ふわふわともこもこ
ワガハイはふわふわである。名前である。名前がふわふわである。ご主人とふたりでこの家に住んでいる。いつからだったかは覚えておらぬ。気が付いたときには、ワガハイはもうご主人とふたりであった。
こっちはご主人である。名前はない。あるかもしれぬが知らぬ。ご主人はご主人である。ご主人はワガハイが大好きである。ゆえにごはんをくれる。ごはんの礼にワガハイはご主人と遊んでやる。シッポを触られても許してやる。うっとうしいと思うこともあるが、ワガハイは大人なので我慢してやる。ご主人に撫でられると、ワガハイもまんざら悪い気はせぬ。つまりワガハイとご主人は、運命的運命によって結ばれた運命? なんだかよく分からなくなってきたのである。運命などどうでもよいのである。お腹が空いたのである。
今日、ご主人は朝からおでかけである。ワガハイはお留守番である。つまらないのである。ティッシュを箱から出すのである。……おお、意外と楽しいのである。
しかし今日はずいぶんと遅いのである。そもそも、ワガハイを置いてでかけること自体が納得いかんのである。ワガハイも連れて行くべきなのである。でもお外はちょっぴりコワいのである。やっぱりご主人が出掛けるのがいかんのである。さみしいのである。
「ただいまー」
ようやく帰ってきたのである。遅いのである。遅いのである! お腹と背中がくっつくのである。ワガハイ、ひとりではごはんが食べれんのである。いや、食べれんのではない。食べる気にならんだけである。ひとりはおいしくないのである。
「遅くなってごめんねー。お留守番ありがと――おぉう、ティッシュがひどいことに」
ご主人はワガハイに手を伸ばす。ふふん、ワガハイを撫でようというのだな? やはりご主人はワガハイが大好き……ん? なんだこのニオイは?
「フーーーっ!!!」
ワガハイは全身の毛を逆立てて怒りを表した。こ、このニオイ、さては別の生き物と戯れておったな!?
「あー、バレたかぁ。ご機嫌取ってからと思ったんだけど」
ご主人は苦笑いを浮かべると、玄関に向かい、小さなカゴを抱えて戻ってきた。そしてワガハイの前に置くと、カゴのフタをそっと開けた。するとその中には、
「みょみょみょみょみょ」
妙な声で鳴く変な生き物がいた。このニオイ、さっきご主人からしたものと同じである。つまりコイツはご主人をたぶらかした犯人である。いったいなんなのだコイツは。ワガハイよりも二回りほど小さく、まんまるで、なんだかもこもこしている。
「今日から一緒に暮らすことになった、もこもこくんです。よろしくね、ふわふわ」
もこもこ、と呼ばれたそれは、カゴの中でぷるぷると震えている。ふふん、ワガハイの偉大さに怖れをなしておるのか。いい気味なのである。ここはワガハイのナワバリである。お前のような何者とも知れん毛玉はさっさと立ち去るがよい。
「みょみょみょ、みょみょみょ」
お、なんだか妙な声を上げながら、もそもそとカゴを出ようとしているのである。えぇい、なまいきな。身の程を知るがよい!
「フーーーッ!」
「みょみょみょ!」
ふっ、見たか。急いでカゴの中に戻っていったのである。丸い身体をますます丸くしておるわ。思い知ったか。己の領分をわきまえよ。
「こらっ! ふわふわ! イジワルしない!」
な、なぜワガハイを叱るのであるか!? 悪いのはこのちび毛玉である! ワガハイのナワバリに勝手に入ってくるのが悪いのである!
「ごめんねー、怖かったねー。だいじょうぶだよ、もこもこ」
ご主人はカゴからちび毛玉を取り出し、胸に抱えて頭を撫でた。ちび毛玉はあわれっぽく「みょみょみょ」と鳴いている。ち、ちがうぞご主人! だまされてはならぬ! おのれちび毛玉! ご主人の同情を引くとはなんとあくらつな! ワガハイはご主人をちび毛玉の魔の手から救うべく、ヤツに飛び掛かった!
「いたっ!」
し、しまった! ワガハイの鋭い爪はちび毛玉でなく、ちび毛玉を抱えていたご主人の手を引っかいてしまった! ご主人、痛そうな顔……ち、ちがうのである! ワガハイ、ご主人を傷付けるつもりは毛頭ないのである!
「ふわふわ……」
ご主人が少し涙目でワガハイを見る。お、おこる? おこる? ワガハイ、そんなつもりではなかったのである。ごめんなしゃい……
「ごめんね、ふわふわ。急に、びっくりしたね」
ご主人はワガハイの前に膝を突き、ワガハイの頭を優しく撫でた。あ、あれ? おこ、らない?
「でもね、もこもこには帰る場所がないの。だからここに置いてあげてくれないかな? お願い、ふわふわ」
ご主人はおこっていないけど、さみしそうな顔でワガハイを見ている。むぅ。このちび毛玉、宿無しであったか。確かにこの寒空にちび毛玉を放り出すのは、しのびないと思わないでもないのである。それにご主人はやさしいご主人だから、そんなことはできぬというのもわかる。ワガハイはご主人の胸に抱えられているちび毛玉を見上げた。ちび毛玉はまんまるな黒い瞳でワガハイを見ていた。
「みょみょみょ」
ワガハイはゆっくり、驚かせぬようにちび毛玉に近付いた。ちび毛玉はふるふると震えておる。ワガハイはちび毛玉に顔を寄せ、なめてやった。何度もやさしくなめてやると、ちび毛玉のからだの震えが、止まった。
「ありがとう。やさしいね、ふわふわ」
……ふん。今回はご主人の顔を立てて、ワガハイのナワバリにいることを許してやるのである。だが憶えておけ! ご主人が大好きなのはワガハイであって、お前はついでに過ぎぬ! お前はあくまでワガハイより下、ワガハイの子分である! ゆめゆめ忘れるでないぞ!
ワガハイになめられて、ちび毛玉、もとい、もこもこは、気持ちよさそうに目を閉じた。慣れぬ環境に疲れたのであろう、もこもこはそのまま、すやすやと寝息を立て始めた。
……
まぁ、その、なんだ。寝ている顔は、カワイイのである。それなりにである! ワガハイの方がカワイイのである! だが、見るに堪えぬということはない。一緒にいて不快だとも言えぬ。明日あたり、ちょびっと遊んでやったりもしなくはないことはやぶさかでもないのである。ちょびっとだけな!
そして、翌日の朝――
……
……せまいのである。
……なにゆえにか、せまいのである。
どうしてお前がワガハイの寝床にいるのであるか!
「みょみょみょ」
ええぃ、あわれっぽい鳴き声を出すでないわ! お前の寝床は隣にご主人が用意してくれておるではないか! 出て行くがよい! 安眠妨害である!
「みょみょみょ」
だからあわれな声を出すなと言っておるであろうが! ワガハイが悪いみたいではないか! 致し方ない、こうなれば実力を以て排除し――
「こら、ふわふわ! いじわるしないの」
ち、ちがうぞご主人! 悪いのは十割このちび毛玉である! ワガハイは正当な権利を主張しているに過ぎぬ! ワガハイがワガハイの寝床で思う存分ゴロゴロしたいと思うことに何の罪があろうか!?
「みょみょみょ」
ご主人の加勢を受けてじゃっかん図太くなった鳴き声を上げ、もこもこはもぞもぞとワガハイのおなかに身体を寄せた。おのれ、厚かましいにもほどがあるぞ!
「ふわふわのおなかが気に入ったのかな?」
ご主人がこちらを見て目を細めた。ぐぬぅ、ご主人が、うれしそうである。たしかにワガハイの、普通よりもじゃっかん丸み具合が増量されたおなかのもちもち新触感は、触れると気持ちが良いのかもしれぬ。しかし! これでは! 寝返りがうてぬ! 寝返りを気にしては安眠できぬ! どうしてワガハイが一方的に犠牲にならねばならんのだ!
「ふふ、かーわいい」
……ご主人が笑っておる。くぅ、ここはワガハイが折れるしかないのか。これが大人のわびしさか。ワガハイ、今、大人の階段をひとつ、昇っておるのであるか。
よぅしわかった! ここは大人のワガハイが譲歩しようではないか! 我がもちもちおなかを提供してやろうではないか! このような幸運、二度とあるまいぞ! 感謝せよ、もこもこ!
「みょみょみょ」
……のんきな声を出しおって。本当に分かっておるのか?
そして、その日のお昼――
……
……少ないのである。
……なにゆえにか、少ないのである。
どうしてお前がワガハイの皿からごはんを食べるのであるか!
「みょみょみょ」
不思議そうな顔をするな! お前のごはんはこっちの小さい皿のほうである! なんかこう、ふやかしたほうのやつである! そもそもちびのお前が、大人のワガハイと同じものを食べてよいのか!? おなかをこわしたりせんのか? 鉄の胃袋か! おのれ、こうなったら実力を以てごはんを守るしか――
「こら、ふわふわ。ケンカしないの」
だ、だから違うのであるご主人! 今度も悪いのは十割ちび毛玉なのである! コイツがワガハイのごはんを横取りするのである! 横取りする方と横取りされる方では、横取りする方が悪いに決まっているのである!
「ありゃりゃ、ウェットなのはお気に召さないかな?」
ご主人はもこもこ用の小さい皿に入れてあったごはんを片づけ、ワガハイとおなじごはんを改めて入れた。ご主人、こんなわがままなちび毛玉にそこまで気を遣う必要はないのである。食べぬならごはんぬきの刑でよいのである。ご主人はもこもこをあまやかしすぎである。そしてもこもこよ――
なんでまだワガハイの皿からごはんを食べておる! お前の皿はそっちなのである! こっちはワガハイのなのである! 中身も同じなのに、なにゆえワガハイのごはんを食べたがるのであるか!?
「ああ、ふわふわが食べてるものが食べたかったのね」
ご主人はもこもこを抱きかかえ、皿から離した。
「みょっぷ」
それはげっぷなのか? どう考えても食べ過ぎである。おなかがパンパンではないか。そしてワガハイのお皿にはもうほとんどごはんが残っておらぬではないか。
「ごめんねー、ふわふわ。そっちのお皿のも食べていいから」
もこもこの背中をさすりながら、ご主人はお部屋を出て行った。しょんなぁー。もこもこのお皿のごはんを足しても、だいぶ少ないのである。ただでさえ、最近ご主人はワガハイのお腹を見てごはんを減らしているのである。陰謀なのである。権力の横暴である。お腹が空いたのである。食べるのである。食べ終わったのである。
……ひもじいのであるー。
そして、その日の午後――
……
……落ち着かないのである。
……なにゆえにか、落ち着かないのである。
どうしてお前はワガハイのシッポに戦いを挑むのであるか!
「みょみょみょ」
真剣な顔でかみつくでないわ! 別に痛くもなんともないのであるが、もうね、ワガハイのシッポ、ベトベトよ? えぇい、そろそろいい加減にせぬか!
「フーーーッ!」
「みょみょみょ!」
ワガハイが牙を剥いて威嚇すると、もこもこはびっくりしたように飛び跳ねてテーブルの脚の後ろに隠れた。ふん。思い知ったか。
「あー! こら、ふわふわ! もこもこをいじめないの!」
そ、そんな、ご主人! どうしてワガハイを叱るのであるか!? 悪いのはもこもこである! ワガハイは寝床を奪われ、ごはんを奪われてなお、必死に耐えてきたのである! 健気である! かわいそうである! もっとほめてほしいのである!
……そうか。もう、ご主人はワガハイのことが大好きではないのであるな。ご主人はもこもこが大好きなのであるな。ワガハイのことはどうでもいいのであるな。ワガハイは、いないほうがいいのであるな。
……わかったのである。わかりたくないけどわかったのである。ワガハイ、ここを出て行くのである。ふたりとも、どうか、幸せに! さよなら!
「あ、ちょっと、どこ行くの、ふわふわ!」
ご主人に背を向けて、ワガハイはお部屋を飛び出した。
「……こんなところにいたの」
話しかけないでほしいのである。ワガハイ、もうお部屋を出たのである。
「そんなお風呂場の隅にいないで、こっちに来て」
……本当はお外に行こうと思ったのである。でもお外はちょっぴりコワいのである。でもでも、お風呂場はお部屋よりも寒いのである。充分に試練である!
ご主人は小さく息を吐いて、ワガハイの隣に座り、ワガハイを持ち上げて胸に抱えた。
「初めてウチに来た日のこと、憶えてる?」
……憶えておらぬ。ワガハイ、当時はまだ子供であったゆえ。
「雪が降っててさ。ベンチの下で、あなたは丸まって震えてた」
……まったく憶えておらぬ。ワガハイ、このおうちでぬくぬくしておる記憶しかないのである。
「すっごいちっちゃかったんだよ。両手に乗るくらい。今のもこもこよりちっちゃかった」
……また、もこもこ……やっぱりご主人は、ワガハイよりもこもこのほうが……
「ほっとけなかったんだよねぇ。このままじゃ死んじゃうって思った」
ご主人はワガハイを撫でながら懐かしそうに言った。……ああ、なんとなく、思い出したのである。とても寒い場所から、なんだかあったかい場所に連れて行かれて、ワガハイ、ここはてんごくかと思ったのである。
「おっきくなったよねぇ、ふわふわ」
感慨深げにそう言って、ご主人はワガハイを抱きしめた。確かに、ここに来た当初に比べてワガハイはずいぶんと大きくなったものだ。おもにおなかまわりが。
「もこもこもね、おんなじなんだ。草むらの影で鳴いてた。この寒空に、ひとりでさ」
ご主人がワガハイを抱きしめたまま、つぶやくように言った。お風呂場の外から、もこもこの鳴き声がかすかに聞こえる。
「みょみょみょ、みょみょみょ」
「もこもこが呼んでるよ、ふわふわ。もこもこはふわふわが大好きなんだよ」
ご主人がお風呂場の入り口に目を向けた。ワガハイも同じ場所を見る。
「守ってあげたいんだ。守ってあげようよ、私たちで、あの子をさ」
ご主人はワガハイを抱えなおし、間近に顔を突き合わせた。ご主人がワガハイの目をのぞきこむ。再びもこもこの鳴き声が聞こえた。
あいかわらず妙な鳴き声である。こんな妙な鳴き声の生き物はついぞ知らぬ。少なくともワガハイの周りにはいなかった。と、いうことは、あのちび毛玉には、仲間がおらぬということであろうか? 自分と同じ生き物が、どこにもおらぬのであろうか? ひとりぼっちで、生きてきたのであろうか? あんな、ちびのくせに。
……
……致し方あるまい。ご主人にこうまで頼まれては、嫌と言うわけにもいかぬ。それにきっと、これはワガハイのステージが上がったということなのだ。守られる側だったワガハイが、守る側になるのだ。ワガハイはもはや自分の力で誰かを守ることができる存在なのだ。ふっ、さらば幼き日々よ。ワガハイ、今この時から、名実ともに大人なのである! ワガハイはご主人の目を見つめ返すと、力強くうなずいてみせた。ご主人はとてもうれしそうに笑って、再びワガハイを抱きしめた。
「ありがと。ふわふわ、大好きっ!」
ふっふっふ、やはりご主人はワガハイが大好きであるな! もこもこのほうが大好きだなどと、そんなことはワガハイの錯覚であったな! ご主人はもこもこも大好きかもしれぬが、だからといってワガハイの大好きさが失われるわけではないのだ! そんな当然のことになぜ気付かなかったのか。気の迷いとは恐ろしいものである。
ご主人はワガハイから手を離し、お風呂場の扉を開けた。扉の前にはもこもこがいて、あの妙な鳴き声を上げていた。そうあわれな声を出すでないわ。これからはワガハイがお前のことを守ってやらんでもな――おふぅっ!?
もこもこはワガハイの姿を見るなり、ものすごい勢いで我がもちもちおなかに突進してきおった! いきなり何をするのである!? いくらワガハイのもちもちおなかがあらゆる衝撃を吸収する魅惑の新素材とはいえ、ちょっとは痛いのだぞ!?
「みょみょみょ! みょみょみょ!」
……あー、わかったわかった。もうどこにも行かぬ。行かぬからもう泣くな。ちょっとおおげさであるぞ、まったく。ワガハイのおなかにひしっとしがみついて離れぬもこもこを、ワガハイはやさしくなめてやった。
ワガハイはふわふわである。名前である。名前がふわふわである。かつてはご主人とふたりでこの家に暮らしていた。今は、ご主人と、妙な声で鳴くちび毛玉といっしょに、さんにんで暮らしている。ご主人も、ちび毛玉のもこもこも、ワガハイのことが大好きである。ふふん。