08
あんな言動をしていたしこちらに向いてくれている――と思っていたのが馬鹿みたいだったと気づいたのは4日後の朝だった。
程度の差はあれども、他の子にも同じような対応を、そして似たような言動をしていたことが分かった。
最初は割り切れた。
友達がいることは分かっていたし、その子たちとの関係を優先していることから大事にしていることはある程度予想することができるためだ。
でも、その回数が増えれば増えるほど、時間が経過していくほど段々と内側の気持ちも変わってきてしまい、誘われても家の掃除があるとかお買い物に行かなければならないとか言い訳をして避ける毎日となっていた。
勉強を教えると約束していたのにそれもせず、テストもひとりで乗り越え、5月が終わり6月に突入した。
「あ、傘を忘れたわ」
避けていた罰だろうか、帰ろうとしたタイミングで雨が降ってきてしまう。
「うわ……このタイミングで雨が降ってくるとか最悪じゃん……ん? あ、水嶋じゃん」
「あなたは……」
あ。あのとき私に邪魔だと言ってきた子だ。
あれからすっかり来ることもなくなっていて、こちらもすっかり忘れてしまっていた。
「なに? あんたも傘を忘れたの?」
「ええまあ……」
「あっそ。ま、わたしは溝口くんに入れてもらうからいいんだけど」
そういう繋がりがあったとは思わなかったから、「そうなのね」と呟いておいた。なるほど、だから私の席に座っていたのかとも納得がいったが。
「ごめん、待った?」
「遅いわよ徹。ふんっ、それじゃあね水嶋」
「水嶋さんじゃあね!」
「ええ、さようなら」
とはいえ、ここでいつまでも待ったところで梅雨なのだから雨が止むとも思えない。
なのでふたりが歩いてからしばらくした後、私も雨が降る中、ゆっくりと歩きだした。
冷たい水滴が髪を、服を、体を侵して冷やしていく。けれど少しの我慢だ、もう高校生なのだから嫌だ、最悪だと嘆いているばかりではいられない。
「あら、道を歩いていたら車に潰されてしまうわよ?」
蛙を花壇へと追いやって、立ち上がろうとしたときのこと。急に私の上にだけ影が差し、水滴が降ってくることもなくなった。
雨が止んだか? とも思ったが、相変わらずポタポタと音は聞こえているし、少し視線を移動させれば道路に降り注いでいる光景が見えるわけで。
「なにやっているの?」
「別に」
まあそんなことだろうと思ったけれど。
テストの点数が悪かった彼女であっても、雨が降ることを予想して傘を持ってきていたようだった。
「もういいわ、どうせ濡れているのだから。あなたまで濡れる理由はないでしょう?」
そもそも、おまけみたいな存在なのだから。
いつまで経っても戻そうとしないので自分から外に出た。
再び自分を水滴が侵すけれど、いまは逆に気にならない。少なくとも彼女にお世話になるくらいなら濡れた方がマシとさえ思ったくらいだ。
「水嶋さんって嘘つきで最低な子だよね」
でもそうよね、別に私のことを特別視している~的なことを言ってきたではない。私が勝手に嫉妬して、自分だけを見てくれている~なんて勘違いして、けれど現実は違くて嫉妬して、こうして距離を作ろうとしている。嘘つきで最低とは的を射ている言葉。
いまこんなときでさえ、結局こんなことを言っても仲良くしてくれるって期待してしまう馬鹿な人間でもある。
「まあいいや、じゃあね」
なにがいいのかは分からない。分かったのは呆れられたということ。それどころか「お前みたいな存在はボクにはいらない」と判断を下したのかもしれないということ。
「なにをやっているんですか?」
「あ、雫ちゃん」
そういえば彼女とも仲直りしていないし、謝罪すらしていなかったことを思い出す。
恐らくでもなんでもなく、無意識が彼女と仲が悪いままでも時雨がいてくれるから大丈夫だと考えてしまっていたのだろうが。
「失恋でもしましたか? そんなに濡れて」
「そうかもしれないわね」
なぜ自分も律儀に足を止めていたのかと不思議に思った。だからもう気にせず前へと歩きだす。
面倒くさい、こういう人間関係に巻き込まれないためにひとりでいたんじゃないのか?
確かに時雨との出会いは大きな変化をもたらした。だがそれと同時に、私を弱体化させた側面もあったわけだ。なんでもかんでもメリットばかりではない、なんにだってデメリットはつきまとっている。
なにをやっていたんだ私は。彼女の最後の言葉と雫ちゃんの冷たい顔、声音でやっと気付けるなんて。
初心にかえるんだ。ひとりでも平気でいられたあの頃に。
「そういう態度をとっているから時雨先輩にも愛想を尽かされるんですよ」
と、どうやらここも進展しているようだった。
なるほど、つまり私は橋渡しとして利用されていたということか。兄も雫ちゃんもそう、ふたりと関係を持つために時雨は近づいて来ていた、と。そう考えれば辻褄が合う。いや、そうじゃなければ私になんて近づいて来ない。
「もういいです、さようなら」
もういいってなにが? 私たちの間になにかあったか? ――私としてももういいけれど。
「ただいま」
洗面所へ直行。
服を脱いで浴室に入る――前に鏡を見て確認。
「髪の毛、切ろうかしら」
これは決意の証。
適当なところでバッサリと髪を切った。
綺麗にとかそういうのはどうでも良くて、ただ重いからという理由で切り捨てた。
「あ……短く切りすぎたわ」
なんかむしゃくしゃしてシャキシャキ切っていたらやってしまったようだ。
兎にも角にも、もう戻らないので浴室に入って頭を洗う。
「楽でいいわね」
水に濡れても重くないし、ロングからベリーショートにというはっきりとした変化も気持ちいい。
「って、本当に失恋したみたいじゃない」
ただ初心にかえろうとしただけで大袈裟すぎるだ。
「しぃ、俺も風呂に入りたんだが……え?」
「あ、ごめんなさい。髪、そこに放置したままよね」
ドバンと音を立て開かれる浴室への扉。
「な、なんで切ったんだ?」
「色々と面倒くさかったのよ」
これから梅雨だし、夏がくるし、別に伸ばしたところで美人になる――大和撫子というわけでもないし。
「というか開けるのはやめてちょうだい」
「わ、悪い……」
いくら実の兄とはいっても、裸体を見せるのには抵抗がある。
「なんでだよ、母さんの真似をしてずっと伸ばしていただろ? いや、切るにしてもそんな短くしなくたってさ……」
「つい調子に乗って切っていたらこうなってしまったのよ」
「せめて……美容院とか行けよ」
「高いじゃない。自分ですれば無料だわ」
見た目なんかそもそもどうでもいい。どうせ人は離れて行くのだから。これで悪口を言われたって、慣れていることなのだから。
「なにかあったのか?」
「いえ、雨に濡れて帰っている途中に重たくて仕方なかったのよ。伸ばせば伸ばすほどデメリットがつきまとう、だからやめたかったのよ」
1番強かった中学のときの私に戻れる。よしんば戻れなかったとしても、心構えだけはそうでいられるようにあろうと頑張ることができるだろう。
「勿体ねえな……」
「生きている限り髪は伸びるわ。私にその気があったらまた伸ばすでしょう」
確かにスースーして気持ち悪いし、凄く勿体ない気持ちになったし、鏡で見てみるときゅっと締め付けられる気持ちになったし、どうしようもない複雑さが伴っているけれど、これは私に必要なことなんだ。が、形から入らないと駄目なままなんだ。
「……とにかく早く出てくれ、俺も濡れたんだよ」
「それならそこから出ていって」
「あいよ」
湯船及び浴室から出て、落ちている髪を拾ってゴミ箱に捨てる。伸ばすのには数年かかったのに切って失うのは一瞬だった。なんかそれがおかしくて笑みが零れて、その笑顔がどんなものか確認するために鏡を見たら……なぜか涙が零れていた。拭いてなかったから気づかなかったらしい。
「一応、取っておこうかしら」
濡れてしまっているのでしっかり拭いておいてから保存することにした。
「もういいか? って……裸でなにをやっているんだよ」
「髪の毛を取ってこうと思ったのよ。一応、記念品みたいな物だから」
日記にもきちんと書いて、この日に○○があったなっていつか見直すんだ。
そのときまた忘れそうになっていたら、それで思い出せばいい。私本来の在り方ってやつを。
「そうかい。とりあえず服を着てからにしろ」
「そもそもお兄ちゃんが入ってこなければいい話ではないかしら」
「俺も濡れてるんだよっ、いいから早く!」
「ふふ、分かったわ」
床を濡らさないように髪や体をしっかり拭いてから部屋へと向かう。
下着は面倒くさいのでつけず、私物みたいな扱いをしている兄の服を着てからあの髪の拭き作業に戻る。
「しぃ」
「うん?」
「なんで泣いてたんだ?」
「あのときはまだ拭いてなかっただけよ。短くなったとはいえ髪が濡れていたら水滴だって落ちてくるじゃない」
なかなか鋭い。ここで作業しなければならないのが複雑だ。
「嘘ついたって得はないだろ? それどころか自分の価値を下げるだけだぞ」
「まあ、気づいたらそうなっていたのよ。多分、髪を伸ばすのには相当な期間がかかるのに終わりが呆気なかったからでしょう」
確かに兄の前でも偽る必要はない。
中学生のときも兄や両親にだけは頼ってきたのだから。
「やっぱり後悔してんじゃねえか」
「後悔と言うほどではないけれど、ちょっと苦しくなったのは本当ね」
ま、これもたメリット・デメリットがあるということでしかない。
「よし」
「終わったのか?」
「ええ。欲しければお兄ちゃんにもあげるわよ?」
どうせ後は捨てるだけだし、冗談のつもりで言ったわけだったが、「なら貰っておくかな」と答えられてしまい私は困惑。
「なかなか変態ちっくな発言ね」
「おぉい!」
「ふふ、冗談よ。お兄ちゃんが来てくれたおかげで助かったわ、あのときのように」
「別に。さ、出るか――って、それしぃのせいだったのか!?」
「まあね。大きくて気に入っているのよ」
説明しておいたはずだけれど……あ、それは私の脳内での話だったわ……。
「貰ってもいいでしょう?」
「まあいいけど――あ゛……」
「え?」
「お、お前、その下……なにも……」
「ええ、どうせ大きさがないもの」
垂れる胸すらない。母がしろと言うからしていたけど、本当のところは不必要なものなんだ。
それを寂しいとは思わない。巨乳だと色々な人にジロジロ見られるという話をよく聞くから。
「いや、そういう問題じゃねえから。はぁ、常識知らずの妹に育って複雑だなあ」
「別に外でやっているわけではないじゃない」
「してたら嫌だわ!」
「大丈夫よ、妹に全裸を晒している兄よりはマシだわ」
「って、うわあああ!?」
ふふ、私よりよっぽど女の子らしい反応だ。
赤ちゃんの頃はみんな女の子だって言うし、そういう部分も秘めているのかもしれない。
「なによ、妹の裸体を見ることよりは兄の裸体を見ることの方が問題じゃないわ」
「いや、どっちもやべえから……まあいいや。とにかく飯を作ってやるから待ってろ」
「ええ、いつもありがとう」
「どういたしまして」
何気に女子力も高いし、本当は兄の方が女の子なんじゃないかしら。
まあ細かいことはどうでもいいので、リビングのソファに座って待つことにしたのだった。