と鳴ります。

 彼女は何も言い返しませんでした。言い返す価値すら、この冷え切った空間には存在しないことを知っていたからです。


 ロロは翻り、談話室を後にしました。

 廊下に響く彼女の靴跡は、先ほどまでの散漫から、より鋭利な警戒へと研ぎ澄まされていきます。


 向かう先は、もう一人の特使、ベラトリスの私室。


 この『勇者』という物語を、最も美しく、そして最も残酷に書き換える術を知っている女の元へと、彼女は吸い寄せられていきました。


 

 ベラトリスの私室の前に立ち、ロロは一度、深く息を吸いこみました。


「ベラ…」

 

 一度だけ呼びかけ、言葉を喉に詰まらせた後、続けます。


「向こう一週間の予定を持ってきたわ。それと、勇者様が何かを伝えたがっているの」


 呼びかける声は静寂に吸い込まれ、返事はありません。不気味なほどの無音。ロロは躊躇いなくノブに手をかけ、扉を押し開けました。


「ベラ。入るわよ」


―――カチャリ。


「殺してやる…!殺してやる…!!殺してやる……!!!」

「…っ!」


 部屋の中は、地獄の様相を呈していました。

 豪奢を極めていた天蓋付きのベッドは、獣に襲われたかのようにずたずたに引き裂かれ、枕から飛び出した無数の羽毛が、雪のように床を埋め尽くしています。かつては、思わず嘆息を漏らした部屋の照明は床の上で砕け、壁には爪で描いたような無残な傷痕が幾筋も刻まれていました。


 その廃墟のような中心で、ベラトリスは座り込んでいました。

 乱れた頭髪を振り乱し、鏡の破片を握り締めた彼女の瞳には、先ほどまでの高潔な微笑など、欠片も残されていません。


「……あいつは?」


 それは問いではありませんでした。喉の奥から這い出してきた、ジャンヌという存在に対する剥き出しの呪詛です。

 なにも初めての経験などではありません。ロロは短く答えます。

 

「あいつ?」

「とぼけないで下さいまし!泥まみれの、あの卑しい女!勇者様が跪く価値など、埃ほどもないあの下賤な女を!汚らわしいあの女…!わたくしの造り上げた、聖域が……あんな女のために…!」

 

 ベラトリスは、喉を引き裂くような叫び声を上げ、手にした鏡の破片を、すでに壊れた鏡台へと叩きつけました。彼女にとってジャンヌは、今や道端の小石などではなく、存在すら許されない不純物でした。


 狂気に身を焼く女を前に、ロロは冷ややかな視線を向けたまま、短く答えました。


「それが、勇者様の望みよ。ベラ」


 その言葉は、ベラトリスの激情に対する、最も残酷な真実でした。ベラトリスは一瞬動きを止め、不気味なほどゆっくりとロロを見上げました。


「……本気でございますの?ロロ。あなたに一体何が分かるというのでございましょう」


「私はあなたとは違う。あなたのように、私はできない」


 ロロの瞳には、迷いも光もありません。

 ベラトリスは、くすくすと、壊れたオルゴールのような笑い声を漏らしました。その瞳に浮かんだのは、深い蔑みと、僅かばかりの哀れみです。


「……可哀そうな、本当に可哀そうな、小さな人形。あの方の『心』が、わたくしたちではなく、あんな雌犬に向けられてもなおそう言えるのね…」


 発言の最後を聞き届けることなく、ロロは踵を返します。


「お待ちなさい…ッ。いったい何をしようと……しているのでございましょう」

「自慰です」


―――パタン。


「………」



まあ。





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