夫婦の桜
あら……こんばんは、見知らぬお方。
そのお頭に大きなお荷物……見れば旅のお坊さまのようですが。こんな夜ふけに、桜の咲いた丘の上まで何をなさりに……?
え? 『丘の下からちらと見えた桜の木の、あんまり綺麗だったので』? ふふ、それではあなたはご存じないのですね。この桜にはある因縁がありまして、近在の村の者は桜が咲こうとひとりも寄りつかないのですよ。
はい? 『ではあなたがたはどうして、この木の下で花見酒をしていらっしゃる』? ほほ、ここなら夫婦ふたりで花を見ようと、邪魔は入りませんからね。
ちょうちんの明かりに人いきれ……ここでの花見になれてしまうと、さわがしいよその桜は見られたものではありません。ふたりでしんみりいわくの桜……わたしたち夫婦はこうやって、毎年ここでお酒を酌みかわすのですよ。
え? 『この桜にはどんな話があるのです』? お知りになりたいとおっしゃいますか。そうですね……あまり陽気な話でもなし、聞いてしまうと桜が陰に目に映るやもしれません……。
はい? 『それでもぜひにうかがいたいです』? ほほ、面白いお方ですねえ。そうですか、それではひとつ語らせていただきましょう。
……昔、むかしの話です。この丘のふもとに小さな村がありまして、その村に小さな神社がありました。神社に仕える神官にはひとり娘がありました。名を『小桜』と言いました。
小桜には仲の良い幼なじみがおりました。幼なじみは名を『佐吉』と言い、村の農家の長男でした。
ふたりはたいへん仲が良く、『いずれは夫婦に』とひそかに言い交わしておりました。しかし小桜は神社の娘。彼女にはもう生まれた時からの許婚があったのです。
佐吉たちはふたりの仲を秘密にはしておりましたが、秘密とはいずればれるもの。その真実を知ったとき、小桜の父の神官は火を噴くほどに怒りました。
「何をほざくか、仮にも神社の娘が土くさい小僧と一緒になりたいと申すとは」
「佐吉は巫女に手をつけた大罪人、罰として死なぬていどに舌を切れ!」
小桜の父はただの田舎の神官にすぎません。けれども村ではたいそうな権威。陰陽師まがいのこともしておりますし、機嫌をそこねればこれからの米の不作が恐ろしい。言うことを聞かぬわけにもまいりません。
そうして佐吉は『死なぬていどに舌を切ら』れ、小桜は神社の納屋へと入れられました。
けれども切れぬは恋の縁。佐吉と小桜は手をとり合ってようよう村を脱け出して、この丘の桜の木の枝に並んで首をつったのです。
その後すぐに小桜の父は気を病んで、日に何度も恐ろしい笑いをあげてはそこらじゅう転げまわっておりましたが、半年も経たずに自分で自分の首を絞めて死にました。
村にもたびたび疫病が流行り、村の者は『佐吉と小桜のたたり』だとて、もう誰もこの丘には近寄らぬようになったのです。
……え? わたしたちですか?
ほほほ、幽霊などではありませんよ。ただ『佐吉』と『小桜』、いわくの話の者たちと名前が同じなだけの、酔狂な花見の夫婦です。
え? 夫ですか? 夫は少し訳があって、言葉を話せないのです。もっとも夫婦も長くなると、言葉がなくとも言いたいことは分かります。
ん? なに? 『小桜、しゃべってばかりいないでこの方にも酒を一献』? ほほ、そうでした。さあお坊さま、どうぞおひとつ。あら、さかずきに桜の花びらが……。望月もお酒のおもてに映って、これはなんとも風流な……。
ささ、どうぞお坊さま。いわれのある桜の花も望月も、みんな一緒におあがりなさい。
私は『小桜』に言われるがまま、さかずきの酒に口をつけた。その液体はひいやり冷たく、水と化したかすみのように咽喉を伝って消え去った。
夫の『佐吉』がこちらを見て、嬉しそうにはにかんだ。少し開いた口の奥に、切られた舌がちろりとのぞいた。
私はしばし幽霊の酒をごちそうになり、飲む前よりも冴えた頭で別れを告げて丘を下った。
丘の半ばで立ち止まってふりむくと、遠く夫婦の桜が見えた。やったり、とったり、永遠にふたりだけで花見酒をする死んだ夫婦は、幸せそうにかすんで見えた。
そのふたりを柔く祝福するように、桜の雪はひらひらとはらはらと舞っていた。(了)