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ウォンバットを北へ。

 セイムは、しばらくその場に立ち尽くしてから、静かに歩き出しました。示された通路を辿り、船内へ戻ります。


浮きシップウォンバットの内部は、外の世界が嘘のように落ち着いていました。

規則正しい振動音。金属が唸る、低い呼吸のような音。

どれもが、彼の胸の奥に残るざわつきを、かえって際立たせます。


指先が、自然と壁に伸びました。


金属のように硬く、陶器のように滑らかな感触でした。


考えないようにしても、先ほどの出来事が歩調に合わせて追いかけてきます。


これから会うこととなる人物の名は葛野幸太郎。十五年と四ヵ月というセイムの人生のなかで、初めて殴った人物です。


なにを言われ、なにを言うべきなのか。

セイムは考えずにはいられませんでした。


ほんの少しの間だけ、セイムは前方確認を怠ります。

思えば、ほかの誰かを意識するような環境から長らく離れていたものですから、無理もないことだったのかもしれません。

額から肩にかけて、柔らかい壁にぶつかったような、鈍い衝撃が走ります。


「・・・っ!」


声が重なり、セイムは思わずよろめきました。

思いがけない出来事は皮肉にも、彼の荒んだ心を一瞬だけ忘れさせました。

慌てて顔を上げると、目の前に居たのは見知らぬ女性です。


きっちりとした、黒に近い紺色の制服。

短くまとめた髪が、ぶつかった拍子にわずかに乱れています。


「ごめんなさい」


セイムは反射的に頭を下げました。

前を見ていなかった。その事実だけが、はっきりとしています。

謝る理由としては、それで十分でした。


「キャプテンに、呼ばれたのね?」


女性はそう言って、若干視線を下げました。

声は落ち着いていて、責める響きはありません。


「はい、呼ばれました」


歯切れ悪く、セイムは答えました。


「マイよ。よろしく」


すっと差し出された手を、セイムは静かに握り返します。


「・・・セイムです」


温かく、とても柔らかい。彼はそう思いました。


「あんたがこの船動かしてくれたんですってね。すごいじゃない!」


言いながら、マイは力強く手を揺らしました。

セイムは不思議と、胸が高まるのを感じます。


「この先の扉。やーね、勿体つけちゃって」


セイムの返事を待たずして、マイは背後の扉を顎で示し、そのまま彼の脇を通り抜けていきました。


 マイの足音が、通路の奥へと遠ざかっていきます。

制服の裾が揺れ、やがて曲がり角の向こうに消えました。


残されたセイムは、しばらくその場に立ち尽くしていました。


胸の奥に、かすかな熱が残っています。

握った手の感触。

あの温度だけが、妙に現実味を帯びていました。


すごいじゃない。


その言葉を、頭の中でなぞります。

ほめられた。そう感じたのが、あまりにも久しぶりだったせいか、どう受け取ればいいのかわかりません。


セイムは、心を落ち着かせるためにも、ゆっくりと息を吐きました。


考えなければならないことは、まだ山ほどあります。

ドロシーのこと。

ジゼルのこと。

そして何より自分のことです。


セイムは視線を上げ、マイが顎で示した先、通路の突き当りにある扉を見つめます。

冷たい鉄の塊のような船内にあって、それは落ち着いた木の色調でした。




 扉の前に立ち、セイムは立ち止まりました。

記憶に新しいやり取りが、ふと脳裏をよぎりました。


セイムは、込みあがる吐き気を呑みこんで、左手で扉を叩きます。


・・・こん。こん。


「セイムです。ヤナギさんに言われて来ました」


『・・・入りたまえ』


きっちりと加工された木の板は、まるでそれ自体が楽器のように機能しました。


セイムは、ゆっくりと指を伸ばします。

ドアノブの冷たい感触が、はっきりと伝わりました。


「失礼します」


扉は、静かな音を立てて開きます。



 

 まずは、謝ろう。

そう考えていたセイムの思考は、すっかりと抜け落ちてしまいました。

四方を壁に囲まれた狭い部屋には、通路と同じ空気が充満しています。

組織の権威を振りかざすシンボルも無ければ、部外者を排除するための武器もありません。

ただ、向かいの壁側に置かれたテーブルの向こうに、あの男、葛野幸太郎がおりました。


彼は、手に取った浮きシップの模型を壁のキャビネットにそっとしまい込む。その最中でした。


小さな音を立てて、そのガラス戸が閉じられます。

唸り声一つ上げず、彼は椅子に深く腰をおろしました。


一連の動作から目を逸らすように、セイムはそっと背後の扉を閉めました。


「すぐに済む。申し訳ないが立ったまま聞いてもらえるかね」


「はい」


セイムは、形だけでもと佇まいを正します。

けれど、彼の礼儀が過剰になることは決してありません。

誰も、それを望んではいないように思えたのです。


両手でテーブルを軽く叩いて、葛野は言います。


「まずは、クルーを代表して。君の協力に感謝を述べさせてもらおう。おかげで我々は、わずかな確率だが、活動を継続することが出来そうだ。ありがとう、セイム君」


葛野は軽く頭を下げました。


セイムはその所作を素直に受け入れることができません。

初対面からの言動が、すべてを面従腹背の動作に見せていたのです。

なによりも、それほど率先して取り組んだわけでもない行いを、ことさら丁寧に感謝されることに、彼は不快感すら覚えていたほどです。

しかし。

感情に任せて文句の一つも口走ろうものなら、それこそ、この男、葛野幸太郎の思うつぼでした。

セイムにも当然そのことが分かっていました。

ですがわかっていても、少年の舌は一時鋭く尖ります。


「そうですか、それはよかったですね」


狭い空間に、声は素っ気なく響きました。


葛野は眉一つ動かしませんでした。

すでに起きてしまった現象を、彼は当然のように扱います。


「単刀直入に言おう」


そう前置きしたうえで、葛野は両手を口の前で組みました。ただでさえ鋭い目つきが、いっそう鋭利さをましたように思えました。


「君の居場所は、今この瞬間も教会に補足されている。船の保安上、長く乗船させるわけにはいかない」


ならば、なぜ?


セイムは、あえて反論はしませんでした。

部屋の中には二人きり、短い沈黙が流れます。


葛野はポケットから何かを取り出すと、無造作にテーブルの上へ置きました。

鈍く銀色を帯びたそれは、鍵でした。


「グライダーの起動キーだ。君に預けておく。格納庫は船体下部にある」


グライダー。

一人、あるいは二人乗りの小型高速浮きシップのことです。


一瞬、疑いの色が濃くなります。


けれどセイムは、催促される前に数歩だけ部屋の中を歩くと、テーブルに投げ出された鍵を手に取りました。

彼は考え込むように、それをしばらく見つめていました。


ちょうどその時、部屋の照明が不安定に瞬いた後、光量が一段下がります。

反射的にセイムは、天井を見上げました。


不測の事態が頭をよぎります。


回答として、葛野は、ひときわ大きく息を吐きました。


「風呂だ」


思わずセイムは聞き返しました。


「まだ動力が安定していないというのに。彼女らときたら・・・まったく」


葛野は呆れたようにぼやきます。

彼は背もたれに深く寄りかかって、両腕を軽く組みました。


「話がそれたな、すまないセイム君。いずれにせよ、出発は明朝予定だ。話は以上。行っていい」


セイムは、鍵をそっとポケットにしまいます。


「あの」


「なんだね」


「ドロシーは、どうなってしまったのでしょうか?」


低く、それでいて切実な声でした。

葛野は体を支えるように、両手をテーブルにつきだします。

喉の奥で小さく唸った後に、質問に答えました。


「連れもどされた。教会のメンバーで構成された奪還部隊によって。我々は逃げるだけで精一杯だった」


「・・・そうでしたか」


それ以上は、何も告げません。


やがて扉が開き、静かに閉じられます。


一人取り残された葛野の姿を、壁一面に並んだ鋲の頭が見つめている。そんな気がいたしました。




~ドーンソリア大陸北部・刃の大地上空・ウォンバット船内・浴場~


 水は貴重なんだから・・・。そう誘われたのがきっかけです。


 肩から力が抜けたまま、ジゼルは浴室の扉を押しました。

苦い思い出を何度も反芻した彼女の表情は、この上なく沈んでいました。


どうして、優しく出来なかったのだろうか?


気持ちの整理はつきません。


「失礼します」


…カラカラ。


彼女の想いとは裏腹に、扉は軽やかな音を立てました。


さらりとした湯気と共に、ぺたぺたと床を鳴らす裸足の音と、甲高い声が押し寄せてきます。


「ちょっとクーコ!走らないでって言ってるでしょ!」

「だってカゼハがくすぐるんだもーん!」

「フフフ。まてー!」


湯気の立ち込める浴室の中で、クーコとカゼハがじゃれ合っていました。

ジゼルの動きが止まります。


水音がぱしゃりと弾け、誰かの笑い声が続きます。

その何気ないやり取りが、ひどく遠く感じられました。


頬に触れた冷たいしぶきの一つが、ジゼルをとある衝動に駆り立てました。


「カゼハさん・・・?」


気づけば、その名を口にしていました。

次の瞬間、ジゼルは声を張り上げます。


「カゼハさん!」


浴室内はしんと静まり返りました。

何事かとマイが振り返った時、そこにあったのは、熱を帯びた湯気のゆらぎだけでした。


「ごめんなさいカゼハさん。クーコさん!ごめんなさい」


洗い場の奥、取っ組み合ったまま動きを止めた双子の前で、ジゼルは突然泣き崩れます。


「私が、私がちゃんと・・・」


恐ろしい光景が、まぶたの裏に蘇りました。

一歩間違えれば、取り返しのつかないことになっていたかもしれません。いいえ、あるいはすでに・・・。


言葉にならない声が、湯気に溶けていきます。


カゼハは、戸惑ったように目を瞬かせました。

誰かが転んでケガをしないように、クーコも動きを止めています。


涙を流しながら、ジゼルは視界の隅で、なにかが欠けていることに気づきました。

カゼハの左腕は、肘の少し下で、そこにはもうありません。


縫合された断面が、白く、静かにそこにありました。

胸の奥に、深い悲しみが広がると共に、ジゼルの呼吸が一瞬止まります。


張り詰めた空気の中、カゼハは、大人の介入を許しません。

それは囁くような、それでいて強い意志を帯びた、落ち着いた声でした。


「・・・ジゼル、どうして謝るの?私たちを助けてくれたのに」

「けどカゼハさん・・・」


床に落ちた貴重な水分が、ウォンバットへと還元されます。伸ばした両手は、宙を掴むばかりでした。

カゼハは小首をかしげると、試すように負傷した腕を差し出します。

震える指先が、ためらいがちにそれを包み込みました。


「これ?これくらい、なんともないよ?」


そう言って、カゼハは小さく笑います。


「だって、生きてるんだもん。ね、クーコ」


珍しいものを見るように、クーコは一度だけ頷きました。


「そーそー。約束破っちゃったのあたしたちだし、ね?」


「うん」


ジゼルは、まだ、さめざめと泣いていました。

頼りない指先の動きは、どうにかして失われたものを元通りにしようと模索しているようです。

傷口に、わずかなくすぐったさを感じながら、カゼハはわずかに身をかがめます。


「・・・それより、クーコにぶたれたんでしょ?」


それを耳にした瞬間、クーコの肩が、びくりと跳ねました。


「あ・・・!あれは、その、仕方なかったし・・・ねぇジゼル?」


うつ向いたまま、ジゼルは何度も頷きました。

むしろあれは、助けてもらったのだ。その一言が思うように出てきません。


「駄目だよクーコ」


カゼハは、きっぱりと言いました。


「ちゃんと謝らないと」


「…う」


きまりが悪そうに、クーコは体を強張らせます。あるいはそれは、ジゼルのために一役演じてくれたのかもしれません。

クーコは、しょんぼりと肩を落としました。


「ごめんなさい」


……パンパンッ!


 冷えはじめた浴室に、乾いた音が鳴り渡ります。

力強く両手を打ちながら、マイが立ち上がりました。


「はーい!はい!お終いお終い!もう、そういうのウザいのよ。ジゼル!あんたちょっとこっち来なさい」


「ぅ…うざい?」


「あはっ!」「フフフ、ウザいだって。ジゼルかわいそ」


その言葉が、ぐさりと胸に突き刺さります。

意識の抜けたまま、ジゼルは双子に挟まれてマイのもとへ連れていかれました。


 ジゼルは、気づけば洗面台の前に座らされていました。

曇った鏡越しに、マイが鼻歌を口ずさんでいます。


「…。綺麗な髪ねぇ。染めてるの?」


濡れた髪をしっとりとなでながらマイが尋ねます。

ジゼルは、もじもじしながら答えます。


「はい・・・少し」


「ふーん」


マイの手つきは、高価な品物を扱うそれそのものでした。

優しく、丁寧で、まるでハープを奏でるかように優雅でした。

口元は優しく微笑みを讃え、胸元に張り付いた長い髪が、なだらかな曲線を描いて落ちています。


その光景は、どこか懐かしい感覚を思い出させました。


なにかを口走りそうになって、ジゼルは慌てて言葉を呑みこみました。


ようやく、心が落ち着きを取り戻し始めたのも束の間、鏡に、宙を舞う少女の姿が一瞬写り込みました。



ど。ぼおおおん!


・・・。


(軽い咳払い)


 おびただしい水しぶきが飛び散りました。

一緒に聞こえてきたのは、もはや、耳をつんざくような悲鳴でした。

鏡には、後ろからお湯を被せられたマイの姿と、湯船の縁にしがみつくように笑い転げる双子の姿が写っていました。


口元から、微笑みがすっと消え失せました。

おもむろにかき上げられた髪から、水滴が滴ります。

立ち上がった両足が見えないところで、力強く床を捉えているのがジゼルにもはっきりとわかりました。


反射的に、ジゼルは耳をふさぎます。その場に縫い止められた身体は、まもなく訪れるであろう衝撃に備えました。


「ねえ…!」


ジゼルの意に反して、聞こえたのはそんな声でした。

それは怒号ではありません。ましてや、マイの声でもありませんでした。ただその声は、巨大な何かが動き始める前の凄みのようなものを確かに含んでいます。


マイが腰をおろします。口元に、さっきと変わらない微笑みを携えて。


 双子は、ぴたりと騒ぎを止めました。

湯船の奥です。白いもやもやが厳かにゆらめきました。

その上を、水の球が滑り落ちていきます。やがてそれは、マイの隣に腰を落ち着かせました。


ジゼルは、あんぐりと口を開けています。

理解が追い付かない。そんな様子です。


「ごめんね。マイさん」


その声に、マイの微笑みが少しだけ深まりました。


「謝るなんて…賑やかでかえっていいくらいです。気にしないでください」


「うん。ありがとね。マイさんに。あの子たち甘えてると思うんだ」


穏やかな声でした。

湯気に溶けて、波紋のように広がる。それでいて、はっきりと芯のある声。


ジゼルは、その声の主をまじまじと見つめます。


「あ……!」


喉の奥で、短い音が転がりました。

その隣で、白いもやもやの一部がにょきにょきと伸びて、何食わぬ態度で石鹸を泡立てはじめます。

湯気のように見えるそれは、たくさんの白い毛の塊でした。


ジゼルの中で、なにかが、かちりと音を立てました。


「み・・・ミズキさんっ!?」


呼びかける声が、わずかに裏返ります。


ミズキは、ほんの一瞬だけ鏡の端に視線を切りました。

その間も、マイの手は、彼女の髪を丁寧に撫でています。


「うん」


ミズキは、逃げも誤魔化しもなく。堂々と、念入りに、石鹸を泡立てていました。


彼女の頭の中で、一つの仮説が弾けます。

するとどうでしょう、意識が一気に遠のいていくような感覚に陥りました。


「どうしたの?」


どこか、含みのある声色でした。

鏡には、マイと、顔を真っ赤にしている自らの姿が写っています。


「い、いえ!・・・ただ」


慌てて姿勢を正します。その場からすぐに逃げ出さなかったのは、ひとえに、白百合としての矜持がなせる業でした。


「ちょっとめまいが・・・」


マイの口角が一段持ち上がります。


「まだまだね」


囁くように身を寄せて、それは波のように引いていきました。


「・・・」


オトナの正論に、ジゼルは何も言い返せません。

たゆまなく続く悠然とした二つの動きは、自分が伸びしろを残した小娘であることを、否応なく突き付けているように思えました。

目のやり場すらも失った彼女は、すっかり黙ってしまいます。

代わりに、訪れた暇の静寂を破ったのは双子でした。


双子は、浴室内に一本だけ置いてあったボトルを手にすると、慣れた手つきで白い毛束の中にドボドボと流し込みました。

それは教会都市のお墨付き、最高級シャワージェル(夜光草の香り)です。

浴室の空気は一変しました。


汚れなき白銀の毛が、瞬く間に琥珀色のジェルを飲み込み、ミズキが身体を震わせるたびに、見たこともないほどキメ細やかで濃密な泡が、溢れんばかりの雲となって湧き出してきたのです。


「あらぁ。良い香りね」


マイが鼻先を持ち上げました。


倍ほども膨れ上がったミズキめがけて、クーコが飛び込みます。


「仕方ないよね?だってカゼハの腕ないんだもん」


クーコが披露したのは、なんと背泳ぎです。身体は落ちるどころか、むしろ昇っていきました。

天井近くで、彼女は両手を広げます。


「・・・うんうん。これはしかたない」


一方でカゼハは、勢いを殺してつま先から入っていきました。


ミズキは、周囲の気配を確かめるように静止しました。

二つの目玉が、泡の表面をぐるん、ぐるんと周り、元の位置に戻ります。

次の瞬間、合図が下りたかのように、身体が小刻みに震えはじめます。


ジゼルは、二人がミズキの毛に埋没していく光景を、ただ呆然と見守ることしかできませんでした。

神聖な儀式のようだった入浴という行為が、今はただの、騒がしくも温かい洗濯のような時間に塗り替えられていきます。


双子が、泡の波に歓喜の声を上げる中、丸い二つの両眼が一時の鋭さを増したかと思うと、それはジゼルへと忍び寄りました。


「ひっ」


思わず小さな悲鳴を上げてしまいます。

昔の人形の、ガラスの瞳のように、それは大変に美しく光を放ちました。


「ジゼル。君の心も、少し冷えているようだね」


その芯のある、艶のある、ある種の様式美すらも兼ね備えた澄んだ美声が鼓膜を貫きました。

逃げようにも、足元は既に腰の高さまで迫った濃密な泡にからめとられていました。


「なんてね」

「あ…」

「汚れているだけだね」


声になりませんでした。

ミズキがその巨体をわずかに震わせるたびに、ジェルの芳香をまとった泡が、まるで生き物のように膨れ上がります。

それは洗剤が作る空虚な泡ではありません。

適度に沸かされたお湯の熱を吸い込み、細やかな毛の一本一本が空気を抱えて作り出した、絹よりも滑らかで、雲よりも重厚な生命の塊でした。


ジゼルの白い肌に、ミズキの体温を宿した泡が触れました。


熱い。けれど、恐ろしい程に優しい。

泡が、ジゼルの震える肩を包み込むように重なりました。

それは、抱擁というにはあまりにも大雑把で、洗浄というにはあまりにも情愛的でした。


「っ…!ミズキ…さんっ…どうして…?ここにっ!」


今更になって、ジゼルは疑問を投げかけます。

泡に浮かんだ両の瞳が、答えを求めるように頭上を彷徨います。


「ううん…」


その間も、毛束は最高級のスポンジとなってジゼルの背を滑り落ちていきました。


・・・ごしごし。・・・ごしごし。


「…こんな、いけません」


拒絶の言葉は、毛先から生じる不思議な振動にかき消されました。

ミズキは、ようやく答えます。


「偶然かな」


視界は真っ白に埋め尽くされて、ジゼルは、自分がどこにいるのかさえ分からなくなります。

問いの答えなど、もはやどうでもよくなっておりました。


ただ、あたたかい。それは熱いほどに。


刻一刻と、ずっしりと重くなる瞼の変化を、彼女は受け入れます。なぜならこれは、聖なる行事などでは決してないのだからと…。


意識が遠のく中で、ジゼルは生まれて初めて、自分を縛り付けていた沢山のしがらみを、この泡の中に捨ててもいいのだと、漠然と理解しました。

つらい過去も、至らない自分に対する苛立ちも、すべてが汚れと共に泡の中に溶けていきました。


 ひとしきり汚れを洗い落としたミズキは、三人を湯船に放り込みました。

身体は、いっぱいのお湯に溶けて、今はもう、ただただ宙に浮かんでいるようでした。


「だいじょうぶ?」


知らない内に溺れかけていたジゼルを引き上げてくれたのはカゼハでした。

その問いに答えはありません。

虚ろな瞳は、未だに波打つ水面から、泡の塊をぼんやりと眺めています。

あの美しい両目が、もう一度だけこちらに向けられるのをせがむような瞳でした。


霞む視界の中、ジゼルの期待は泡のように儚く潰えます。


両目は、ただ一人安全圏を保っていたマイへと向けられたのです。


「次はマイさんだよ」


それは獲物を狙う冷淡な目でした。

その目は、運命が既に決していることを哀れな獲物に悟らせます。

その一言が、湯気の籠る浴室に冷たく、そして甘く響きました。


「え・・・。ちょっとまって。ミズキさん?」


乾いた声を上げたマイの真横から、泡の巨人が音もなく、けれど確実に歩み寄りました。

先ほどまでの余裕は影をひそめ、両肩にありありと緊張の色が浮かびます。


「私はいいのよ!自分で洗えるから!ちょ、やめ・・・!」


抵抗はむなしく、ミズキの白銀の腕が、マイの肩を優しく、けれど鉄のような意思で捉えました。


「マイさんは、()()()するんだね」


そんな、うらやむような声がどこかから響きました。


次の瞬間、マイはジゼルが味わった泡の牢獄へと引きずり込まれてしまいました。


「ん!?」


そして、彼女は何かに気付きます。


「思ったよりいいわね」


「そう?」


なんということでしょう、いけません。いけません…。


「あ!ミズキさん、もっと右!」


「ここ?」


「あ!あ!そこそこそこ。そ…………こぉっ!!」


真っ白な泡の塊が、大きく一度跳ねました。見えていたのはそれだけです。

なのに、なにか、良くないものを見ているような・・・。

双子の表情は引きつります。

ジゼルは、たっぷりのお湯に漂った状態のまま、虚ろな瞳で探します。


泡の塊、鏡の向こう、そのどちらにもあの丸い目玉は見当たりませんでした。


 航路は北、ドーンソリアの夜空をウォンバットは進みます。

月光に照らされた大地のその先に、いったい何が待ち受けているのかを、誰一人として知らぬまま。





 セイムは、その夜眠れませんでした。

胸の内に抱えた感情を、文字としてしたためる(すべ)があったなら、彼は迷わずそれを綴っていたことでしょう。

しかし、そんな術は彼にはありませんでした。今に限ったことではなく、村を飛び出した時から、ずっとずっとそうだったのです。


ベッドの上で、セイムは体をひねります。

壁の丸窓から、月が見えました。


「・・・」


月が、動かないまま、そこにはありました。

想像も追いつかないほど遥か彼方の天体が、確かに、そこにはあったのです。


 しばらくして、セイムは反対側に体を倒しました。

耳を澄ませると、船の唸りと、同室のヤナギとテルの寝息が聞こえてきます。


誰にも迷惑はかけられない。その一心でした。

物音を立てないように床へ足をおろし、セイムはベッドを離れます。

そのままの足で、彼は部屋を出ていきました。



 

 無人の通路に響く足音は、奇妙なほどに澄んでいました。

すり減った靴底が、今夜に限っては無機質な反響を返します。

一歩、また一歩。自分の存在だけが、世界の中から切り取られていくようでした。


居住ブロックを過ぎた地点で、セイムは歩調を落とします。

耳に届くのは、船体の低い軋みと、遠くで脈打つ機関の鼓動だけ。誰の声も、誰の気配もありません。


この上なく、それが楽でした。


考えなくていい理由が、そこにはあったからです。

立ち止まっても、黙っていても、咎める者はいません。


布越しに、ポケットの中身を確かめます。

そこにあるのは、硬く、薄く加工された金属片。グライダーの起動キーでした。

ぐっと、力を込めた指先に、鍵は硬さだけを返します。


セイムはポケットから手を離し、通路の先へと視線を向けました。夜間灯に照らされた壁面が、淡い影を引き延ばしています。その向こうに、船体下部へと続く通路がありました。

油と金属と、わずかに混じる冷たい外気。

眠っているはずの機体たちの気配が、そこにはありました。


立ち止まり、考え、それでも彼は、結局、その場を通り過ぎていきました。



 

 通路を過ぎても、足は止まりませんでした。

戻るつもりだったはずの歩調は、いつの間にか別の方向を選んでいます。


曲がり角、そしてタラップ。

夜間灯の色が変わり、天井の高さがわずかに下がります。

居住区とは違う、作業用の通路でした。


通路の先、人の気配は、もう完全に途切れています。

代わりに、船体をつたう低い振動が、足裏から直に伝わってきました。

それ以外の情報はありません。

ただそれでも、目の前にある気密扉の向こうに夜があることだけは、はっきりと分かっていました。


ほんの数時間前に開けた扉の重さが、すでに懐かしいとさえ感じられました。

すき間から吹き込む夜に逆らいながら、彼の体は、外の世界に溶けていきました。




 外の空気は、恐ろしいほどに冷えていました。

吐いた息が、口元で凍り付き、やがて音もなく落ちていく。

そんな過剰な妄想を、彼は少しも笑えませんでした。

渦を巻く不規則な寒風の中、ひっそりと呼吸を整えます。

今行った手順を逆から繰り返し、彼は扉を閉めました。


自分でも不思議に思うほど、続く足取りは軽いものでした。



 彼は、夜を眺めていました。

それはひどく孤独な行いでした。

身の丈を超える疑問が浮かび、それはやがて、燃え尽きる星とともに、いつの間にか消えていきました。

瞳は、次の星が落ちるのを待っていました。

その度に彼は、ポケットの鍵を強く握りしめ、白くなった手のひらに視線を落とします。


彼の背後で、かすかな物音がしました。


「セイムさん…?」


振り返るよりも先に、彼はその控え目な声を聞いていました。

星が落ちるのを待っていた時間は、そっと終わりを告げました。


「…なにしにきたんです」


セイムは、ただ一瞥しただけでした。

何事もなかったかのように、両手を手すりの上で合わせました。


ジゼルは迷わず、そんな彼の隣に並びます。


「可愛い。セイムさん」


くすぐられた喉が、ひとりでに発した言葉のようでした。

見てもいないのに、彼女が今どんな風に目を細めて笑っているか、鮮明に脳裏に浮かびました。


夜風に浸した髪先が艶めき、ほのかな芳香が立ちました。

拳一つ分の距離を詰め、それはセイムへと近づきます。


「!」


肩口が柔らかく触れた時、セイムもまた、拳一つ分、身体を動かしました。


「・・・」


ジゼルが不思議そうな表情で見ています。

何か言いたげなその顔は、彼の弁明を待っているようでした。


「…くっつかないでくださいよ」


セイムは、顔を背けて言いました。


「嫌です」


切実な、彼の要望に対する答えはNOでした。

その声は短くも、抑揚に富んでいました。


「だって、寒いんですもの」


再度触れた肩は、嘘のように熱を帯びていました。

頬や首、耳や胸元、挙句にはまつ毛の先まで。目に映るすべてが(ことごと)く清潔で、彼はそれらを直視できません。


セイムは息を呑みました。

寒さのせいなのか、それとも別の理由なのか自分でも分かりません。

ただ、確かなのは、拳一つ分、反対側の通路に近づいてしまったこと。ただそれだけでした。


「…もぅ、少しだけですよ」


それが譲歩なのか、あるいは諦めなのか。セイム自身にも、はっきりとは分かっていませんでした。


ジゼルは嬉しそうに一度だけ喉を鳴らします。

夜の冷えに身を寄せながら、それでもどこか楽しそうでした。


「どこにきてしまったのでしょうか…ねえ」


同意を求めるように、言葉尻が甘く伸びます。


答えは、セイムの中にありません。

なので彼は、無視をしたわけではありません。単に答えられなかっただけでした。


「あ!流れ星!」


肩にほのかな、それでも確かな熱の衝突を感じた時、星は既に燃え尽きていました。

見ていなかったことにしよう。

そんな悪知恵を、彼の良心が散らします。


「もう戻りましょう」


前を向いたまま、低い声で告げました。

ジゼルは、いたずらに声を弾ませます。


「嫌です」


そっと体を傾けて、ジゼルは星が落ちるのを待ちました。


こうして、星を眺める孤独な夜は、いつの間にやら誰かの体温を感じる夜へと変容します。


何の前触れもなく現れるそれは気まぐれで。

人は各々の胸の内に、言葉では形容しがたい思いを抱かずにはいられません。

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