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異変。

~スカイワールド。旧ヴァーミリオ大陸・忘地~


 そこは、世界から忘れ去られたような最果ての海でした。

空と海の境界が溶け合い、深くよどんだ紺色が広がるだけの虚無。

音もなく、風もなく、ただ絶対的な静寂が支配する場所。


その奥深く、深淵よりも暗い混沌の中で、彼は目を開けました。


(ここはいったい…眩しい?)


遥か彼方。届くはずのない水面を突き抜け、天空を縦に裂くような一条の光が彼の網膜を貫きました。


彼はその光を見つめ、静かに、しかし、力強く四肢を動かし始めました。魚のように滑らかに、生にしがみ付く獣のように。

水圧を無視し、重力には気づきません。


やがて、自らの肉体が、弾力のある闇から浮かび上がってきました。


 蠟のように、白い指先。身体には何一つ装飾のない全裸でした。

彼はひたすらに、その光の源に向かって泳ぎ続けました。




…ざぁ。…ざぁ。

 

     …ざぁ。…ざぁ。




 どれほど経ったのか。波打ち際の音が聞こえ始めます。


 月明かりさえ届かない砂浜に、一人の男がゆっくりと足を踏み出します。

海水に濡れたはずの体からは、不思議と雫ひとつ滴っていません。

海岸にたどり着いたその時、彼の姿は既に異変を遂げていたのです。


 先ほどまで闇の中を懸命に泳いでいた全裸の四肢は消え、そこには完ぺきに仕立てられた灰色の三つ揃いのスーツがありました。皺ひとつない上質な生地が、潮風に揺れています。


男は静かに立ち止まり、背後の暗い海を一度も振り返ることなく、光が差す方向を見据えます。

整えられた髭の端をわずかに上げ、彼は満足げに口にくわえた煙草に火を付けます。

吐き出した煙が、夜空へと昇っていきました。

彼の視線の先には、真昼のように照らされた、真夜中の文明が横たわっておりました。


光り輝くその姿は、まるで黄金です。


「ふむ。ようやく、まともな空気が吸えそうだ」


波風にもまれた煙が、彼の足跡の上を彷徨いました。

それは亡霊のように、音もなく、いつの間にか、夜の暗闇に消えていきました。





~ドーンソリア大陸。神聖教会領・教会都市~


 教会都市の朝は、いつもより騒がしいものでした。

鐘楼から鳴り響く祈りの鐘の代わりに。広場に設置された投影機がひときわ明瞭な声を奏でます。

整えられた音源。切り取られた笑顔。編集された沈黙。


『―――わたくし、上級聖務特使がひとり。ベラトリス・ベラトリーチェでございます』


勇者パーティの一員、ベラトリス。

その姿が、石造りの壁面いっぱいに映し出されていました。


白と金を基調とした装束。計算し尽くされた角度。

肌の色合いも、普段の彼女を思えば、最低限のものにとどまっていました。

背後には、象徴的に掲げられた聖印と、都市の空を模した背景が映っています。


『本日未明、北外郭にて敵対勢力の侵入を確認いたしました』


その言葉は柔らかく、穏やかで、どこか他人事のような声色です。

あくまで、確認、あくまで侵入。その二つのワードが、慌ただしく蠢く騎士たちの動向にかき消されていきます。


『神聖教会は、これを新たな試練と捉え、レイド奨励令に基づき…』


 その先の言葉を、ジャンヌは聞いていませんでした。

彼女は無言のまま、ガントレットの紐を締めなおします。

直後、街の外縁からは野盗や亜人、あるいは野心に燃える傭兵たちの咆哮と、爆発音が上がりました。

それらは、整然とした放送の声とはあまりにも対照的でした。


『―――さしあたりまして。防衛部隊には、通常通りの対応を要請します。…以上。上級聖務特使がひとり、ベラトリス・ベラトリーチェでございました。皆様に、メイリアの風が共にあらんことを…』


艶のあるの声は、騎士たちが残した足音の余韻の中に消えていきました。


 足早に北外郭へと向かうジャンヌの指が、無意識のうちに拳を作ります。

通常通り、という言葉が、これほど空虚に響く朝に彼女はまだ慣れていませんでした。


レイド奨励令。


より強固な、より恒久的な平和と繁栄を築くために発令された。上級聖務特使たちによる新たな政策です。

その実態は、敵を排除するためではなく、泳がせ、選別するための舞台でした。


騎士団に課せられた役割は、都市の防衛などではありません。


本来、外敵を排除する強力な都市の防衛機構は、すでに取り払われていました。代わりに残されていたのは、都市そのものを闘技場へと変える仕組みです。

略奪を黙認することで野心を煽り、襲撃を推奨することで実力者を炙り出す・・・。

その際、優秀とされた者は敵味方問わず、上級聖務特使直属の組織へと加入する権利が与えられました。


防衛という大義を背負った彼らは、実質的な候補者であり、選別者として振る舞うことを要求されていたのです。


 ジャンヌは広場を振り返りました。

広場の壁の中で、ベラトリスは微笑んでいます。


『―――あらんことを』


続く祈りの言葉。ジャンヌはふっと視線を落とします。

足元の石畳には、昨夜の雨と、度重なる襲撃の余波がまだ残されておりました。


天候制御システムの異常。


彼らはそう言います。


そこに映る自分の姿は、英雄でも、女優でもありません。


一人の、白百合の騎士でした。


 足元の小さな水たまりが、不自然な規則性を持って揺れました。いいえ、それは少しだけ違います。震えていたのは地面そのものでした。

集結した騎士たちの間に、冷たい緊張が走ります。

ジャンヌの前方。街を守る丸太の城壁が、まるで石を投げ込まれた水面のように波紋を描き、それは次第に歪んでいきました。


「総員!抜剣ッ!!!」


その声が、瞬く間に復唱され広がりました。数多の鋼が鞘の内側を滑ります。

直後、歪みきった城壁が、爆ぜるように、崩壊しました。





 北外郭から響く爆発音が、窓ガラスをかすかに震わせます。

都市の喧騒から切り離された、防音加工の施された執務室。そこでは、戦いとは無縁の冷徹な数字だけが踊っておりました。


「どうやら、滞りなく始まったようですね?」


振動の合間を縫って、へつらうような声が響きます。

声の主、ガンズロットソルマニコフサンサーンノースは一段と笑みを深めると、机に向き合う人物の手元をこそこそと覗き込みました。

彼は上質な紙にペンを走らせながら、一度も顔を上げずに呟きます。 


「黙れ。不要な在庫と一緒に、お前を詰めてもいい」

 

 上級聖務特使、サツ。

あまりにも鋭い眼光に確かな殺気が宿ります。


「ひっ!もっ申し訳ございませんでした!サツ様」


ガンズロットは、慌てて姿勢を正します。彼の視線から逃れるように、ハンカチで額をぬぐいました。


 ベラトリスの放送が火を放つ役割だとしたら、サツの役割は、その火で何を焼くかを管理することでした。

彼にとって、このレイド奨励令による混乱は、都市の不要な在庫を処分し、新たな需要を無理やり創出するための・・・言うなれば、大規模な在庫整理にすぎませんでした。


重苦しい空気が漂う密室の中で、ガンズロットのグリフォンが短い着信音を奏でます。

画面を確認し終えた彼の口角が、にわかに持ち上げられました。


「サツ様。朗報でございます。マーケットが動きました。騎士団が防衛拠点を北に固めたことで、南側の防具店は軒並み略奪されています」


向けられた画面の発光を一瞥し、サツは薄く笑みを浮かべます。


「馬鹿ばかりでは商売は成り立たない。賢く奪い、賢く売る。さらに賢い奴らは、奪われないように安全を買う。誰かの利益は、誰かの負債。どこの世界もそうやって、回るんだ」


上機嫌に頷くガンズロットの前で、彼はどこまでも平然とそう言ってのけ、手元の帳簿をぱたんと閉じました。


騎士団たちが必死に防衛という名の選別を行っているその一秒ごとに、サツの懐には莫大なお金が流れ込んでいきます。

混乱が深まれば深まるほど、当事者の中に広がらざるを得ない感情。

悲しみ、悔しさ、恐怖、怒り、そして絶望。それら心根のすべてに名札を付け、あろうことか商品に変えていく。それが、この男、サツのやり方でした。


 サツが帳簿と閉じた、そのわずかな余韻を切り裂くように、執務室の重い扉が外側からの介入を受けました。

ノックの直後、扉は静かに開きます。


 まるで陶器のように白い肌、深海を思わせる頭髪、そして何より、作り物のように無機質な灰色の双眸。

数字と利だけが蠢く空間に、もう一つの理が姿を現します。

人知れず、ガンズロットの表情が凍り付きました。


「ずいぶんと。景気がよろしいようですな。サツ殿」


現れたのは、教会の女性幹部の一人、ユラでした。

うろたえるガンズロットを、サツはひと睨みで黙らせます。

次に、彼の両目は一度も閉じられることなく、突然の訪問者へと向けられました。


「ユラか。何の用だ」


「ただの視察だ。理由が気になるかな?」


その声は限りなく冷淡でした。


ユラは迷いのない足取りで、室内を反時計回りに歩きます。

制服の硬い生地がこすれる音だけが、不気味なほど正確なリズムを刻んでいました。


「かつて。スカイワールドには二つの大陸が存在していた。その事を、貴官はご存じかな」


 ユラは歩みを止めず、壁に掛けられた古びた地図を無機質に見つめました。

その背後で、サツは椅子に深く体を預けるふりをして、身体の重心を横にずらしました。

彼の乾いた両目は、依然として、ユラの華奢なわき腹を追っています。


「さあな」


吐き捨てられた言葉は短く、鉄の扉を閉ざすような響きを伴っていました。

すでに失われた大陸の歴史など、一銭の価値も生み出さない情報にすぎない。そんな思いが、短い言葉に滲んでいました。


「歴史の講義ならよそでやれ。俺の時間は安くない。失せろ」


重苦しい空気の中で、椅子がきしむわずかな音でさえも、この密室では大きな騒音のように聞こえました。

窓の外、北外郭から上がる火の手を、灰色の瞳が捉えます。


「そう邪険にすることもあるまい。私にとって不要なものを、必要な者に戻そうと言っているのだ」


ユラは窓の外から視線を外さず、淡々と、事務連絡を読み上げるような声で続けました。


「これは貴官の好むところの経済的行為と何ら変わらないこと。違うかな?サツ殿。倉庫に積まれた在庫に、適切な買い手をあてがう。ただそれだけのことだ」


サツは、苛立ちを隠そうともせずに言いました。


「なら要点を先に言え。そのよく動く舌が切り刻まれない内に」


口は禍の元。皆様は、どうかこのサツのようなことを、決して口になさらないでください。

…さて、意味は難解。鋭さは凶器。

互いの足元にじわじわと広がる毒沼の中で、ユラはかすかに眉を揺らします。


「ほう。存外教養に溢れるお言葉だ。ならば教師として、貴官に一つ忠告しておこう」


「忠告だと?」


鋭さを増す殺気の中、ユラは、迷いなく歩みを進めました。そこは手を伸ばせば、その首を容易く締め上げられるほどの距離。サツが最も得意とする領域です。


 ガンズロットは、己の心音が爆発音のように喉元を叩くのを感じながら、思わず息を呑みました。

ユラ。またの名を情報庫の凍姫。

その二つ名の意味するものを、彼はまざまざと見せつけられていたのです。


 本当の体など、はじめからそこに存在していないかのように、ユラは微動だにしませんでした。

かすかに開いた薄い唇から発せられた言葉は、どこか北風を思わせる熱を帯びていました。

一瞬の静寂。交わされた視線が静かに火花を散らします。


「ヴァーミリオは沈んだ。その理由を我らは知っている」


 サツは、彫刻のように動きを止めていました。

凍結した思考回路が再び正常に動き始めたとき、ユラは既に扉の向こう側へと消えようとしていました。

視界に映るのは、彼女の細い背中でした。しかし、その背中に脆さなど微塵もありません。


「待て」


かすれた声。ユラの足が止まります。振り返ることはありません。

 

 ガンズロットに悪寒が走ります。それは彼の生来からの素質、自らに降りかかる危機を未然に察知する、いわゆる虫の知らせです。


「手立ては?」

「無い」

「そうか」


 その短すぎる応酬に、決定的な破滅の予感を感じ取ります。


 ユラはそれ以上何も語らず、その場から姿を消しました。

残されたのは、沈滞した重い空気と、かすかに漂う氷の残り香だけでした。





 本日のレイドの標的となった舞台。北外郭部周辺は、いまだ潰えぬ熱気と濡れた鉄の匂いに包まれていました。


「状況の報告は後でいい!深手を負った者から治療術師の元へと搬送しろ!」


 ジャンヌの声が、砕けた街道に反響します。レイドを耐え抜いた騎士たちの鎧は一様にひしゃげ、容赦のない剣筋が至る所に残されていました。

辛勝の二文字を飲み込むことさえ躊躇われるほど、彼らの消耗は激しいものでした。

ジャンヌ自身も、白銀の甲冑にいくつもの深い傷を刻みながら、なおも凛として指揮を執り続けています。


「ジャンヌ様!」

「なんだ!」

「すぐに城壁の復旧に取り掛かります!」

「頼む。おいお前!」

「はっ!」

「高台に鷹の目を配置。異変があったらすぐに知らせろ!」

「はっ!」


 ようやく訪れた事後処理の時間。

ジャンヌ自らも凄惨な舞台を歩き回り、率先して負傷者の救護にあたりました。


「…いてぇ…いてぇよぉ」

「!」

 

 瓦礫の影から漏れる押し殺したような呻き声。ジャンヌは反射的に足を止めました。

声の主は、騎士ではありませんでした。彼の体は、崩れた石材に半分ほど埋もれています。

鎧は無残に砕け、泥にまみれた指先が、助けを求めるように虚空を彷徨っています。


「おい!しっかりしろ、今助ける!」


 ジャンヌは迷わずその場に膝をつき、彼の体を覆う重い石をどけようと手を伸ばしました。しかし、その指先が、男の肩に触れる瞬間。

彼女の視線の隅で、何かがギラリと光を放ちました。


「なに…」


 ジャンヌの思考が、目の前の情景を拒絶しました。

助けを求めていたはずの男の腕が、関節を無視した角度で跳ね上がり、その袖口から隠し持っていた短刀が、毒蛇の牙の如き鋭さで突き出されたのです。


「はははははッ!もらったあッ!」


 歓喜に歪んだ男の叫びと同時に、ジャンヌは辛うじて体をひねりました。

しかし、膝をついたその姿勢はあまりにも無防備でした。


 凄まじい衝撃。鈍い音と共に、首元の防具が紙細工のように引き裂かれます。

鋭い刃は的確に、防御の薄い隙間を搔い潜り、彼女の柔らかな鎖骨から肩口に掛けて、深く、深く、突き立てられようとしていました。


 全ての騎士が絶望の淵に立たされ、北外郭が静寂に沈もうとした、その時でした。

皮肉にも、真に恐るべき才覚というものは、地獄の底のような局面でこそ、その頭角を現すのです。


 歓喜に震える男の表情は、即座に凍り付きました。

彼にとって、それは生涯で初めての、そして最後になるであろう未知の経験です。

十分すぎる勝算をもって振り下ろした必殺の刃。それが、つい先ほどまで影も形もなかった誰かによって、空中で完全に制止させられていたのです。


「・・・」

「…ひっ!」


 男の喉から、ひきつけを起こしたような短い悲鳴が洩れました。ジャンヌの首筋には、男の短刀を真っ向から受け止める鋼の中腹がありました。

割り込んだ刃と、男の短刀が噛み合い、その接点から火花が散っています。


 その者の纏う空気は、戦場の喧騒を跳ね除けるほど冷徹で、かつ研ぎ澄まされていました。

割り込まれた事実にすら気づけないほどの神速。それは騎士団の誰もが知る型とは決定的に異なる、異質な武の気配でした。


「・・・ッ!・・・ッ!?」


さらに加えて、まるで初めからそこにいたかのように。見慣れた二つの剣筋が、いつの間にか、男の左右の喉元を捉えていました。


 いつの間に…。それは、当事者である三名を除いて、誰も知り得ません。

ただひとつ、誰にでも分かる事実がその場にいる全員を震え上がらせます。三者三様、現れた彼らは明確な憎悪をそれぞれの瞳に宿していたのです。

訓練された猛獣が、主の合図ただそれのみを待っている。思わずぞくりとしてしまうような、そんな冷たい瞳です。


「…おまえたち」


 呆気にとられるジャンヌ。しかし。


「ふんっ!」

「ぐはっ!」

 

 彼女の右腕が、渾身の力を込めて振りぬかれます。それは、騎士としての技量も、女優としての体裁も等しく無視した、ただ純粋な責務だけを乗せた一撃でした。



 地に落ちた短刀を拾い上げ、レオンがどこか安堵したように口を開きます。


「まったく、度し難いな」


 その言葉に合わせるように、もう一人の人影も音もなく剣を鞘に納めました。

彼は誰よりも早くジャンヌへと歩み寄ります


「ジャンヌ様。お怪我はありませんでしたか?」


 湖面を揺らすような問いかけ。しかしその声色の向こうで、彼の両目は未だに熱を帯びています。


「ああ、平気だ。大事ない、すぐに立てる…」


 ジャンヌは気丈に応じましたが、その場に座り込んだまま動くことができません。

なぜならば、危機が去ったというのに、ジャンヌの体を胸の奥に深く抱き寄せ、離そうとしない人物が一人、過去に取り残されていたからです。


「ぉ…おい。マクシーン…いい加減離さないか」


 マクシミリアン。

遠慮がちなその声に、彼はようやく厳格な表情を解き、間の抜けた短い声を出しました。


「もっ申し訳ございませんジャンヌ様!」

「…いいから、さっさと離れろ」

「はっはい!」


「・・・」


 真っ先に歩み寄った男。ルキウスの瞳に鋭い光が宿ります。

氷の奥に確かに灯る青い炎、それは紛れもないジェラシーでした。

首筋の鋼。それが納められるよりも速く、彼はジャンヌへと接近します。


「本当に、お怪我はないのだろうか?僭越ながらこのルキウス。検めさせていただこう・・・失礼」


 ルキウスはそう言うと、引き裂かれた襟元の防具を無遠慮に押し広げました。

 背後にはマクシミリアン。首筋には刃。哀れジャンヌに逃げる術はありません。


「こ…こら」


 ジャンヌの声は当惑に震えていました。ルキウスは答えません。

ただ陶器のような滑らかな指先が、彼女の首筋と鎖骨の境目をゆっくりと巡ります。


「ふぅむ」


 彼の冷ややかな吐息がジャンヌの鎖骨あたりを掠めます。傷口を検めるという大義名分を盾に、彼は熱を帯びた真剣な眼差しで、彼女の肌を執拗に焦がしました。

 やがて彼は、何か深い感銘を受けた時のように、身体に溜まった熱を一息に吐き出します。


「…なんと美しいのだろうか。これほどまでに美しいものが他にあっただろうか?あのお方もまた、それはそれは…大変に美しい女性であった。だがジャンヌ様、いまの貴方はそれに勝るとも劣らない。あなたのお体に傷が付けられようものなら。俺は耐えがたい後悔と共にこの先の永劫をただ一人、孤独に歩むこととなっただろう…そうならずに済んだ。実に、幸運だったというべきだ」


 ルキウスは、ジャンヌに怪我が無くて良かった。そう言ったのです。

しかし、実際の言葉は、もはや騎士が司令官に捧げる言葉とはかけ離れておりました。

いうなればそれは、熱に浮かされた詩人が、唯一無二の女神に捧げる狂おしいまでの賛歌です。


 必死で顔を逸らしながら、ジャンヌはわずかな唇のすき間で呼吸を続けます。

マクシミリアンは、ぽかんと口を開けたまま、その大げさな言葉の意味を測りかねているようでした。


 情熱的な詩人の調べは、眠れる獅子を呼び覚まします。

 倒れた男の両手を迅速な手つきで縛り終えたレオンが、上官に迫る新たな危機を察知します。荒々しい足音と共に、彼はルキウスの傍らに詰め寄りました。

 刀傷に覆われた頑健な拳が、ルキウスの手首をがっしりと捕らえます。

レオンは、それを引きはがすことはしません。むしろそこを起点に二人の間に割って入ると、ルキウスの体を強引に遠ざけました。

 冷たく鋭い視線の先で、癖のある頭髪が、風もないのに持ち上がります。


「貴様ルキウス…!ジャンヌ様になんというご無礼を…今すぐその手を離せ!」


 地を這うような低い怒声。両目は闘志に燃えています。しかし、突き放されたルキウスは、乱れた袖口を直すことすらせずに、その口元に薄く、氷のような冷笑を浮かべました。彼はどこまでも素知らぬ顔で淡々と答えます。


「勘違いするなレオン。俺はジャンヌ様のお怪我を案じているまでのこと。ただそれだけさ」


 レオンにとって、それは少しも笑えない冗談でした。挑発と知りつつも、ついつい頭に血が昇ってしまいます。


「なにを…?!お体に触れる必要がどこにある!」


「貴様こそこの手は何だ?それとも昨日の決着にまだ不満があるのか?2168勝対2166勝。依然、この俺の勝ち越しだ」


あのあばずれ(ベラトリス)のスリーサイズを当てたくらいで…調子に乗るなッ!」


「ほう。確か俺の記憶が正しければ、はじめに勝負を持ちかけてきたのは貴様の方だったはずだが?」


 嘲るようなルキウスの言葉に、レオンの額に青筋が浮かびます。


「…いつまでも御託を並べていないで、とっととこの手を離せ!」


「いずれそうしたさ。そう…お前に言われるまでもなく」


「ルキウス…!」


『・・・』


 ルキウスの透き通った瞳と、レオンのぎらついた瞳がすぐそばでぶつかりあい、その間に挟まれたジャンヌの周囲で、火花が散るような緊張感が弾けます。


 しかし、その均衡を破ったのはジャンヌの言葉でも、マクシミリアンの仲裁でもありませんでした。


 突如として、大気を引き裂くような地鳴りが轟きます。


『敵襲――――――――!!!!!!!!!!!』


 伝令の悲鳴が、騎士たちの顔に暗い影を落としました。

決まりなど、端からありません。一度の襲撃で一日を終えた日など、もはや数えるほどでした。ですがそのわずか数回の体験が、彼らをより絶望させていたのです。


 一瞬の隙を突いた突撃が華麗に、精密に、そして何よりも無慈悲に、最も弱っていた防衛ラインを瞬く間に突き崩しました。

 即座に戦闘態勢へと切り替わるレオン、ルキウス、マクシミリアン。しかし迫りくる敵の物量は、彼らが対処できる限界をはるかに超えていました。


 手負いの仲間たちを援護しながら、いったん撤退し、体勢を立て直す。


それは、奇襲を受けた際の最適解です。


 さらに、敵を自陣奥まで誘い込み、隊列の延び切ったところを左右から攻撃、包囲殲滅する。


言葉は交わさずとも、それぞれの頭の中に、今後取るべき戦術が即時共有されました。


 しかし、ただ一人、ジャンヌだけは別の考えを抱いておりました。

より確かな勝利のためとは言え、大切なこの都市をこれ以上誰かに踏みにじられることなど、彼女の矜持が決して許しはしませんでした。


「行くぞ、私たちで敵を食い止める」


 ジャンヌの言葉に、一瞬だけその場が凍り付きました。

すぐに反論を唱えたのはレオンです。

彼は燃え盛る闘志を秘めた瞳でジャンヌを、そしてその背後の惨状を的確に見据えます。


「お言葉ですがジャンヌ様。敵の練度は高く、我が方は圧倒的に不利な状況下に置かれています。ここは一時撤退を進言します。あえて無理にとおっしゃるならば、せめてその任は我らに…」


 レオンは、不自然に言葉を切りました。彼の発言を途中で止めたのはルキウスです。

彼は陶磁のような手をそっと胸に当て、横目で自らの友を制します。

そのわずかな間に、レオンの覚悟は決まります。


「失礼いたしました!発言を撤回いたします!」


  レオンはそう叫ぶと、素早く膝をつき、ジャンヌを見上げました。その瞳には、もはや迷いも撤退の二文字もありません。


「このレオン、不肖の身なれど、どこまでもお供させて頂きます!」


 その言葉に応じるように、マクシミリアンも無言で柄を握り直し、ルキウスはただ、美しく、残酷なまでに冷ややかな微笑を湛えて剣を抜き放ちます。


 ジャンヌは頷くことさえしませんでした。なぜならば彼らもまた、華麗に勝つことよりも、自らの信念のために戦うことを本心では望んでいるとすでに知っていたからでした。




 破壊と蹂躙を欲しいままにする一団に、矢のような速度で飛来する決意の楔が、今まさに撃ち込まれんとした―――その時です。

遥か後方、昇る朝日のその中に、真紅のマントが翻ります。


星の光よ集え(フルスターレイ)』『力よ(オーバーチャージ・)拡散せよ(パワーバースト)



『・・・!』



 誰かの放った銃弾よりも、誰かの放った咆哮よりも。それは速く、そしてあまりにも強大でした。


 眩烈奪目の一閃が、突撃をしようとしていたジャンヌたちの視界を真っ白に塗りつぶします。野心に燃える敵の軍勢もそれに対峙する騎士たちの決意も、すべてを等しく無価値なものとして、その光は、突如として北外郭城壁周辺を飲み込みました。


 爆音すら置き去りにしたその光が収まったとき、そこに残ったのは、指先と視覚を総動員して自らの四肢を検めることしかできない虚無でした。


 ジャンヌは、衝撃で痺れた剣を握りなおしたまま、愕然と正面を見据えます。朝日を背負ったクレーターの縁。そこには、一言も語らず、命乞いすら語られず、ただ冷然と敵の居なくなった戦場を見下ろす勇者の姿がありました。


 幾人かの騎士たちの顔には、歪んだ歓喜の表情が滲んでいました。

助けられたはずなのに、胸を刺すのは屈辱と、底冷えするような恐怖です。

沈黙を守り続けるその瞳はまるで、無謀な弱者に呆れるような静かな拒絶に満ちていました。


 勇者を正面に見据えたまま。ジャンヌは剣を鞘に納めます。

そのわずかな音さえも気つけになるほどに、その場は静まり返っていました。


「…各員、負傷者の運搬を急げ、警戒を怠るな」


 騎士たちは動けません。軽傷の者も含めて誰一人。

そんな中、たった一人ジャンヌの前に躍り出た人物が、努めて理性的な檄を飛ばします。


「なにをしている、聞こえなかったのか!」


ルキウスの怒号に、騎士たちはようやく各々に課せられた使命を思い出しました。


 仲間たちがぎこちなく指示に従い始めると、ジャンヌもまた動きます。

彼女は両肩を怒らせて、真っすぐに勇者の元へと進み出ます。彼は抜き放たれた鋼を鞘へと納め、半身彼女の方へと向き直りました。


 勇者の前で立ち止まったジャンヌは、右手でその頬を張りました。

 

 乾いた音が、静まり返った戦場に鋭く響き渡ります。

 

 勇者の頬が、わずかに横向きます。明らかな驚愕が勇者の沈黙を揺らしました。


 マクシミリアン、レオン、ルキウス。ロロ、そしてベラトリス。


 それぞれがお互いを必殺の間合いの中に置いています。


 空気そのものが、あまりの殺気にひび割れてしまいそうでした。


 誰かの呼吸、あるいは誰かの瞬きひとつで、この場にいる全員が肉塊へと変わる。そんな極限の均衡状態が、その場にいる騎士たちの言語能力を著しく低下させていました。



 ロロがレイピアを数ミリ抜き、銀の刃が朝日を纏います。ベラトリスの指先には、いつでも騎士たちを粉々にできる高密度のエレメントが収束し始めています。

 

 対するレオンは、全身の筋肉をばねのようにしならせ、勇者の喉笛を食い破る機会を狙い、ルキウスの瞳は、ベラトリスの心臓を正確に貫く軌道を既に見定めていました。


 そして、マクシミリアン。彼はいかなる場合でも、全員が無傷でこの場が収まるように、新たに生まれた極小の戦場全体にその瞳孔を光らせていました。


「…控えなさい、無礼者」


 硬い口調はロロのものでした。

まだあどけなさを残したその横顔には、たったひとつの忠誠。それ以外の全てを拒絶する容赦のなさが覗きます。

 冷笑を忍ばせるように顎を引き、ルキウス。


「口を慎め三下め。貴様は空気が読めんのか」

「…なっ!」


 わずかに揺れる、震えるようなロロの声。それとは対照的に、彼女のレイピアの刀身は、ピクリとも動きません。


 緊張の渦が、音もたてずに揺らぎます。巻きあがった砂塵が、二人の間に漂う殺気の密度に耐えかねたように、不自然な軌道で舞い上がりました。それが人為的なものであった。それを知っていたのは、彼らを除いて他におりません。


「まったく、躾のなっていない…『犬』ですこと」


 絹のように白い肌、そこに挿された紅色が、艶めかしく動きます。

微かに波打つヴェールの奥で、均整の取れた鼻尖がジャンヌらへと向けられました。


「…それはさておき。絶体絶命の窮地を救われたというのに、ずいぶんと威勢のいい態度でございますわね。それともまだ、敗北し足りないとでも…そのように申し上げるのでございましょうか?」


 ベラトリスの喉がくすくすと、透き通った笑いを奏でます。

 彼女の纏う高貴な香水の匂いが戦場に漂う空気と混ざり合い、人々の体を縛り上げました。


 居竦む仲間たちを尻目に、ルキウスは不敵な笑みを浮かべます。


「自らがばら撒いたゴミを片付けた程度でぬけぬけと。おめでたいその格好もそうだが、せいぜいお里が知れるというものだ。それとも平民に相応しく、健康のためにたまには体を動かそうなどと、くだらない気まぐれを起こしたのか」


 彼の過激な発言に、最も素早く反応を示したのはレオンでした。

この抜き差しならない極限状態において、あえて相手の逆鱗を土足で踏み抜くような真似をする。そんな命知らずな友の横顔を見つめ、彼は背筋を走る冷たい汗を禁じ得ません。

 

 にわかに大気が震えだしました。その中央にはベラトリス。しかしルキウス、一向に引きません。


「いずれにせよ、貴様らの殊勝な心掛けなど、この俺にとって塵ほども考慮に値しない。だが、日頃の運動不足を憂うなら。貴様らの無様な奉仕活動に免じて、この俺が直々に相手をしてやっても構わない。もっとも今でなくとも、いつでもこの俺を狙うがいい。たとえ寝込みを襲われようとも、その場で返り討ちにしてやろう。どうだベラトリス。この俺と戦うのが怖いか?」


 ベラトリスは、指先一つ動かしません。ただ彼女は、口の隅に不敵な微笑をひらめかせます。


 不気味に漂う沈黙の中に、彼らの視線はより鋭さを増して絡み合っていました。

 事態の収拾は困難。誰もがそう思ったとき、まさに、快刀乱麻を断つが如く、ジャンヌがその身を乗り出します。


「…長いぞルキウス!」


 その言葉に、彼は一瞬はっとします。その表情を収めると同時に、彼は静かに頭を下げました。


「武器を収めろ」


 続く号令、三人の騎士たちは一切の迷いなく従いました。

つい先ほどまで、勇者の側近を挑発していたルキウスも、今はただの忠実な副官として彼女の背後に控えます。


 その場でジャンヌは、腰の胴乱から何かを取り出します。


「これを」


 勇者が口を開こうとするより早く、ジャンヌの手が動きました。迷いのない指先が白い封書の束を胸元へと叩きつけます。


「仲間の非礼をお詫びする。だがな貴様。あまり調子に乗るなよ。しつこいんだ」


 封書には、一つ一つに金色の封蝋が施されています。それはここ最近毎日のように白百合寮へと送られてきた『勇者パーティー』への招待状でした。


「それは白百合達から預かったものだ。お前に返す」


「・・・」


 胸元につき返された書状を、勇者は反射的に受け止めるしかありませんでした。指先に残る招待状の感触と、頬に残る痛み。勇者は言葉を失ったまま、自分を見据えるジャンヌの瞳に吸い寄せられるように立ち尽くします。指のすき間からは、招待状のいくつかが滑り落ちていきました。


「…行くぞ。まだ終わっていない」

『はっ!』


 ジャンヌは吐き捨てるように言うと、一度も振り返ることなく歩き出しました。

マクシミリアンたちもそれに続き、勇者一行を 無視して通り過ぎようとします。


 その時でした。


「嫌っ!嫌っ!!」


 悲鳴のような叫び声が上がり、遠巻きに見ていた仲間の一人、白百合の少女が、堪りかねたように列を飛び出しました。彼女は地面に散らばった、泥まみれの白い封書の束に、文字通り這いつくばるようにして飛びつきます。


「これ……これ……勇者様の…ッ!」


 彼女は泥に汚れた招待状を震える手で何度もぬぐい、胸に抱きしめました。

ぼろぼろと零れ落ちる涙が、封書の白い紙を汚していきます。

 慌てて、ジャンヌが彼女の元へと駆け寄りました。

膝についた泥など少しも気にすることなく、彼女は白百合の肩をそっと揺らします。


「おい…いったいどうしたんだ」

「ごめんなさい!ごめんなさいジャンヌお姉さま…!ごめんなさい…!」


 少女の泣き叫ぶ声が、無残に壊された街の風景に虚しく響きます。

しゃくりあげるように息をしながら、彼女はそれでも必死に、正直な胸の内をジャンヌへとさらけ出しました。


「だって…だって…私は!お姉さまみたいに強くないから…!」


 少女の手の中で、泥にまみれた招待状がくしゃりと音を立てました。

あるいはそれは、単なる紙から発せられた音ではなかったのかもしれません。


 ジャンヌは、目の前の泣き叫ぶ少女に声を掛けることも、抱きしめることすらも叶いません。ましてや、この痛々しい少女の告白を軟弱と断じ、突き放すことなどいったいどこの誰にできたでしょう。


 やがて、教会都市に雨が降り始めます。


 天候システムの異常。彼らはそう言います。


 勢いを増す雨は、生々しい傷跡が残された街を当てもなく彷徨う仲間たちの姿を浮き彫りにします。彼らは皆、口々に誰かの名前を呼び続けていました。



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