風の交差点⑦。
バロンは、酷く狼狽しておりました。
「どうしよう・・・?どうしよう・・・・!」
彼の心情を表すかのように、そんな言葉が冷や汗と一緒に自然と漏れ出ました。
瞳は絶えず激しく動き回り、沢山の人影の中から特定の人物の姿を必死で見つけ出そうとしておりました。
いったい何があったのか。その答えは簡単です。
バロンは、賑わう都市の真ん中で、クーコとカゼハその二人とはぐれてしまっていたのでした。
それだけではありません。更なる不幸にも見舞われております。
「清算キーも・・・ないッ!!!」
体のあちこちを探る彼の声は、人混みの中でかき消されました。清算キーとは、簡単に言ってしまえばお財布の事です。
彼の狼狽ぶりは、今現在、深刻を極めておりました。元々他人との関りを避け、トラブルとは無縁の生活を送ってきたものですから無理もありません。
やがて限界に達した彼は、物語の主人公のように頭を抱えて、大げさに叫びます。
「うああああああ!!!」
~神聖教会領、同所・ダンルーイ商店街~
かつて、大陸を旅した大商人の名を冠した商店街には、見るからに敷居の高そうなお店が軒を連ねます。ショーウィンドウの向こうで光を放つ品物は、どれも神聖教会の認可を得た物ばかりでした。
クーコは、まるで何かに呼ばれたかのように、ぴかぴかに磨かれたガラスの向こうで静かに佇む一丁のライフルの前で足を止めました。
「・・・『サジタリウスの瞳』?」
人の流れを背に、にんまりとした表情がガラスに映ります。
「すみませーん!」
彼女が高らかに宣言してから間もなく、真鍮のドアベルが商店街に鳴り響きました。
一方その頃。
「―――そこの可愛いお嬢さん?」
「・・・?」
どこからか聞こえたその声は、雑踏にかき消されること無くカゼハに届きました。それはまるで、耳ではなく、彼女の精神に直接語り掛けるような、懐かしく、あるいは、今ではすっかり聞きなれたような、そんな不思議な声でした。
続くカゼハの態度に、もしかしたら苛立ちを覚える方もいるかもしれません。彼女は、その声を自分に向けられたものでは無いとして、即座に忘れてしまうことにしたのです。
「・・・」
カゼハの慎ましい心の動向を見抜いたのか、声の主はあらためて言いなおします。
「そこのお嬢さん。ひとりで、黒い髪の、古いリュックとライフルを背負った、色白の、14歳くらいの、そう、そう、あなたのことですよ?」
先ほどよりもはっきりと聞こえた声に、思わずカゼハは頭を持ち上げて該当する人物を探しました。
すると。そのような人物はどこにもおりませんでしたし、また、その声に反応した者もおらず、足を止める人影すらありません。
ふと、ガラスの向こうに、自分の姿と、道を挟んだ袋小路の奥で何やら怪しげな露天を構える人物の姿が映ります。
すっぽりかぶった暗いカラス色のローブ越しに、目と目が合ったのが分かりました。
カゼハは振り返り、吸い寄せられるかのようにそちらへと向かいます。
「私の事?」
自分の声が届く距離まで近づくと、カゼハはそう尋ねます。
怪しげな露天の店主は、口元に微笑をたたえました。
うやうやしくかざした手の下で、水晶玉がカゼハの虚像を創り出します。
「ええ、そうです。あなたの事ですよ?」
「お姉さんは誰?どうして私なの?」
練れた息遣いの後、店主は答えます。
どこか機械的な反応は、カゼハの警戒心を解くのに一役買いました。
「見ての通り、わたくしはどこにでもいる普通の占い師。他でも無いあなたのウィリが、あなたをここへと導いたのです」
「私のウィリ?」
「ええ、そうです。占いはお嫌いですか?」
「ううん。好きだよ?」
「それは良かった。わたくしに力になれることがあれば、ぜひお申し付けください。もちろん、無理にとは言いません」
「いいの?」
「ええ、それがわたくしの使命であり、また同時に、数少ない楽しみのひとつでもあるのです」
「そうなんだ・・・じゃあ」
怪しい。
カゼハは勿論そう思いましたが、やはりというべきか、旺盛な好奇心には勝てません。
加えて彼女には、知識労働者全般に対する若者らしい細やかな反骨精神もありました。
彼女なりに、もっとも力のあるワードを選んで、それらをまるで魔法の呪文のように唱えます。
「私、大好きな人がいるの。とっても、大切で大好きな人。でもその人は、たぶん・・・なんて言うんだろう。私を雌としてみてくれない?気がするの。私ね、その人に雌としてみてほしいの」
視線を真っすぐにしてそう告げます。
カゼハとしては、それは真剣な悩みであると同時に、占い師の覚悟を試すものでもありました。
ある種の、生物としてのテーマを有する巨大な悩みに対して、聞き手が少しでも身を躱す態度を見せれば、彼女は、以降の発言に過度のフィルターを通して行おう。という、その幼さに似合わない辛辣な意図がありました。
「ふむ」
占い師は、口元をきゅっと引き締めました。カゼハの心はわずかに満たされます。
「現段階では」
「うん」
占い師はゆっくりと続けます。
「現段階では、その人物があなたの希望に沿うことは難しいでしょう。・・・ただ、人の心とはやがて移ろい変わるものです。もしかしたら、あなたの希望の形になるまで、その変化は一度や二度では済まないかもしれません。そして、変化を引き起こすには、その都度必ず。大小さまざまな労力と時間が必要になるでしょう。あなたが本気であるならば、あなたはそれに耐え続けなければなりません」
占い師の言葉は、まるで大きな石が投げ込まれた水面のように、カゼハの心に幾重もの波紋を創り出しました。
頭がくらくらして、言いようのない罪悪感が小さな胸を締め付けます。
「私、自信無いかも」
でしょうね。占い師はふっと口角を上げました。その声には、慈悲にも似た優しい響きがありました。
「万物には、巡り合わせというものがあります」
「巡り合わせ?」
水晶玉が、カゼハのきょとんとした姿を映し出します。
占い師は微笑んで、ゆっくりと、まるで歌うように、抑揚に富んだ口調で続けました。
「ええそうです。運命や、宿命とはまた少し異なる。もっともっとシンプルで時に強力な力の事です」
「私たちが出会ったみたいに?」
「ええ、その通り。広い海に浮かぶ二艘の小舟が偶然出会う。そんな途方もない力の事です」
「・・・素敵。ぞわぞわしちゃう」
占い師の指先が、水晶玉の表面を正確に撫でるように通り過ぎていきました。
その指は風に舞う木の葉を思わせる軌道を描いて、テーブルの下へと落ちていきました。
「もし、あなたがお許しになるのであれば。これをお試しください」
占い師の手が再び現れると、テーブルが硬い音を立てます。
それから、置かれた物が良く見えるように、彼女はそれ以外の物を舞台の袖へとさりげなく移しました。
テーブルの中央には、所々塗装の落ちた木枠にはめられたガラスの容器が、ただただ静かに佇んでおりました。
「うん・・・?なあにこれ?」
カゼハがガラスの容器を覗き込みました。
容器の中はくすんだ黄色の液体が満たされており、その真ん中あたりには細長い三角形の針が一本浮かんでおりました。
占い師は、ゆっくりと。一音一音に静かな力を込めて、その道具の名を唱えます。
「これは『物語の羅針盤』」
「羅針盤…?」
「ええ、そうです」
羅針盤とは、方角を知るために用いられている道具の事です。
当然、カゼハも、その名を持つ道具の役割を知っていたので、ついつい大きな声と早口が…もっとも、それでもカゼハにしては、という範疇に留まったものではありましたが。出てしまったのは無理もありません。
夜空のような瞳には、一足早く、星のきらめきが宿ります。
「このアイテムの通りにすればいつか願いが叶うの?」
表情やしぐさ、声の高さから、占い師はその言葉が持つニュアンスを正確に捉えて釘を刺します。
「残念ながら、それは少しだけ違います」
「・・・そうなんだ」
しゅんとするカゼハ。
訪れた沈黙は、彼女を慰めるためのものでした。
彼女の関心が再び水平を示すころ。占い師はそのアイテムが持つ性質を改めてカゼハへと伝えます。
「これは言うなれば、所有者が決して立ち止まらないようにするためのアイテムです。針の指す先で、やがて、あなたの願いが叶う時がもしかしたら訪れるかもしれません。ですがその際も、針は新たな地を指し続けることになるでしょう。何の変哲もない、魔法も無い、必要なくなれば誰かに譲られる。ただそれだけの代物です」
占い。という行為の本質を現したかのようなアイテムに、カゼハの心は踊ります。
「棒を倒して、どっちに行くか決めるみたいだね?」
「ふふふ、おっしゃる通りです」
優しく微笑む占い師に釣られて、カゼハもへらりと笑います。
「ぁ。でも」
「はい、なんでしょう?」
「私、お金持ってないんだった」
「御心配には及びません。占い師にとっての対価とは、要求するものでは無く、自然と差し出されるものなのです」
「そっか・・・そうなんだ・・・このアイテムも、そういう道具なんだね」
「ええ、その通りです」
「ふふふ。お姉さん。とっても優しそうなのに、優しそうなのに・・・」
カゼハは、言いづらそうにもじもじとしました。
もっと話したい。そんな個人への探求心と、まだ見ぬ世界への探求心が、彼女の中でせめぎ合っているようでした。
占い師はにこりと微笑んで、彼女の言葉を遮ります。
「あなたの旅の幸運を、わたくしは心より願っております」
カゼハはそれを、世界でいちばん優しい決別の言葉だと悟ります。
であるならば、お互いの素晴らしい巡り合わせの機会を、妨げるわけにはいきませんでした。
「ありがと。じゃぁ・・・」
カゼハは、そっと羅針盤に手を伸ばします。
「これ、貰っていくね?お姉さん?」
沢山の言葉の中からカゼハが選んだのは、貰っていくという言葉でした。
占い師も快くそれに応じます。
「はい。どうかお気を付けて。良い旅を」
「・・・うん!ありがと」
カゼハは、羅針盤を胸のポケットにしまいながら。人の流れに身を委ねました。
彼女を見守る気配を背に、針の指す先を、名も無い風が撫でておりました。
その風が、のちにどのような名で語られることになるのかを、カゼハ自身、まだ知りません。
吹き抜ける甘い風が、この日、都市にやってきたとある少女の艶々とした毛先と、丈の短いマントをふわりと持ち上げました。
『まいどありー』
そんな声を背に、真鍮のドアベルが景気よく音を立てました。
愉快に鼻歌などを口ずさみながら。クーコは、肩に掛けられるようにリボンを通してもらった商品を背負いなおします。
彼女の次の目的地は決まっていました。なぜ、彼女はその目的地を選んでいたのか?それは外ならぬ、彼女の勘がそうさせておりました。
そんなクーコの背後に、勇ましい足音と共に颯爽と何者かが現れます。
「とうとう!見つけましたわよ!!」
パリッと張りのある声に、クーコはびくりとして振り返ります。
クーコの視界に飛び込んできた人物、それは、ヒメカでした。
決して、語られることはありませんが、この日ヒメカは紆余曲折、街中を探し回っていたのでした。
ヒメカは、がっしりと両腕を組んで、足を肩幅の広さにして立ち、鼻息を一つ、言いました。
「まったく!こんなところで迷子におなりになって!とんだ恥さらしですことよあなたは!騎士団の一員たるもの・・・・」
左右に垂れ下がるようにロールした頭髪に、大きなネイビーのリボン、上品にフリルがあしらわれた綺麗な服装、西洋人形を思わせる瞳と小さな鼻、まるで、絵本から飛び出してきたかのような人物を、行き交う人の流れが避けています。
彼らは皆一様に、気まずそうに表情を引きつらせておりました。
「・・・・!・・・!!!・・!!」
にもかかわらず、ヒメカの声は止まることを知りませんでした。
ほてった頬に汗を滲ませながら、彼女は小さな体をいっぱいに使って叱責の言葉を紡ぎ続けていました。
それは滑稽なほど熱烈で、はた目には、子供の癇癪にすら見えたかもしれません。ですが、彼女にとって、それは違いました。
それはただの怒りではありません。
教会騎士団の名誉、そして、敬愛する姉たちの矜持を一身に背負った行いでした。
矜持とは、守り抜いてこそ意味を持ちます。だからこそヒメカは言葉を止めなかったのです。
それが、彼女にとっての祈りであり、誓いであり、決して譲ることのできない一つの戦いだったのです。
しかしながら、いたいけなヒメカの行為は、むなしくも失笑すべき事態を招いてしまいます。
時に、運命の女神さまの、なんと冷笑的な事でしょう。
あまりにも真面目な態度は不覚にも、ヒメカの弱点とも呼べる、とても重要な情報をクーコへ与えていたのです。
それは外ならぬ、育ちの良さ、人の良さ、クーコはさっそくそこに漬け込みました。
「えへへ、ごめんね?あたしクーコ!あなたは?」
それはまさに疾風と呼べる物でした。
一気に間合いを詰めたクーコは、強引にヒメカの手を取りそう告げました。
たじろぎながらも、ヒメカは答えます。
「え・・・ヒメカ、と、皆様はそうやって」
「そっか!よろしくヒメカ!」
呼び捨て?
他の二人は?
なぜ約束の場所に来なかったのか?
自分の方が偉いはずなのに。
そんなに強い力で引っ張らないで。
クーコさん?
通り過ぎていく沢山の思いは、ヒメカの思考を停止させるには十分すぎる質と量とを誇っておりました。
ぽかんとするヒメカの両手を引いて、クーコは勝手に歩き出しました。
「ねえ行こ?」
「へ?いったい、どちらへ行こうというのです?」
ヒメカの頭の中では、名乗りの礼儀についての文型が未だに纏まってすらいない状態です。抵抗するだけ無駄、建前ではそう考えておりました。
このまま、クーコの気が済むまで、しばらく好きにさせておこう。
そんな考えがヒメカの頭をよぎった時、彼女は気づきます。いいえ、気づいてしまいました。
(あら?この光景、どこかで)
それは未だに色褪せるどころか、日に日に輝きを増す宝物のような記憶の一場面でした。
最も、記憶の通りであれば、ヒメカが引っ張られるなどという事態はあり得ません。
引っ張るのは常に彼女のほうで、周囲がそれに従うのが当然でした。
しかし、この時は――
「ヘーキヘーキ!たぶん楽しいよ」
クーコの無邪気な笑顔と、まるで世界を味方につけたかのような軽やかな勢いに、ヒメカは口を開くタイミングすら見失ってしまいました。
(……お待ちなさい、わたくしは、そんな、誰かに……)
誰かに振り回される側ではない。
率先して与える側であって、誰かに求められる側ではない。
ずっとずっと、そう思っていたはずなのに――
「よかった!ヒメカがヒメカで!ねえ!もっと速く走っていい?」
「へ!?ええ、別に構いませんことよ?」
「やったー!」
クーコはいっそう強い力で石畳を蹴り、ぎゅーんと加速しました。
「ちょっと!クーコさん!?危ないですわよ!誰かにぶつかったらどういたしますの!?」
「ヘーキヘーキ!階段・・・?飛んじゃえー!」
念のために申し上げますと、都市内でのウィリを用いた移動は、重大なマナー違反行為です。
もちろん、ヒメカも知っていました。騎士団に籍を置く乙女たるもの、かのような軽挙を看過する事など本来あってはならなぬ事。そう、思っていたはずなのに、彼女の両足は、ついに地を離れ、風を引き裂くその瞬間まで、止まることはありませんでした。
甲高い悲鳴にも似た笑い声をあげたのも束の間、今度はクーコの顔から血の気が引きました。
視線の先、二人が描く弧の終着点には、なんと、豪著な装飾をたたえた噴水が鎮座していたのです。
地上から向けられる幾多の視線を軽々と飛び越えて、二人の体は、理想的な放物線を空に描いてゆきます。
このままでは、吹き上がる清水と命運を共にしてしまうのも必然、しかし、その時です。
「まったく、つくづく世話の焼けるお人ですこと・・・」
優雅なため息を一つ、ヒメカはあきれたように口にします。
彼女は精神を集中させました。
「チャージ・バースト・・・」
彼女のウィリに、すぐさま世界が呼応します。
高飛車な少女は、たちまち優れたエレメント操者へと早変わりしました。
ヒメカを中心とした周囲の空気の流れがピタリと止まります。次の瞬間。
「リリース!」
風が炸裂します。
停滞から解き放たれた大気の奔流が、爆風のごとく二人の体を押し上げました。
それは、風系統のエレメント操作に属するコードスキル。『バーストウィンド』の発動です。
一人の高飛車な少女は、今やその身に風をまとい、まるで羽根でも得たかのように宙へと舞い上がったのです。
「ぅぇっ・・・」
体が宙に浮くほどの風をもろに受けて、クーコは強い吐き気に見舞われます。先ほど平らげたごちそうと、あわや望まぬ再会を果たす寸前のところで、彼女はなんとか、それを喉の奥へと再び押し返します。
そのままクーコの体は無情にも、近くの植え込みへと落下しました。ふさふさに手入れされた植木は、その衝撃の全てを受け止めてくれました。
『オオ―――!』
陽光が降り注ぐ中、街を行く方々の喝采が巻き起こります。
上下の概念をようやく取り戻した時、体のあちこちに鋭い痛みが走りました。
なんとか頭だけを枝葉の中からもぐり出して、クーコが目にしたのは、噴水のてっぺんで逆光に浮かぶ、まさしく礼節という二文字を体現したかのようなヒメカの姿です。
「お集りの皆様、どうかご安心くださいませ。いずれこの街を守護することとなる仲間の力量を、このヒメカが直々に、改めていただけでございますの」
静かなどよめきの後、何名かがその姿をカメラに収めます。中には、偶然その場に居合わせた白百合の姿もありました。
ヒメカは、向けられたレンズの全てに見て見ぬふりを貫きます。その姿はまさに威風堂々たる立ち居振る舞いでありました。
しばらくして。
賑わいの潮目をいち早く察知したヒメカは、さっと、噴水から飛び降ります。
集った幾人かから、落胆のため息が洩れ出ます。
「では皆様、引き続き良い一日をお過ごしくださいませ」
率先してその場を去った白百合達を皮切りに、人の流れは、自然と元通りになりました。
翻ってヒメカは、両肩を怒らせてクーコの元へと駆け付けます。
「もうっ!クーコさん!?」
クーコとしては、もうお説教はこりごりです。なにより、あの危機を救ってもらった恩もありました。彼女らしく、素直に謝罪します。
「えへへ、ごめんねヒメカ。おかげで助かっちゃった」
「べっべつに!あなたのためにしたわけじゃありませんわ!騎士団たるもの!街の安全を守るのが使命なのですから!ふんっ!」
ヒメカはこのように、様式美に則った態度でクーコの謝罪を受け入れました。
「うん!でもありがと・・・しょっと」
自力で抜け出したクーコは、両手で軽く服を払うと、再びヒメカの手を引きます。
「じゃ、行こ?」
「ちょ!あなたは性懲りも無く!」
先ほどとは打って変わって、今度は常識的な速度で、クーコは走り出しました。
「こっち!」
「わかりましたから!少しは落ち着いてくださいまし!」
クーコとヒメカ、二人を取り巻く風は、より甘く流れておりました。
人の流れの中を真っすぐに進む少女の姿がありました。その手の中には、まだ誰も知らない物語のページをめくる、ささやかで、しかし確かな力が宿っておりました。
やがて、両脇から迫るように連なる石造りの街並みが、少女をある場所へと導いていきます。
不意に視界が開けたその瞬間、カゼハは足を止め、羅針盤の針と目の前の光景を交互に見比べました。
ダンルーイ商店街を抜けたその先。森と湖とに囲まれ、まるで夢の中のお城を思わせる建物が、霧の向こうに現れたのです。
ほかのどの建物とも、まるで異なる幻想的なその姿。それこそが、魔法の研究機関も兼ねた『アトラス魔法学校』に他なりませんでした。
「書いてある文字。遠くて読めないけど・・・!」
その重厚な石壁が、まるで呼吸するように、淡く脈打ちながら光を放っていました。
その時、遠くから、駅のアナウンスがぼんやりと届いてきます。
まもなくして、森の奥を貫くようにして伸びた高架橋の先から、微かな振動と共に、汽笛が鳴り響きました。
「・・・電車?」
カゼハの視界の先で、濃い霧を切り裂きながら、その場の情景とは似つかわしくない六両編成の列車が、静かに姿を現しました。
大きく弧を描く湖のほとりの先で、列車は滑るように停止します。
やがて扉が開き、整然とした老若男女、様々なプレイヤー達が次々と駅舎へと降り立っていきました。
アトラス魔法学校の生徒たちです。
笑顔と、興奮が入り混じったざわめきが。カゼハの耳にも届いてくるようでした。
彼らの手にはもれなく、杖や魔導書といった、魔法に用いられる触媒が握られておりました。
古ぼけたそれらの道具は、遠目からでもはっきりわかるほど、強烈な引力を放っていました。
カゼハはきゅっと唇をかみしめます。
そして、羅針盤を胸ポケットへとそっとしまいました。
気づけば彼女の足は、何かに背中を押されるように、小走りになっておりました。
~神聖教会領・教会都市。クロノライン・ウルド10時駅。アトラス魔法学校前~
壁にひっそりと身を寄せながら、カゼハは次の列車の到着を待ちました。
古い駅舎の壁には、見たことも無い大きな葉をつけたツタが伸びています。
やがて数分もしない内に、今度は反対側のホームに列車が滑り込んできました。
カゼハは反射的に身をかがめて、学生たちに溶け込むチャンスをうかがいました。
扉が開くと同時に、闊達な声のやり取りが駅舎に響き、色とりどりの装備に身を包んだ学生たちが次々に姿を現します。
その光景は、カゼハの想像した通りでした。
バロンの隠れ家での経験を活かし、カゼハはそっと、その流れに身を滑りこませます。
・・・どん!
「ぁ」
どこかで偶然生まれた軽い小突き合いが、肩まで波及して、カゼハは思わず声を漏らしてしまいます。
目立たないように、カゼハは慌てて顔を伏せました。
「・・・ごめんなさい」
幸いにも、彼女の声は学生たちの笑い声にまぎれて消え、誰の耳にも届くことはありませんでした。
一団は、湖のほとりに設けられた、小さな関所へとたどり着きました。
両脇には、ルーン文字が淡く点滅するレンガの柱。
オレンジ色の松明の炎が揺れ、
関所の中央からは、湖面をえぐるように、長い橋が静かに伸びていました。
横に広がったままの状態で、学生たちは柱の間を通過していきます。
風のない湖面には、たゆたう淡い光とともに、彼らの影が映り込んでいました。
湖と橋の境界はあいまいで、まるで風景そのものが、それらを実態として受け入れているようでした。
幻想的な景色に目を奪われていたカゼハは、先を歩く学生に続く形で柱の間を通過します。
と、その時です。
ガタンっ!
踏み出したカゼハの足が空をつかみます。
全身の支えを失い、重力だけが真っすぐに、彼女を引き下ろしました。
叫び声をあげる暇もなく、停滞した空気を引き裂きながら、彼女の体は湖面へと向かって落下していきます。
やがて、湖の湖面に波紋が走りました。
カゼハは溺れかけながらも、辛うじて呼吸をつなぎとめておりました。
はるか上空に、ルーン文字の残滓と、橋の上からこちらを見下ろしている沢山の瞳が見えました。
「・・・アニマル勢?」
そんな小さな声をきっかけに、生徒たちはざわめき始めました。
彼らの声は、まるで誰かの背中に向けてそっと放たれる針のようでした。
声量こそ内緒話の範疇に収まっていましたが、その鋭さはあきらかに、届くべき耳を求めておりました。
「カゼハちゃん!!!!!!!」
いまや、燻る炎となり果てた学生たちの、湿った熱気を振り払うかのように、霧の中から一人の人物が現れました。
「バロン?」
「カゼハちゃん!すぐに行くから!そこでじっとしてるんだ!」
呼吸を乱して、今にも倒れそうなその人物は、バロンでした。
彼の登場は、学生たちに水を差しますが、その場から立ち去らせるまでには至りません。
「こっちだ!カゼハちゃん!」
「うん」
バロンは、カゼハの体を小脇に抱えて橋の上へと戻ります。
「大丈夫かい?ごめんよカゼハちゃん。ごめんよ」
むしろ、彼のウィリを目の当たりにした事で、消えかけていた火が湯気を上げるように再燃し、その場の空気は、より一層、陰湿さを増していきました。
バロンはこぶしを握り締めて、今すぐに彼らを怒鳴りつけるべきだと考えました。しかし、彼はそうしませんでした。彼は、カゼハを覆い隠すようにして、その場から立ち去ったのです。
「ごめんよカゼハちゃん。ごめんよ」
カゼハには、その謝罪が誰に向けられたものであるのか、分からなくなり始めておりました。
けれど、胸の奥にはじんわりと温かな光が灯ります。
「バロン?私なら大丈夫だよ?」
大きな分厚い手をそっと握り返すと、悲しみでくしゃくしゃになった顔がカゼハを見つめました。
「けど・・・」
「ううん。本当に平気だよ?だからもう謝らないで?」
カゼハはそう言いながら、静かに微笑みました。
バロンもそれに応じて、ほっとしたように頷きます。
「わかったよ。もう謝らない」
「うん」
それから二人は、しばしの休憩をして、その後、クーコと合流することを次の目的とするのでした。
アニマル勢・・・アトラス魔法学校への入学資格を持たない者への蔑称。




