風の交差点③
本日、都市周辺の浮遊石には『晴天』のルーンが刻まれていました。
その効果もあって、空は見事な快晴。
神聖教会が築いた教会都市の往来には、この日も絶え間なくプレイヤーの姿がありました。
都市の東側。『ご馳走通り』から歩いておよそ十分。
長い連絡橋を渡り、文明の空気をいっぱいに吸い込んだ者たちが、次なる冒険の予感に引き寄せられるように集まる一角があります。
無数の自由商人たちが露店を連ね、欲望と熱気がひしめき合うその場所は、誰が呼んだか通称『教皇の闇市』。
もちろん、教会のひざ元でこの不名誉な名を口にする者は、命知らずのならず者だけでしょう。組織に忠誠を誓う騎士たちが、その不敬を看過することなど決してあり得ないからです。
もっとも、それはあくまで建前の話でした。
実際の闇市は、世界の経済相場を左右するほどの圧倒的な品ぞろえと流通量を誇る、巨大な心臓部となっていました。ゆえに騎士団は、即時排除という強硬策を選べず、監視と是正という苦渋の決断を強いられ続けていたのです。
白昼堂々と行われる盗品の売買。巧妙な偽物。そして、度を越した販売戦略。
方の光が届かぬこの場所で、秩序の守護者たちが心休まる暇は、今日という快晴の日であっても訪れそうにありません。
さて。普段語られることのない騎士たちの苦悩をご理解いただいたところで、お話はとある二人のプレイヤーへと戻ります。
可愛らしい双子の女の子――つい最近この世界にやってきたばかりの、クーコとカゼハです。
彼女たちの目の前には、視界の果てまで続くかのような露店と商品の群れが広がっていました。
旅の衣食を支える生活の必需品。
極めて危険な異次元迷宮。リピートエクスプロアの攻略に不可欠な、禍々しいまでの力を秘めた武具。
どこから持ち出されたのかも判らぬ、曰く付きの芸術品。
さらには、独自のレシピで煮詰められたポーション。
健気に主を待つ、多種多様な原生生物の幼生。
果ては、地図上にすら存在しない地に建てられたという、家の権利書まで。
様式の整った逸品から、今しがた土から掘り出してきたような泥臭い代物まで。
この通りには、幼い双子の理性を揺さぶるには十分すぎるほどの怪しげな輝きが、所狭しと並んでいました。
「風葉ー!風葉ーー!」
高く積み上げられた古書の山を見上げていたカゼハを呼んだのは、双子の片割れ、クーコでした。
彼女はサイズの合っていない右手のガントレットをガチャガチャと鳴らし、人混みの向こうで所在なくしていたカゼハへと大きく手を振ります。
人と人。その合間を縫っておぼつかない足取りで歩み寄ってきたカゼハは、その金属の塊を一瞥して。
「……すごいね」
と、引きつった笑みを浮かべました。
それを見たクーコは、むくむくと湧き上がる根拠のない万能感に包まれます。
(やっぱり、カゼハには私が必要なんだから!!)
小さな胸に溢れんばかりの責任感を詰め込んで、クーコは露店の主へと身を乗り出しました。
「うん!ねえオジサン!この装備最強?」
可愛らしい客のぶっきらぼうな問いに、ご主人は丸太のような腕を組みました。
しかしすぐさま腕をほどくと、棚から別の防具をひょいと取り上げました。
それは空の色を写し取ったかのような淡く青い、磨き上げられた銀の小手でした。
「当たり前だ。だが嬢ちゃんにはこっちのほうがいい。シルバースケイルの鱗でできた防具だ。名付けて、『シルバースケイルガンドレットカスタム』ッ!」
「あは!そのままじゃん!」
「……。軽くて、どんなサイズにも合うように調節できるスライダーも付いてる。水のエレメントの操作適性を高め、指の各関節に取り付けられたラチェットは、弱い握力を十分にカバーしてくれるはずだ。右手の小盾にはペイロード…おっと。つまり『秘密』道具を隠せるように改造してある。3号煙玉なら二つ、括りヒモなら6メートル、スローイングダガーなら4本、インスタントルーンなら一巻き、最新のグリフォン15なら4台、シップの起動キーなら…」
見かけによらず饒舌なご主人は、自慢の一品について語り続けようとしました。
どこの世界でも、願いと結果が等しくなるのは最大の幸福と呼べたでしょう。そして残念ながら、彼は幸福には恵まれていなかったようです。
クーコは、はめていたガントレットをそっと戻すと踵を返してしまいます。
「そーなんだ!全然わかんないや!いこ!カゼハ!あっち!武器がある!!」
「あ…うん。オジサン、ごめんね?」
申し訳なさそうに頭を下げるカゼハを連れて、クーコは人混みの向こうへと消えていきました。
「いいってことよ」
そう告げたときには、二人の姿すでに人混みの中でした。
残されたのは、人の流れが生み出した小さな風だけ。
「…最近、ああいうのも減ったな…」
ご主人はぽつりと呟き、再び腕を組んだまま、木彫りの像のように動きを止めました。
―――
「いらっしゃいませー。いらっしゃいませー」
「昨日Bランクのリピートエクスプロアからゲットしたての武器があるよー!」
「ぜんぶ、新品ですよー」
「安いよオオオオ!!オッ!オッ!!」
元気な掛け声と、可愛らしいモォモの着ぐるみに誘われ、二人は武器商人の露天を訪ねます。彼らは商人であると同時に、自ら品物を調達する現役の冒険者パーティーでもあるようです。
「いらっしゃーい。あら、かわいい女の子♡」
「ほんとほんと!ねえ、あなたたち武器はいかが?」
「この風船もどうぞオオオオ!!オッ!オッ!」
声をかけてきたのは、二人の女性プレイヤーと、色とりどりの風船を抱えた着ぐるみの人物。
双子はきょとんとして、顔を見合わせました。
呼び止められたことに驚いたのではありません。
双子は、初めて自分たちがこの世界の外の存在ではなく、すでに内側の住人になりつつあることに気づいたのです。
それは、世界を跨ぐ者に等しく訪れる瞬間。
誰もがその場に相応しい役割と装いを纏っていました。
―――今この場所に立っている自分たちでさえも。
双子の胸が小さく跳ねました。それは恐怖ではなく、何かが始まる予感に近い高揚感。
クーコは、まるで自分を試すかのように、いっぱしの冒険者らしく身を乗り出しました。
「あたしたちにピッタリの最強の武器はある?あと、お姉さん、寒くないの?」
純真そうな問いに、売り子の一人、『戦士』風の女は調子よく胸を張りました。ぐっと背筋を伸ばし、腕の筋肉を見せつけるように手首を巻きます。
「寒くないよ!寒さ耐性+5のウィリがあるからね!すごいでしょ!」
『ウィリ?』
声が、ぴたりと重なりました。双子にとって、それはいつもの呼吸に等しいものでした。
カゼハが不思議そうに首を傾げます。
「ウィリって、なあに?わたしたちにも、あるのかな」
すると、もう一人の女性プレイヤーが、花の咲くような笑みを浮かべました。
彼女は目線を合わせるようにしゃがみ込みます。ぴっちりとしたインナーに包まれた肢体が、冒険者らしい健康的な色香を漂わせました。
「ええ、もちろん。ウィリはね、色々な効果を持った特殊能力みたいなもので、この世界に来たプレイヤーなら、誰だって持っているものなのよ?」
小さな歓声を上げた双子は、瞳を輝かせました。
早くも二人の胸中には、温かな予感が灯ります。
「あなた達、さては初心者さんね?素敵」
「えーと、なんだっけ?武器?」
「とってもいいのがあるわよ?それとも先にあなた達のウィリを見たほうがいいかしら?ふふふ」
先駆者たちの提案に、双子の期待は膨らむばかり、しかし、商売熱心な彼女たちの攻勢はここからが本番でした。
「これこれ!この『毒刃・解毒刃』なんとどう?セットで安くしとくよ?あ、この『捩じれナイフ』は硬い奴にも効くよ~!ちょおっとコツがいるけどね」
「近づくのが怖ければ『スノーシューター』はどうかしら。打ち出した小石が凍結効果を持った氷の弾丸に変るの。威力はお墨付き。替えのスリングもおまけするわよ?」
次々と目の前に並べられる、不思議なギミックに満ちた武器。
「これもおススメだよ!じゃーん!『ゲップ盾』!これのおかげで、爪熊に襲われても無事だったって人もいるんだから!」
「……ゲップ盾ェ?駄目よそんな下品な物。そもそも盾は武器じゃなくて防具でしょ?」
「盾は武器だよ!」
「防具よ。まったくもう…それにこの子にガードからのカウンターは合ってないわ。なにもわかってないんだから。変なものを売りつけて、怪我でもさせたらどうするつもりなの?そこの『ぴょんぴょんブーメラン』のほうがまだましだわ」
「そんなの当たっても全然痛くないオモチャじゃないか」
「そのまま使うわけないでしょ?ルーンを刻んで強化したり、エレメントと組み合わせるのよ!」
「……なるほど。じゃあこの『ルーンブレイド』なんてどうかな?」
「このルーンは……『月光』のルーンね?ぅぅん。悪くないわね…」
小さくとも重要な商談は、当事者である双子を置き去りにしたまま、実に滑らかに進んでいました。
その頃、双子はと言いますと。
最強の武器を手に、大陸を駆け抜ける自分たちの、輝かしい未来の妄想に、すっかり心を奪われておりました。
「でもこれ、値段がなぁ」
売り子が漏らしたその一言。それは、双子にとって氷水を浴びせられたような衝撃でした。
お金がない!
つい先ほどの、あの輝かしい美食タイムの結果。二人の懐は見事に、かつ徹底的に空っぽなのです。
保護者のミズキに至っては、今頃お皿に埋もれているはずです。武器どころか、今夜の食事すら怪しい状況でした。
もちろん、そんな切実極まる事情など店側が知るはずもありません。
クーコは慌てて両手を突き出し、叫びました。
「待って待って!あたしたちお金持ってないんだった!」
「あら?」
「…そーなの?」
二人の表情が、すっと冷え込んだように見えました。
返事も、どこか素っ気ない気がします。
慣れないこの土地で、何が礼節にかなう振る舞いなのか、クーコにはまだ分かりません。
けれど、先ほどの防具屋の主人とは、何かが決定的に違っている。そんな確信にも似た違和感が、胸の奥に棘のように刺さっていました。
不意に、胸の内側が重くなります。理由のはっきりしないざわつきが、どうしても消えてくれません。
親しい誰かの期待を裏切ってしまった時のような。
あるいは、万引きの瞬間を見られた時のような。
確かな罪悪感が、じわじわと胸に滲んでいきました。
たまらずクーコは、商品棚へと視線を落としました。
そこに並んでいるのは、本格的な輝きを放つ刃物や、打撃に特化した武骨な鈍器の数々。それらを、自分たちの小さな手が振るう姿を想像しようとして……しかし、到底、扱える気はしませんでした。
(…かえって、買えなくて良かったのかもしれない)
ふと浮かんだその考えに、クーコは自分でもわずかに首をかしげました。
どうしてそんなふうに思ったのか、自分でもうまく説明はつきません。
ただ、胸の奥の重苦しさだけが、居場所を主張するように居座り続けていました。
先ほどまで思い描いていた輝かしい未来は、いつの間にか、枯れ始めた花のように色あせていました。
隣では、カゼハもまた、小さく肩を落としています。
双子はしょんぼりと並び立ち、かすかに俯くばかりでした。
「…ごめんなさい」
黙り込んでしまったクーコに代わり、カゼハの唇から小さな謝罪がこぼれました。
それをきっかけにするように、胸の奥にはじわりと苦い悔しさが広がっていきます。
自分の不甲斐なさ、そして情けなさ、それからが後から遅れて追いついてきて、カゼハの心を容赦なく叩きました。
もういいや。いっそ、このまま帰ってしまおうか。
ふかふかの布団に潜り込み、こんな世界のことなど、苦い思い出とともに忘れてしまえばいい。
そんな投げやりな考えが、暗い雲のように頭をよぎります。
…しかし。
果たして、そこまで思いつめるほどの出来事であったのでしょうか。
ここは、神聖教会が誇る教会都市。
本来なら、多少の失敗や恥など、夜が来て、名も知らぬ誰かに語れば、たちまち笑い話に変わってしまう。
そんな親切さを、誰もが持ち合わせていた場所でした。
少なくとも、この時は。
ほんのりと暗い表情を浮かべる二人に、女神さまのように明るい笑顔が向けられます。
「うふふ。全然いいのよ?」
「そーそ!そんな顔すんなよ!大丈夫だから!盗んだわけじゃあるまいし。ねえ?」
「ふふふ。そうね」
日々多くの客と向き合ってきた売り子は、双子の失態が取るに足らないものだと、態度で証明します。
クーコはほっと胸をなでおろします。
けれど、一度空いてしまった不安の蓋は、そう簡単には閉じきってくれません。
(もし、自分に強力な武器が一つでもあれば………)
そんなもしもの仮定だけが、胸の奥で小さく尾を引いていました。
「……クーコ?大丈夫。武器なら私が持ってるから」
励ますようにそう言って、カゼハが護身用のライフルを持ち上げます。
一発の弾丸も込められていない、使い方さえ定かではない、ずっと飾り物のようだったライフルです。
安っぽいその銃身に、クーコの胸のざわつきは、むしろわずかに強まってしまいました。
売り子の二人は、その場に漂いかけた微妙な空気を和らげようとしたのでしょう。努めて明るい調子で、何気ない世間話を始めます。
「ライフル!いいね!…んーでもなー。遭遇戦になったり奇襲を受けた時がちょっと厳しいか……」
「そうねぇ。最近は『お手軽!PK解説動画!』なんてものもあるくらいで、やたらと物騒な世の中だし。心配ね」
「この前の辺境であった大火事。ドラゴンの仕業だなんて噂もあるしなぁ」
「あら?あれは凶悪な盗賊団の仲間割れって聞いたわよ?なんでも、装備は盗んでプレイヤーは誘拐するなんて……大体ドラゴンなんているわけないじゃない」
「なにー!いるって!ドラゴン!どこかに!」
「いるわけないでしょ?」
「いーるー!!」
PK、大火事、ドラゴン、盗賊団、誘拐。
短い会話の中にも、双子をより不安にさせるには十分すぎる物騒な単語が含まれていました。
二人に悪意などはなく、いっぱしの商人として場を盛り上げ、気まずい沈黙を埋めようとした結果が、図らずものそうなってしまっただけなのかもしれません。
しかし、そんな大人の気遣いに気づけないほど、双子も幼くはありませんでした。
顔を見合わせ、黙ったまま、口の隅に薄い笑みを浮かべました。
実は。
何気なく放たれたドラゴンという響きが、ほんの少しだけ。いいえ、たまらなく魅力的に、二人の胸をくすぐってしまったのです。
身ぐるみを剝ぐ強盗も、自分たちを狙う誘拐犯も確かに恐ろしい、けれど、そんな禍々しい現実をすべて吹き飛ばしてしまうほどのロマンが、その四文字には宿っていました。
ドラゴンといえば。雄大な翼を広げた、巨大なトカゲにも似た伝説上の生物。並ぶもののないファンタジーの王様です。
誰もが一度は、その姿に秘めた強大な力と、神秘に満ちたあふれた生態に思いを馳せたことでしょう。
鋭い爪は巨大な花崗岩の岩盤に千年も一万年も消えない爪痕を残したと云います。
ずらりと牙が並ぶ口からは夜空を夕日のように染め上げるほどの凄まじい業火を吐いたと云います。
たくましい尻尾の一振りは荒れ狂う大海原を水平線の彼方まで切り裂いたと云います。
その命は決して絶えることなく何度でも何度でも時代を跨ぎ転生したとも云います。
ドラゴン。
ドラゴン。
ドラゴン。
―――ああ、ドラゴン。
皆様も、一度は会ってみたいですよね?
…ね?
・・・。
「・・・どちらにしても、丸腰じゃ危険すぎることに変わりはないわね」
「うーん。だよねー。そうだ!!そうだ!そうだ!」
売り子の一人が、何か妙案をひらめいたとばかりに自ら合いの手を打ちました。
「なんなら物々交換でもいいよ?」
『物々交換?』
またしても、双子の声が綺麗に重なりました。
もう一人の売り子も、人差し指を顎に当てて考え込みます。
「そうねぇ…。ううーん…あ、そう!」
彼女は瞳に鋭い光を宿すと、柔らかそうな顎から離した指先を、真っすぐカゼハへと向けました。
「あなたのそのリュック。それとなら、特別に何か一つ交換してあげてもいいわよ?」
カゼハは軽く体をよじり、背中の荷物をちらりと確認しました。
それは使い込まれた、どこにでもありそうな大きなリュックです。
「……このリュック?こんなのでいいの?」
それは、この世界にやって来た時から、カゼハがすでに装備していたものでした。
「武器もないんじゃなぁ。てかよくそんなでここまで来れたよ」
「そうねぇ、きっとあなたたちは特別運がよかったのね。ふふふ」
「……クーコ?どうする?」
カゼハの問いに、クーコは低く唸りました。
クーコにとって、この提案に賛同するのはわずかな抵抗がありました。
リュックはカゼハの持ち物ですし、なにより、彼女自身『本物の刃物』を手にする覚悟がまだ定まっていないのです。
けれど、不思議なことに、その迷いは長く続きません。
その様子を瞬時に見抜いたのか、それとも、まったく巧まざるものであったのか知れません。
売り子は全身の筋肉をみなぎらせて言いました。
「そーだ!交換じゃなくて私たちの代わりに仕事してくれよ?今ちょうど人を探してるところでさ!どうかな?」
思いもよらない提案に、クーコは言葉を失いました。代わりに問いを返したのは、カゼハです。彼女が窮地でも落ち着いていられるのは、いつだってクーコが先陣を切って矢面に立ってくれているからこそでした。
「仕事って?お店の番?」
「違う違う!もっと簡単な仕事だよ」
「どんなお仕事?」
「旅の付き添い。一応は護衛役ってことになってるけどね」
その言葉に、カゼハの視線が再びあの武器へと吸い寄せられます。
「それをやったらこの『月光のルーンブレイド』が買える?」
「買える買える!ゲップ盾もおまけしてあげるよ!」
「誰かに買われちゃわないように、奥に下げておくわね?ふふふ」
至れり尽くせりの条件。カゼハは慎重に確認を重ねます。
「危ない?」
「まさかまさか、旅っていってもこの街から一歩も出ない旅だから。少しも危険じゃないよ。荷物持ったり、話し相手になったり。まー要は、『旅の付き添い係』みたいなもんだな」
売り子はそう告げると、両手を腰に当てて満足そうに胸を張りました。お腹の筋がくっきりと表れ、行きかう人々の遠慮がちな視線が注がれます。
「もし心配なら途中まで私たちも付いていくけど……どうする?やってみる?」
「そんな回りくどいことしないで、交換でもいいけどなー」
「クーコ?どうする?」
「うーん」
クーコは考え込みました。
つい先ほどまで胸の奥にわだかまっていた、あの不吉な予感は不思議なほど静まり返っています。
代わりに今、彼女の内側で燃え上がるのは、ミズキを驚かせたい。という一途な願いでした。
そんな野心をカゼハも感じ取ります。二人の間でむくむくと、やる気が膨れ上がっていきました。
「やって、みようかな?」
応えは、イエスです。
そうと決まれば、貴重な時間を無駄にはできません。
売り子は足元の箱に立ててあった巻紙の中から一本取り出すと、とくるくると広げました。中央の空白を囲むようにびっしりと刻まれた文字は、不思議な力を持つとされるルーン文字です。
「よし、じゃあこの契約書にサインして?」
「名前でいいの?」
「ううん。手のひらを押し付けるだけでいいのよ?簡単でしょ?」
そうしている間に、もう一人の売り子も同じ箱から同じものを引き抜き、手際よく広げます。
「さ、あなたはこっちよ?がんばってね?」
双子は顔を見合わせ、同じタイミングで頷きました。
―――契約書。それは、この二人にとって未知の存在でした。
伸ばした指先が、ふるふると頼りなく揺れていることにカゼハは気づきました。それは自分のものであったのかもしれません。そうではなかったのかもしれません。時にクーコは、鏡よりも正確に、自らを写すことがあったのですから。
二人の手の平が中央の空白に近づくと、白紙だった部分にうっすらと光の文字が現れます。
―――魔法。
その二文字が脳裏をよぎり、同調した思いは双子を高揚させました。
浮かび上がった文字に呼応するように、周囲のルーン文字にも次々に光が宿ります。
契約の完了までは、文字通り紙一重。
と。その時です。
「駄目だよ」
突然背後から掛けられたのは、聞き覚えのない男性の声でした。
明確な怒りを帯びたその声に、双子は咄嗟に手を引きます。
それと同時に、契約書からは光が失われました。
紙面は、まるで何事もなかったかのように元の静かな姿へと戻ります。
売り子の二人と、いつからか頑なに口を噤んでいた着ぐるみの人物。それぞれの視線が、現れた人物へと一斉に注がれました。
『……』
双子が振り向くと、そこに立っていたのは、やはり見覚えのない人物でした。
額には汗が浮かび、樽のように膨らんだお腹は、今にもはち切れんばかりに上下しています。
顔は真っ赤に火照り、険しい顔つきをしてはいるものの。
その様子が少しも板についていない。そんな、不器用さが全身から滲んでいました。
「やっちゃダメだ。君たち、そんなことしちゃダメだ!」
カゼハは、内心ほっとしておりました。
さりげなくクーコの手に寄り添い、どちらかの手がひとりでに動き出さないように努めます。
安全を確かめるように、ほんの一息おいてから尋ねました。
「おじさん。誰?」
謎のおじさんは、その問いに答えるよりも早く、二人の手を取って歩き出しました。
半ば引きずるような、重い足取りの早足です。
厚い手のひらは、じっとりと湿り気を帯びていました。
必死な様子とは裏腹に、握る力はそれほど強くありません。
早歩き程度の速度でさえ、体幹のバランスが大きく乱れているのがクーコには、はっきりと分かりました。
敵ではない。
クーコは、そう直感します。
「こっち!僕についておいで」
クーコは、知らない内に自らに宿っていたウィリを確信し、彼の温かく大きな手が、どこか遠い記憶にある懐かしいもののように…感じている自分に、彼女自身気づけていませんでした。




