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対話。

 彼方の地で、夏の空を引き裂く遠雷が、部屋の輪郭を塗り替えます。

その縁から、男の顔が浮かび上がりました。

その顔色は死体のようでした。

まるで長い夜を、たった一人で歩き続けて来たかのように疲れています。


萎びた体と、蒼白な肌、乱れた頭髪、ぼろぼろのコート。

ただ、両眼だけが異常なほどに鋭く、猛禽を思わせる危うさを漂わせておりました。


一呼吸おいて、遠くで何か巨大なものが転がるような、くぐもった音が鳴り響きました。

床の下から、あるいは、空の向こうから。


「もう、終わりかね?」


そう告げると男は、部屋の中へと足を踏み入れます。

分厚いコートから滴り落ちた水が、足元で小さな水たまりを創り出しました。


男は視線だけで部屋の内部をなぞります。

テーブルにベッド、棚と椅子。それから、床と天井と壁。

必要最低限の物に囲まれた慎ましい生活。そう呼べば聞こえは良いものの。この男の頭に浮かんだのは、断じてその言葉ではありませんでした。

どこか見下すような目つきをした男を部屋の住民は凝視します。顔をこわばらせたままピクリとも動きませんでした。

若い・・・幼いとすら言えたかもしれません。

それはまだ、夜にすら慣れていないような目をした一人の少年と、一人の少女でした。

男は呆れたように肩をすくめ、演技じみた態度で口をへの字に曲げて見せました。


「失礼するよ?」


返答はありませんでした。

小さな空間に、その声だけががびりびりと、やけに大きく残響します。

激しさを増す雨音が、それをすぐに覆い隠しました。


ランプの光が、壁に揺れていました。

明るすぎず、暗すぎず。今日という日を終わらせるには、ちょうどいい光です。


少女はマグカップを両手で抱えたまま、膝を引き寄せていました。

飲みかけのココアの温かさが、まだ指先に残っています。

甘い香りだけが、どこか場違いに取り残されていました。


男は、その様子を見ても何も言いません。

世間話も、慰めの言葉も、世辞の言葉も与えませんでした。


ただ、雨の中から来た人間として、彼はそこに立っているだけでした。


雷が、もう一度鳴りました。

今度は、少しだけ近くで。


一瞬の光と音に紛れて、ジゼルは軽やかに部屋の中を移動します。

途中で、テーブルにココアを置き、セイムの背中に逃げ込むように、その足取りは風のようでした。


「いったい、なんですの!」


突然の来訪者を睨みつけながらそう言います。

気丈なようで、その声は震えていました。


少女の心を見透かしたかのように、男の視線は正面の何もない空間に向けられました。

足を引きずるように彼は歩き出しました。床の上に新たな水たまりが生まれます。

失礼を通り越した男の態度に、二人はただただ言葉を失います。

正義の言葉の代わりに脳裏をかすめたのは、それぞれの後ろめたさでした。


「失礼すると言っただろう。聞こえなかったのかね」


テーブルまでたどり着いた男は、残ったココアを呷ります。

逆さまにしたカップをわざわざ揺らし、二人に見せつけるように最後の一滴まで飲み干しました。

怯えと抗議が混ざった視線が、セイムの横顔を捉えます。

しかし、彼は黙って、前だけを見つめていました。

その横顔は、考えているようにも、なにかに気付いたようにも見えました。


すべてを知っている。


そう言わんばかりに、男は堂々と両手を広げます。


「葛野だ」


それはあまりにも短く、にもかかわらず、極めて強烈な自己紹介でした。

二人はなにも言えません。いいえ、それは少し違いました。

実際には、この男、葛野幸太郎がなにも言わせなかったのです。


「来たまえ。断ればどうなるか。君たちにも()()できるだろう」


そう言い残し、彼の姿は、ぼんやりと夜の闇に溶けていきました。




 森の夜は、思っていたよりも暗くありません。

濡れた葉が月の光を反射し、滴る水音と共に、どこかで小さな生き物が息をひそめています。

それでも、一歩踏み出すたびに、足元の感覚は頼りなくなっていきました。


葛野は先を歩きます。

振り返ることはありません。

その背中は、案内しているというよりも、知っている場所を通っている。ただ、それだけのようでした。


枝を踏み、水たまりを超え、湿った土の匂いが次第に濃くなります。


ジゼルは、いつの間にかセイムの袖をつかんでいました。

そうしなければ、彼がどこかへ行ってしまうような、そんな気がしたためでした。


やがて、森の奥にあり得ないものが見えてきます。


木々のすき間に、月とは別の丸い輪郭がありました。

丘でもなく、落ちた星でもありません。巨大な影です。


濡れた金属の匂いが、冷たい風に混じって流れてきます。


セイムは足を止めました。

ジゼルはここぞとばかりに、彼の腕をしっかりと抱きました。

下から覗き込むようにセイムの横顔を見つめます。

彼は幽霊のように、斜め上を見上げていました。

真剣なまなざしは、ジゼルの心を痛く傷つけました。


セイムはそのことに、少しも気づいていませんでした。

目の前にあるそれを、船だと理解するよりも先に、『生き物でないのに、眠っている』そんな印象が、少年の胸に落ちました。


葛野は、そこで初めて立ち止まります。


「ここだ」


それ以上の説明はありませんでした。


船体底部の分厚い装甲版が静かに持ち上がり、足元を照らすいくつもの赤い光が、真っすぐに奥まで延びていました。

葛野の靴底が、金属特有の打音を鳴らします。

彼は何も問いません。

ただ真っすぐに、その姿は闇の中へと戻りました。


『高速で移動する物体というのは・・・』


その声は異なる位置から同時に届けられているかのようでした。

意識しなければ聞き取れないその声を、セイムは追いました。

そんな彼を、ジゼルもまた追いました。


二人のことなどお構いなしに、葛野は先に進みます。

真っすぐに整えられた地面と足元の光の両方が、彼の体の異常を今更になって露わにします。

右と左、それぞれ歩幅の異なる歩調は、急かされるように、それでも揺るぎなく、連続していました。


「・・・。重力。当初私は、ことにSWEの重力、そのせいで今回の長距離ジャンプの座標が狂ったのだと考えた。だがしかし、実際の座標を確認した際、私の中に、新たな仮説が生まれた」


誰からも理解を求めない、彼の言葉は続きます。


「・・・君が隠された理由。教会が秘かに君を記録していた理由も、いずれ分かる」


教会。それは意識的に二人が避けてきた言葉でした。

同時に姿を現した不穏な言葉に、ジゼルの体は半ば反射的に動きました。両腕にそっと、力が込められます。


歩調が、わずかに遅れました。

続く通路は行き止まりになっています。

足を止めた葛野の顔を、壁に埋め込まれた端末が照らし出しました。


「私は・・・」


葛野は言葉を切りました。

通路はやがて、そのままの形のまま静かに上昇を始めます。


「私は、運命などという言葉は信じない。誰かが裏で糸を引いているのだというのなら、それは決して神などではない」


その言葉は、船内の空気に置き去りにされ、すぐに聞こえなくなりました。


それ以上、葛野は語りません。

通路は上昇を続け、足元の赤い光が一定の間隔で脈打ち、乗り合わせた人物の横顔に、淡い影を落とします。


「偶然などではない。ましてや・・・」


通路の上昇は、音もなく止まりました。

床の微細な振動は完全に消え、赤い光の脈動だけが続いています。

言いかけて、葛野は振り返りました。

青白い顔に、不敵な笑みを携えて。


「さあ、セイム君。君の役割(ロール)だ。やりたまえ」


正面の壁が、ゆっくりと左右に分かれました。

熱も、轟音もありません。むしろそれはとても静かでした。

その向こうに広がっていたのは、空洞です。

奇しくもそれは、二人が過ごした森の隠れ家と同程度の広さをしていました。


浮きシップの心臓部。


本来ならば、そこには船に命を吹き込むコアの存在があるべきでした。

しかし、この船、ウォンバットの場合は違います。


空洞の中央には、円筒状の構造体が、宙に浮かぶように固定され。

無数の配線と管が、それを取り囲んでいます。

光は、白でも赤でもなく、深い青でした。


円筒の中央を流れるその光は、規則正しく、けれど弱弱しく、鼓動のように明滅しています。


ジゼルは、思わず息を呑みました。

彼女には、目の前の微弱な光が織りなす力の営みに、身に覚えがあったのです。


葛野は、そこへ一歩踏み出します。けれど、動力炉には触れません。


糸のように伸びる青い光に視線を向けたまま、背中越しに言いました。


「それとも帰るかね?()()に」


そして、彼は勝ち誇ったかのような表情で振り向きます。


「私はそれでも構わない」


全身の血管が強く脈打ちます。

ジゼルは、異論を唱えることが出来ませんでした。

彼女にはわかりました。

怒鳴り散らすことも、泣きわめくこともありませんでしたが、セイムは怒っていたのです。それはまるで、龍の目です。


それは、誰かを責めるためのものではありませんでした。


拒めないこと。

選ばされること。

そして、なによりも自ら進んで歩みを止められないこと。

そのすべてが屈辱となり、胸の奥で静かに重なった際に自然と発露するものでした。


彼の指先がジゼルの腕にそっと触れた時、彼女は聞き分けの良い子供のように振る舞うことしかできませんでした。


硬く冷たい床が、少年の重さを受け止めます。

青い光が、ほんのわずかに揺らぎました。


それを見て、葛野は何も言いません。


ジゼルは、声を出しかけて、そのまま唇を噛みました。

名前を呼べば、なにかが壊れてしまう。そんな確信だけが喉の奥に残っていたのです。


セイムの手がゆっくりと持ち上がります。

触れるには、まだほんの一瞬の時間がありました。

その間だけが、この場所に残された最後の猶予でした。


やがて、彼の持つウィリに世界が応えます。


まばゆい光とともに、船全体が唸りを上げました。


彼だけが特別だったわけでは決してありません。

この世界では、誰もが皆、そうなのです。


燃え上がる炎のように、青い光が強まります。

もう、戻れない。そんな実感が、二人の足元から伝わってきました。




~ドーンソリア大陸・どこか~


 壁や床、天井に至るまで、低い振動が定着していました。

傾きも、揺れも無く、ただ、止まっていないという感触だけが壁の奥から伝わります。


通路は狭く、おそらくは、すれ違うことすら一苦労したのかもしれません。

幾重にも枝分かれしたそれは、人体の血管を想起させました。


通路を進むあいだ、誰も言葉を発しませんでした。

足元を照らしていた赤い光はいつの間にか消え、代わりに灯った壁の照明が、施設全体を煌々と照らしています。


セイムは、前を歩きます。

その背中を、ジゼルは一歩遅れて追いました。


葛野は振り返りません。

進行方向だけを見据え、船が動いた事実を、すでに当然のものとして扱っています。


やがて通路が開け、円形の部屋に出ました。


簡素な机と椅子。壁面に並ぶ表示灯。

ウォンバットのブリーフィングルームでした。

ブリーフィングルームとは、作戦会議室のことです。


 作戦会議室には、すでに数名のクルーが集まっています。

誰も驚いた様子は見せません。ただ、視線だけが、二人へと集まりました。


そんな中、たったひとり。ジゼルだけが動揺の色を濃くしました。

空間の隅に、見覚えのある人物を見つけたためでした。


そこにはテルとヤナギの姿もありましたが、彼らではありません。

それはミズキと、クーコでした。


ミズキはすでにこちらを見ていました。

表情は、少し前と変わりません。

驚きも、安堵も、そこにはありません。


クーコは、逆でした。

目が合った途端、言葉にならない何かを言いかけて、けれど、すぐに口を閉じます。


「ああ」


葛野は前を向いたまま、ピタリと足を止めました。

続けて、振り返ること無く彼は告げます。


「半日ほど前、重傷者を連れた一団を保護したんだ。てっきり、君の仕業だと思っていたのだが、違ったかね」


ジゼルは、足元を見るだけでなにも言い返せませんでした。

彼女をそうさせたのは他でもありません。

セイムから漂う異常な気配でした。


葛野は中央に立つと、振り返りもせずに言います。


「紹介しよう」


それだけで、十分でした。

クルーたちの視線が彼へと注がれます。


「予てより通達しておいたプレイヤー。セイム君とジゼル君だ」


名前を告げられた瞬間に、空気がほんのわずかに変わります。


問いは、まだ出ませんでした。

二人に対する評価も、判断も。

ただ、この船に乗せられた理由だけが、静かに共有されていました。

背中を向けたまま、葛野は少しだけ待ちました。

頃合いを見計らうと、彼は言います。


「本船はこれより航路を北に取る。その後この二人にはさらに東のメィガ地方へと向かってもらう。護送はテルとヤナギに・・・グライダーを使え。主要航路は避けるように」


『了解』


二人の青年が頷きました。


「他の者にも、それぞれ働いてもらうことになる。その件に関しては、準備が整い次第追って通達する」


それから、沈黙が数秒だけ続きました。

誰も口を開きません。

その必要がないことを、理解していたからです。

しかし、たったひとりだけ・・・。


「待ってください」


声を上げたのは、セイムでした。

場の空気が一段歪み、葛野が後ろを振り向きます。


「なんだね、セイム君。発言を許可した覚えはないが」


こうなることをあらかじめ知っていた。そんな目でした。

一切目を逸らすことなく、セイムが前へと歩み出ます。

その場の誰かが、息を止めたのが分かりました。


「僕たちはどこにも行きません。僕たちは帰ります」


低く、それでいて揺るぎない口調でした。

嘲笑するかのような表情を伏せ、葛野はゆっくりと、セイムに向き直ります。


「君は正気かね?どこへ帰るというのかね。セイム君」


「あなたに自己紹介をした覚えはありません。気安く僕の名前を呼ばないでください」


少年の強硬な態度に、思わず、葛野は破顔します。


「おや、これは失敬・・・私は名乗ったがね」


葛野は、伏せていた顔をゆっくりと持ち上げました。


「それで」


藁の人形のように乾いたその顔は、尋常ではない覇気を帯びていました。


「どこへ帰るというのかね。セイム君」


脅しとも取れる態度でそう言います。

しかし、セイムは一歩も引かず、それどころか、さらに葛野に接近します。


「あなたには関係のないことです」


「関係ない・・・なるほど。確かに君の言う通りだ。君がどこで何をしようと私には関係ない。だがセイム君、君にとっての我々はどうだろうか。果たして関係ないと言えるのかね。君はもう、我らに加担した。立派な共犯者なのだよ」


セイムは口を開きかけて、結局、押し黙りました。

葛野は、ほんのわずかに顔を傾けて、悠々と両手を広げます。


「みたまえ。この通り、船は既に動き出した。君のお陰だ、セイム君。君が動かした。君が決断し、君が我々に協力したのだ。それでいて自分は無関係だと、自らが招いた結果から早々に降りようと言うのかね。これほどまでに、堂々と、立ち向かいもせずに。君には初めから私の要求を退けることもできたはずだ。それなのに、今更」


彼はゆっくりと一歩、横に移動します。

セイムの正面から外れ、あえて視界の隅に入る位置へ。


「君は無責任な男だな。セイム君。実に無責任だ」


今度は、あっと何かを言いかけて、セイムは一度、息を整えました。


「違います」


彼は絞り出すようにそう言いました。


「いいや違わない」

「違います」


・・・。


そんな不毛なやり取りが、何度か繰り返されました。

やがて双方の声は、苛立ちを募らせるように次第に早く、熱を帯びていきました。


「違います!」

「違わない!!」

「違います!!」


お互いに、一歩も譲りません。

やがて、葛野はひと際大きな声で、怒鳴りつけるように言いました。


「ではなぜドロシー君を取り返しに来なかった!彼女はずっと、君を待っていたんだぞ!」


ほんの一瞬、沈黙がその場を支配しました。

セイムははっとしました。その表情は怯えではありませんでした。

むしろ何かに気が付いてしまったかのような表情です。


そしてそれは、葛野も同様でした。


ただ、二人が明確に異なっていたのは、それを相手に悟らせてしまったか否かでした。


葛野は大きくため息を漏らしながら、さっと顎を引きました。

同時に、彼のわずかな心の機微は、瞬く間に過去へと消え去ります。

逸らした視線の奥で、彼は嘲笑を奏でます。


「まぁ、無理もない。彼女のような人物に見張られてはなぁ」


握り締めた拳がピクリと動きました。

それを葛野は見ています。


「そこにいる。ジゼル君のことだよ」


その場の空気が一気に冷え込むのが分かりました。

セイムは、慎重に言葉を選びます。


「ジゼルさんは何も悪くありません・・・ぼくは」

「怯えていたんだろう?セイム君。彼女は非常に強いものなぁ」


葛野はいったん言葉を切りました。

訪れた沈黙は、あたかも多くを物語っているように見えました。

口元が、にやり。

数秒待ってから、葛野が続けます。


「彼女の機嫌を損ねたらどうなるか?君はそれが怖かったんだ。なに、君は悪くない、君は過酷な環境に適応したまでのこと。悪いのは彼女のほうだよ。君だけにとってではない、彼女のような存在は必然的に、周辺の環境を歪めてしまう。我々全員にとっても・・・いいや、この世界からしても害悪でしかないのだから」


「ジゼルさんのことをそんな風に言うのはやめてください…」


「しかしなセイム君。私だって、何の根拠もなしにこんなことを言っているわけではないんだよ」


葛野は大きくため息をつきました。

伏せられていた視線が、ジゼルへと向けられます。

表情を凍り付かせたまま、ジゼルは何も言えません。ただ彼女は視線を下げ、唇を噛みました。


「君にも教えてやろう。いいや、むしろ知っておくべきだ」

「やめろ」

「ほう、ずいぶんと彼女を庇うじゃないか。彼女の存在を、重荷だと思ったことはないのかね?あるいは邪魔だと」

「あるわけないでしょう!」

「彼女はな、セイム君。教会の」


もはや、これ以上、言葉は何の意味も持ちませんでした。

セイムは、葛野の口元めがけて、拳を叩きつけました。

鈍い衝撃が、短く空気を震わせました。

彼は、葛野を殴ってしまったのです。


「・・・」


訪れた静寂の中に、船の振動と、荒い息遣いだけがしばらく聞こえていました。


 静止画のように止まった世界で、最初に動いたのは葛野でした。

若干のけぞった上半身を引き戻し、なにかを確信した表情で少年を見つめます。


「かつて、ジゼル君はなぁ」


少年の激しい息遣いと、鈍い衝撃音が断続的に響きました。

その僅かな合間を縫って、葛野の口から、ジゼルの過去が語られようとしていました。

セイムは、もう止まれませんでした。





「…!先輩!」


事態を静観していたクルーのひとり、テルが、深刻を極めてヤナギの顔を覗き込みます。

ヤナギは、冷めた視線で一点を見つめたまま。ただ一言。


「ほっとけ」


そう言いました。


また、同じ空間の、別の場所でも・・・。


「ねえ、ミズキ…?」


白く大きなふさふさを抱き寄せながら、ひそひそと、クーコがそう告げます。


けれど、ミズキもやはり。


「いいんじゃない?」


それだけでした。




 セイムの暴力は、葛野が完全に沈黙するまで続きました。

いつの間にか床に延びていた彼の体からは、もう、なにも発せられることはありません。

セイムは、そんな死体のような男の目を直視する事ができませんでした。


かっと見開いた目を伏せて、逃げるようにブリーフィングルームを後にしました。

その背中を、ジゼルは最後まで追いませんでした。




 駆り立てられた獣のように、セイムは時折四つん這いになりながら通路を進みました。

ドロシーを探す余裕など、今の彼にはありませんでした。

枝分かれした無数の通路は偶然にも、セイムを求めていた場所へと導きました。

外へとつながる重い扉をなんとか開けて、彼はウォンバットの外側に飛び出します。


冷たい湿気が、顔にまとわりつきました。

視界は白く霞み、辛うじて指先が見えるほどでした。


上下の感覚が曖昧になります。


頑丈な手すりが無ければ、彼は真っ逆さまに落ちていたに違いありません。

けれど、自らの身を案じる余裕すらも、今の彼にはありませんでした。


息を切らしたまま、船体に沿って緩やかなアーチを描く連絡通路を進みます。


余談ではありますが、この外部連絡通路は、ウォンバットにおける構造上の欠陥。そう呼ばれているそうです。


はるか上空を飛行する浮きシップには、障壁発生装置が組み込まれています。

いうならばこれは、低温、低酸素、降り注ぐ宇宙線、絶え間ない大気との衝突という、過酷な空の環境からプレイヤーたちを守るためのバリアです。


ですので、風はそれほど強くはありません。


よろめきながらもセイムは、アーチの頂点、ウォンバットの最後部へと、なんとかたどり着くことが出来ました。


 セイムは、手すりに両手をかけたまま、しばらく動けずにいました。


息が、うまく吸えません。

胸の奥が焼け付くように熱く、呼吸のたびに喉が鳴ります。


まるで、体の中に、どす黒い何かが満ちているかのようでした。


あまりにも不快に感じた彼は、いっそ胃の中身ごと、それを吐き出してしまいたくなりました。

しかし、彼はお腹を空かせていましたので、幸いにも、そうはなりませんでした。


せめて、呼吸だけでもと、吸って。吐く。吸って。吐く。ただそれだけを、なんとか繰り返しました。


 手のひらに伝わる金属の冷たさが、だんだんと、現実味を帯びてきました。

指先がずっと震えていたことに、彼は今更になって気が付き、手すりの上でそっと指先を重ねます。


その向こう側に、凄まじい速度で流れる、分厚い灰色の雲が見えました。


「・・・」


彼は何も言いません。

ただ彼は、ずいぶん遠くへ来てしまった。そう考えふけっておりました。


 やがて通路の向こうから、足音が近づいてきました。

だんだんと大きくなるそれは、若々しく健康的で迷いがなく、それでいて、必要以上に主張することはありませんでした。


それは、ここにいる誰かを、追い詰めないための足音でした。


その歩調は一定でしたが、最後の数歩だけ、ほんの少しだけ間が開きます。

ふさぎ込む少年に声をかける前の、ためらいでした。


「なぜ、僕がここにいるとわかったんです?」


流れる雲を眺めたまま、セイムが言いました。

靄の中から現れたのは、クルーの一人であるヤナギでした。


「お前こそ、なんで俺のお気に入りの場所を知ってんだよ」


灰色の短髪をわずかな風に揺らしながら、彼は少し照れたように笑います。

それから、両手に持った缶飲料をそっと前に出しました。


「どっちがいい?チーズミント味と、シーライム味」


セイムは何も答えられませんでしたが、ヤナギの気持ちはきちんと理解していました。

その証拠に、ほんの一瞬ではありましたが、彼の視線は、片方の缶飲料に向けられます。


「ほら」


ヤナギは一歩だけ近づいて、重ねられた手の甲に缶の底を押し当てます。

しかし、セイムはまだ、それを受け取ることができません。


「ほらって、落ちて誰かに当たったらどうすんだよ」


そう言われて、彼はようやくシーライム味を受け取りました。


「ありがとうございます」


元気のない声で、彼はお礼を述べました。


封の切られた容器から、ケミカルな香りが辺りに立ち込めます。

すぐにそれは、灰色の空に飲まれて消えてしまいました。


「腕、もう大丈夫そうだな」


それをどのように使っていたのかを見て、ヤナギがそう言ったのか。

考えるだけで、背中に寒気が走りました。

ほんの数秒間言葉を詰まらせて、セイムは左腕を気にしました。


「はい。時々痛むときはありますが」


「そうか」


「はい」


「悪かったな」


「いいえ。もう、過ぎたことですから」


「そうか」


それから二人は、しばし無言のまま、時折、容器を傾けました。




 やがて、ヤナギが口を開きます。


「寝る前に、キャプテンが一度顔を出せってよ。部屋は反対側の通路の先だ」


口調は命令ではなく、どちらかといえば頼み事のようでした。

足元の感覚が一瞬だけ遠のぎましたが、セイムはそれを断りません。


「わかりました」


低い声で答えます。


「じゃ、頼んだぜセイム。出発は明日の朝だ。こう見えて、この船けっこー速いんだぜ」


空き缶を半ば奪い取るように取り上げたヤナギは踵を返します。


「あ、そうだ」


もと来た通路を引き返す途中で、彼はわざとらしく、背後に視線を投げました。


「終わったら俺のとこに来いよ。お前の部屋と、船ん中案内してやっから。な!」


セイムは、照れくさそうに顔を伏せました。


「・・・はい」


「じゃあ、また後でな」


「はい」


再び、ヤナギは歩きはじめます。

それとほとんど同時に、ウォンバットは雲を抜けました。


足元に、月に照らされた広大な世界が広がります。

木など一本も生えていない、切り立った山々です。


真上からではわかりにくいですが、それらは、どれも8000メートル級を優に超える、とても大きなものでした。


「…おっと、へへ」


背後から、そんな小さな声が聞こえた気がしました。

セイムが振り返ると、そこにはジゼルが立っていました。


ヤナギとすれ違う形で、彼女はセイムに近づきます。

肩越しに、二人を茶化す仕草を見せるヤナギの姿など、彼女は知る由もありません。


「あの、お隣、よろしいでしょうか?セイムさん」


しおらしく、そう尋ねました。


セイムは記憶を巡らせます。

普段、どのように彼女と接していたのか咄嗟に思い出そうとして、結局思い出せないまま、彼は答えます。


「どうぞ」

「・・・」


静かに、そしてさりげなく、彼女はセイムの見ているものと、同じ景色が見える位置まで移動しました。


このときジゼルは、いかなる要求にも応じる準備が出来ていました。

慰めを求める言葉でも、過去を尋ねる言葉でも、なんでもです。


けれど、二人はそのまま黙っていました。


 灰色の雲海が、遥か彼方、地平線の向こう側に消えた頃。

ようやく、セイムは口を開きました。


「・・・どうしてですか」

「…ん」


そよ風にすら、簡単にかき消されてしまいそうなその声を、ジゼルは殆ど呼吸のみで聞き返します。


「どうしてですか、ジゼルさん・・・」


ぽつりと呟くように彼は言いなおしました。

明らかに不完全だった言葉の続きを、ジゼルは辛抱強く待ちました。

それは一秒にも満たないわずかな時間です。

続けてセイムは言いました。

いつにも増して気難しいその横顔を、ジゼルはそっと覗き込みます。


「どうして、あの人をやっつけようとしなかったんです?ジゼルさんなら、たぶん、出来たのに…」


優しい微笑みを讃えたまま、ジゼルの時が一瞬止まります。


「まあ!」


ジゼルは、どこか拍子抜けしたような声でそう答えました。

次の瞬間、彼女はぷいっと顔を背け、そのまま歩きだしてしまいます。

ただ一人、その場に取り残された形になったセイムは、思わずその背中を目で追ってしまいました。


「どこへ行ってしまうんです?」


弱弱しく尋ねましたが、ジゼルは振り向きもしませんでした。


「しらない!もう…セイムさんったら!」


そう言い残して、ジゼルは弧を描く通路の向こう側に消えていきました。

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