結婚式の夜にあったこと。
世界のどこか、森の大きな樹の下で、若い二人の男女が、新たな門出を迎えようとしていました。
大樹の根は、まるでこの日のために拵えられた祭壇のように地面を押し上げ、二人をそっと抱きかかています。
鳥たちは声を潜め、風もまた、息をひそめていました。ただ、夏の日差しを浴びる青々とした葉がこすれ合う音だけが、祝福の拍手のように柔らかく響いています。
ジゼルは、森で摘んだ白い花を髪に挿していました。
少し緊張したようにうつむきながら、彼女は指先で花びらを整えます。
セイムは、普段のように穏やかに微笑みながら、その様子を眺めていました。
斜めに差し込む温かな陽光の中に、彼は居ます。
「ジゼルさん、きれいです。とても」
穏やかに、しかし確かに、彼はそう言います。
瞳は、朝露を溜めた葉と、木漏れ日の中で、まるで万華鏡のように豊かな光を放っています。
吸い込まれてしまいそうな瞳にジゼルは赤面し、ただただ言葉を失いました。
胸の鼓動が爪の先まで届いて、それは彼女に、今この瞬間、生まれてきた意味を説いているかのようでした。
二人はこの日、夫婦となります。
「・・・セイム。・・・・セイム」
今日も、あなたと一緒に居られますように。
当初の予定では、そう告げるはずでした。
しかし、思うように言葉が出てこないジゼルは、かすれた声で、彼の名を繰り返します。
セイムは、かすかに笑み深めると、そんな彼女に代わって穏やかに告げました。
「今日も、あなたと一緒に居られますように」
なんて、なんてなんて、優しい人なのだろうか。
そう思うと同時に、胸の鼓動が、よりいっそう高まりました。
セイムが、そっと両手を差し出しました。
その手には、森の奥で拾った小さな花々の鮮やかな冠が握られています。
ジゼルは思わず息を呑み、震える指先でそれを受け取りました。
「ジゼルさん。僕にとって、貴方は・・・」
言葉が、少し途切れます。
森の風が彼の髪を揺らし、それは何かを急かすように、二人の間を通り抜けていきました。
あるいはそれは、ジゼルの無意識に、世界が答えてくれたのかもしれません。
セイムは真っすぐにジゼルを見つめていました。
その視線から、ジゼルはすぐにでも身を隠してしまいたいと思います。けれど、それが叶わなかったのは他でも無く、もう一方に、その感情と同等か、またはそれ以上の想いが確かに存在していたからです。
繰り返し逸らした視線を、ようやくセイムへと向けました。
するとセイムは、ジゼルが思っていた通り、優しく微笑んでおりました。
彼は言い聞かせるように穏やかな口調で、ゆっくりと告げました。
「あなたは、僕の理想のお嫁さんです。僕と結婚してください」
これまでに経験したことのない喜びが、彼女の胸を貫きました。
思わず息を呑み、それから彼女は小さく頷いて、静かに顔を持ち上げます。
瞳から今にも溢れだしそうな涙が、スカイワールドの素晴らしい朝を映しておりました。
「はい、セイムさん。こんなわたしで…よろしければ…」
息も絶え絶えに、彼女はそう告げました。
すると、セイムは静かに、微笑みを深めます。
二人の間には、指輪も、聖句も、証人もありません。
世界を駆け巡る風と、朝露の向こうで、逆さまに揺れる景色だけが、その姿を粛々と見守っていました。
「ジゼルさん」
呼びかけは風に溶け、葉の間を通り抜けていきます。
ざわざわ。ざわざわ。森の木々たちが二人のためだけに、福音を奏でます。
ジゼルは胸の奥で何かが弾けるのを感じました。
次第に、脈は速く。呼吸は浅くなります。
それでも、目を逸らすことはできませんでした。
「・・・セイム」
その名を口にした瞬間、森の色が全て、やさしい白に変わった気がしました。
ジゼルは、これから先のすべてをセイムにゆだねるように、ゆっくりと瞳を閉じました。
セイムはそっと彼女の肩に手を添えます。
何も見えない闇の中で、掌のぬくもりだけが、じんわりと肌を伝って体中を駆け巡り、やがてそれは心臓へと届きました。
そして、ほんの一歩だけ、二人の距離は縮まりました。
唇の感触をおぼえた。
たった、それだけのことでした。
けれど世界は、その一瞬で息をするのを止めました。
風は流れず、鳥は鳴かず、木々の影は動きを忘れてしまったようでした。
時間でさえも、音のない帳の中にありました。
ジゼルは目を閉じたまま、心臓が胸から飛び出してしまいそうになるのを感じました。
どくん、どくんと脈打つたびに、彼女の世界の輪郭は薄れていきます。
苦しい。
けれど、幸せ。
けれど、けれど…。
数えきれない沢山の思いが、一筋の涙とともに頬を伝います。
そして次の瞬間、糸が切れたように、彼女の体がふっと力を失いました。
「ジゼルさん・・・?」
セイムの腕がすぐに彼女を受け止めました。
倒れた拍子に散った花びらが、ゆっくりと土の上に舞い降ります。
ぐったりとうつむくその表情は血の気を失い、この上なく悲しげでした。
「・・・ごめんなさい。・・・ごめんなさい」
ジゼルは、うわごとのようにそう繰り返します。
「・・・」
彼女に何があったのか、セイムは何も知りません。ただ彼は、涙の跡をそっと撫で、支えを失った体を膝に横たえます。
「泣かないでジゼルさん。大丈夫。大丈夫ですから」
ほんのわずかに、ジゼルの表情に安堵の色が現れます。少なくともセイムは、この時も、そう思いたかったのです。
ジゼルを抱えたまま、セイムはしばらく動けませんでした。
彼女の細い肩はまだ震えていて、浅い呼吸が胸の奥で微かに続いています。
森は既に、夕暮れの色へと沈み始めていました。
木々の間からこぼれる光は金色で、今この瞬間も、ゆっくりと夜へと溶けていきます。
静かな吐息だけが、二人の世界を満たしていました。
やがてセイムは、そっと彼女を抱きかかえました。
まるで壊れやすいものを扱うように、慎重に、慎重に。
決して、力に優れない彼にそれができたのは、SWEの数多き謎の一つです。この世界で男性は、誰でもそうできたのです。
彼は二人の暮らす小さな家、木の根元にぽっかりと開いた、温かい隠れ家へと歩き始めます。
中には、森の木々から削りだした、質素でありながらも大切な家具の数々が、必要な場所に適切に配置されています。
足元には、先ほど散らばった色とりどりの花びらが残っていました。
それを踏まないように、セイムは何度も足の向きを変えました。
夕暮れの光はやがて薄れ、森に、夜のとばりが静寂と共に降りてきます。
闇は冷たくなく、むしろ、二人をそっと包み込む毛布のようでした。
ジゼルを寝台にそっとおろし、慣れた手つきで、セイムは枕元のランプを手に取りました。
やがて、小さな世界の中で産まれたばかりの、淡い光がゆらゆらと揺れました。
その光が、ジゼルの横顔を照らします。
「・・・ジゼルさん」
返事はありません。
けれど彼女の呼吸は安らかで、胸は静かに上下していました。
セイムは、彼女の頬に触れました。
温かい。彼はそう感じます。
たったそれだけで、胸の奥に深い安心が流れ込みました。
「ゆっくり休んでください。大丈夫ですから」
自分に言い聞かせるように、彼はもう一度繰り返しました。
外では、夜風が葉を揺らし、遠くで、夜行性の鳥が小さく鳴いていました。
世界は静かでした。
この森には誰もいません。
二人を見つけられるものもいません。
ただ、彼とジゼルだけが居て・・・・・・。
セイムは、すっと立ち上がり、食卓の向こう側、ジゼルのものよりもずっと仕上げの荒いベッドに身を預けます。
枕も、そして毛布も、彼のものは、植物の繊維を絡めただけの、大変に粗末なものでした。しかし、彼はそれで十分だったのです。
視線だけを横に向けると、繊維の先がチクチクと頬を突きました。柔らかなランプの光の中で、ジゼルが眠っています。
小さな寝息が、時々ランプの光を揺らすように見えました。
セイムはしばらく、その光景を見つめていました。
まるで、目を逸らした瞬間に彼女が消えてしまうのではないか。
眠りに着き、次に目覚めた時には街のゲームセンターで、すべてがまるで夢であったかのように、何の前触れもなく、現実の世界に戻されてしまうのではないか。と、そんな不安に駆られます。
かと言って、森の外に広がるもう一方の現実も、決して優しいとも思えませんでした。
ジゼルの過去も、自分の探すべき未来も、それを求めるということは結局、誰かの傷ばかりを増やすもののように思えてしまいます。
・・・けれど、今だけは。
全ては、夜の静寂が包み隠してくれていました。
やがて、セイムのまぶたがだんだんと重くなりはじめます。
それは眠気と言うよりも、動きを止めた心が、体一つ分の小さな安心にようやくたどり着いて、そこにゆっくりと沈んでいくような。そんな感覚でした。
「おやすみなさい、ジゼルさん」
ランプの光が、しゅう、と、小さな音を立てました。
低く、やさしい声が一度だけ闇に溶けていきました。
世界は、時代と言う名のページをめくり続けます。
誰もそれを止めることなど、決して出来はしないのです。
その夜、とあるプレイヤーの野望が、実験と言う名のもとに、世界の理のひとつを覆しました。
ドーンソリア大陸の北西に位置する森は、奇妙な静けさの中にありました。
真夜中に突如として現れた昼。その違和感に、森全体が呼吸すらも忘れてしまった。そんな静寂でした。
それを、いったい誰が気づかずにいられるでしょうか。
食卓の下、棚の隅まで照らし出す鋭い光は、まるで誰かの悲鳴のように、セイムの意識を叩き起こしました。
ベッドから飛び起きた彼は、外の様子を確認するために小さな家の出口へと急ぎます。
頬に触れる大気は生暖かく、微細な振動を絶えず繰り返しているようでした。
光の反射によって、真っ白になった湖面が、彼の目に飛び込みます。
一か所に固まった水鳥たちが、黒い染みのようにも見えました。
転がるように階段を下った彼は、空の彼方に延びる、強烈な光の柱を目の当たりにしました。
木々のすき間からでもはっきりと見えていたそれは、雷のようでも、また、炎のようでも無く、ただひたすらに上へ、真っすぐに延びています。
「あれは・・・?!」
全身の細胞が、ひとつ残らずざわつきます。
彼の脳裏に浮かんだのは、ほかの誰でもない、ドロシーのことでした。
もっと、光の良く見える場所、近くの丘へと、彼は思わず駆け出そうとします。
その瞬間、背後から柔らかい指先がそっと彼の袖をつまみました。
それは布を持ち上げるばかりの、ほんの、わずかな力でした。
けれどそれは、走り出そうとした全身の勢いを、不思議と止めてしまうほどの確かな気配を放ちます。
振り返ると、そこにはジゼルが立っていました。
眠りから覚めたばかりのその顔は、一見すると健やかで、若い娘の快活さを、きめの細かい頬などに宿しておりました。けれど、両の瞳だけは違っていました。
真夜中に突如として現れた白昼の中で、淡いアイスブルーの瞳だけが、色を塗り替えたように強張っていたのです。
二人の影は、大地深くに根を張る森の木々の影と、しばらくの間、重なっていました。
やがてジゼルが、小さく首を振ります。
「・・・だめ」
吐息ような声で、彼女はそう言いました。
震えているのは、手でなく、むしろ声の方でした。
何度も何度も目を逸らしながら、ジゼルは必死に言葉をつなぎました。
「セイム。お願いです。行かないで。来てください。どうか、わたしのところに・・・」
続けて、口から溢れそうになる言葉を、ジゼルは一度呑みこみました。
袖をつまむ指先に、かすかな覚悟が込められます。
「それで、いたしましょ・・・?その。夫婦の、続きを」
そう告げたあと、ジゼルはまるで、自分の口からこぼれた言葉に怯えたように小さく息を呑みました。
必死に絞り出したであろうその声に、セイムははっとします。
しかしそれを知るだけの余裕は、いまのジゼルにはありませんでした。
彼女がセイムの顔をきちんととらえた時、そこにあったのは、いつもの穏やかな表情でした。
緩やかに弧を描いた唇からは、小さくて、白い歯が覗いています。
真っ黒な頭髪は、風もないのにふさふさと静かに揺れていて、とても柔らかそうに見えました。
不思議とジゼルは、胸が張り裂けてしまうような感覚に襲われます。
いつもであれば、その顔を見ただけで、その声を聞いただけで、心から安心できていたのに。
いつもであれば・・・。
「おはようございますジゼルさん。勝手に抜け出したりしてごめんなさい。さ、帰りましょう」
彼女は逃げるように、セイムの胸に飛び込みました。
彼の体は小さく、ジゼルはいっぱいに身を縮ませる必要がありました。
それはさながら、手足の延びた子供が、ゆりかごに戻ろうとするような、極めて不自然な光景でした。
セイムはゆっくりと、背中に手を回しました。
ぬくもりは、もはや熱いくらいに、全身を包み込みました。
それでようやく、彼女はまた安心します。自然とまぶたも重くなりました。
もう一度気を失って、少し前からやり直してしまおう。そうすればきっと、なにもなかったかのように全てが元通りになるのだから。
そんな企みが、明晰な頭脳の片隅で音もたてずに燻ります。
身も焦げるような熱の中で、涙が人知れず、肌を滑り落ちていきました。
やがて、スカイワールド全土を揺るがす衝撃が、この森にも届きます。
枝が一斉に軋み、大地を滑るような風がこうこうと鳴ったのです。
身を寄せ合う二人の姿は、まるで開いた絵本の一ページのようでした。
ざわざわ、ざわざわ。
ようやく世界の異常に気付いたように、森が一斉に騒ぎ始めます。
ざわざわ、ざわざわ・・・どさり。
なにかが、二人から少しだけ離れた草むらに、落ちてきました。
月光を散らすような毛並みが、着地の衝撃でたなびきます。
ゆるりと持ち上がるのは、太く、大きなしっぽです。
「ジゼルさん・・・ジゼルさん・・・!」
真っ白な靄の中に浮かぶ緑色の瞳に視線を合わせながら、セイムは声を低くして言いました。
「ん・・・セイム?」
瞳をとろんとさせて、ジゼルは甘えた声を出します。
森がどれほどざわめき、枝が折れ、大気が唸ろうとも、その揺れは、彼女にはまだ届いていないようでした。
心地良いひと時を邪魔する人物に、世界でもっともやさしく抗議するかのように顔を持ち上げます。
「どうしたのです?」
するとそこには、いつになく深刻そうな少年の顔がありました。
ようやくジゼルは、柔らかい夢から覚めてセイムが見つめる一点に顔を向けます。
すると、その先に居たのは、白く、巨大な猫でした。
思わずジゼルは、短い悲鳴を上げてしまいます。
「しっ。ジゼルさん。静かに」
「・・・」
背中に回された両腕にわずかな力が込められました。
締め付けられた分、行き場を失った血液が、ジゼルの頬を薄紅色に染め上げます。
猫は、二人を正面に据えたまま、ゆらりと前足を出しました。
動きはしなやかで、それに驚くほどに静かです。
咄嗟に、ジゼルをかばうようにしてセイムが両手を広げます。
しかしジゼルは、見慣れない生き物に対する恐怖よりも、急に肌寒くなってしまったことに、不満を感じていました。
太く、長い尻尾で空気をこねながら、猫はさらに、二人へと接近します。
中央に、針のような隙間の空いた緑の瞳を少しも逸らすことなく、肩を張り、音もなく。二人へと近づきました。
一歩、また一歩。
驚くべきはその大きさでした。
若干腰を落としていたとはいえ、それはセイムの頭がちょうど顎の下あたりに来るほどです。
猫は、セイムの頭のてっぺんの匂いを何度か嗅いで、それから、覗き込むように目線を合わせます。
かすかに触れる鼻先は、冷たく湿っておりました。
「・・・!」
彼は、反射的に顔を背けましたが、両足は梃子でも動かぬ構えです。
猫は、セイムの横顔をじっと見つめたまま、その場にしゃがみ込むように腰を落としました。
大きな体が沈むと、草むらがさざめいて波紋のように揺れます。
その音だけでも、森のざわめきに混じって妙に目立つほどでした。
揺れる尻尾は、まるで品定めでもするかのようでした。
間もなくして、猫はセイムの頬をべろりと舐めました。
無数の棘で刺されるような感覚は、忘れかけていた痛みです。
「あっ・・・!!ジゼルさん・・・大丈夫。大丈夫ですから」
セイムが必死にそう告げます。
彼の肩越しに、緑色の瞳と、アイスブルーの瞳が合いました。
その瞳の奥にあるのは、敵意ではなく、どこかいたずらな好意でした。
知性がある。彼女は直感的にそう感じます。
―――あちらをご覧ください。
まるでそう口にするかのように、猫は少しだけ身を躱して振り返りました。
すると地面に、なんとも可愛らしい女の子が、へたりと座り込んでおりました。
視線に気付くと、少女は不思議そうに小首をかしげます。
見るからに頼りなく、控え目で、思わず助けてあげたくなってしまう。そんな少女です。
ジゼルの顔から、さっと血の気が引きました。
「いけません!セイム!」
「え」
彼女は、半ば反射的にセイムの体を後ろへ向けました。
結婚式からまだ一日も経っていませんでしたが、ジゼルは早くも妻としての使命感に駆られていたのかもしれません。
妻。
その甘いワードが、ジゼルの思考を鈍らせます。
もっとも、危険を避けて進んだ道の先に、同様の罠が仕掛けられているなどと、その様な悪意を、いったい誰が考えたでしょう。
反対側に向き直ったセイムは、思わず目を見開きます。
「ジ・・・ジゼルさん・・・あれ」
「へ?」
二人の隠れ家の入口です。
そこにも、もう一人、なんとも可愛らしい少女が立っていたのです。
巨大な猫のことなどすっかり忘れて、ジゼルはぽかんと口を開けました。
猫は、依然としてどっしりと腰を下ろし、ふさふさの前足で、気持ちよさそうに顔を洗っておりました。
二人の視線に気が付いた少女は、大きく上げた片手を振り回して闊達に笑います。
その手には、棚の奥に大事にしまっておいたはずの、美味しい蜂蜜を溜めた容器が握られておりました。
「な・・・!」
ジゼルは、悲鳴にも似た声を上げかけます。
しかし、その少女の素早いこと、疾風のごとしです。
真夜中に現れた昼すら霞むほどの明るさで、彼女は言いました。
「ねーねー!これ貰ってもいい?あたしクーコ!」
二人が出会った人物、それはなんと、クーコでありました。
弾むような声と共に、クーコは蜂蜜の容器を掲げます。
陽光の化身のような笑顔、遠慮という言葉を辞書から消し去ったような勢い。
森のざわめきよりも騒がしい自己紹介です。
しかし不思議なことに、クーコは二人にとって、どこか救いのように明るい存在感を放っておりました。
いつの世も、そしていつの時代も。
時として、別の地平にいた者どうしが、まるで引き寄せられるように出会うことがあります。
無限に積み重なる偶然という名の強い力が、やがて、それぞれの物語を紡いでいくのです。
二人の新婚の夜は、思いがけない三つの訪問者によって、静かに、そしてにぎやかに塗り替えられようとしていました。
自分より一回り程若い娘にすっかり先手を打たれてしまったジゼルは、このような時、いったいどうしたらいいのかわかりません。
要求に応じて、蜂蜜を渡してしまえば、やがてエスカレートした要求の全てを受け入れることになりかねません。
かと言って、偶然出会った旅人に、たかが蜂蜜の瓶ひとつ、分け与えることもできない妻の、なんと狭量なことでしょうか。
そもそも、彼女はいったい何なのか?
むしろその一点にこそ、ジゼルの関心はありました。
彼女はわなわなと肩を震わせながら、まるで大切なおもちゃを取られた幼い子供のようにぐずります。
セイムに振り返り、何度も、何度も、必死に何かを訴えながら、背後の少女を指さします。
「んー!んー!!んん!!」
そんなジゼルの言葉にならない想いを、セイムはきちんと理解してくれたようです。
勝手に家へと上がり込み、あまつさえ、わざわざ棚の奥にしまっておいた蜂蜜を要求する無礼な客人に対しても、彼は礼節をもって応えます。
「僕はセイムと言います。それはあげられません。ごめんなさいクーコさん」
「えー!けちぃー!」
幸いにも、対話は成立したようです。
クーコはとても残念そうにしましたが、蜂蜜の容器を元の場所へ戻すためでしょうか、小さな家の中へと戻っていきました。
ジゼルはほっと一安心します。
くわえて、突然現れた略奪者の野望を見事に打ち砕いたセイムに、とても満足しました。
それが、ことさら若く可愛らしい少女だったものですから、喜びもひとしおです。
両目を輝かせて、大げさにセイムを褒めたたえます。
「やりましたね!セイムさんっ!」
「え?なにをです?」
「危機を一つ、乗り越えました!私たち!」
彼女は大仰に胸を張りました。
その間も、猫は・・・もっとも、この巨大な猫は、スレイブと化したミズキでありましたが。
自らは何の関係もないよと言わんばかりに、依然として顔を洗い続けておりました。
手ぶらになったクーコが再び現れて、空の彼方を指さします。
「それにしても、あれ!なんだろ?どーんって光ってるやつ!」
光の衝撃で木から落ちてしまったカゼハもようやく立ち上がり、クーコが指さした方向へそっと顔を向けました。
カゼハは、ぽつりと呟きます。
「世界の、終末・・・?なのかな?」
双子の距離は、会話をするにはずいぶん離れていましたが、どうやら支障はないようです。
クーコがけらけらと笑います。
「また始まった!へーきへーき!カゼハは心配しすぎぃ!」
その場の緊張がわずかにほぐれて、カゼハは控え目に微笑みます。
「ふふ、そうだね、私の考えが正しかったら、きっと世界は、千回も一万回も終末を迎えちゃうもんね?」
「そーそ!」
「心配したらお腹すいちゃったな。折角だから今日は、ここでしちゃう?キャンプ」
「賛成―!」
そのように軽快で、身勝手で、ごく自然に繰り広げられるやり取りを、二人はただ眺めておりました。
他者のライフスペースを堂々と侵す提案と、その即時可決はむしろ、未知の夜を迎えた二人をほっとさせました。
ようやくジゼルは、空の彼方に延びる光の柱を直視します。
暗くなりつつあるそれは、ジゼルの顔に暗い影を落としました。
胸の奥がざわついて、夏だというのに、奇妙な寒気が走ります。
「ジゼルさん」
彼女の手に、そっと手が重ねられました。それはほかでもないセイムのものです。
「僕たちも、今日は何も食べていませんでしたね。お腹空いてるでしょ?たまには僕が用意しますから、ジゼルさんはゆっくり休んでいてください」
セイムの穏やかな表情に、ジゼルは言葉を詰まらせました。
控えめに目を伏せながら、重ねられた手をそっと握り返します。
「ありがとう。セイム」
セイムは、やさしく微笑みました。
すると、彼の頬に、ふさふさとした、大きな白い頭がこすり付けられます。
「あ・・・やわらかい・・・あ・・・それに・・・温かい」
「セイム!」
突然のスキンシップに、ジゼルは慌てていましたが、その姿は珍しく元気そうにも思えました。
ですのでセイムは、お日様の香りをいっぱいに吸い込んだ毛を、うっとりと堪能することにしました。
決して、妻であるジゼルより、自らの欲望を優先したわけではありません。すべては、妻であるジゼルの為でした。本当です。
「ねえ。セイム君、今日は僕と一緒にねよっか?」
白の、ふさふさの毛の塊のどこかから、そんな声が唐突に響きます。
『え?』
二人はそれぞれに、驚きの表情を浮かべました。
白い毛に覆われた大きな顔が、わずかに傾きます。
「え?」
「しゃべった・・・?」
「そっち!?・・・ですの?セイムさん」
「え」
森の中で、こっそりと、怪しげな関係を持つ同世代のふたりの人物に対して気を使い、あえて距離を置いていた双子も、この時ばかりは真顔で駆け付けます。
「だめえー!」
クーコは大きな頭を両手で抱え、全力でセイムから引き離そうとしました。
顔の反対側から、息を切らしたカゼハも遅れて言います。
「そうだよ。わたし知ってる。秘境で暮らす先住民はね。外からのばい菌に弱いんだよ?ミズキの菌でセイムが死んじゃうかも」
「そうだよ!だめ!」
「そうです!いけません!いけません!」
セイムの腕を取りながら、ちゃっかりと、ジゼルも双子に加勢します。
『だめ!だめ!だめ!』
「ふぅん」
姦しい小娘たちの勢いに、ミズキは面倒くさそうに鼻を鳴らします。
ふと、セイムは日常を忘れていたことに気が付きました。
ほんのひととき、彼は無意識に微笑んでいたのです。
「暗くなってきましたね。火を起こしますね」
とりとめもなく、そう言いました。
集団から離れて、彼はひとり、石で囲まれた小さな焚火跡へと向かいます。
形が変わるくらいに顔をもみくちゃにされながら、その背中にミズキが声をかけました。
「僕が何か作ってあげるよ。いい『豚スライム』がとれたんだ」
豚スライム。キノコを主食とするとても珍しい粘菌の一種です。
薫りと食感と栄養価に優れ、その名の通り、味が似ていることでそう呼ばれています。
ミズキの毛の一部がにょきにょきと延びて、カゼハのリュックをまさぐります。
大きな葉っぱに丁寧にくるまれた豚スライムを、カゼハは茫然と見送りました。
「お肉食べれる?似てるけど、これはお肉じゃないから大丈夫だよね?」
大人のような方便にジゼルは赤面します。
「ですが、よろしいのでしょうか?そんな貴重な物・・・」
「豚スライムもきっと、ジゼルさんに食べてもらいたいって思ってるよ?」
彼はそう言うと、にょきにょきと延びる毛を六本も出して、手際よく調理に取り掛かりました。




