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メィガの大地。

 階段を下りきると、そこにはすでに、何名かのクルーが集まっていました。

重苦しい金属の匂いと、焼け付くようなオゾンの香り。

四方を分厚い防壁に囲まれた広大な格納庫です。

定期的に唸りを上げる機械と、火花を散らす溶接機。その向こう側で、彼らは立ったまま談笑しています。


天井を縦横に走るクレーンにつるされているのは、丸みを帯びたフォルムが特徴的な『ハムスター級』をはじめとする浮きシップの群れでした。

その外装は、執拗な整備の手によって、鈍い光を放っています。


整備ハッチの一つから、ぬらりと影が這い出しました。セイムは目を凝らします

四角い胴体に、複数の関節、瞳の代わりに埋め込まれた二つのレンズが無機質にこちらを捉えます。それは人ではありません。

機械でできた人形です。


それらは無言のまま、ある者は片手をハンマーに付け替え、ある者は燃料と思わしき緑色の液体をボトルから啜り、蜜蜂のような緻密さでシップに群がっていました。


「ああ!セイム君。おはよー!」


頭上から降ってきたのは、場に不釣り合いなほど明るい声でした。

ワイヤーが滑らかに滑る音と共に、声の主はセイムへと近づきます。

今度のそれは、間違いなく人のようでした。

姿こそ記憶と異なりましたが、セイムは、彼女に見覚えがありました。


「エイミー、さん?」

「よっと」


クルーの一人、メカニックのエイミーです。

ワイヤーの先から飛び降りたエイミーは、流れるような動きで手袋を脱ぎ、急かすような速さで、右手を差し出します。


「久しぶりー、元気だった?」


防護レンズの奥で、無邪気な瞳が弧を描きました。

セイムの胸の下ほどまでしかない小柄な体。かつて華やかなドレスに身を包んでいた彼女を知るセイムにとっては、この黒ずんだつなぎ姿はあまりに衝撃的でした。

しかし、油にまみれた今の姿こそ、真実であるような、奇妙な説得力がそこにはありました。


彼女はかつて、教会の辺境にあった酒場を襲撃し、ドロシーを連れ去りました。

言うなれば、セイムが旅に出るきっかけを引き起こした張本人です。

ですが不思議と、嫌悪に似た感情は浮かびませんでした。

複雑な動悸を抑えながら、セイムはその小さな手を握り返します。


「お久しぶりです。今日は・・・よろしくお願いします」


「おーおー。若いのに、ちゃんとしてるねー」


エイミーは、大仰に胸を張ります。

ほんの少しだけ、セイムは愉快な気持ちになりました。

どこからどう見ても、彼女のほうがずっと幼い見た目をしていたのです。

しかし、ここはウィリとエレメントが織りなす不思議に満ちたSWEの世界です。

気になったことをいちいち口にしていては、時間がいくらあっても足りません。


実際に、今この瞬間も、格納庫内は慌ただしく動き続けておりました。

奥のほうで、クレーンにつるされたグライダーの主翼が一瞬きらりと光ります。


別名、小さな死神。

漆黒の機体が、少年の視線を釘付けにします。


「…ハツカネズミ級WR(ウォーリンガー)


エイミーは笑みを深めます。

セイムは、それにまったく気づきませんでした。

彼の手は、無意識的に、布越しに鍵を探します。

硬く、薄く加工された小さな金属板が、かすかに脈動しているような気がしました。



 かちゃかちゃと足元で音がしました。

はっとして、セイムは視線を落としました。

すると彼の足元です。さきほどの四角い人形が一機、セイムに向かってレンズを絞っていました。

全身の関節を軋ませながら、小さな身体を左右に忙しなく動かしています。

無骨な労働用機械でありながらも、どこか愛くるしいその姿は、行き止まりに直面し困っているようにしか見えませんでした。


「あ…すみません」


セイムが反射的に道を譲ると、それは特徴的な摩擦音を残して、彼の足元をすり抜けていきました。


「『助六』だよ」

「すけろく?」

「うん。教会の…ドミニオンなんかと大体おんなじ仕組みかな!」

「…助六」


名を確かめるように、セイムはもう一度だけ呟きました。

喧騒の向こう、発射台にあの一機が据えられます。


「あの機体」

「うん」


短い肯定。セイムが身をかがめると、隣でエイミーがすっとつま先を伸ばしました。

お互いの声が届けばいい。そんな暗黙の了解が、自然と二人の肩を並べさせていました。


発射台近くには、同型の黒い機体と、出発を控えた部隊がすでに集まっています。

そんな中、セイムは感慨深く目を細めました。


「…主翼の形が少し変わっていますね」

「あー」


エイミーが足位置を直します。

向けられた表情は真剣でした。セイムのものもそれと同様です。

気に留める者はその場にはいません。


「航行距離を稼ぐために延長してあるんだ。フレームの軽量化と合わせて、空力効率はざっと…14%くらい良くなってるかなー」


眉間にしわを寄せ、セイムはわずかに顎を引きます。

翼のラインをなぞる彼の視線は、一段熱を帯びました。


「そんなに…空燃比はそのままですか?」


「うーん、実はそこが悩みの種だったんだよねー…」


苦笑いを浮かべると同時に、エイミーは首から下げたホイッスルを咥えました。




 高い笛の音が、格納庫の空気を切り裂きました。

小さな機械たちが奏でる無機質なハーモニー。その向こうで、誰かがその音に反応しました。


年上の男性二人を前に、終始、慎ましい振る舞いを崩さずにいた彼女の表情に、かすかな喜色が差します。


「あ!セイムさんだ!」


しかし…。


「おーい。セイムさーん!」


無情にも、運ばれてきた鉄の塊を夢中で見つめる少年の耳には、その声は届きませんでした。





 壁やクレーンをつたい、その場に招集された助六たちは、土台の役割を担う者を除いて仕事に戻っていきます。

届けられたのは、筒状の金属の物体。グライダーの推進機です。


「カタログスペックなんて、ボクははじめ信じなかったんだけど…」


『セイムさーん!』


セイムが、無言の相槌を行います。

筒の中央部、エイミーは四隅のネジを慣れた手つきで外します。


「教会ってさ、なんて言うのかなー…でっかい組織のくせして…」

『セイムさーん!!』

「攻めている?」

「そうそうそう!」


エイミーの弾むような声の裏側で、また、あの声が彼の鼓膜を叩きます。


『私ならここですよー!』

「…結構ぎりぎりの設定で運用してるんだよねー」

『セイムさーん!!セイムさーん!セイムさーん!!』


呼び声は、次第に切実な熱を帯びていきます。


「・・・」


雑音の中に混じる、一際可憐な少女の美声。

さすがのセイムも気づいています。

けれど、あくまで彼は平静を装い、吸い込まれるように筒の中身を覗き込みました。

決して、ジゼルのことを軽んじていたわけではありません。

真面目に働く大人たちの前で、浮足立つ姿を見せるわけにはいかない。そんな年頃の少年の、青く清らかな矜持がそうさせたことでした。


「・・・」

「どうかしましたか?」


セイムの問いかけに、エイミーは一瞬だけ言葉に詰まり、慌てた様子で首を振りました。


「う…ううん!なんでも…ないけどさー」


横目で、赤くなったセイムの耳をちらりと見て、彼女はそれを一旦、見なかったことにします。


「ええと…」

「エンジンです。教会のEラム・コンプレックスチャージジェットエンジン六式」


浮きシップのエンジン。エンジニアたちの技術の粋を集めたそれは、まるで呪文のような名称です。


「ああ!そだそだ」


そして、エイミーは、今回のカスタムの肝であるそれについて語り始めます。


「問題はねー、エンジン内部ブレードフィンの材質だったんだ。高い空力特性を完全に生かすには、それを支える推進力が当然必要なんだけど…そのままの材質だと、カタログスペックを上回る航行性能を出す前に、つまり、翼の限界値を引き出す前にエンジンが爆散しちゃったんだ。だから、もっと丈夫な材質を選んだ。より高回転域に耐えられるようにって…」

「けど、それだけだど…」


不安げなセイムの態度に、エイミーは少しだけ口を尖らせます。

当時の苦難を思いだすようなその表情は、彼への信頼を裏打ちする同意のサインでもありました。


「うん。マテリアルエンジニアリングも、ルーンエンジニアリングも、現行では教会が抜きんでてる。独占って言ってもいいくらい。そんな状態だから苦労したよー。材質はウォンバット建造時の端材がちょっとだけあったから良かったけど。問題はルーン。あの硬いブレードフィンにルーンを完璧にコーディングできるメイスンがなかなか見つからなくって…」


小難しい、けれど、たしかに血の通った技術論を、セイムは真剣に聞いていました。

するとその時です。大変に興味深いことが起こりました


『あ・な・た…!』


鉄を打つ音。歯車が回る音。火花が散る音。何一つ変わっていないというのに。

意図的に抑えられたその声がはっきりと、その場の全員の耳に届いたのです。


無論、セイムも例外ではありません。

その穏やかな声は、研いだ刃のように、彼の耳にも鋭く届いておりました。


セイムは限界でした。


顔を真っ赤にして、ぷるぷると肩を震わせていました。

そんな彼に、助け船を出したのはエイミーです。


「あっ!もう時間じゃない?かなあ?」


無骨な格納庫の奥で、控え目に手を振る少女を横目で見ます。

いつもの見慣れたはずの空間が、今日に限っては、直視できない程に眩しく見えました。


「はぁあああ」

「!!!」


どの重機の排気にも勝るそれは、大きなため息でした。

いつもと変わらない様子を()()()、セイムは別れを告げます。


「わかりました。お話、また聞かせてください。では」


「う…うん」


セイムのいく先では、満足そうに目を輝かせているジゼルと、目的地までの案内人である二人の青年と、大空を翔る瞬間を静かに待つ、漆黒の機体の姿がありました。


「大変だ。セイム君」


その背中にふっと微笑んで、エイミーは日常へと戻っていきました。


 



 セイムが歩み寄るにつれ、ジゼルの口角がさらに数ミリ、どこか意地悪く跳ね上がりました。


「おはようございます。セイムさん。ずいぶんと熱心にお話されていたのですね?」


「…おはようございます」


努めて平坦な声を出し、彼はジゼルの視線を避けるように、案内人の一人、ヤナギの元へと潜り込みました。

屈託ない、爽やかな挨拶。

少年の返答は憮然としたままでしたが、それを咎める気配はありません。


「ヤナギさん、これ、グライダーのキーです」


差し出された鍵は、生暖かい熱を帯びていました。ヤナギは一瞬意外そうに視線を落としましたが、その意図を察したように快く受け取ります。


「僕はヤナギさんと一緒に行きます」


頑固な子供が意地を通すかのように、セイムはとある方向に目を向けつつそう言います。

それは発言というよりも、宣言のような響きでした。


ジゼルのまつ毛がかすかに震え、瞳の奥に愉悦の色が灯りました。

人知れず、彼女の心は弾んでいます。

今の彼女にとって、セイムの態度は最高のご馳走だったのです。


「へっ。可愛いじゃねーか。セイム」


ヤナギ青年に悪気はありません。本心から発せられた言葉でした。

あらかじめ携帯していた鍵を取り出し、それをもう一人の案内役である人物へと放ります。


「テル。お前はジゼルと一緒だ。ナビゲーターの調整を忘れんなよ」

「はっ…はい先輩!」


放物線を描いた鍵が、テルの胸にぶつかりました。

にわかに強まる、外の気配。

手元を覗き込みながら、ジゼルは声を弾ませます。


「よろしくお願いします!テルさん」


「う…うん。任せてよ…」


テルが引きつった笑顔を浮かべているのを、セイムは背中で感じていました。

彼は言葉を交わすことなく、冷えた梯子に手をかけます。

一段、また、一段。

今朝から身体を満たしていた熱が遠ざかっていきました。

最後の一段を登り切った時、そこはもう日常という名の酸素が届かない場所でした。


 開放型のコックピット。震える指先で、セイムはハーネスを固定します。

前方およそ80センチメートル。計器盤の端。見慣れたあの鍵が、本来あるべき場所で粛々とその時を待っていました。

青年のハンドサイン。各々が小さな動作で応えます。

機体と一つになった鍵から、とある信号が発せられました。


目覚めろ。


その瞬間。足元の漆黒が、深淵から這い上がるような咆哮を上げました。

格納庫内の空気は一気に加速します。


「・・・!」

「相変わらず、たまらねぇな…テル!そっちはどうだ!」


続く二番機、通信機および機体の状態は良好です。


顔を引きつらせるテルの代わりに、後ろにいたジゼルが親指を立てました。


『…あー、あー。各員に通達ー出撃ハッチが開きまーす』


エイミーの気の抜けたアナウンスを合図に、鋼鉄の扉が悲鳴を上げて左右に分かれました。

暗い格納庫に、暴力的なまでの白光が差し込みます。

その先に待っているのは、あり得ないほどに鮮やかな空でした。


震える両足に渇を入れ、セイムは加速に備えます。

彼の知識が役に立ったのも束の間、二機のグライダーは風になりました。




 ハッチから吹き込んできた風が、格納庫内の埃を喧騒ごと、強引に連れ去っていきました。

二つの機影が鋭く弧を描く様子を最後に、縦長のすき間は完全に見えなくなりました。


 エイミーは、手元のモニターに表示される光点が、高度を上げながら重なっていくのを静かに見つめていました。


「…行ったか?」

「うん」


誰にともなくこぼした言葉は、まだ熱を帯びている金属の壁に吸い込まれます。

つい先ほどまで、あんなに騒がしく心臓を叩いていた重低音はもうありません。

代わりに聞こえてくるのは、彼らの日常、鉄のハーモニーでした。


計器盤の数値は、すでに彼らが日常の速度を超えたことを淡々と示しています。

祈る言葉も、求める言葉も、この男、葛野幸太郎には必要ありませんでした。


「アサルトブースターの調整はどうか?」


「まだまだ、人手が全然足りないんだよねー」


「感謝祭までに間に合わせろ。私も出る。船の高度は維持、肉眼での警戒も怠るな」


「うん。任せてよ」


視線すら交わすことはありません。

交わされたのはただの事実と、それを完遂するという意志だけでした。





~ドーンソリア大陸北東部・メィガ地方・フォースポイント~


 二機のグライダーは風になり、そして今は、ただの金属の翼へと戻りました。

視界を埋め尽くしていた鮮やかな空は、いつの間にか、煤けた岩肌と錆びた鉄塔に取って代わられています。

東のフォースポイント。

廃坑から噴き出す風は、かつてそこで命を削った人々の吐息のように冷え切っていました。


「俺たちはここまでだ。こっから先はエレメントの乱調と砂がやべぇ」


コックピットを降りたセイムの靴底が、乾いた硬い砂を噛みます。

耳の奥で鳴りやまない風の残響を、岸壁から噴き出す冷気が強引に塗り替えていきました。


 かつてここでは、多くの知識と命が地下へと注ぎこまれ、そして何もかもが吸い尽くされました。

点在する坑道の闇は、新参者を品定めするように、ただ静かに口を開けています。


「僕たちは、いったいどうすれば?」


不安げなその声の向こうで。

およそ二日間という時を共に過ごしたテルとジゼルは、まるで本物の兄弟のような談笑を続けています。


ナビゲーターの再調整を済ませたヤナギの両足が、砂の大地を鳴らします。

彼はそこからさらに東の地を指さし告げました。


「この先だ。廃坑と集落がある。お前らたちは、別命あるまでそこで待機だ」


その淡々とした口調が、彼の誠意であることをセイムは理解していました。

別命があるまでの待機。つまりそれは、体のいい言葉を借りた、ただの追放でした。

劇的なものなど、この砂の大地にはどこにもありません。

特別に改造されたグライダーも、仕事に追われるエイミーの姿も、すべてはあの男、葛野幸太郎が自分にその役割を押し付けるために用意された演出だったのだ。セイムは、心の中でそう結論付けました。


知らない土地の熱を帯びた砂が、足元で冷えていくのを感じます。

セイムは、喉の奥にせりあがった問いを、苦い唾液と一緒に飲み込みました。


「わかりました。お気をつけて」


「ああ。またどっかでな!セイム」


「はい」


知らない間に、二番機の搭乗員たちも別れの儀式を済ませたようです。

一番機の傍らで冷徹な確信にひたるセイムとは対照的に、二番機のパイロット、テルはジゼルの手を取り、人目も憚らず号泣していました。


そのあまりにも無防備な感情の発露でさえ、今のセイムには、どこか遠い世界の出来事のように感じられてなりませんでした。


 テルの嗚咽が、乾いた風に引き裂かれていきます。

聞こえているはずなのに、どこかで遮られているようでした。


セイムは視線を落としました。

砂に刻まれた、自分たちの足跡。

行きと帰りを分けるには、あまりに無造作な線でした。

君はずっとここに居ろ。と…あの男の姿が頭に浮かびました。

その途端、胸の奥で何かが軋みます。


別命。

待機。


どちらも、意味は分かっていました。

それは自由を奪う言葉にほかなりません。

しかし、単純な言葉ほど、人は逆らえなくなるものです。たとえ、逆らったとしても、いったいどこへ向かえばいいのでしょう。


 ジゼルが、そっとテルの背に手を回しました。

泣き止まない彼を、叱るでもなく、宥めるでもなく、一人の人間として、共感しているように見えました。

その姿が、セイムにはやけに眩しく見えました。

その眩しさに、セイムは目を細めることさえしませんでした。


胸の内に広がったのは、嫉妬でも、嫌悪でもありません。

もっと乾いた、形のない感覚です。

それは喪失感。


 セイムは、ゆっくりと息を吐きました。

誰にも聞かれないように。誰にも気づかれないように。

それでも息は、そこにありました。


 

 

 やがて、砂の大地を揺らすほどの爆音と共に、ハツカネズミ級WRの翼がその身を宙に躍らせました。

垂直に近い角度で上昇していく機体の腹側が、午後の陽光を鈍く反射していました。

舞い上がった砂塵が視界を遮り、セイムの頬を無遠慮に叩きました。

彼は目を閉じることさえ忘れて、空の染みとなって消えていく一番機の軌跡を追い続けました。


やがてエンジンの残響が、廃坑の静寂に吸い込まれ、完全な沈黙が訪れました。

隣では、ジゼルがまだ、赤く腫らした目をこすりながら空を見上げていました。


 砂塵が重力に従い、再び地面へと横たわりました。空にはもう、染みひとつ残っていません。


「…行きましょう、ジゼルさん」


セイムの声は、驚くほど平坦でした。それは、喉の奥に飲み込んだ問いも、吐き出しきれなかった喪失感も、すべてを等しく押し殺した音でした。


「向こうに、小さな集落があるそうですから」


ジゼルがゆっくりと視線を落としました。

彼女の頬にはまだ涙の跡がありましたが、セイムが差し出した乾いた言葉を拒むことはしませんでした。

彼女はただ、短く、鼻を鳴らして頷きました。


 二人は、自分たちが立っていた場所に残された、深く、無造作な轍に背を向けました。

かつて命を吸いつくした廃坑の闇が、冷たい吐息を漏らしながら二人を招き入れています。


セイムは一度も空を振り返ることなく歩き出しました。

乾いた砂を噛む靴底の音だけが、新しい足跡として、静寂の中に刻まれていきました。




 

 ヤナギの言葉通り、廃坑のさらに東、大地を割いたような巨大な断層の影に、その場所はありました。


南北に走る裂け目。その垂直に切り立った岩壁には、無数の四角い窓が彫り込まれていました。

まるで、断崖そのものが一つの巨大な住居であるかのように、人の痕跡がひっそりと取り残されています。

しかし、それ以上に二人の目を奪ったのは、集落を見下ろす小高い丘の上に鎮座する、古く立派なお屋敷の姿でした。


荒涼とした砂の世界にあって、そのお屋敷の周囲だけが、不自然なほど深い緑に覆い尽くされていました。

喉を焼く乾いた風が、そこでは湿り気を帯びた草の匂いに変わります。

廃坑に紛れるように存在するその集落は、まるで何者かが大切に囲い込んだ、残酷に美しい箱庭のようでした。


 二人は、吸い寄せられるように箱庭へと足を向けました。

断崖の影に入ると、太陽の光は急激に勢いを失い、代わりに岩肌の冷気が音もなく肌を撫でました。

踏み固められた砂の上には、彼ら以外の足音も、獣の痕もありません。

それでも、誰かに見られているような感覚だけが、離れずにまとわりついていました。


岩壁に穿たれた窓のいくつかに、薄い布が垂れ下がっています。

風に揺れるその影が、人の形を連れてくることはありませんでした。

代わりに、静けさだけが、過剰なほど整ってそこにはありました。


 セイムは、無意識のうちに歩調を落とします。

背後を振り返ることはしませんでしたが、ジゼルも同じ速さで隣を歩いているのが分かりました。

二人の靴音だけが、谷に落ちては消えていきます。


集落の入口に近づいたとき、ようやく変化がありました。


丘の上のお屋敷、その影から、一本の道がこちらへと伸びていたのです。

白く削られた石畳。

この荒野には不釣り合いなほど、丁寧に敷かれた通路は、うっすらと湿った土で汚れていました。


谷底へと滑り落ちていく空気の流れが、草の匂いを運んできます。

その奥に、かすかに混じるのは、焚火の香りでした。


交わす言葉はありません。

ただ靴音だけが、いっそう硬い音を立てて、連なりました。


 石畳を歩むごとに、草の匂いを突き抜けて届いた焚火の香りは、砂漠の冷気にさらされたセイムの鼻腔を、不遠慮に、けれど、どこか懐かしい温度で焦がしました。


それは、船の中で嗅いだ、効率的で無機質な熱源の匂いではありません。

何かを燃やし、何かを煤けさせ、何かの命を灰に変えながら立ち上る、原初的で野蛮な火の匂いでした。



 石畳が緩やかにカーブを描き、丘のお屋敷の全貌が、より鮮明にその影を落としたとき。道の先に、古びた物置小屋が見えてきました。

屋根は傾き、ねじれた板材の向こうから、細い光が差しています。


セイムは、背後にジゼルを庇うようにして、物置小屋に歩み寄りました。

中を探り、この場所の実態を少しでも掴もう。と、そう考えたのでしょう。


彼が暗がりに視線を落とし、そのうす暗い内部を覗き込んだ、その瞬間でした。


背後の静寂が、突如として牙をむきました。一切の予兆も、気配もありません。

セイムの身体は、木の幹のように太い腕によって無造作に宙へと持ち上げられました。


 抵抗する間も、声を上げる暇さえありませんでした。

彼はそのまま、暗い小屋の奥へと、まるで、荷物でも放り出すような手つきで叩き込まれました。

背中を襲う激痛と、舞い上がる埃。

視界が火花を散らす中、頑健な男の姿と、それにすがるようにしているジゼルの姿が見えました。


「…お願い!乱暴しないでっ!」


その言葉に、男は顎先だけを向けました。

ジゼルの哀願虚しく、セイムの顔面に容赦のない衝撃が下されます。

それは汚れと砂がすっかり浸み込んだ、男の重い靴底でした。




 次に意識が浮上したのは、翌朝、まだ太陽が地平線の影で微睡んでいる頃でした。


 小屋のすき間から差し込む青白い光が、埃の舞う室内を冷たく照らしています。

ずきずきと脈打つ顔面の痛みに、セイムは自分がまだ生きていることを理解しました。


こん。


と、硬い感触が頭を揺らしました。

男のつま先が、寝返り打つこともままならないセイムの側頭部を、無造作に小突いたのです。


「起きろ。いつまで客のつもりだ」


昨日の男は、逆光の中に巨大な岩のような影として立っていました。

彼は手にしたつるはしを、物言わぬ鉄の塊としてセイムの目の前へ差し出しました。

木製の柄には、長年の使用で浸み込んだ無数の手の痕と、誰かの汗の匂いがこびりついていました。


 セイムは、その重すぎる鉄の塊を受け取りました。

過剰な供給を生み出す(のみ)や、グライダーの起動キーの軽やかさは、もうどこにもありません。

二人は連れ立って、集落の底に口を開けた坑道へと降りていきました。

背後では、まだ眠りの中に居るジゼルの気配と、どこか遠くで眠る、月の吐息だけが取り残されていました。


 湿った土と、岩肌を這う地下水が放つ冷気。

硬い斜面を降りるたびに、セイムの肺は、地底の重苦しい空気で満たされていきました。


「掘れ。五杯掘ったら上がってこい」


真っすぐに延びたレールの先、古びたトロッコが一台見えました。

オイルランプの僅かな光量の中、男の声が壁に跳ね返ります。

返事をする気力でさえ、横穴の冷気に吸い込まれていきました。


 セイムは両手で柄を握り、全身の重みを預けるようにして、つるはしを振り上げました。

オイルランプの灯影が、むき出しになった岩に映る影を不気味に引き延ばします。


最初の一撃。


がつん、と、脳を揺らすような衝撃が腕を伝って突き抜けました。

岩肌を削る音は、グライダーのエンジン音よりもずっと野蛮で、自分の肉体を直接削り取るような響きを伴っていました。

飛び散った破片が頬を掠め、昨日の傷口が再び熱を持ちます。


「……」


暗闇の奥に立つ男の気配は、動くこともなく、ただセイムの未熟な動作を監視していました。

二回。三回。繰り返すうちに、手のひらの皮が摩擦で熱を帯び、やがて鈍い痛みへと変わります。


一杯目のトロッコを満たすのに、どれほどの時間が必要なのか。

五杯目を終えた時、地上にはまだ太陽が残っているのか。


そんな問いさえ、やがて繰り返される単調な打撃音の中に埋もれていきました。


いつの間にか、監視の目は消えていました。しかし、セイムは少しも休むことなくつるはしを振り下ろします。

なぜでしょう。その答えは簡単です。

重いつるはしの先端を振りおろすたびに、彼の胸の内には、ほの暗い安息が広がっていたのです。


こうしてセイムは、この忘れ去られた集落において、二人目の鉱夫になりました。

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