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私は学校が嫌いです。

作者: 山口久美子

 いじめの加害者だった人物が自分の行いを武勇伝のごとく話すのが普通だった時代があるのだと、そういった記事を見て涙と怒りと恨みが混ざった何とも言い難い感情が、どこにぶつければいいのか分からず毎日毎日心の中に溜まっていた。

 ある時、Twitterで無関係の人間から違う内容に関し侮辱の言葉を投げかけられた瞬間、自分が壊れてしまった。

 人は壊れる。

 体の故障であったり、心の故障であったり。

 とにかく人は壊れる。

 一つ一つに関連性がなくとも、溜まっていったものがちょっとした事で崩れ、壊れる。

 そうした時に支えてくれる存在が身近にいてもいなくてもそういう風になった人間は世界から隔離されて独りぼっちになる。支えてくれる人がいても、そういう状態になっている自分は自分だけで、他人はそういう状態になっていないから。

 私は「分かるよ」という言葉が苦手だ。

 何が分かるのか。

 どうやって分かるのか。

 私ではない人がどうして私を分かるのかが常々不思議だからだ。

 だからこそ、「分かる」と言われる度に「貴方は私の人生を生きていないのに私の全てを分かった気でいるのか」と苛立つことも少なくない。

 言葉の使い道は本当に難しい。




 私の家は私と兄の二人兄弟で、どちらも共に体が弱かった。

 片方が入院し退院したと思ったらもう片方が入院する。

 そういう繰り返しだったと母によく言われた。

 幼稚園の時は園から脱走したり、他にも色々と大人に迷惑を掛ける子供だったらしいが小学生になった頃からは病院生活が多くなった。

 それ以前から私の物が盗まれたり、帰り道で同級生の女の子に道に突き飛ばされて全身が血だらけになったり、うさぎの飼育小屋に閉じ込められる、という「いじめ」を受けていた。ちなみに道に突き飛ばされた時の傷は大人になった今でも両膝と額に残っている。

 だけど私の記憶に一番残っているのは、小学二年生の時だ。

 幼馴染で家も近所だった女の子(N子)が退院して学校に通えるようになった私に言った。

「病気がうつる」

 と。

 以来、私は同級生からばい菌扱いされることになる。

 ばい菌扱い、ばい菌呼ばわりは「いじめ」でよくあるパターンだな、と色々な人のケースを読むと分かる。

 まあ、手洗いうがいをしっかりしましょう、と教育されて育つのでばい菌が子供達にとって一番身近な近寄ってはいけない存在、と認識されている証拠なのだろう。

 東日本大震災の折、福島から引っ越してきた人達を放射能がどうのと言って差別した風潮と変わらない。放射能云々は子供より比較的知能が高いはずの大人でさえ乗っかっていたから存外、人は成長しない生き物だ。

 ともかく、ばい菌扱いはいつしか近付いてはいけない、触れてはいけないもの扱いになり、喋ることも汚い扱いに変わる。

 私が通っていたS小学校は生徒数がそれほど多くはないのでクラス替えがあったとしても大抵は見知った顔ばかりだ。

 N子は発言力が大きい女子ではなかったが、他人に強く出るタイプだった。

 今で言うとDQNと呼ばれる人種なのかもしれない。

 とにかく当たりが強く、そして自分が正しいと思い込んでいるから入退院を繰り返す私はN子にとって病原菌の塊に見えたことだろう。後に小二のN子の「うつる」発言は彼女の母親がそう思っていたからだと判明する。無知とは恐ろしい。

 


 関係ないがちょうどこの時期、私が入院している間に同じクラスの男子生徒Hが掃除時間中、窓から落ちるという事故が起きており新聞にもなったが、その男子生徒は私をいじめていた加害者の一人だったのでその時に死んでくれていればよかったのにと暗い思いを抱いた。



 そして小学三年生の際、クラス替えで初めて同じクラスになったA子と出席番号がひとつ違いという理由から親しくなった。

 私はいじめられている人間だったが何故か人懐こかったようで自分から知らない相手に話しかける事に物怖じしない性格で、妙に積極的なところがある。

 小学三年生の始業式の日、A子と私は友達になった。

 A子とは家がまったく違う方向だったので通学や帰宅は一緒ではなかったが、学校内では一緒にいることが多かった。(最近知ったのだがA子も自分の体質が原因でいじめを受けており、私が始業式の日に話し掛けて友達になった事をA子の母が泣きながら私の母に感謝したらしい)

 A子という友達が出来たとはいえ、いじめは変わらず続いた。

 主に無視が多く、あとは教室では隣と席を付けるのが当時は当たり前だったのだが私の隣の席になった子は誰一人として机を付けようとしない。くせ毛だったこともあり、髪形を鳥の巣と揶揄される。授業中に私が指されると近くの席の子が小声で馬鹿にする。

 この時期はそういう内容だ。

 当時の担任が「いじめは許さない」というタイプの女先生だったので表面上は何もされなかった。



 小学校も5年生になると下級生の面倒を見る機会が多くなる。

 何故か下級生に好かれたので一年生や二年生の面倒を見たり、一緒に遊んだりした。

 二年生が授業で郵便局ごっこのような事をしていたのでその可愛い郵便屋さんがよく手紙を持ってきてくれたのを覚えている。返事を出そうとしたら手紙の大きさが違うと二年生の先生に注意された、という失敗もある。

 一年生の教室の掃除は高学年が手伝うルールで、弟妹がいない私としては小さい子達が可愛くて可愛くて弟か妹が欲しくなった切欠がこれかもしれない。

 それと同時に担任の先生に言われ、クラスのある男の子の世話をするように頼まれた。

 その男の子は私と同じく入退院が多く、勉強も進んでいなかった。

 私はというと、入院している間はベッドから動けない時間が多く退屈で読書と勉強(特に理科)にハマっていた為、成績が良かったらしい。「らしい」なのは学年の順位が分からないし、他の子の成績に興味もなかったので自分の成績がどの程度の位置にあるのか知らなかったからだ。当然、塾にも通ってなかったから。

 ともかく、同級生の男の子の世話を頼まれ、病気や勉強のことだけでなく彼の体操着や赤白帽子に彼の名札を縫い付けるのも私の役目だった。

 病院でも同じ時期に同じ病棟に入院してたりしたので他の子よりは親しかったのだとは思う。

 今思うと、同年齢の女子に面倒を丸投げするのは担任教師としてどうなのだろう、と考えなくもない。

 この時の担任から中学は私立を受験してはどうかと打診された。

 私の成績なら問題なく合格できるし、私立に行けばいじめ加害者達から離れられるという理由で担任は受験を勧めてくれた。

 いじめから逃げることを許さない母も私立の受験のためと問題集を私に買ってくれた。

 ということで、塾や家庭教師などはなく、問題集一冊で受験することになったのである。

 



 ちなみに当時の私の家庭環境はというと、父はレストランを経営しておりあまり接した記憶がない。

 母も仕事をしており、兄に面倒を見てもらった記憶が朧気にある。

 兄とは年が離れていたので共働きの両親に代わり食事を作ったりしてもらったらしいがよく覚えていない。兄が友達を家に連れてきてテレビゲームをしているのを見ていた記憶だけはある。(この辺りで兄にガンダムの英才教育を受けた。今の私のロボット、メカ好きは兄の影響だろう)

 小一の時、私は1週間弱、登校拒否をしたが最終的に母に強引に学校前まで連れていかれ、教師に引き渡され登校拒否が出来なくなった。

 家で私のいじめの話になった際、私がいじめを受けていることに対し「嘘吐いてない?」と母に訊かれた。

 家の前で母と一緒にいた時に同級生H(小二の時に窓から落ちた男子生徒)から私が「ごきぶり食べるって本当?」と聞かれたのに母は特に何も言わなかった。

 天然パーマをからかわれるので髪をまっすぐにしたいと訴えたが大人になって自分のお金でしなさいと言われた。

 この時期で覚えているのはこのくらいだろうか。

 病院生活が多かったこともあり、家族との記憶は多くない。

 看護師さん達が私の描いた絵をよく褒めてくれたのでそれが嬉しかったという思い出の方が多い。

 一度、私が学校の授業で描いた絵がコンクールで受賞し、病室まで担任の先生が賞状やらを持ってきてくれたのだが、その場に母がいたはずなのに母は私の絵にほとんど興味を示してくれなかったので私が描くのは看護師さんをモデルにしたのが多かった。

 看護学校の生徒さんをうさぎ風に描いた絵を喜んでもらったのが一番強く覚えている。


 もう少し成長して知ったのはこの頃、母は父方の家から私達兄妹が病弱なのは母のせいだと強く責められていて苦しかったそうだ。実際は父方の遺伝によるもので、それを父方の家は知っていたのだが母に伏せていた、という大人達の汚い事情があったようでやはり大人や子供という年齢的な枠組みに関係なく、誰かを弱者にしないとすまない人間は世の中に多く存在すると知った出来事。

 そして、父方の祖母は私達兄妹を私立の幼稚園、小学校と進ませたかったそうで、それに反した母と仲が悪かった。

 父方の家は学歴大好き人間の集まりで、大学卒業していない人間を人間と認めていない。

 そんな中、私の父は料理人となるため高校卒業後に料理の道へ進み、また母も家庭の事情から中卒ということで父方親族からは疎まれていた。

 それでも父が長男ということもあり、また父の弟である次男は女性関連のことで祖父が存命中に勘当されているので本家跡継ぎが父しかいないというジレンマが面倒な状態だったようだ。

 当時は母方の親族としか付き合いがなかったので父方の親族について私は何も知らなかった。

 父と母が結婚した理由についても父方の、私から見て曽祖父に当たる人が決めたことで、誰も逆らえなかったため、その膿が曽祖父没後に噴出して歪んだ親族関係が生まれたのである。

 この辺りのことは私が大人になった未だに非常に面倒な事情になっていて、私が母と関係を切りたいのに切れない理由の一つにもなっている。ちなみに私の成人式の振袖は親族の中では表向き祖母が買ったことになっているが全額私負担である。親にすらお金を出してもらわなかったのは、お金を出してもらう=親の好みの着物にしなくてはならない、という理由からだ。




 中学生になると私は私立中学ではなく校区の市立T中学へ進んだ。(受験に関しては語ると非常に面倒なことになる。)

 T中学校は私達が第一回入学生となる新設校だ。

 ベビーブームの時に子供の数の増加から新しく作られることが決まり、完成した時にはもう少子化が始まっていたという代物なのだが、当時にしては最新的な学校で、授業でパソコンを取り入れるモデルケースとして視察に来るお偉いさんがとても多かった。

 このT中学校には私のS小学校の生徒全員と、その隣校区のK小学校からおよそ半分の生徒が入学した。

 校長先生がかなり変わった人で、よく言う「校長先生の長話」がなく、時には「分かっているよな」の一言で始業式等の校長先生の挨拶が終わった。有名な某中学校ドラマの主人公役教師のT田氏が教育実習生だった際、担当したのが当時一教師だった校長先生だと入学後に知った。

 校長先生の持論は「正直者が馬鹿を見ない学校」だと入学式で知り、この時点での私は教師にも(大人にも)まともな人がいるのかもしれない、といくらか校長先生に期待をしていた。


 中学校の入学式で私は同じクラスになったWちゃんと親しくなった。

 彼女はS小出身ではなく初めて会うK小の子で話もとてもよく合った。出会った初日の入学式の時点でお互いの家に遊びに行く約束をするほどに仲良くなった。

 中学に進めば子供じみたいじめはなくなると私は母に何度も言われていたので、Wちゃんと仲良くなったこともあり中学生活はすっかり楽しいものになるのだと思っていた。A子とは相変わらず通学路が違ったが友達という関係は続いていたので、やっぱり中学生になると皆大人になるのだと、そう考えていた。

 その考えが甘かったと知るのは入学式の翌日だ。

 学校へ行き、仲良くなったWちゃんに声を掛けた時、私は無視された。

 たった一日の間に普通に話していたK小の子達も全員がS小の人間と同種になっていた。

 悪事千里を走る、とはまさにこれだ。

 悪事というのは私としては嫌な言葉だが私が「いじめの標的」だと入学式が終わり、翌日の通学までの間で広がっていた。

 楽しくおしゃべりしたWちゃんは、実際に自分で接して知った私ではなく、他人から聞かされた私を真実にした。私と何も話したこともない人間ならともかく、私と話して一緒に笑って、家で遊ぼうと言ったその人物が自分で接して知った私ではなく、周りから聞かされた話の方の私を真実としたのが悔しかった。

 そんなにも他人の、集団の評判が事実よりも大事なのかと許せなかった。

 後になり校内弁論大会でWちゃんはこの時の事を反省する作文を書き、教師と共に私にその時のことに対して許してほしいと謝罪しに来たのだが、私は既にWちゃんという人間を見限っていた。私に関わってほしくない卑怯で汚い人間としかもう見えないのだから仕方ない。

 


 中学でのいじめは暴力的なものが加わってきた。

 無視なら私も相手をする気がないのでどうでもいいと思えたが、私に接してくるタイプのいじめになるとそういう訳にいかない。

 幸い、私は勉強と絵で評価を得ていた。

 ただし、病弱なのは変わらず、通学の日数は少ない。

 それでいて病院での暇な時間に勉強をするのだから試験での点数はいい。

 そこからカンニングだの教師から贔屓されているだのと、なっていくのは皮肉だ。

 好きで走れない体に生まれたわけでもなければ、好奇心から勉強に興味が出たのも私の責任ではない。たまたま私がそういう人間だというだけだ。

 授業でクラスの半数以上が分からなかった問題を私があっさり答えたからといって妬まれても困る。その理論で言うなら体育の時間、普通に走れている子達を私は妬んでいじめていいことになってしまう。

 中学でのいじめはN野という男子生徒が特に強く出てきた。

 N野は私と同じS小出身で、小一の頃から私の持ち物を盗んだり汚したりしてきた最低の人間だ。

 私は別にN野と接したりしていなかったがこれまた面倒な大人の事情がN野と私にはあった。

 

 N野の家は商売をしている。

 そして私の父方の家、その中でも祖母はN野の家の仕事上での平社員と社長的な関係だった。

 無論、そんな事情を父方親族と疎遠の私が知るわけはないのだが、N野の家は知っていたらしい。それでいてN野が私に常習的に嫌がらせをしても消しゴムを盗んだ際に私の母に謝りに来た、その一回だけしかN野に謝られたことはないし、私への直接の謝罪はなかった。

 

 そのN野は野球部に入り、私へのいじめに部員を使うようになった。

 後輩が出来れば校門前で野球部が待ち伏せをしており、私一人を取り囲んで罵倒する。

 校門という、他の生徒も先生もいる場所で、だ。

 A子とは帰り道は違っても校門まではたいてい一緒だったが、その日も一緒だったA子は遠巻きに見ているだけだった。野球部がいなくなり、私が校門近くの水道で顔を洗いに行く際にA子が「大丈夫?」と近付いてきた時にはA子が本当に友達なのか怪しく思った。

 誰も助けてくれる人間なんてこの世界には存在しないのだと知った瞬間である。

 後日、私は職員室にて教師達からN野がいかに「良い人間」なのかを懇々と説明された。時間にして二時間ほどだったか。年下を思いやる良き生徒であり、家の手伝いもし、実にリーダーシップにも優れ、とてもとても良い人間なのだとN野について説明され、そんなN野のことを理解するようにと言われた。

 そんな話をする教師達を見て私は「この人達は頭がおかしいのではないか」と疑問に思った。

 中学生という子供から見ると教師という大人はとても優れていて権力もあり偉大な人物に感じるが、大人が頼りにならない、言葉を悪く言えば何の役にも立たない存在だととてもよく理解できたのがこの事例だ。

 先に書いた入学式での校長先生による「正直者が馬鹿を見ない学校」なんてのは校長先生の頭の中にしか存在しない。

 それが現実なのだとよくよく思い知った。

 だから私は校長先生にぶつけるつもりで校内弁論大会用の作文を書いた。

 私が学校という場所がどれだけ嫌いで、理不尽ないじめに遭い続けているのか、そういった思いをすべて作文にした。本当に校長先生が「正直者が馬鹿を見ない学校」を夢見ているのなら現実を知ってくれ、とその思いのままに作文を書いた。

 私は学校が嫌いです、の書き出しから今までのことを全て書いた。

 クラスのみんなの前で一人一人が作文を発表し、私がクラス代表に選ばれ、各クラスの代表が学年全員の前で作文を読み、そこから学年代表が選ばれる。

 私の作文は学年の代表になった。

 同じ学年の皆から受けたいじめを皆の前で発表し、私が今までどんな気持ちでいたのかを吐き出した。どれだけ同級生達を憎んでいるのか、吐き出せるのは弁論大会しか場所がない。

 クラス代表も学年代表も生徒による投票で選ばれた。

 いじめ加害者にとって好ましくない内容で、同級生の多くが加担してきたことなのに私の作文が学年代表に選ばれたのは彼等の中にも多少なりとも罪悪感や、他の子の手前いじめに反対できない空気があったからなのかもしれない。

 そんなの私にはどうでもいいけれど。

 目の前で起きているいじめを素知らぬふりしてきた同級生達全員が私の前では等しく加害者だ。

 率先していじめに加担したわけじゃないから、なんて言葉を聞く気なんてない。実際、学年代表に選ばれたところで同級生達の私に対する態度は何一つとして変わらなかった。

 弁論大会の予行練習が代表生徒と二人の先生とで行われた。

 実際に書いた作文を代表生徒が体育館で本番さながらに読み、弁論大会の流れを教えられた。

 そして、私が作文を読み終わった後、二人の先生が私に作文の書き直しを要求してきた。

 曰く、「こんな内容を読むといじめが酷くなるかもしれない」

 先生二人の言葉の途中で私は喉の不調を訴え、その場を去る許可をもらった。

 この時だけは仮病を使った。

 そうしなければN野がどれだけ良い人間かというとんでも話を聞かされる流れになる。

 中二心に「私の邪魔するならお前ら死ねよ」と教師二人に対して思っていた。

 本番の日、もちろん作文は一切書き直さず私は全校生徒と全教師の前に立った。

 怖かった。

 手は汗だくになってたし、震えてもいた。

 同学年の列を見てもっと怖くなった。

 こいつらから私は見下されて嫌がらせされ続けてるんです、なんて人前で公表するのだからとても恥ずかしいし、自分がそういう扱いを受ける弱い人間なのだと言葉にするのは屈辱でしかない。

 たぶん、私の声は震えていたんじゃないだろうか。

 校長先生を睨みつけながら私は作文を読んだ。

 ちゃんと言葉になっていたか分からないけれど、校長先生に助けてほしいという思いで作文を読んだ。

 本気で校長先生が「正直者が馬鹿を見ない学校」にする気があるのなら私を助けてみろ、という気持ちだった。

 作文を読み終えた後はとにかく疲れて頭が真っ白になった。

 これで何かが変わればいいけど、と思いつつ、諦めてもいた。

 今まで誰も助けてくれなかったのに作文一つで変わるはずないよな、と。

 実際、何も変わらなかった。

 小学校、中学校の9年間、私はずっといじめられ続けた。

 校門での一件ですっかり男が怖くなっていたし、友達なんて関係に意味がないのも分かった。

 大人になった今なら警察に訴える方法もあったと思い至るが、家族さえ味方になってくれなかった中学生の女の子にそこまでの考えが思いつかなかった。




 高校は公立の女子高に進学した。

 男が怖かったし、T中学からその高校へ進む子はほとんどいなかった。一人だけ同じT中学出身の子がいたらしいが接触する機会はなかった。

 高校ではいじめを受けることもなく、友達もたくさん出来た。

 勉強も問題なかったし、いじめというストレスがなくなったからか体もいくらか頑丈になった。運動も少し出来るようになり、これまであまり運動できなかった反動か高校一年生での体力測定で意外と自分が足が速いことに驚いた。

 体力測定の結果を高校で出来た友達と比べっこして瞬発力がずば抜けていたのは自分でも驚いた。といっても持久力はないので運動が苦手なのは変わらなかったが自分でも思いがけず新体操部に入部した。

 残念ながら大会前に勉強のし過ぎで手首を怪我し、それをきっかけとして先輩達からの当たりが強くなったので幽霊部員になった。

 私としては高校三年間で一日しか休まず通学出来たことを何より一番に褒めてほしい。

 卒業式の日に担任の先生に皆勤賞としてもらったマグカップは今でも大切に使っている。

 今はもう高校時代の友人とは付き合いがなくなったが、高校卒業後も何年かはずっと皆で仲良くしていたし、結婚式にも友人として出席させてもらえたりしたので、私という人間は虐げられ嫌われるだけの存在じゃないと少しだけ自信を貰えた。

 

 その後、親友とも呼べる間柄の子に裏切られ小中学校のこともあり心療内科に入院することになるのだけれど……。


 いまだに男が怖い。

 人が怖い。

 心療内科への通院も続いているし、ごく最近まで再度心療内科に入院もした。

 家族関係の問題も解消は難しく、一人暮らしをしたものの母の過干渉にも悩まされている。

 生き辛いとは思う。

 早く楽になりたいという気持ちは大小の波はあれど常にある。

 今、精神障碍者の支援センターにたまに通っている。

 私が暇つぶしで作ったヘアアクセが売れているし、私の描いた絵もポストカードやカレンダーに使われ売れている。私が薦めた本を面白いと言って読んでくれる人もいる。

 最近入院していた際、病棟を移る折に他の患者さんから手を握って「いなくならないでほしい」と言われた。心療内科の性質上、病棟が変わると会う機会がなくなるので本当に寂しがってくれているんだな、と嬉しかった。

 高校で友人が普通に出来たことや、中学の入学式に親しく話せた子がいたこと、いじめで辛かったけれど私自身がいじめられて当然の人間ではないと知る機会は何度かあった。

 高校卒業後のアルバイトで偶然にも同級生の妹の家庭教師になったがその子は私にとても懐いてくれた。いじめ加害者の妹に勉強を教えるのはいささか複雑な心境だったが同級生には会わずにすんだし、妹ちゃんは私がいじめ被害者だと知らなかった。それにバイトとはいえ仕事なのだからその辺りは割り切った。

 いじめ加害者は皆殺しにしてやりたいくらい憎い。

 特にN野とN子は親、子供、親族、その血のすべてを消してやりたい。

 他にも酷い目に遭わせてやりたい人間はいる。

 お前達さえ居なければもっと違った人生を歩めたのに、といくら憎んでも足りない。

 もし私をいじめた輩がその出来事を自分の武勇伝として語っているなら私は絶対に許さない。一生許す気はない。

 それだけの許されないことをしたのだと思い知らせたい。

 私をこんな風に醜く歪ませた罪を絶対に一生忘れない。

 人の人生を壊したのだから加害者もまたその罪に値する償いを受けて是非とも壊れてほしいものだ。  

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― 新着の感想 ―
[良い点] 社会に構造的な欠陥的がある事は唾棄すべき事実です。そのような時代に生まれた以上自分の意思くらいは自ら尊重したいと感じます。
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