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外側へ、一歩。

 地下の研究所で、食い入るようにモニターを見つめる男の両目に、真っ白な長方形が映ります。

それはほかでもありません。現在の外の様子を映し出したものでした。

乾いた唇をぶるぶると震わせながら、男は感極まり両手を胸の前で握り締めました。


「ぃやった!・・・やったぞッ!!」


カタカタと、微細な振動を繰り返す機械の音に紛れて、そんな声が響きました。


「・・・上手に、出来たの?」


暗く、狭い空間の真ん中です。

その場に不釣り合いな位置にある太い柱から、かすれた声が聞こえました。

球状、あるいは、ひも状。曲線を持った角、その影にまみれて。そこにあった横顔が、ほんのわずかに持ち上がります。


「あっ!ああ!ああ・・・!すまないね。つい嬉しくなってしまって。昔から、悪い癖なんだ・・・本当さ」


「・・・」


足元のおびただしいケーブルを避けながら、男の影は、柱へと急ぎます。

目線を合わせるように身をかがめ、近くにあった飲み物を差し出しました。


「実験は成功したよ?全部君のお陰さ、ええと」


「・・・」


透明なストローの中を赤い液体が流れ、それはやがて、容器の中へと引き返していきました。

その間、男の目線はずっと斜め上を向いたまま停まっていました。

喉が潤うと、横顔はうつ向いたまま言います。


「ドロシー」


目線と共に止まっていた呼吸を再開した男は、溜まっていた空気を吐き出しました。


「そうだ、そうだった!君には名前があったね。本当にありがとうドロシー。全部君のお陰だよ」


身振り手振りを加えた優しい口調で言います。


「そうなんだ。良かった。役に立てて」


ほんのりと笑顔を浮かべたドロシーは、やがて憔悴したように続けます。


「ねえ、お願いがあるの。セイムに会いたい。それから、お外が見たいの」


男は再びピタリと動きを止めると、一転して神妙な面持ちになりました。


「ふむ」


薄暗い空間にすらりと影が延び、それは振り返ると数歩だけ歩き、再度振り返ると数歩だけ歩きました。

影は、その動作を何度か繰り返します。


「外の景色を見たいのなら少しも問題ない。多少の時間はかかってしまうだろうが、ここの装置を移動させるだけだから簡単さ。私しか知らない、飛び切りの場所に連れて行ってあげるよ?」


「ほんとう!?じゃぁ」

「しかし・・・」

「………」


男は、言葉を一旦切りました。

数歩だけ歩き、折り返し、そしてまた、数歩だけ歩きます。

しばらくしてから男は、両足をそろえて立ち止まりました。


「彼は、まだ取っておこうかと思っているんだが・・・」


何か言いたげに、ドロシーは唇を噛みました。

彼女のことですから、それはきっと、セイムを物のように言った男への抗議だったのかもしれません。

けれど、濁らせた言葉尻には、小さな希望が見え隠れしています。

辛抱強く、待つことにしました。


元々の計画の中に、新たなものが加わり、なおかつ、全体が破綻しないように組みなおす。

どうやら、この男にとって、それはさほど難しいことではなかったようです。

思案の末、男は、口元の皴を深めます。


「わかった。私がなんとかしてあげるよ」

「ほんと!?」


急に大きな声を出したせいでしょうか、ドロシーは咳き込みました。

男が再び、飲み物を差し出します。


「ああ、もちろん。ほかに何かあるかな?なんでも言ってくれて構わないよ?」


唇からストローを離し、ドロシーは急かされるように告げます。


「じゃぁ!街が見たい!セイムがずっと行きたがってた教会都市をセイムと一緒に見たい!」


この時、ドロシーは初めて男の顔を正面から捉えました。

それは、とても疲れていて、けれども優しく、なによりも親切そうな顔でした。

目元を細めたまま、彼はまるで、愛娘にそうするように首を縦に振りました。


「わかった。私に任せなさい」


旋律の低音をつかさどるような、その声はバリトンでした。


「やった。ありがと・・・」


やがて、ドロシーは深い眠りに落ちていきました。

それを見届けた男は机に向き直ると、白い紙にペン先を滑らせました。


『感謝祭計画書』


そう結んだ紙を封筒に入れて、彼は研究室を後にしました。




 部屋の空気が、わずかに揺れます。

セイムが戻ってきたことを、ジゼルは音ではなく、その変化で知りました。

ベッドの上で横になったまま、彼女は壁を見つめています。


頭上に残された淡い光の玉は、絶えず呼吸を繰り返すかのように、ゆっくりと明滅していました。

強くもならず、弱くもならず。安定したそれは、ゆっくりとほぐれながらも、ただそこに在りました。


足音が一つ、近づきます。

生木の床は、家鳴り一つ起こしませんでした。


ジゼルは、目を閉じませんでした。体を起こすこともしません。

ただ、指先だけが、手編みの寝具の上でわずかに動きます。


セイムの影が、光を横切ります。

光の玉が、その輪郭をぼんやりと縁取りました。


しばらくの沈黙の間、二人は聞きなれない真夜中の森の音を聞いていました。



 セイムは、足取りを誤魔化すことなく歩いて、ベッドの脇で立ち止まりました。


反対側の開けた空間に、彼の影が大きく延び、壁にゆっくりと揺れました。


ジゼルは、まだ壁を見ています。

瞬きの回数だけが、わずかに増えていました。


セイムは、しばらく迷うように手を浮かせ、それから、そっと、シーツの端を整えました。

慣れない手つきで、ほんの少し。

夜風が触れた程度の動きです。


その指先が、なにかを確かめるように、ジゼルの肩に触れました。

ただ、そこにいると伝えるための控え目な所作でした。


「ミズキさんたちは」


ジゼルの呼吸が、わずかに乱れます。

けれど、彼女は何も言いません。


その変化に気付いたのか、セイムはゆっくりと手を離しました。

すると、横たわる体が、ほんのわずかに沈みました。


「ミズキさんたちは、出発しました。ジゼルさんによろしく。と言っていました」


別れを惜しむような、あるいは、旅立ちを祝福するような。そんな声でした。


光の玉が、ほんの一瞬揺れました。


セイムは、その変化を見逃しませんでした。

けれど、これ以上、言葉を付け足すことはしませんでした。

彼は、ベッドの脇に立ったまま動かずにいます。

伸ばしかけた手は、行き場を失い、やがて、静かに降ろされました。


セイムから見えない場所で、ジゼルの指先がシーツの上で小さく丸まります。

力を込めたわけでも、震えたわけでもありません。

ただそれは、なにかの準備動作のような動きでした。

セイムは、なにかを言おうとして、やめました。

代わりに視線を落とし、背後の影の位置を少しだけずらします。


それが、この夜に許された、精一杯の配慮でした。


 しばらくして、ジゼルの唇がかすかに動きます。

はっきりとした声にはなりません。けれど、それは確かに言葉でした。


セイムは。部屋から出ていきました。


光の玉は、一定のリズムで揺らいでいました。

足音が遠のき、一切聞こえなくなったころ。彼女はようやく、ライトアップを解きました。





 朝の空気は、思っていたよりもずっと穏やかに部屋に満ちていきました。

木のすき間を縫うように、誰の事情も知らぬまま。けれど確かに、そこにある温度を伴って。


ジゼルは目を覚まします。


天井を一度だけ見て、両手を伸ばしました。

指先が、少しだけ冷たい空気を掴みます。


ふう、と息を吐いて、彼女は軽やかにベッドから飛び起きました。


床に足を下ろすと、一瞬ひやりとします。転ばないように、かかとに体重を乗せました。


部屋の隅に立てかけてある箒を手に取ります。

床に触れた箒の穂先が、さらりと小さな音を立てました。


さらり。


もう一度。


さらり。


ジゼルは、ほんの短く息を吸います。

温められた空気が、彼女の胸を満たしました。


「♪~」


音になりきらない、息の延長のような鼻歌でした。

旋律というほどもなくそれは曖昧で、昨日耳にしたものなのか、もっと前であったのか、彼女自身分かりません。

掃きながら、くるり。身体を回します。

箒を持ったままの、ほんの小さなステップです。


「・・・ん」


自分でも少し可笑しくて、ジゼルは口元を緩めました。

声は出しません。ただ、息だけが弾みます。


棚や入り口の周りに溜まった砂埃を集めながら、もう一度、鼻歌がこぼれました。


「♪~~」


今度は、ほんの少しだけ長く。それは続きました。

けれど途中で、鼻歌はふっと途切れます。

理由はありません。ただ彼女は、穂先を動かし続けました。


しばらくして、ジゼルは手を止めます。

木々のすき間から見えているお日様を、少しだけ眩しそうに仰ぎました。


「今日は」


言いかけて、言葉を選びなおします。


「なにをいたしましょう?」


答えを待つような沈黙は、長くは続きませんでした。

教室のチャイムのように、それは鳴り響きます。


『チー…ピピピピッ…!』


「あら」


すっかり大きくなった小鳥たちが、一羽、二羽、三羽。この日も餌をねだりにやってきます。

壁に箒を立てかけて、彼女は、エプロンに手を伸ばしました。


「はいはい。今、用意しますから。まったく困った子たちですね、あなたたちは」


台所へと向かうジゼルの背後で、集った小鳥たちは早速小競り合いを始めます。

棚から二枚、お皿を出して、ジゼルは朝食の準備に取り掛かりました。




・・・じゅう。じゅう。


「♪~」


・・・じゅう。じゅう。


「♪~」


 湯気の向こうで、また鼻歌がこぼれました。

この日の朝食は、モチモチの根のパンケーキ。生地が焼ける音と、甘い香りが部屋に満ちていきます。

一緒に沸かしたお湯で、自家製のハーブティーも用意しました。


手際よく用意したはずなのに、小鳥たちはまるで『早くして!』そう言わんばかりに、賑やかに囀ります。

けれど、ジゼルは急ぎません。

冷ました分を差し出すと、元気に啄む姿を眺めました。


パンケーキが、焼き上がりの半分くらいの大きさになった頃、ジゼルは食卓につきました。

程よく冷めたハーブティーが香ります。

一口すすり、一度だけ喉を鳴らしました。

それから彼女は、ふっくらと上手に焼けたパンケーキに少しだけ蜂蜜を乗せて、じっくりと、行儀よく口に運びました。


 二口ほど食べた頃です。ふと、蜂蜜の瓶の蓋にうっすらと付いた汚れが目に留まりました。

どうやらそれは、汚れたままの手で瓶を開けた際についたもののようです。

ジゼルは恐る恐る、その汚れに指を重ねてみます。

するとそれは、彼女の手よりも大きく、少しだけはみ出して見えました。


「セイムさん…」


ぽつりと呟いてしまった瞬間、音は聞こえなくなりました。

十分に時間をかけて、ジゼルは心をしずめます。


世界が、再び音に満ちあふれるころ、ジゼルは慎重に瓶のふたを閉め、棚の奥へとしまいました。




 ジゼルは、足早に森を進んでいました。

通るルートは既に決まっていて、地面は均されていました。

果物を拾い、水を汲み、キノコを採り、薪を探す。

この日は、その途中で偶然発見した『森メェメ』の『ふかふか毛』も手に入れることができました。

魚は釣りません。なぜなら、ジゼルは魚に触れないからです。


あっという間に時間が過ぎて、ジゼルは家へと戻ります。

黄昏色に染まった木々のすき間から、湖と、大きな木の根元にあるシェルターと、この日集めた物資の山が見えてきました。

抱えた薪を胸の前で持ち直し、彼女は一度立ち止まります。

森は静かで、気の早い秋の虫が一匹だけどこかで鳴いていました。


小さな屋根の下。薪置き場です。

拾ってきた薪を一つづつ重ねました。

それから、息を殺して、階段を上ります。

視線が入り口と同じ高さになると、彼女はそっと、部屋の内部を覗き込みました。


肩を落としたまま、入り口をくぐります。

一日の探索は、こうして終わりを迎えました。




 ジゼルは椅子の後ろに立っていました。

どれほどの時をそうしていたのかを知る者は誰一人としておりません。

背もたれに手を掛けて、彼女はただ立っていました。

何気なく、背もたれを引きました。

椅子の足が床とこすれて音を立てました。


今度は、背もたれを押しました。

椅子は、さっきとは少しだけ異なる音を立てました。


次に彼女は、棚へと向かいます。


重ねられた食器をすべて取り出すと、テーブルに広げます。

並べきれなかったものは、そのまま重ねた状態でテーブルに置きました。


そっと椅子に腰をおろし、すぐに立ち上がります。


辺りは、信じられないほど静かでした。


ジゼルは箒の柄を掴みます。


掃く必要など、ありません。


それでも。


さらり。さらり。


黙ったまま、床を掃きはじめます。

穂先が床を掻く音が、次第に強くなりました。

爪が柄に食い込むほど強く、握ります。

ことさら乱暴に、床を一度掃きました。


部屋は、何も変わっていません。

今朝掃除したままの姿で、塵一つ、舞い上がりませんでした。


「…こんなもの」


そう呟いて、ジゼルは、思い切り箒を叩きつけました。

箒の柄は、あっけなく折れてしまいます。


「・・・」


次に彼女は、椅子の背もたれを掴みます。

椅子がふわりと持ち上がって、次の瞬間、それはテーブルに叩きつけられました。


「…こんなもの…!こんなものっ…!!!」


最初の一撃で、椅子は壊れてしまいます。

並べられた食器も、それぞれが割れたり。部屋中に弾け飛びました。


喉が渇きます。


床の上で揺れるお皿が、まだ小さな音を立てていました。


「・・・っ!」


椅子の一部を握ったまま、ジゼルは外に出ました。

真っすぐに薪置き場へとやってきて、小さな屋根を叩き壊します。

次は製作途中だった小鳥の巣です。三つあるそれらをそれぞれ一撃で壊してしまいました。

次は扉になるはずだったもの、その次は、沐浴の際に用いるための水切り場です。

それぞれが、いとも容易く壊れてしまいました。

至る所に身をひそめていた動物たちが、森の奥へと逃げ出します。

暴力が他者を遠ざけると知った上での行いでした。


顔を押さえて、ジゼルは膝から崩れ落ちました。

息は、まだ乱れていました。

それが整う前に、再び階段を上がります。


部屋の中を足早に移動して、自分のベッドのちょうど反対側にあるもう一つのベッドを見下ろしました。


「…こんなもの」


振り上げた背もたれは、見る影もなく小さくなっていました。

握り締めたそれに視線を落とし、テーブルにそっと置きました。


 ベッドの一部に手を掛けます。

脚の一つが、簡単に床から離れました。

十分に乾燥した木のきしむ音が、途中で止まります。

ジゼルは、そのままの姿勢で、しばらく動きませんでした。


胸の奥が、まだ熱を帯びていました。


ゆっくりと、脚を戻します。

ベッドは、何事もなかったかのように、元の形を保ちました。


部屋の中は、静まり返っていました。

壊れた椅子も、割れた皿も、折れた箒も、すべてが、形を変えたままの姿で、彼女の足元に転がっています。


なのに。


もう一つのベッドだけが、きちんと整えられたまま、そこにありました。

マットもシーツも枕も。毛布すらも、雑草をまとめて拵えられた粗悪なものでした。

ジゼルは、一歩だけ近づきます。

座り込み、シーツの端にそっと触れました。

指先に、ちくちくとした感触を覚えます。


両足に一瞬だけ力を込めて、乱暴に身体を倒します。

音と一緒に巻き上げられた空気が、彼女の小さな胸を満たしました。

すると見慣れたはずの風景が、まるで違うもののように思えました。

空間になにか、音を足そうとして、結局、何も言いません。

ただ、雨が降っていなかったことが。彼女をより悲しませるのでした。




 虚ろな瞳をそっと閉じ、枕に顔を埋めます。

顔に、特に目元に、鋭い痛みが走りました。


「・・・」


それでも構わず、ジゼルは、枕の上で顔を左右に振りました。

涙と息をすり込むように、ゆっくりと彼女は顔を振りました。

すると植物の繊維のせいです。身体の奥から、段々と痒みが湧き上がってきました。


少しだけ悩みましたが、ジゼルは、掻いてしまおうと思いました。

火照った肌にそっと、指先を伸ばします。


と、その時です。


「・・・ジゼルさん?」


セイムが帰ってきました。


「へっ・・・!?はぇっ!?セ・・・!セイムさん!?」


その声は、裏返ってしまいました。

突然の出来事に、ジゼルは慌てて姿勢を正します。


「これは・・・ちがうのですっ!」


いったい、なにが違うと言うのでしょうか。

ジゼル本人も、わかりかねておりました。


背中が壁に触れるまで後ずさり、草の毛布を掴んで、首から下を隠します。


「ちがうのですよぉ・・・」


顔を真っ赤にして、ジゼルはそう言いました。

セイムは、入り口で立ったまま少しだけ気まずそうにしています。

床には割れた食器が散乱し、ばらばらになった椅子の残骸が転がっていましたが、彼は、そういった場に慣れているかのように、そっと視線を落とします。


「入っても。いいですか?」

「・・・どうぞ」


ジゼルは、今にも消えてしまいそうな声で答えました。

セイムは、小さく頷きました。


それから一歩だけ、部屋の中に足を踏み入れます。

つま先が、割れたお皿に触れてかすかな音を立てました。


ジゼルの肩が、びくりと動きます。

セイムはその音に気付いたようでしたが、何も言いませんでした。


床に散らばった破片をことさら避けるでもなく、また、わざとらしく踏みつけることも無く、まるで、はじめからそこにあったかのように、彼はテーブルまで歩きました。


椅子に置かれたリュックが、遠慮がちな音を立てます。


「片づけますね」


それは、問いではありませんでした。

ジゼルは、ベッドの上で草の毛布を握り締めたまま、出かけた言葉を喉の奥で再構築しました。


身体を縮めて、口元を隠します。


「セイムさんの。せいなんだから…」


ぼそぼそと口に含みます。


どこまで記憶を遡ったのか、セイムは一瞬だけ手を止めて、口元を緩めます。

それが、形を変えた降参の言葉だということを、彼は知っていたのでした。


 


 マグカップを両手で持って、ジゼルはベッドの上で膝を抱えておりました。

細かい傷の付いたカップは金属で、ベッドは柔らかく、上質な寝具がセットされています。

向かいのベッドに座るセイムは、しばらくの間、床に視線を落としていました。


「別れ際に、ココアを頂きました。僕だけに渡したものじゃ・・・ないと思って」


落ち着いた声が、灯されたランプの光の中を漂いました。

カップの縁に視線を落とし、ジゼルはそっと息を吹きかけます。

湯気が悶えて、甘い香りが漂います。

かたく噤んだ口の中で、自然と舌が動きました。唇に熱を覚えてから数秒後、カップをそっと傾けます。


ほろ苦い風味が舌の上に広がると、彼女は思わず喉の奥を鳴らしました。


「とっても美味しい・・・セイムさんは?」


「僕ですか?」


『あ・・・』


不意に、視線が交わりました。

お互いが、気まずそうに目を逸らします。


沈黙の中で、ジゼルはわざとらしくココアを飲みました。

それを見て、セイムは口を開きました。


「僕は良いんです。眠れなくなってしまいますから」


「・・・そうですか」


それきり、言葉は続きませんでした。


やがて、外で音がします。

最初は、葉っぱからなにかが落ちたような、低い一つの音でした。


段々とそれは、途切れなくなりました。

湖面を揺らす音。

木の幹を打つ音。

地面に足跡を残す、夏の雨の音です。


会話の合間を埋めるようにして、雨音が中へと流れ込んできました。


ランプの灯りが、わずかに揺れます。


なにかを告げようとしたジゼルは、結局何も告げられずにココアを見つめます。


立ち上がったセイムが、テーブルへと向かいました。

ランプを手に取ると、側面のつまみを巻きました。

オレンジ色の光がわずかに浮き上がります。


二人にとってその光は、一日の終わりを告げる光でした。


雨音に紛れて、ランプの底が優しい音を立てました。

ジゼルはそれを眺めています。


「おやすみなさい。ジゼルさん」


それ以上の言葉も、お休みのキスも、今のジゼルは求めませんでした。

ただ微笑むと頷きます。


セイムは、ベッドへと戻ります。

植物の繊維をまとめて作られた、粗悪なベッドです。


彼はこの時、ようやく気が付きました。


部屋の入口に寄りかかるようにして、ずぶ濡れの男が立っていたのです。









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