引き金。
階段をばたばたと誰かが駆けあがる音がしました。それに加えて、誰かの必死そうな声も聞こえてきます。
「たいへんたいへんたいへ――ん!!!」
どうやら、それはドロシーのようです。
その音で、ようやく目を覚ましたセイムは、なんどかまばたきを繰り返して、すうっと胸に空気をためて、口の中で舌をむにゃむにゃと動かして、それからゆっくりと息を吐きました。まだ起きたばかりでとても眠く、頭はぼーっとしております。まぶたが何度も閉じかけて、気がつけば、いつのまにか部屋の中にドロシーの姿がありました。
「どうしたんですか?ドロシー・・・?」
セイムは、今日は早く起きられたんですね?とも思いましたが、それが言葉になる事はありません。ドロシーは、なんだか真剣そうな顔をして部屋の中を、さっ、さっ、と確かめて、すぐに下の階に降りて行ってしまいます。なので、セイムは再び、気持ちの良いまどろみに身を任せます。
すると、10秒もしない内に、また階段を誰かが駆けあがって来る音が聞こえてきます。セイムはそれをさっきと同じようにぼーっと聞いていました。
それから現れたのはドロシーです。彼女は相変らず真剣な顔をしていましたが、今度は、長くて銀色の細い髪の毛を後ろに束ねたり、例のごとく、ちょっぴりこじゃれたエプロンを身に付けています。次に彼女は、シャキッと目覚めるどころか、よだれまで垂らしてしまっているセイムのもとに真っ直ぐ向かい、彼の頭にエプロンのひもを通しました。
するとセイムは一瞬だけ起きて、一度だけ呼吸して、また寝て、それから少しだけ目を覚ましました。
「ドロシー?」
返事はありませんでした。
ドロシーはまた、すぐに下の階に降りて行ってしまいます。
大きな波にもまれる船のように、素晴らしい力で一度持ち上げられたセイムの意識は、文字の通り、またたく間に、底の方までぐっと沈んでしまいます。
ここ最近の無理がたたったのかもしれません。
次に目を開けた時には、誰かが目と鼻の先に見えました。いったい誰でしょうか。そう、ドロシーです。その表情は、相変らず真剣そうです。
「・・・ド」
この、どうしようもない寝起きのセイムが、また意味もなく彼女の名前を口にしようとすると、それを遮るかのように、冷たい水で揉んだきれいなタオルが、目のまわりや、口の周りに念入りに押し当てられました。それでセイムはようやく目を覚まします。
「・・・おはようございます。どうしたんですか?」
ドロシーは真剣な顔のまま、何も言わずにセイムの頬を両手で挟んで窓の外に向けました。
するとそこには、信じられない光景が広がっていました。
彼は驚きのあまり、窓枠に両手をついて、身を乗り出して下の方まで見てしまいます。目に映りますは、なんと、人、人、人です。男に女、人とウサギが半分混じったようなふわふわとした者までおりました。
「ど・・・どどどどっどど・・・!」
驚きのあまり、まともに話せなくなってしまったセイムが落ち着くまで、ドロシーはじっと待ちました。
「どうしましょう!?」
ドロシーは、また少しだけ待って、セイムが落ち着いたのを見計らうと。ただ一言。
「いくよ?セイム!」
と言いました。それを聞いて、すっかり目が覚めたセイムは大きく息をして、はい!と答えます。
しっかりとエプロンを身に着けて、二人は転ばないように、それでもとても急いで、階段を駆け下りました。
『いらっしゃいませ!』
新たなシンボルを得たこの村の酒場は、誰の予想にも反して大盛況です。
それは、この場所を訪れたお客さん達が口々に、なぜこんなに混んでいるんだ?と、おもわず愚痴をもらしてしまうほどでした。
ジョッキはあっという間に足りなくなり、ただ座っているだけのお客さんが続出しましたが。その場に集まった人々の目的はと言いますと、同じ気まぐれを起こした人たちと写真を撮ったり、話をしたり、ホールの真ん中に置いてある古い浮きシップの模型を腕を組んでながめたり、旅の途中で得た情報を交換し合ったり、ドロシーと一緒にきみょうなおどりをおどったりする事でしたので、誰も文句を言う人などおりませんでした。
そんな具合で、ここを訪れた親切な人たちが一斉にぞろぞろと帰りはじめる夕方まで、辺境にあるこの小さな酒場の一日は、とても賑やかなものとなりました。
お客さんが誰もいなくなってから、二人は片付けをはじめます。
テーブルを拭きながらドロシーが嬉しそうに言います。セイムは洗ったジョッキの一つ一つをていねいに拭き上げている最中でした。
「きょうはすごかったね?」
「はい」
「セイムがつくったシップみんなほめてたよ!すごいーって!」
「はい」
「コーヒーの在庫はだいじょうぶ?」
「はい」
「あのふわふわした人、ずっと恥ずかしそうにしてたね?」
「あなたがどうしても耳に触ろうとしたからですよ」
「でも、みんなで一緒におどったよ!そしたら触らせてくれたよ!おどりたかったのかな?」
「そうかもしれませんね」
「あしたも頑張ろうねッ!」
「はい」
そんな調子で、二人の会話もいつも以上にはずみます。
片付けがおおむね済んだころです。酒場のベルが鳴りました。二人はすこしだけ疲れていましたが、その音を聞くとたちまち元気になりました。
『いらっしゃいませ!』
相変らず、息もピッタリです。
新たなお客さんは、背の高いがっしりとした若い男で、小さな上着から大胆に覗く体はびっしりと、さまざまなの模様で埋め尽くされていました。早くも何か悪い気配を感じ取ったドロシーをよそに、似たような姿をした女たちがぞろぞろと現れます。
「へえ。すげえじゃねえか。マジで監視カメラがねえのかよ。おい、キングハイザーとクリゴルくれよ」
「あたしパシフィックオレンジね」
「ナッツ&ギーツ」
「わたしはパンタチェリー。氷無しだから。よろしく」
これらは、お酒の名前でしたが。初めて聞く者にとって。それはまるで、意味不明な呪文です。
二人も驚きのあまり何も言えずにその場に立っていました。
「おい、早くしろ」
男がそう言ったので、セイムはようやく我に返ります。
「すみません。お酒は一種類しかないんです」
さっそくテーブルに付いた何人かが、はああ?と、不愉快そうに言いました。彼女たちはしきりに小型化されたグリモア、グリ・フォンで中の様子を撮影しています。
「じゃあいいから、それ持ってきてよ」
あまり見慣れない態度に、セイムも、また、ドロシーも、すっかり恐ろしくなって、まるで生きた心地がしませんでした。ですが、これも仕事の内です。セイムは言われた通りに、彼らのところへお酒を持っていきました。
それぞれの手元にお酒が届くと、彼らはさっそく豪快にそれを飲み干してしまいます。それから、男はプハーと言いました。セイムは、信じられないと言った様子でそれをながめていました。
「ああ。もいっぱい」
「え」
「もう一杯だよ!とっとともってこい!」
「はっはい!」
あわててお酒を取りに行くセイムにドロシーが駆け寄ります。
「セイム?だいじょうぶ?」
「僕はだいじょうぶです。ああ、そうだドロシー。あなたはもう休んでください。明日も、もしかしたら大変かもしれませんし」
「・・・うん」
『おい!なーにやってんだ!はやくもってこい!』
「はい!」
「セイム・・!」
「大丈夫。僕なら大丈夫ですから」
そう言ったセイムの顔はすっかり引きつっておりました。ですが彼は、言われた通りに、人数分のお酒を持ってテーブルへと向かいます。
テーブルでは、男が得意げに話をしていました。
「それでよ、前に潜ったリピートエクスプロアで出た報酬なんだけど。なんと『伝説』等級!ソッコ―で金に換えてシャンデリアに予約したわ」
男の、この発言は、実を言うと半分ほどウソでした。
鹿頭のカトウの取引相手だったこの男は、彼が行方不明になった影響で、本来彼に渡すはずだった品物分、まるまる得をしていたのです。
そうとも知らない女たちは、それぞれがとても大げさなリアクションをとりました。
「えー!シャンデリアって超高級豪華客船じゃない!」
「すっごーい!!」
「ねーえー私も行きたーいシャンデリアー、行きたい行きたい行きたーい!」
「・・・あの」
「ああ、置いといて」
「はい」
4つのジョッキをテーブルに置いている間、セイムは何とも言えない居心地の悪さを感じていました。
男はまるで興味無さそうに、手元に運ばれて来たジョッキを傾けて、にやりと微笑みながら、わざとらしく全員に聞こえるように呟きます。
「けどなぁ。ペアチケットなんだよねえ」
それを聞くと、ずっと楽しそうにしゃべっていた取り巻きの女たちはすっと物静かになりました。
「そうなんだぁ」
「ふーん」
「ざーんねん」
セイムはなぜか、どうしようもなく怖くなって、すぐに元の場所に戻ります。するとすぐにドロシーが彼のもとへと駆け付けてくれました。ドロシーはセイムの手を取って不安そうに大丈夫?と言いました。彼はすぐに、はい。と答えて、本当に休んでもいいですよ?と付け加えましたが、その顔はやはりひきつったままでした。ドロシーもそんなセイムを放っておけるわけがありません。
そのような、ある意味でスリリングなやり取りが何度か繰り返しおこなわれた頃です。
すっかり酔いの回った男がゆっくりと立ち上がって、ふらふらとした足取りでジャージー型浮きシップの前にたどり着きます。あっとドロシーが何かを言いかけて、それをセイムが慌てて止めました。
男はジャージー型浮きシップをぼーっと眺めて、シップに片手を乗せました。
「けっこう、よく出来てるな」
思いもよらない発言に、小さなまゆ毛の間にずっとしわを寄せていたドロシーがぱあっと明るい顔になり、嬉しそうにいいます。
「そうでしょ!?」
男は一言、ああ。と答えます。するとすぐに、女の一人が言いました。
「でも、前に乗せてもらったシップの方がすごかったよねー?ムーンルーフがついててさ!綺麗だったなぁ」
男はまた、ああ。と答えてから付け加えます。
「あれは、大顎カゲロウに落とされちまったがな」
彼女は短く、あ。と口にして、それきり黙ってしまいました。続けて、別の女が言います。
「写真撮ってあげる!」
彼女は、グリフォンを取り出して、男のことをほめながら、なんどもなんどもシャッターを押しました。
すっかり気分の良くなった男は、よろよろとした動きでシップによじ登ります。それを見たドロシーが急いでやめさせようとします。
「ダメ!乗っちゃダメ!!!」
すると男は、シップにしがみ付いたまま、怖い目つきでドロシーを睨み付けました。
「どうしてだよ?」
「壊れちゃうから!」
「そんなことしねえよ。ばーか」
「バカって言った!!バカって言った方がバカなんだよ!!!!バカ!!バカ!!」
今度はセイムが慌てて、ドロシーをなだめます。
それを、自分の都合のいいように受け取った男は、そのままよろよろと小さな操縦席に乗り込んで、自分の姿を女たちに撮影させました。大切なシップの危機にドロシーはもう我慢なりません。そんな彼女を止めようとするセイムも必死です。
と、その時です。
ばきぃっ!!!!!!
それは、木の折れる音でした。
男の体重に耐えきれず、シップは無残にも真ん中から真っ二つに折れてしまいました。片手で頭をなんどか撫でながら、床に尻もちをついた形のまま、男は大きな笑い声をあげました。それにつられて、取り巻きの女たちも大きな声で笑います。
「いっけね。壊しちまった」
「ちょっとぉー!」
「もぉーなにしてんのー?」
彼らはひきつづき、楽しそうに笑っています。
しかし、彼らのゆかいなひと時に待ったをかける人物がその場にただ一人だけいました。
「・・・あやまって・・・・!」
ドロシーです。
ドロシーは肩を震わせながら、両方の瞳に涙を一杯にためてそう言いました。すると男はピタリと笑うのをやめて、睨むように二人の方を見ました。
「あ?」
「あやまって!!!!セイムにあやまってよッ!!!」
「ドロシー!大丈夫ですよ!?僕なら大丈夫ですから!」
すぐにセイムが間に入りますが、ドロシーの怒りはしずまるわけがありません。彼女はついにぽろぽろと涙を流しながら、セイムですら聞いたことのない大きな声で言いました。
「あやまれあやまれあやまれえーー!!!!!!あやまれあやまれあやまれあやまれ!!!あやまれ!!!・・・・・あーやーまーれー!!!」
おおきな声が鳴り響く中で、男はしばらく黙っていました。彼はふと立ち上がると、小さな上着の影から、金ぴかの、あるものを取り出して二人に向けました。すると今度はセイムが必死になって、ドロシーを止めます。彼のあまりの必死さに、ようやくドロシーは静かになって、冷静になった瞬間、とても恐ろしくなりました。
「それ・・・なに?」
男は手に持った物をわずかに持ち上げると言いました。
「野生のモゥモを狩るためのもんだよ」
ドロシーはのどの奥で短い悲鳴をあげます。男の持つそれは、大きな弾が6発も入ったピストルでした。
ようやく大人しくなったドロシーを、セイムは力いっぱい背後に引き込みます。彼は恐怖のあまり、何も言葉を発することが出来ませんでした。
「あ・・・セイム危ない!!」
ドロシーがそう言った次の瞬間です。
どんっどんっどん!!!
セイムを庇うように飛び出したドロシーに向かって。ピストルの引き金が3回も引かれました。
グリフォン・GLIPhone(Global.Link.Informationsharing.Phone)小型化軽量化されたグリモア。簡易鑑定機能や三次元エレメントカメラや感応波補助機能が標準搭載されている。より現実世界のスマホに近いもの。常に実体化している。通信量節約のために従来のページビューシステムが廃止されているためページを破る事はできない。他にも、複雑なサモンまた逆サモンの仕組みを利用した挙動を削ぎ落されているが、これによって、より安価で、より安定したプレイヤー達のツールとして幅広く親しまれている。神聖教会からレンタルするしか入手する手段がないグリモアとは異なり、こちらは、各種メーカーから直接買い取ることが出来るという点も大きな違い。メーカーによってそれぞれ得意とする分野が異なり、最近の流行は浮きシップにも使われるサイズのエレメントコアを内蔵したことによって馬鹿げた記憶領域(180分の映画およそ5万本分)を獲得する事に成功した機種である。
簡易鑑定機能・ディテクションのウィリを持たないプレイヤーでも簡単な鑑定を行うことが出来、それが数値化される。
三次元エレメントカメラ・周囲のエレメントの状況を解析し、その場の風景を立体的に記録、再現することが出来る。また、複数機同時に撮影を行う事で、より広範囲に、より詳細に解析を行うことが出来る。
感応波補助機能・精神感応のウィリを持たないプレイヤーでも、感応波を直感的に捉えることが出来るようになる。仕様上、特定の感応波にフォーカスできないため、いわゆるノイズが多くなるケースが頻発するため当機能は日常生活においてはおおむね不評である。通常はオフにして、限定的な場面ではオンにする利用法が一般的。式典や、音楽のライブイベントなどでは、この機能を純粋に発展させたものを用いる為SWE内での様々な行事は非常に直感的でありまた刺激的。
大顎カゲロウ・SWEの原生生物。強いエレメントに引き寄せられる生物を捕食する巨大昆虫。その巨体さ故、大気中のエレメントの濃度が低い所では飛ぶことが出来ず、必然的に生息域はエレメントの濃度が高い空域に限られる。カゲロウの名の通り、同種はジゴクアリジゴクの成体でもある。




