七 折れた大黒柱
イリ、現・伊寧市。グルジャとも呼ばれており、かつて林則徐も流されたこの都市は、現代中国においても最西端の街で、ウルムチからさらに西へ直線距離で四百キロほど離れている。現カザフスタンとキルギスとの国境に面し、北京から見ればまさに辺境の土地であった。
現在、国道を使って「イリ」へ行くには、大雑把に言って二つの道がある。
ウルムチで南西へ折れ、百キロほどまっすぐ進んだ後、風光明媚な天山山脈の合間に流れるイリ川沿いの道へ入り、さらにそこから約四百キロ程西へ向かう。あるいは蘭新鉄道沿いの道を使い、一旦ジュンガル盆地まで出てマナス川を右手に見ながら、鳥蘇、博楽経由でイリの北をぐるりと回る格好で向かう。それらのどちらかだ。
現代からおよそ百二十年ほど前にイリへ向かった崇厚もまた、似たような道を辿ったかもしれない。いずれにしても、鉄道が未開通であった時代のことである。軍人はともかく、宗棠の言によると「宮廷で物書きしかしない」文官が、そこまでたどり着くには多大なな労力を必要としたに違いない。
さて、寒さに震えながらくたくたになってイリにたどり着いた、背の低いこの尊大な和平大使を、ロシア側は思いのほか丁重に迎えた。
正直、ロシア側としては、宗棠が、というよりも清が、ここまでの底力を残しているとは思っていなかったらしい。
「イリはあなた方へお返ししよう」
とまで彼らは言った。ホッと胸を撫で下ろした様子の崇厚はしかし、
「ただしそれは一部分である。こちらとて多大な犠牲を払って手に入れた領土であり、それらを全て手放すことは出来ない。それに我々はこの地区における商業をヤクブ・ベクの手から保護し、我々の手で治安を保ってきた。よってその土地を一部分でも手放すとなれば、それ相応の誠意を見せていただきたい」
といった、何とも理不尽な恩着せがましさを含んだロシア側の言葉に、顔を青ざめさせた。
結局崇厚は、ロシア側にはまともに相手にされず、イリ側の西、南部領土の割譲、及び五百万ルーブルという多大な賠償金を支払うことを認めさせられたのである。
まるで子供をあしらうような交渉の仕方であった。当時からおよそ百年ほど前のあのポーランド領分割直前に際し、ロシアをわざわざ訪れた同国王スタニスラフの平和的提案を、まるで相手にしなかった女帝エカチェリーナの外交手腕を髣髴とさせる。
それになんといっても、背後に清の倍以上の武力をちらつかせての言葉であるし、実際に脅されて清本国がまた混乱に陥るとなれば、
(己の責任になってしまう…自分が死ぬという予言は現実になる)
崇厚はただ、占いが当たることのみを懼れて、ロシア側の虫の良い条件をことごとく飲み、まるで逃げるように、イリから早々と引き上げてきてしまった。
きっとロシア側とて、いくら背後に清を上回る武力があるといっても、このような厚かましい条件をそっくりそのまま、清側が受け入れるとは予想もしていなかったに違いない。この種の交渉というものはそもそも最初に大きく吹っ掛けるものというのが定石だからだ。その上で互いに折り合いをつけられる点を探るはずである。にも拘らずこれであったのだから、もしも彼らが崇厚の個人的事情を知っていたら、腹を抱えて笑ったろう。
ある程度覚悟していたこととはいえ、
「それ見たことか!」
なんとも屈辱的なこの交渉結果に激怒したのは、言うまでもなくこれまで西域の回復に全力を傾けてきた宗棠である。
崇厚の出発前に彼がハミへの軍隊駐屯を申し出たのは、清側にもこれだけの国力はあるぞと示すためで、また、そのことによって少しでもロシア側が譲歩するかもしれないと期待してのことである。それをわざわざ蹴るからには、崇厚の胸にもある程度、成功する算段があったはずであろう。
それが実際には、ただただ占いが現実になるのを恐れて、相手側の言うなりになっただけ、というのであるから、
(結局は、清の官吏もこの程度か。占いを信じるなど)
あまりにも稚拙すぎ、馬鹿馬鹿しすぎて涙も出ない。
なるほど、易経を含む各種の占いは、古来からこの国で実学として重んじられているし、政治の中枢に今も深く食い込んでいる。そのことは無論、宗棠も知りすぎるほど知っているが、しかし、近代の学問を少しでも齧った人間にはやはり、時代遅れと思えてしまう。何より、確かな根拠がどこにもない予言など、信じるに値しないではないか。
このことで宗棠は、大将曽国藩や李鴻章など、己を取り巻いていた人間達の見識のほうがやはり高かったということを改めて思い知らされると同時に、
(これでは諸外国に舐められるのも当たり前だ)
清政府中枢にいる官吏の意識が、まだまだその程度であるということに考え至って、暗澹たる思いに囚われ、深くため息をついた。
そして彼は崇厚に向かって、
「イリはもともと我らの領土であった。何処の世に、泥棒が奪った物をわざわざ金を払って買い戻すヤツがいるか。貴君はロシアという国を、我々の半分も分かっていない。かの林則徐殿が残した言葉を何と聞いていたのか。占いに頼るなど愚の骨頂だ。占わずとも人間というものは、明日であろうが十年後であろうが、生きている限り必ず死ぬと決まっている。どちらにしてもくたばる命なのだから、なぜ大使としての任務に死ぬ覚悟で臨まん。なぜ十二分にその責を全うしようとしない」
一気にそうまくしたてたのである。
もともと怒りっぽい面を併せ持っていたところへ、さらに老人特有の気の短さも加わって、悲痛さすら混じったその罵倒は真に凄まじかった。まさに痛罵と呼ぶに相応しい罵り方である。しかしさすがにこの場合は、そう非難されても致し方ない。
実際、宗棠らは己の命をかけて西域奪回のために戦ってきたのだから、彼の口から飛び出した言葉には反論できぬ真実味がある。
とりあえず粛州へ戻ってきた崇厚も、さすがに恥を知っているらしく、しばらくは顔も上げ得なかった。うなだれたままの彼へ、
「ともかく、この結果は貴君が自身の口から伝えられよ。俺には何とも出来ぬ。貴君以上の権限を与えられておらぬのだからな」
忌々しさと皮肉をたっぷり込めて宗棠が言うと、崇厚はすがるような目を彼に向ける。
「それでは私が罪に問われる。欽差大臣左宗棠、本当に君の力では何とかならないのか」
「知ったことか。それを言うなら俺にではなく、貴君のお気に入りの占い師にでも言え」
この期に及んで己の身ばかりを気にする崇厚へ、突き放すように宗棠は言葉を返し、ぷいとそっぽを向いた。
「ともかく、俺も欽差大臣として、貴君の交渉の結果を皇帝陛下へ詳しく報せる任務がある。その報告を持って北京へ早々にお帰りになることだ」
こうして交渉は失敗に終わり、崇厚はすごすごと北京へ帰っていった。これがいわゆるリバディア条約である。
崇厚が持ち帰ったロシア側の要求について、さすがに朝廷でも議論が噴出、ついにこの条約は批准拒否となるわけなのであるが、
「こればかりは崇厚殿だけの罪ではない」
李鴻章が苦笑いして言ったように、まだまだ外交に慣れぬ官僚、しかも己の未来を占いなどという胡乱なものに託すような人間を派遣した清朝廷にも、責任の一端はあるかもしれない。崇厚はかくて罷免され、死刑にされかかるが、のちに赦免されることになる。
牢に入れられた崇厚が、かの占いを当たったと思ったかどうかは知らないが、ともかくロシアとの交渉の方はそのまま放ってはおけぬ。
「お久しぶりです、左先生」
「おお、これは」
一年後、朝廷は崇厚の代わりに、新たな和平大使を派遣してきた。粛州城を訪れたその顔を見て、思わず頬をほころばせた宗棠へ、
「年を取られていささか丸くなられたように見えますが…相変わらず意気盛んと伺っております。ひょっとすると毒舌のほうもご健在ですか」
かつての「大将」曽国藩の面影をそっくり宿した紀沢もまた、懐かしそうに首を傾けて彼の顔をつくづく見、ニヤリと笑ってそう告げた。
彼も宗棠には、
「父や国荃叔父と共に散々怒鳴り散らされた…」
人物の一員だったからである。無論、宗棠としてもそのことを忘れているはずがなく、
「いやいや、俺ももう六十九歳の年寄りだよ。以前より少しはマシになっているはずだ。あまりいじめてくれるな」
と、老いて浅黒くなった頬を赤くした。
曽紀沢。父の戦功により、三十一歳で戸部員外郎となり、国藩が亡くなった五年後の三十八歳の時に父の爵位をついで一等毅勇侯となる。そして今、駐露公使も兼任させられてイリへ向かう途中の彼は、四十二歳だった。
こういった一面だけを見ると、言葉は悪いが親の七光りで出世したように見える。
しかし、
「彼には見所がある。何せ七光りという言葉自体を、非常に嫌っているのだからな」
辛口の宗棠でさえそう言っていたように、紀沢は後には不平等条約の改正に尽力したとして、名外交官の一人に数えられることになるのだ。
「父のおかげを持ちまして、今度は私が派遣されることになりました。ですが私一人では役不足。ぜひ先生のご尽力を頂かねばなりません。父の誼もさることながら、先生ご自身の息子とでもお思いになって、私をお助け下さい」
そして彼は、大事に育てられた長男らしく大変に素直で大らかである。けろりとした顔で悪びれず、「お前を引き立ててきた俺の親父の恩を思え」と口にして宗棠を苦笑させた。
この場合、紀沢を助けても、宗棠自身には何ら見返りはない。もちろん助けを求めた紀沢には、まるで悪気は無いのだ。
「よろしい。お助けしよう」
しかし、そこはやはり宗棠である。すぐに二つ返事で頷いていた。
亡き曽国藩には、あれだけ色々な面で助けてもらい、引き立ててもらいながら、
(大将に面と向かって感謝の意を表すのは、何故かどうしようもなく癪だ)
といったような、子供のようにつまらぬ意地を張ったせいで、「いつかは…」などと思いながら、自分からは彼にしてもらった以上のことを、ついに返せていないままである。
だからこそ、せめてその息子である紀沢へ、こういった形で恩返しをしようと考えたのだ。若い頃からの「受けた恩は死んでも返す」といった義理堅さは、彼の心の中からいささかも失われていない。
こうして、宗棠は軍隊と共にハミまで曽紀沢を送り、そこに駐屯した。もちろん目的はロシア側への威嚇で、
「以前のように虫の良い条件を出してくるなら、こちらとしても考えがある」
という構えを示し、紀沢の交渉に箔を添えるためである。
「俺が直接行ったことは一度も無いが、ここからイリまではまだまだ遠い。凍えぬよう、気をつけて行かれよ。ウルムチや途中の都市にも清兵を駐屯させているから、万が一のことがあれば彼らを頼られたがよい」
別れの時、まさに実の息子のように労わりの言葉を曽紀沢へかけながら、宗棠は荒れた手のひらをごしごしと擦り合わせた。そんな宗棠へ曽紀沢は、
「ありがとうございます」
深々と頭を下げ、
「私も先生が後ろで守って下さっていると思えば、大変に心強いです」
まことに素直に感謝の意を述べるのだ。
「おだてるな。俺は今、俺自身を大変に歯がゆいと思っているのだ」
彼の言葉に息苦しささえ覚えながら、宗棠は先ほど擦り合わせた両手で、今度は荒れてヒビの入った頬を乱暴に擦った。日に焼けた頬から剥がれ落ちる皮膚を眺めやりつつ、大きくため息をついて、宗棠は続ける。
「俺が出来るのはここまでだ。出来ればイリまで君についていってやりたいが、そうすると後が煩かろう」
「まことにその通りです」
宗棠の言葉に苦笑して頷いて、
「ですから、そんな先生になら言えます。すまじきものは宮仕えであると、ね」
「はははは、本当にそうかもしれんなあ」
紀沢がしみじみ呟いた言葉とその時の表情に、宗棠は久しぶりに声を上げて笑った。
「無償でのイリ返還は無理だとしても、以前よりはマシな交渉が出来ることを、ここから祈っているよ」
「私に出来る限り、やってみます」
言い言い手を振って、曽紀沢は単身、イリへ向かっていったのである。
こうして、曽紀沢の手でサンクトペテルブルグ条約、通称イリ条約が結ばれたのが、光緒七(一八八一)年二月二十四日のこと。この折の条約締結には、
「商業上の損失分のみでよいから、ロシア側に金を払え」
ということで、当時にしては珍しく清側の言い分をある程度呑んだ条件が提示されている。
これにより、ロシアが言って寄越した賠償金は少し高くなって九百万ルーブル。しかし、最初に彼らが提示した部分よりもかなり広いイリ地方東側は清へ戻ってきた。
ロシアが妥協したのには、露土戦争の後始末でまだ少し落ち着かぬせいもあったのだろうし、国内では無政府主義者の動きが活発になっていたという理由もある。そんな状況下で、曽紀沢の要請通りに宗棠がハミまで軍を動かした、というのも大きかったろう。
「あのロシアから妥協を引き出した」
ということで、曽紀沢の評価も国内、国外共に高まり、今度は彼は駐仏公使に栄転することになるのだが、
「俺に、北京へ戻れ、だとさ」
正式にイリ条約が締結される前に、宗棠のほうへは北京からの命令が届いて、宗棠は部下達を前に鼻を鳴らすことになったのである。
なるほど、ロシアが妥協したのは宗棠がハミに駐屯したせいもあるかもしれない。だが、このロシアとの条約締結において、ようやく無難に新疆及び「化外の民の居住地」であった台湾も、二つながら正式に清の領土と認識されることになったのだから、
「これ以上の妥協はロシアからは引き出せない。その場合、宗棠がまた怒りでもして独自にイリへまで軍を進めてしまうと、ややこしいことになる」
確かにそうなると、せっかくまとまりかけているものもまた紛糾してしまう。清朝廷としてはそのことを何よりも恐れたらしい。
「あの優等生の差し金だろうがな。俺だとて、それくらいは認識しているさ。だから出兵するのはハミまでで我慢してやったものを」
どちらにしても、朝廷からの命令である。宗棠としては、不満を漏らしながらも従わないわけにはいかない。
(李のヤツは、俺がそれほどまでに猪だと思っているのか)
残念ながら、名実共に中国の代表のような立場に立っているのは、左宗棠ではなくて李鴻章なのだ。
宗棠とて、その実力を清政府内では十二分に認められている。しかし、曽国藩の正式な跡継ぎは、曽国藩の後に直隷総督・北洋大臣になって、日本や諸外国との外交においても当時の清にとって可能な限り有利に―宗棠に言わせれば「優等生の事なかれ外交」であるわけだが―対処することの出来る李鴻章であり、彼こそが清の最高為政者である。そういった風に、李の方は清国内ばかりではなくて、諸外国にも認められてしまっているのだ。
「所詮はアイツのやることも、いつまで経っても人真似さ」
宗棠は、己の作った幹線道路を十年ぶりに東へ向かいながら、部下へ零した。
彼とて心の中では、李鴻章の仕事ぶりを十分に認めているのである。だが、今回の召還に関わっているのが李であると分かっているだけに、
「以前、李のヤツは俺を器量の小さい男だと言ったが、アイツこそ、了見の狭い男だ」
どうしても黙っていられない性格は、七十歳になっても変えられない。李鴻章が輪船招商局や電報局、開平砿務局を創設したことに対しても、
「俺が蘭州に工場を作ったことの真似さ」
と、馬上で毒づく。
実際に今の清には西欧諸国のような外交手腕がないことも、ましてや自分自身に李鴻章ほどの外交手腕があるわけがないということも、宗棠は重々承知しているし、部下の失笑を買うだけだと分かっていても、
「アイツのやったことと言ったらなんだ。なるほど内では賊の討伐に役に立ったかもしれないが、諸外国に対しては豆腐に釘ではないか」
と、弱腰外交に対して、憤慨せざるを得ないのである。
というよりも、表立ってそう言っているのが宗棠のみであるというだけの話であって、当時の清国における洋務運動派の人間は、口に出さないまでもほとんどが清の不甲斐なさを嘆き、李の外交をもどかしく感じながら、それでも清が相応の国力をつけるまでは、李鴻章のやり方で通すしかないと思っていたに違いない。
宗棠が毒づくのは、
(俺がこの帝国にかけた情熱は、所詮はその程度のものと思われていたのか)
彼の自国に対する深い絶望の裏返しだったのだ。
こうして毒を吐き散らしながら二ヶ月後、北京へ到着した宗棠に、二つの報せがもたらされた。一つは言うまでもなくイリ条約の正式締結であり、もう一つは、
「何だ、俺は今度は軍機大臣と内閣大学士になるのか」
紫禁城の石畳を六年ぶりに踏みつつ、太和殿の方角からやってきた使者の報せを受けて部下を振り返り、宗棠は笑った。
紫禁城内であるから、滅多なことは言えない。毒舌も一旦はなりを潜めて、
「ありがたくお受けするとお伝え願いたい」
宗棠はその使者へ丁重に言葉を返す。そして自らも御礼に参上すべく、内廷西側の養心殿へ向かいながら、
「おめでとうございます、先生。さすがは湖南の今臥龍です。先生の功績は、きちんと評価されているではありませんか。いや、良かった!」
だから浮かない顔をするのは止めろ、と言いたいのだろう。譚鍾麟らが単純に喜んで、
「先生は、文祥殿がおっしゃっていたように、李鴻章殿ともども、今や帝国に無くてはならない大黒柱の一つなのですから」
祝いの言葉や褒め言葉を述べるのへ、
(大黒柱か。ただし、相当にヒビが入っていると李のヤツは思っているだろうよ)
宗棠はただ苦笑するのみだった。
以前にも述べたが、軍機大臣というのは、彼の友人である故文祥もかつて就いていた地位で、国政の最高会議に参加する資格を持つ、というよりも、参加しなければならない。
譚鍾麟やその他の部下達が驚き、喜ぶのは当然なのだが、どちらかというとやはり、将軍というよりは参謀としての匂いが感じられ、文官としての性格が強いように見える。内閣大学士にしても軍事に直接関わる役職ではないから、似たようなものであった。
よって聡明な彼は、
(俺を現場に行かせぬための位打ち、というヤツだろう)
鋭くそう察していたし、
(事なかれ主義の李のやりそうなことだ)
と、挙人出身でありながら身に余る栄誉を受けたにも関わらず、より一層の失望感をすら覚えていたのである。
顔ぶれは変わったが、しかつめらしい表情はそのままの百官が居並ぶ養心殿で、西太后の前に拝跪しながら「身に余る栄誉、感謝致します」などと言う自分を、一昔前の宗棠ならば自画自賛していたかもしれない。
(茶番だ)
しかしその側に凛然として控えている李鴻章を見ると、荒れた頬には堪えきれない苦い笑みが浮かぶ。
「欽差大臣、いえ、軍機大臣。これからも我が国のために尽くしてくれることを望みます」
西太后の言葉に再びひれ伏しながら、
(だが、俺はまた外に出るだろう)
宗棠は己自身を冷静に見つめてそう思った。自分の性格からして、このような茶番がまかり通る宮仕えが出来るわけがないのだ。
(俺は何のために戦ってきたのか。このような栄達を受けるためか)
新しい任務を拝命し、宮殿を出ながら宗棠は空を見上げる。強い春の風は今年も変わらず西域からの乾いた砂を北京にまで運んできており、
(それは違う。愚問だ。俺が戦うのは…分かりきっている)
それが石畳の上に積っているのを見ながら、彼の唇に不敵な笑みが蘇った。
己が戦ってきたのは、咸豊帝のためだけではない、他でもないこの国のためであり、
(清国の人間として、その誇りを取り戻すためだ。俺よりも先に逝ったやつらのために、残り少ないであろう俺の命の限り、最後まで戦おう)
そう心に誓いなおして彼は、
(政務に耐え得ず、ということで病気にでもなってやるか)
子供っぽい悪戯心さえ、己の中へ蘇らせた。
そしてそのほぼ半年後である九月には、その考え通り、
「病気のため…」
を理由にして軍機大臣及び内閣大学士のポストを捨て、両江総督兼南洋大臣として政府の外へ出ることを望んだのである。
「あの左公にしては珍しいほどの謙虚ぶりである」
と、百官は意外な思いに打たれた。「挙人風情」が、せっかく手に入れた政府最高のポストの一つを蹴るというのだ。彼らの常識からすれば、とんでもなくもったいないことで、常識はずれなことだったに違いない。
「せっかくの栄達を喜ばず、その栄達に酔わないのか。戦に出る必要もなし、もうよい年なのだから、楽して贅沢な暮らしを取れば良いものを。やはりあの御仁は変わっている」
彼らはさぞや、口さがなく噂したろう。だが、さすがに李鴻章は「優等生」らしく、宗棠の本当の意を察していた。
(あの御仁は、己を良く知っているのだ)
李自身、これまで宗棠からあまりにも悪し様に言われすぎて来ているから、好意を抱いているかと尋ねられたなら、はっきりとは頷きかねる。だが、もともと宗棠の毒舌が向けられるのは、李鴻章に対してだけではなかったし、
(言ったことは必ずやり遂げるあの覇気は、己にはないものである)
そんな風に彼のほうも、宗棠のことを心の中ではやはり認めていたのである。
ひょっとすると李は、
(あれだけ言い散らかすだけ言い散らかしておいて、周囲の反発を招いておきながら、それでも結局は熱烈な支持者がいて、己のやりたいように出来る…)
そういう宗棠が、実は羨ましかったのかもしれない。
李鴻章の場合、「清国で唯一、清の置かれている立場や国力を知っていて、諸外国へも目を広く向けている名政治家」との評判が立ちすぎてしまった。李自身、そういった目に見えぬ鎖によって、いつの間にかがんじがらめになってしまっていた自分が、時には息苦しくなったこともあったろう。
だが、その鎖は、今更自分では外せない。宗棠が常々言っていたように、彼は良くも悪くも優等生過ぎ、諸外国に配慮を働かせすぎた。なるだけ相手の心に波風が立たぬよう、嵐は首をすくめてやり過ごす…目に見えぬ気配りを常に相手に施す、という李鴻章の持ち味が外交にも現れていた、と言えなくもない。
それが悪かったのかどうかは、一概には判断できぬ。そういう李鴻章がいたからこそ、清は辛うじてその滅び方を緩やかに出来た、とも言えるからである。そして、
「軍機大臣という恐れ多い地位よりも、むしろ俺は総督として地方のために働きたい」
宗棠がそう申し出た時も、李はそれを容認した。
李鴻章も、宗棠がいれば交渉が決裂するから、といった理由のためだけに、彼を北京へ呼び戻したのではない。それまでの大きな戦功に見合っていて、相応しいと思えるポストを、わざわざ西太后の許可も得て呈示したつもりなのである。なのに、宗棠は逆にそれよりもさらに低い地位を望むのだ。
「幸い、両江総督と南洋大臣が空いている。お望みなら、貴方にその地位を差し上げる」
李鴻章が言うと、宗棠は我が意を得たりとばかりに頷いて、
「それはありがたい。いずれは俺に、海軍の再建設の許可も頂きたい」
「考えておきましょう」
それを李は無難に受けた。
こうして、宗棠は両江総督兼南洋大臣として、再び政府中枢から現場へ出た。
南洋大臣というのは、李鴻章が就いている北洋大臣同様、かつて宗棠がヤクブ・ベクと戦ったときに拝命した欽差大臣の性格を併せ持ち、正確には南洋通商大臣と呼ばれているポストである。曽国藩が最初に就任したのが最初で、次に李鴻章がその後を襲った。よって宗棠で三代目ということになるだろう。
アヘン戦争以来、南京を管轄下に持つ両江総督が兼任するのが通例になっていて、かの南京条約で開港された広州、福州、アモイ、寧波、上海の五港における諸外国との通商及びそれに伴う事務が主な仕事であった。
「先生、せっかくだったのに、どうしてあの地位を蹴ったのですか」
正式に両江総督に任じられ、古巣へ赴く折、彼の代わりに陝甘総督に任じられた譚鍾麟がいささか不満げに尋ねたのへ、宗棠は、
「俺には水槽の中は合わん。外へ出たのは、魚が大海を得たようなものさ。俺はとにかく、忙しくしていることが好きなのだ」
と答え、故郷に近づくにつれて水分が濃くなっていくだろう空気を、懐かしく思い出しながら、カラカラと豪快に笑ったものだ。
(だが、まあ…俺が本当に生きていたのは、あの沙の中でだったかもしれん)
西域のことも懐かしく思い出しながら、譚鍾麟らへ別れを告げ、
「死ぬまでに一度、咸豊帝陛下の陵へ詣でたいものだ」
言い言い北京から南へ下ると、次第に河や沼が多くなる。そこでようやく、
(子たちは元気でいるか)
彼は彼の家族のことを心に描いた。
思えば駱秉章の帷幕に招かれて以来三十年近く、ほとんど血縁の者を寄せ付けぬ人生を過ごしてきたのである。
妻、周夫人は、同治九(一八七〇)年に既に亡くなっており、その二年後には曽国藩が亡くなるのと相前後して、長男の左孝威も父である宗棠より先に死んだ。
妻と長男の葬式にも「国事を優先させるべきである」と言って戻ってこなかったのだから、かつて陶澍の息子の元へ嫁した娘を初め、残りの三人の息子たちは、彼を父とも思えぬほどに嫌っているらしい。
その証拠に、宗棠が故郷へ帰ってきたとの報せは聞いているはずなのに、
「どうせ追い返されるし、顔を覚えてもいないから」
子らはそう言って、父が北京からの旅を終え、南京総督府に腰を落ち着けても会いに来ようとしない。父が国家のために働いている、だから邪魔すべきではないというのは、理屈では分かっていても、感情の上では到底無理である。
例えば、以前宗棠に戦の拙さを罵られ、陝西巡撫を解任されてしまった劉蓉であるが、軍を退いてからは桐城派の文人として『養晦堂詩文集』などを発表する傍ら、一介の父親として家族から愛し愛され、いたく平穏で幸福な日々を送っているという。
それに引き換え宗棠のほうは、一般家庭における父としての役割は果たさず、あくまで宗棠個人として自己表現し続けることを優先させた。その結果、家族からの反発を招いたわけなのだが、
(致し方ないといえば致し方ない)
そのことが寂しく思えるのも、年を取った証拠なのであろうか。
だが、たとえ彼が残された家族に会おうと思っても、それは果たせぬ願いだったろう。両江総督という身分と、これまでの実績が、宗棠に腰を落ち着けることを許さなかったからだ。
両江総督に就任してその任務をこなしながら、宗棠は同時に北京の朝廷へ福建における海軍再構築を申請していたのだが、
「やれやれ、これでようやく己の宿願であった海軍の再構築を始められる。文祥の言葉ではないが、これこそ遠い遠い回り道であったと言えるだろうよ」
相変わらず正直に思ったことを口にして、周りの者を苦笑させながらその返事を待っているうち、今度はベトナムの利権を巡ってフランスとの戦いが起きたのである。
古くは「安南」と呼ばれていたベトナムは、かの諸葛亮孔明も一度は遠征した土地であると言われている。
一八〇二年には阮朝という名の王朝が建てられていたが、清はこの王朝を属国と思い、その宗主国であると自認していた。阮朝自体は、清側にならった政治体制を取り入れた文化的なものであったし、建国当初はアジアへ進出してきたフランスの影響もあって、国王の側近にキリスト教徒がいたこともある。よってその頃はキリスト教に対しても、割に寛大だったと言える。
だが、建国三十年も経たないうちに、阮朝はキリスト教を迫害し始めるのだ。なんといっても導入した政治体制は中国のものであったし、そうなると中国の国教である儒教の影響も受けないとは限らない。儒教を信じる人間が多くなるに連れて、キリスト教が疎んじられるという傾向が見られたのも、そのせいかもしれぬ。
この折のフランスの代表者は、かの有名なナポレオン三世である。為政者が同じだと外交に際してもやることは同じと見える。
フランスは清国へ仕掛けたのと同様、「キリスト教の迫害」を口実にしてベトナムへ攻め入った。一八五七年から一八七三年にかけての第一次、第二次仏安戦争で勝利し、それぞれの戦いにおいてサイゴン条約を結んだ際、ベトナム側から領土の割譲や紅河沿いの通商権を得ただけでは満足しなかったようなのだ。
ナポレオン三世が政治の舞台から消えた後、フランス国内ではフェリーという人物が内閣を組織していたが、その内閣は戦争への道筋をそのまま歩んだ。一八八二年にはベトナムの完全なる植民地化を目指して、ついには首都ハノイを占拠してしまったのである。
こうなれば、ベトナムの宗主国である清も、このまま黙って見過ごすわけには行かない。圧倒的に主戦論が占める清朝廷内で、
「我が国にフランスと戦える力があるのか。これ以上問題を起こさないでくれ」
と、今更ながら最初から反対を唱えていたのは李鴻章である。この前年には閔氏政権の朝鮮半島において、日本も絡んだ壬午軍乱が起きていた。
朝鮮に対する宗主権も主張せねばならないということで、その善後策を立てるため、またしても彼は一人で奔走しなければならなかった。何分、外交のことでは他に誰も頼れる人間がいない。だから、この期に及んでも自国の力量を冷静に見ようとしない人間相手に、李はほとんど泣きたい思いであったに違いない。
だが、光緒九(一八八三)年五月には、どうしたことか広東で黒旗軍を組織していた劉永福という人物が、フランス軍へ攻め入っている。清政府としても別に彼に命じたわけではない。
黒旗軍自体、清政府の政治に元から反対していた民間団体「天地会」に所属しているのだ。その由来を遡れば、清国成立初期から政府の打倒を目指していた秘密結社の別称であるという、なんとも胡乱な経歴を持つ。洪門、三点会などと呼称を変えながら存続し、一八六七年、何回目かの改称で天地会と称した。これに加わった若者の一人が劉永福で、彼が担当した軍部が黒旗軍であるというわけだ。
結成当初には、清正規軍を清とベトナムの国境の町、保勝(現・ベトナム、ラオカイ)において破ったりしている、という関係でさえある。今回、フランスヘ戦いを挑んだのは、全くの劉永福の独断で、以前は逆に清正規軍に蹴散らかされ、ベトナムへ追い出されたものだから、
「行きがけの駄賃というではないか。こうなったら逆にフランスへいくさを挑んで、俺達を追い払った清のやつらに目に物見せてやれ。俺達を迎えてくれたベトナムへ恩返ししろ」
というわけで、ベトナムへやってきていたフランスへ噛み付いたものらしい。失うものが何もない人間の強みであろう。
劉永福、この時四十六歳。人間的には練れていなければならないはずの年頃でありながら、若い頃から「無頼者」の悪評判が高かった人間らしく、その無謀な挑戦において、なんと初戦からその時のフランス軍を率いていたリヴィエール将軍を戦死させ、これを破ってしまった。清側にとっても予想外の出来事である。
「面白いヤツだな。ぜひ一度会って酒でも呑みたいものだ」
忙しい政務の合間に運ばれたその報せを南京総督府で聞いて、宗棠は久しぶりに腹を抱えて笑った。
海軍再構築の許可を得て馬尾船政局を設立、福建(南洋)艦隊を着々と構築している最中であったが、いかんせん、彼の事業を任せられるほどの、「こいつは」と思える跡継ぎがいない。そのことに頭を悩ませている折、何ともいえぬ爽快な気分にさせてくれた報せだったのである。
もっとも、劉永福が勝ったのは初戦だけである。それから二ヶ月後の八月には、フランスはベトナム王朝首都のフエ(漢名は順化。フランス語の発音ではユエ)を占拠し、ベトナムに第一次フエ条約を結ばせてしまった。もちろんこれも不平等条約である。
これによって、ベトナムは数々の不利な条件を飲んだばかりか、ベトナムが清から独立したことを宣言させられたうえに、自分たちの味方をしてくれた黒旗軍の駆逐まで認めさせられてしまった。だもので、劉永福もやむなく清へ引き上げた。
劉の経歴もさることながら、清へ戻ってきた彼が、敵であるはずの清政府から三宣正提督に任じられ、一等義勇男爵の地位まで与えられているのだから、
(人生、これだから面白い)
宗棠はその後も思い出しては含み笑いをしたものだ。
清国内の人間であるし、動機はともかく清のために一応は役に立ったのだし、だから恨みは忘れて功績は功績として評価しなければならない、というのがモットーの、あの李鴻章らしい対応の仕方である。そんな李の態度に、劉永福自身もさぞや戸惑っただろうと思うと、おかしみと共に親しみすら湧いてくる。
劉永福はどうしたものか、その後ははっきりと清へ味方することを宣言し、死ぬまで清のために働き続けた。それらの恩賞を授けられたから、というよりも、それをくれた李鴻章の人柄に魅せられたのかもしれない。
さて、この第一次フエ条約を結ばされる羽目になったベトナム王朝では、当然ながら主戦論が高まった。清でも、激怒した西太后の号令のもとに、まだ健在であった湘軍や清議派などの主戦派が起用され、ベトナムのトンキンへ派遣されている。
宗棠の元からも、彼の若い部下が何名か派遣されたのだが、結果的にはこの小競り合いは、紅河デルタを占領したフランス側の勝ちに終わった。
とにもかくにも結果が出たのであるから、両国とも早々にベトナムから引き上げるべきであろう。その撤兵協定を結ぶために、清側からは例のごとく李鴻章が現地に赴くことになったのだが、李鴻章はその「李=フルニエ条約」において、早々にベトナムに置ける宗主権をフランスへ明け渡してしまった。これが光緒十(一八八四)年五月のこと。
これも清国内で大批判を浴びたが、当然もっとも強く非難するだろうと思われた宗棠からの声がなかったものだから、人々は大いに訝しがったものだ。
いかんせん、湖南の今臥龍も、もう七十歳を越えた。近頃は、馬に乗ると必ず肩や腰がきしむような音を立てる。馬の蹄が地面を蹴るたび、耐え難い痛みが彼の背筋に伝わる。時には怒気を発するのさえも辛い。そういった事情で毒舌を吐こうにも吐けなかったのである。
部下の前では強がっているが、
(もうそろそろ、潮時だな。あの女もいる、李のヤツもいる。それに劉永福のような面白いヤツもいる。まだまだ清とて捨てたものではない。俺がいなくとも、清はすぐに滅びることはあるまい)
西太后と李鴻章の顔を思い浮かべながら、彼には珍しく、負け惜しみの感情なしに己の死を考えていた。
(俺がくたばっても、当分の間は大丈夫だろう。李にも考えがあってのことだ。アイツも気の毒なヤツなのだ)
いつしか、宗棠はごく自然にそう思うようにもなっている。心残りはといえばやはり海軍のことであるが、
「これも大過なければ、そこそこの能力があるヤツなら発展させられる」
そう自分に言い聞かせていた。
確かに、この撤兵協約が穏やかにすめばその願いは叶ったかもしれない。だが、ベトナムからの撤兵に際して両国とも、
「撤兵はまずそちらが」
などと言い合って、一向に譲ろうとしなかった。もちろん双方に思惑があったからである。よって、せっかく取り決めたこの協定も物別れに終わって、六月には
「撤兵するために出兵するのか。馬鹿げた話さね」
宗棠が苦笑いしたように、これが清仏(中法)戦争の発端となった。
両国とも撤退せぬまま、ついにトンキンのバクレにおいて軍隊が衝突した。これにより、フランス側も最後通牒をつきつけ、二ヶ月後の八月には台湾省を攻撃、清陸軍を敗走させた上に貿易港であった基隆の砲台を占領、さらにはその対岸の福建へ向けて大砲を放ってきたものだから、
「これはいかん」
宗棠は血の気を引かせた。福建には、彼が心血を注いで少しずつ創り上げ、未だに発展途上の海軍がある。ようよう体裁を整えて、部下どもは十分に使用に耐え得ると思っているらしいのだが、宗棠に言わせれば、
「まだまだ卵の殻がついているようなひよっこさ」
というわけなので、フランス軍の相手には到底ならない。
慌てて朝廷へ上奏し、督弁福建軍務の権限をもぎとったものの、夏の暑さと加齢によって食欲がとみに失われ、筋肉の削げた身体を引きずりながら福建へやってきた宗棠の目に映ったものは、船政局が破壊され、福建艦隊が壊滅した姿であった。
(…これが、俺のやってきたことの結果か)
破壊された船の破片が、港のそこかしこに漂っている。さすがの彼も呆然とそれへ目を注ぎながら、しかし、
(俺の海軍はまだまだだった、それだけの話だ)
「このことを朝廷に報告しろ。特に母后には詳しく申し上げるのだ」
彼は彼らしく、冷静さと情熱とを失ってはいない。
「俺が生きてある限り、まだ取り返しは効く、と付け加えるのを忘れるな」
こけた頬にニヤリと笑いを浮かべて言うと、彼に従って南へ戻り、漕運総督(官吏によって行われた、河川及び運河における穀物輸送担当)となっていた楊昌濬も、
(まだまだ先生はお若い)
同様の笑みを浮かべて頭を下げ、駆け去っていった。
この時の上奏がきっかけになったかどうかは定かでないが、ともかく清政府は九月六日、フランスへ向けて正式に宣戦を布告している。
十月に入ると、フランスはその返事として台湾を含む東シナ海沿岸の封鎖を行った。それに対して、宗棠も、湘軍派である彼の配下のほとんどを投入し、
「フランスを一歩も入れるな!」
年老いた身体に鞭打って督励したし、陸においても、当初はランソンを占拠して国境の鎮南関まで迫ってきたフランス軍を、清側の将軍である馮子村や件の劉永福率いる黒旗軍が翌光緒十一(一八八五)年三月には破っている。
この結果、当時のフランスの内閣は責任を取らされて倒れているのだから、
(圧倒的勝利は無理かもしれないが、フランスを追い返すくらいは出来るのではないか)
と、宗棠を含む清国人のほとんどが、そう思っていたに違いない。
しかしこの戦いは、
「何のことだ、俺達は勝っているではないか。勝手に講和などしおって、中央のヤツらは、腰抜けばかりか」
近年はなりを潜めていたはずの宗棠の毒舌を、再び復活させる結果に終わった。
なるほど、結果だけを見ればフランスはベトナムを植民地とするのに成功している。だが、フランスも決して楽に勝てたのではなく、重要と見られるいくつかの戦いにおいてはむしろ敗北していた。それにより見過ごしにはできない損害を出したのだから、宗棠がそう言ったのも当たり前である。
今回は結局、講和するということになったが、もしも再び日本から戻ってきて駐清公使になっていたパークスや、清国総税務司ロバート=ハートらイギリス側の仲介がなければ、そして清側穏健派がその話に乗らなければ、この戦争の結果は果たしてどうなっていただろうか。現に、当時から二百年後の今でも、中国や台湾では、この戦いは実質的には清の勝ちであると見る向きさえある。
陣頭で指揮を取るには年老いすぎて体が耐え得ぬ。よって今回も、戦の指示を全て福州総督府から出していた彼に、息せき切ってその報せを持ってきた楊昌濬ほか、彼に従っていた古くからの部下達は、
「結局アイツも、自分が可愛いのか!」
久しぶりに彼が白髪を逆立てんばかりに怒鳴ったので、思わず身体を震わせたものだ。
彼がそんな風に怒ったのは、李鴻章がその配下である淮軍派兵士を全くと言っていいほど今回の戦いに使わぬまま、三月下旬には早々に停戦にこぎつけたのみならず、六月上旬に天津で条約を結ぶ予定であるということを続けて聞いた時である。当時の駐仏公使、曽紀沢の猛烈な反対を退けてのことで、この時の反対が祟り、曽紀沢は公使を解任されてしまった。
李鴻章は、前年、朝鮮半島で起きた甲申事変に対して、まだまだ自分が奔走せねばならないということを理由に、またしても清国にとって大変に屈辱的なこの条約をとっとと呑んだのである。
その内容をかいつまんで記すと、清はベトナムをフランスの植民地だと認める、ラオカイ(保勝)とランソンより北に通商のための港をそれぞれ一つずつ開く、清が鉄道を自国内に敷く折はフランスの業者を使う、台湾基隆及び澎湖島からのフランス軍の撤退、というのが主たるものだった。
最後の一つはともかく、他の三つを、清側が局部的にとはいえ勝利を収めた一ヶ月も経たぬ内に唯々諾々として呑んだというのは、普段から李鴻章を支持していた人間でさえ不審に思えた。そのせいで、李が講和を急いだ本当の理由が、
「自身の配下にある淮軍派軍隊の温存のためで、これからも自分が政治的に有利な立場に立つためである」
との噂が、妙に真実味を帯びて広まってしまったのである。こんな話を聞けば、宗棠でなくとも憤慨するだろう。
しかも李鴻章は、部下の楊昌濬を宗棠の補佐として閩浙総督に任命し、宗棠にも和議のための使者として、天津へ自分と共に赴くように言ってきた。これも李鴻章の彼に対する「先輩の宗棠を無視できぬ…」という気遣いであったのかもしれないが、
「筋違いも良い所だ。今回のいくさで死んだ奴らに、あの世で何と言えばいい…俺がやってきたことは一体何だったのだ」
そんな風に激怒した後、まるで膨らんだ次の瞬間しぼむ餅のように、宗棠はへたへたと椅子へ腰を下ろして上半身をぐらりと揺らめかせた。
「先生!」
慌てて支えようとする楊昌濬へ、うるさげに手を振りながら、
(目がくらむわい)
辛うじて机の上に両手を着いて身体を支え、彼は太く長いため息を着いたものだ。
怒気を発したためと、絶望が一気に襲い掛かったためであろうか。机へ両手をつきながら、どんなに大きく呼吸を繰り返しても、しばらくは息が出来ぬほどに苦しく、激しい眩暈も覚える。
(長生きなど、するものではないな。あの諸葛亮とて五十四歳で死んだというのに、俺はそれよりもさらに二十年、無駄に生きてしまった。そろそろくたばる頃合であろうよ)
苦笑いしながら、彼はしばらく目を閉じたまま天井を仰ぎ、
「…俺は疲れた。しばらく休むよ」
彼には珍しく、正直にそう告げた。
「フランスは、これからもまだなんだかんだと言って寄越してくるだろう。であるから、正式に批准されるまでには時間がかかろうわい」
「しかし先生、条約締結は六月の九日ですが」
楊昌濬が正直に首を傾げるのへ、宗棠はうっすらと目を開けて軽く笑い、再び目を閉じる。
「それまでには俺もまた起きているさ。心配するな。与えられた任務はこなす」
目を閉じたままそれだけを告げて、鼻の穴から大きく息を吐き出しながら、
(俺がくたばった後も、フランスはきっとあれ以上のことを言って寄越してくる。あの四つだけで済むはずがない)
聡明な彼には、そのことがはっきりと予測でき、しかし自分の部下達の中にはそれを予測するほどの人物がいないこ とを改めて寂しいと思ったのである。
終
こうして、光緒十一(一八八五)年四月四日、ロバート=ハートの代理としてイギリス人キャンベルとフランス代表のビヨーがパリ覚書に調印、それに基づいて六月九日に天津で、フランス公使パトノートルと李鴻章が修好通商和平条約を締結し、これをもって清仏戦争は終了と相成った。
これが李・パトノートル条約であり、清はこれでベトナムの宗主権を完全に放棄したことになったのだ。
そして「俺はしばらく休む」と告げた宗棠もまた、気力と体力の衰えた身体に鞭打ちながら、李鴻章について天津へ赴いた。その顔はすでにどす黒く、
「ご苦労でした。どうかゆっくりお休み下さい」
李鴻章が思わずそう声をかけたほどである。部下達が反って驚いたことに、宗棠はそれに対してかすかに笑うのみであった。かつての彼ならきっと、
「貴様が言うな、余計なお世話だわい。それは嫌味か」
と、その程度は言い返したろう。だが、そんなことさえ言い返す気力がないのだと、医者でなくてもはっきり分かるほど、宗棠の表情からはかつての負けん気と覇気が失われていたのだ。
天津から福州へ戻ってきて、宗棠はついに倒れた。それ医者だ、薬だと騒ぐ部下達へ、
「寿命だよ。寿命さね。であるから、あまり構うてくれるな」
かすかに笑って繰り返す彼の症状は、どんどん重くなっていく。夏に入って気温がより高くなると、それに比例するかのように一層症状は悪化し、彼の身体は水か茶しか受け付けぬようになっていた。
栄養を取れぬし、いかんせん老体であるし、というので手術をしようにも宗棠の体力が保たぬ。医者も手をつかねて匙を投げてしまった。
それでもひと夏、彼は生きた。その後の厳しい残暑が続く中、苦しげな呼吸を繰り返しながら「眩暈がとまらぬ」と言い言い、
「しかし悔しいな。俺もついにくたばるか」
己の枕元にいる楊昌濬へかすかな声で話しかけ、ニヤリと笑った後、
「海軍を頼む」
一言告げて、こときれたのである。
時に、光緒十一(一八八五)年九月五日、享年七十三歳。こうして清朝を支え続けた大黒柱がついに折れた。後に残った人々の胸の中を襲ったのは、
(これから清はどうなるのか)
という薄ら寒さであったろう。
清が曲がりなりにも、その領土の五分の一にも当たる新疆を取り戻せたのは、宗棠あってこそのことだったということを、改めて感じさせられたからである。生きている間はいささか煩わしかった彼の毒舌さえも、いざ無くなってみると大変に懐かしい。
また、左宗棠逝去により、清国のことはいよいよ李鴻章一人の双肩にかかった。
宗棠が予測したように、天津条約の翌年には辺境通商章程、さらにその翌年に国境協定が結ばれている。さらには朝鮮における宗主権も危うくなって、彼の死後十年経った光緒二十(一八九四)年には、かの日清戦争が勃発した。この時も勝ち目がないと思った李鴻章は、例のごとく開戦反対を唱えたが、結局、強硬意見に押し切られ、この戦いをする羽目になってしまっている。
この戦争で実際に戦ったのは、李が自分のために温存していたはずの北洋艦隊のみで、それがほぼ壊滅してしまったのは何とも皮肉な話だ。もしもその折、宗棠がいつも気にかけていた南洋海軍も併せてあったなら、かほどもろく破れることは無かったかも知れぬ。
清はそれからも、緩やかな衰退への道を辿った。外においては日本も含めた諸外国の、飽くことを知らぬ欲求に奔走し、内においては義和団事件や孫文率いる革命軍にピリピリしながら、ついに李鴻章も光緒二十七(一九〇一)年には帰らぬ人となる。
その少し前になるが、日清戦争が終わった後、両江総督に任じられて孫文の指揮した広州蜂起を鎮圧した譚鍾麟が、
「私はあの左宗棠の後継である」
と自認しつつ、光緒帝が支持していた戊戌の変法に対して反対の旨を西太后に上奏した時、
「先生なら、きっと反対したに違いありません。なぜなら先生は保守の人だったからです」
そう言い切ったことがある。
それに対して、
「かの左公は、決して保守の人などではありませんでしたよ」
苦笑しながら李鴻章はそう答えた。若い人々によって行われようとしたこの改革の良さを、李も内心では十分に認めていたに違いない。それを実行に移すには時期が早すぎることも知っていたが、
(左宗棠ならば、何が何でも反対するということはなかったろう)
その政策の全てとは言わないが、一つ二つくらいは実行するよう、宗棠亡き今、もう一度見たいとさえ思えるあの頑固さで、粘り強く西太后に勧めていたであろう。
急激な変動を何より嫌う西太后へ、改革を勧めるなどということは、
(俺にも譚鍾麟にも他の誰にも出来ぬが、左宗棠ならばきっと)
愛すべき単純さを備えている一つ年上の譚を見ながら、李はそう思って再び苦笑した。むしろ宗棠と政治的に正反対の立場にあった李鴻章のほうが、宗棠のことをよく理解していたかもしれない。
結局この改革は、西太后の強い反対と、戊戌の政変と呼ばれる彼女の素早い行動によって不完全燃焼に終わった。改革を期待し、しかしそのことに失望した人々の心は、その後の義和団事件における清朝の無残な有様により、さらに清から離れることになる。
清朝が滅びる直接のきっかけになった辛亥革命が、先述の孫文によって起こされるのは、李鴻章が亡くなってから十年、左宗棠が生まれた年から数えてほぼ百年後のこと。
二人とも、心の底では互いを十分に認めていながら、その個性が互いに強すぎて、ついに歩み寄ることはなかった。このことが、清にとって不幸であったかどうかは今も分からない。ただ、これらの英傑が二人とも亡くなった時が、清が事実上滅亡した時であったとは言えるかもしれない。
河西回廊に植えられた「左公柳」は、現在も涼しげに緑の葉を揺らしている。
―了