六 有言「不」実行
ヤクブ・ベクは、十八世紀後半から十九世紀前半にかけて、中央アジアのフェルガナ盆地、西トルキスタンと呼ばれた地方にかつて存在していた、コーカンド・ハン国の出身者である。同国は、ジョチ・ウルス系の遊牧民によって建てられたウズベク三ハン国のひとつであり、テュルク系、キルギス系の遊牧民を主な支配層としていた。
この、彫りの深い顔立ちをし、まるで針のようにピンと跳ねた髭で顔の下半分から胸元までを覆ったウズベク人は、東トルキスタン、つまり新疆地区の回民が清朝に対して反乱を起こしたのを聞いて、中央アジアのタリム盆地へ攻め入った。新疆地区の主要都市であるカシュガル、エンギシェールなどにいた清駐屯軍をも追い落とし、歴史の表舞台に躍り出たのが、同治三(一八六四)年のことである。
そして蜂起の二年後にはヤルカンド、ホータンを占拠してタリム盆地の西半分を手中に収め、さらに六年後には東のトルファンを、そして天山山脈の裾をぐるりと西へ回ってウルムチを攻略、ついには新疆イリ地方も支配下に置いた。
清帝国にとってはさらに由々しきことに、中央アジアにおける利権を狙うイギリス、ロシアも競うように彼を支持している。ロシアは同治十一(一八七二)年にヤクブと貿易を始めて、商業保護の名の元にイリ地方へ駐屯しているし、特にイギリスとヤクブは、カシュガルにイギリス領事を置く代わり、イギリス領インドから大量に武器の援助を得ることを条件に、その二年後には条約まで結ぶに至るのだ。
そしてこの条約でもって、ヤクブは彼の占領した場所のアミール(君主)を称した。よってイギリスでも、その場所をカシュガル王国などと呼んでいる。
彼は清帝国の支配に不満を持つムスリム民族達を取り込み、瞬く間に勢力を拡大した。
「俺に従えば、イスラム教を信奉する奴らは助けてやる」
と言い言い、実際に新疆地区におけるイスラム系統のモスクや聖者の廟を保護、修築もしているから、その一方で支 配者にありがちな暴力的統治―戦乱によって失った資金を補填するための、住民からの搾取…そのためにヤクブはテュルク系民族から「アンディジャンのごろつき」とさえ呼ばれたが―を行っていても、彼の直接的支配が及んでおらず、噂しか伝わっていない場所からは、まだ支持は集まりやすかったに違いない。
当然ながら、イリに駐屯していた清軍はヤクブ・ベクによって全て追い払われるか、ムスリムへの改宗を強要された。そのため、やむなく自殺したイリ将軍もいたのだ。しかし本国である清にはもう、それを助ける力さえない、と、周囲の国からは見られていた。
実際、当時の清の国情を見ると、李鴻章が新疆放棄を言い出すのも無理はないと思える。四方から西欧列強による圧迫を受けた上、東の日本が不遜にも、日清修好条規などという日本側になんとも都合の良い条約を清に結ばせている。諸外国のこれ以上の介入を出来る限りさせないための軍隊や、その軍隊を動かすだけの金を、
「どこから出すのだ」
李が途方にくれて嘆くように、まさに資金的にもぎりぎりだったのだ。
「陸にはこれ以上金を割けぬ。ヤクブやその他の異民族の王国を認めて朝貢させよう。すると少なくともその分の資金は手に入る。その金でぜひ海防を」
と李が朝廷で主張していたころ、左宗棠本人よりも先に、彼の上奏文が届いた。
言うまでもなく、この頃にはすでに実権は西太后がほぼ掌握している。
「陝甘総督の言葉も、ぜひご検討下さい」
待ち構えていたように文祥が言うと、李はかすかに苦い顔をしてそっぽを向く。
共通の恩人である大将、曽国藩は、同治十一(一八七二)年に既に亡くなっていたが、曽の跡継ぎをもって自認する李鴻章はこの頃、北京を管轄地に含む直隷総督として、また、西太后の新たなお気に入りの一人として、政府の中枢に深く食い込んでいた。文祥と左宗棠の仲の良さを彼も聞き知っているから、「またあの御仁が余計なことを」と言わんばかりに、そっぽを向いた顔をしかめている。
それを横目で見てわずかに苦笑しながら、文祥が宗棠の文書を捧げると、それを侍女の手が取り次ぐ。御簾の横からわずかに白い手が伸びてそれを受け取り、しばらくの間、沈黙が流れた。
(母后は横暴ではあるかもしれないが、決して愚鈍な方ではない)
御簾の向こうで、西太后がその文書を読んで考え込んでいるらしい様子を伺いながら、文祥は心の中で頷いていた。
やや一方向に偏りがちな嫌いはあるが、彼女は愚鈍どころか、むしろ大変に聡明で機敏である。女でありながら、男が操るのが当たり前の表舞台に出ているため、この国の常識に照らし合わせて悪女と認識されてしまったが、もしもこれで男であったなら、きっと清帝国の運命も変わっていたに違いない。
ともかく、今は政治の舞台すなわち西太后である。誰よりも誇り高く、英邁な彼女を動かすには、並大抵ではない労力を払わねばならぬ。その彼女が、
「我らの手に西域を取り戻すには、どのくらいの予算がかかるのか」
そう尋ねた時、文祥は思わず小躍りしたい気分になっていた。
「それは、陝甘総督自身の口から直接、陛下がお聞きくださるとよいかと思われます」
「確かにそうですね。現場にいる者の言葉は、何よりも貴重である。万の言葉よりも、総督自身を見たなら分かるでしょう」
「まことに左様でございます。恐れながら、陝甘総督も間もなく北京へ参りましょう。ぜひ陛下にお目通りを願い、詳らかならぬところはご自身でご下問を」
「そのようにしよう。疲れました。本日はこれで」
西太后が同治帝を伴い、簾の後ろから去っていくのを、百官は伏して送った。その姿が消えるとすぐ、文祥は、六年ほど前に別れたきりの友を待つべく、宮殿の外へ急いだのである。
こうして、朝廷での政務を終えては城門で日が暮れるまで待つ、を繰り返すこと四日、
「おお! 君の到着を待ちかねていたよ」
果たして文祥が待ち望んでいた、めっきり白髪が増えた友の姿はそこにあった。よほど急いで来たのだろう。今しがた、馬から降りたばかりの白髪は乱れて砂埃にまみれ、ところどころ黒くさえ見える。
それに、砂漠にいるせいで日にばかりでなく沙にも焼けたに違いない。六年前はいささか白かったはずの肌はこれも黒く焼け、ところどころに茶色いシミさえ浮きでていた。
宗棠もまた、文祥の姿を認めて、
「やあ。君も年を取ったな。俺より年下の癖に、俺と同年に見えるぞ」
相変わらずの憎まれ口を叩いた。それすらも懐かしく、文祥は宗棠の肩を抱かんばかりにして、紫禁宮の中へ導きながら、
「先日、私の元へ届いた君の上奏文を、母后へ奉った。今、朝廷はその議論で持ちきりだ。君自身でぜひかのお方を口説いてくれたまえ」
「はははは。俺には娘ほどの女を愛する嗜好はないし、母后のような女は苦手だが、ひとつやってみようか。熱心に口説けば、ひょっとすると俺のような頑固で偏屈者でも、なびいてくれるかもしれんしな」
「冗談ごとではない」
「分かっているさ。今は海よりも陸だ」
文祥が顔をしかめると、宗棠はすっと顔を引き締め、
「今の俺達の敵は、ロシアだ。ヤクブの混乱に乗じて、イリで好き放題している。ヤクブもヤクブで、支配するならロシアをきっちり追い払えばよいものを、そこまでの軍事力がないものだから、イリを半分も己のものにできんのさ。結局、混乱で嘆くのは住民どもばかりなのだ。これ以上、奴らの好き勝手を許してはならん。海のほうは、あと十年もあれば、俺がなんとかしてやる。いや、出来る。今は、西方をイギリスやロシアに渡さんことだ。清にもまだまだ底力はある、それをここらで彼奴らにガツンと示さねば。そうすれば、海の方とてしばらく保つだろうさね」
初対面の折のように、宗棠の語るところへいつの間にか熱心に耳を傾けながら、
(これならば)
西太后を説得できるに違いない、と、文祥は思った。
西太后も本当は、清がじり貧に陥っていることを身に沁みて感じているに違いなく、その国力を考えれば致し方ないとはいえ、李鴻章の及び腰外交を苦々しく思っているということを、文祥は鋭く察している。
そういったところへ奉られた、この久しぶりに胸がすくような勇ましい論説は、
「ただの理想ではないさ。俺は現実にしてやる」
不毛の地で六年耐え、実際にその地を取り戻したばかりか、そこへ新たな産業まで発展させつつある宗棠がぶつのだ。目の前の本人を見、その言葉を聞けば、それが決して机上の空論ではないということを十分に信じさせるだけの迫力を持っていた。
陝甘総督到着の知らせは、すでに西太后に届いているはずである。報せを届けに行った使いのものが言うには、
「全ては明日の朝議で」とのことであった。そして文祥、宗棠ら陸防派にとっては、まさに一日千秋の思いで待った夜はようやく明けて、
「蘭州では、今も沙が吹いていよう」
「ああ、そうだ。この季節にはこういった、乾いた沙がいつも吹く」
六年前と同じように、美しいレリーフの入った白い大理石の階段を上り、欄干に積っている黄色い砂を指先でなぞりながら文祥が話しかけると、宗棠も懐かしそうに頷いた。
「その沙は、ここ北京にまで運ばれてくる。…君に払えるか?」
「むろん、俺が払ってやるさ」
その沙を、西域平定とかけて尋ねた文祥へ、宗棠は今度は強く頷いて少し笑う。胸のうちに緊張を秘めたまま、養心殿へ彼らが伺候すると、
「不毛の地での六年、まことにご苦労であった。そなたの活躍、嬉しく思う。早速だが、総督に尋ねよう。周りで飛び交うのは、確からしからぬ噂ばかりで朕には真実が皆目分からぬ。よって、総督の話を聞いて、判断を下したい」
宗棠にとって軽蔑すべき女であるはずの西太后から発せられた第一声は、これである。
(横暴で、傲慢で、気に入らぬ者は男女関係なくすぐに傷つけると聞いていたが)
宗棠は意外な感に打たれながら、「ははっ」とばかりに平伏していた。
北京を離れていた六年、西域にあってもひっきりなしに入ってきていた彼女の、「侍女を手当たり次第平手打ちに…」「気に食わない人間にはすぐ、ヒステリックに怒鳴りつけて死刑を叫ぶ…」などした人物であるという噂とは、まるで違う印象を受けたのである。
そして、彼女はどうやら、
「総督の言い条、胸がすく思いがしました。西域を我らの手に戻すための手段について、忌憚なきところを語るが良い」
宗棠の奉った説をいたくお気に召したらしい。
そこで宗棠も「恐れながら」と、つい恐れ入ってしまう自分に苦笑しつつ、床へ額をつけながらも、熱心に語り始めた。
「俺…いえ、私の思うところは、奉りし文にて陛下に申し上げた通りにございます。イリ地方や西域に限らず、もともと我らの領土であったところを、他の者に思うまま蚕食されましては、それこそ諸外国の思う壺。彼らは清帝国にはもう力はないと、我らを侮っておりますが、ここでもしも我等がどこかひとつでも、それらの領土を取り戻すことが出来たなら、諸外国も清帝国を見直すに違いなく、それによって海防着手にも少しは時間が出来ましょう。現に私に今、陛下がお任せくださっている西域には、イギリス、ロシアが入り乱れております。ここでヤクブを追い出せば、その背後にいるイギリスの干渉も多少は防げましょうし、その勢いで持ってイリ地方へ我等が駐屯いたしましたら、清帝国の威勢も回復いたします。さらにロシアへも少しは物を強く申すことが出来るはず。よって、私個人としては、イギリス、ロシアが関わる西域奪回を強く申し上げる所存です」
そこで宗棠が一息つくと、
「…よく分かりました。総督、顔を上げて語りなさい」
長い吐息とともに、西太后が張りのある声で励ますように言う。居並ぶ官僚達も驚いてざわめき、西太后がいるほうの簾を伺い見た。
「問題は、資金であろう。どうやって作る」
しかし、西太后が問いかけると、そのざわめきはぴたりと収まる。(そらきた)といった風に、彼女の右に控えていた李鴻章が片方の眉を挙げ、かすかに肩をそびやかせるのを視界の隅で捕らえながら、
「兵の食料は、今までどおり屯田で賄えましょう。だが、イギリスの援助を受けているヤクブの武器に対するには、こちらも同程度の武器が必要。その費用は」
「その費用は?」
再び西太后へとまっすぐに視線を向け、
「陝西の喬致庸が援助を申し出ておりますが、まだまだ…陛下にもぜひ、ご負担願わねばなりません。ご不快でしょうが、我らに干渉してきたフランスに出させることも考えております。その勅許を頂きたい」
と、宗棠は言い切った。
「では、その総額は?」
ぴしりぴしりとムチ打つように、西太后の語気は鋭くなる。しかし、
「白銀八百万両。いえ、余裕を持たせて一千万両は欲しいところです」
宗棠も負けてはいない。財政大臣であった沈葆楨は目を丸くしたし、文祥もまた、ハラハラしながら、両者の成り行きをただ見守っているばかりであった。
「ですがそれは今、蘭州に喬致庸からの出資で設けている紡績工場及び、軍需工場が正式に稼動すれば、お返しすることは十分可能です。一千万両というのは、それらの工場の設立費用を入れての計算です」
「…よろしい!」
そして満座が驚いたことに、この途方も無い宗棠の言葉を、西太后は一言で承認したのである。これには、宗棠ですら驚いた。
西太后は何よりも、先の戦で焼かれた円明園の復興を優先させたいと考えていると聞いていたから、きっと彼女はごねるであろうと、その説得の言葉さえ用意していたのだ。
しかし彼女は宗棠その他、官僚達の予想を裏切って、
「陛下、国庫から五百万両を捻出してください」
と、これも驚いている同治帝へ言いつけ、さらに、
「フランスからも五百万両借りましょう。これで白銀一千万両。費用は以上でよろしいか」
逆にそう尋ねさえしたのである。
深い驚愕と同時に感動すら覚えながら、
「陛下のご英断、深く感謝申しあげます」
宗棠は生まれて初めて、他人へ心から頭を下げた。続けて、
「省内の回民鎮圧に私は時間をかけすぎました。これは私の罪です」
素直にそう言った後、再び顔を上げて簾の向こうの西太后をまっすぐに見つめ、
「よって、今回の戦はどんなに遅くとも、反乱軍討伐にかかったのと同じ年数以内で決着をつけましょう。それ以上の時間をかけるつもりはありません。これぞ、緩進急戦です」
自信たっぷりにそう言い切ったのである。
「…君のことだから、やれぬことはないのだろうが」
朝議は終わった。ともかくも、海より陸である、との結論を導き出せて、文祥は肩の荷を下ろしたような、しかしどこか複雑な表情で、
「私の心臓の事も考えてくれ。ずっとハラハラし通しであったよ」
すぐにでも西域へ帰ると言い出した宗棠を、天安門まで見送りながら愚痴った。
「まあ、良いではないか。それが君の役目だろう」
それへ晴れやかな声で笑い返しながら、
「李のヤツにも少々気の毒したがな。それはそれとして」
そこで宗棠は白髪首をしばし傾げ、
「ヤツは、俺が西へ去ればまたぞろ、海防を言い立てるだろう。それを君が何とか止めてくれ。俺もなるだけ早く、西の始末をつけるつもりでいるから」
遠い目をして西の空を仰いだ。心ははや、蘭州に飛んでいるらしい。
「李のヤツの言うことにも頷けんではない。ヤツとて心の底から良かれと思って、清のために頭を搾った上で言っているのだから」
馬首をめぐらしながら、彼は嘆息して再び呟くように続ける。
「周囲の国と上手く付き合いながら、我が国の命脈を保つ。しなくともよい戦なら、なるべく避けて相手の要求もなるだけ呑む。それが確かに理想的だろう。俺だとて、何も好き好んで戦ばかりしたいわけではない。仲良く出来るものなら仲良くやっていきたいさ。しかし、俺が見聞きしたところの李の外交理論はな」
そこで、深く皺の刻まれた、ごつごつした両手で己の顔を乱暴に擦り、まさに馬のようにぶるぶると唇を震わせた後、
「俺達の国と付き合いを求めるヤツらが、俺達の国を舐めていない、という条件の上でのみ成り立つものだ。所詮は優等生の机上の空論で、ただの理想に過ぎん。これからもヤツのやり方を通すなら、諸外国はもっと俺達を侮るぞ」
きっぱりと宗棠はそう言い切る。改めて現実を突きつけられたような気がして、文祥は愕然と馬上の友を見た。
(言われてみれば、確かにその通りだ)
李鴻章のやらんとするところは、諸外国に媚を売っているのと同じで、しかも諸外国は清を対等の相手としてみてはいない、と、宗棠は言いたいのだろう。確かに、今の清にはかつてのような威光はもうないのだ。
「帝国としての威光、そして数千年前から続く文化の担い手としての誇り…そいつを少しでも取り戻すために、俺は西域へ戻るのさね。使える人間は大いに使わんと、清帝国には損というものだぞ。何といっても俺は、今臥龍なのだからな」
少し青ざめた文祥の顔を見て、宗棠は努めて明るく、冗談っぽく言い、カラカラと笑った。
「諸外国の良いところは積極的に取り入れ、国力の充実をはかり、威信を回復する…はるか古代、蜀のために生涯をささげた諸葛亮と同じように、これからも俺は働くさ」
「…頼む」
「そんな風に改まるな。俺は、自分がそうしたいからやっているのだ」
己に向かって頭を深く垂れる友へ、宗棠はまた力づけるように微笑い、
「製造局が稼動して、利益が入ってきた暁には、喬致庸がやりたいと言っている貿易へも出資してくれるように、君から母后へお頼み申し上げてくれ」
「それは、もう」
文祥が頷くのを見ると、
「では、俺はこれで。君も長生きしろよ」
宗棠は言って、馬へムチをくれた。たちまち砂埃を上げて去って行く友の姿を、文祥はいつまでも見送っていたのである。
こうして、再び宗棠は西域へ戻った。喬致庸ばかりではなく、彼自身の念願でもあり、着手しかけていた蘭州製造局及び甘粛紡織総局設計へ、再び勇んで挑んだのは言うまでもない。
その段取りを全て終えた後、もはや六十歳という年にもかかわらず、文字通り休む間もなく粛州へ入ったのが、同治十二(一八七三)年八月のこと。
「降服は、繰り返し勧めているのですが」
蘭州で彼を迎えた譚鍾麟らが、彼の到着を聞いて安心し、しかし困ったような表情で告げたのへ、宗棠は大きく嘆息して腕を組んだものだ。
「いっかな、こちらの言うことを聞きません。どうせ降服しても抵抗しても同じだと、頑なに言い張っているのです」
「…我が軍の補給は十分か。白彦虎のほうへ向かった劉錦棠は?」
「はい、白彦虎自身はまたも逃してしまいましたが、回民そのものは鎮圧したゆえ、そちらへ援軍に参りますとの報せがありました」
「そうか、よろしい。では、俺の名を出せ。左宗棠が来ていると。降服すれば、別れて住むこともさせぬし、信教を押し付けるつもりもないと」
しかし、宗棠が吐息をつきつき部下たちに命じたその言葉も、反って逆効果だったらしい。粛州に篭っている回民たちは、より一層頑なに彼の勧告を拒否したし、そうしている間に、ヤクブ・ベクが助けに来てくれると信じているようなのだ。そうすれば、さすがの宗棠も、囲みを解くだろうと言い言いしているらしい。
「なんの、ヤクブ・ベクなど」
包囲はその年の十月にまで及んだ。回民の様子を探索に行っていた錦棠からその様子を聞いて、宗棠はほろ苦く笑ったものだ。
彼は、ヤクブ・ベクが西のオスマン・トルコ帝国からも君主として認められたというので増長し、己の支配下にある住民たちへ圧政を敷いているのを聞き知っていた。そのために、せっかく領土を広げてイギリスからも「王国」として認められていながら、領内のあちこちに小規模な反乱さえ起きているのだ。
そしてヤクブ自身は、あろうことかその鎮圧に手こずっているという。もちろんそのことも何度となく、宗棠は粛州にこもり続けている回民へ通達しているのだが、彼らは一向に信じようとしない。
「己の身のことしか考えていないヤツが、己の尻に火がついたそのような状態で、ここへ救援になど来るものか。何故それくらいのことが分からん」
そう呟くと、持ち前の彼の短気さが一気に怒りとなって吹き出てくる。ついに彼は、
「一気に攻め落とせ。容赦はいらん!」
叫んだ。この時、宗棠が率いていた軍は、ちょうどやってきた劉錦棠の援軍も合わせて総勢一万五千。清軍側の包囲陣は六十余りにも及んだという。その軍は、総指揮官である彼の怒りをそのまま乗り移らせたかのように、激しく粛州を攻めた。
蘭州製造局で作らせたばかりの砲台を繰り出し、大きな弾で堅固な城壁を二度、三度と砕いていくと、さすがに堅固な城壁にも穴が開く。大砲を繰り出している間、城壁からの攻撃はあるにはあったが、
(包囲を耐え抜いた、とは言っても、食っておらんのだから力は出せまい。何故そこまで)
その攻撃には勢いがまるでないのが、遠くから見ていてもはっきり分かるのである。
かつて馬化龍に対した時と同じ虚しさを感じながら、
「白彦虎が我らに敗れたと報せてやれ。なに、風の噂でよい」
宗棠は命じた。粛州城に立てこもる馬文禄は、白彦虎を頼り切っていた。だから、白彦虎が破れたと聞けば戦意は喪失するはずである。果たして、その噂を清軍が流してまもなく、城から馬文禄がやってきて、城内回民の救命を条件に投降を申し出た。
「処刑するしかあるまい」
宗棠には、そう言うしか出来なかった。誰が見ても、馬文禄の投降は「やぶれかぶれでやむを得ず」のものであると分かったし、彼に従って最後まで戦った粛州城内の回民は、女子供まで合わせて総数七千人にも及ぶのである。こんな結構な人数の反乱者どもに、ここで下手な情けをかけて再び反乱を起こされては話にならない。
宗棠は続けて、
「甘粛省の南にて、別れて住むという条件を呑む様子が無ければ、全員処刑せよ。ヤクブとの連絡を絶つためだ」
部下にそう命じた。
戦いにおいて生き残ったわずかな回民は、この非情な措置を受け入れた。そして宗棠の言うように、甘粛省南部へ洗回させられたのである。その結果、蘭州から敦煌までの河西回廊に住む回民は、ついにいなくなってしまった。
こうして、同治十一(一八七三)年十月、清国内における回民討伐は全て終わった。陝西省にいた総計七十万人とも言われる回民族は、この戦から十年後には、わずか数万人に減ってしまったという。
ともあれ、一時的ながら清国は息を吹き返した。
太平天国の乱、捻賊、そしてそれに追随して騒いでいた回民族、全てを鎮圧して、内部需要のために各地には工場さえ設けられているこの時期は、「同治中興」と呼ばれている。
この中興のおかげで、清は諸外国から舐められつつも、まだ余力があり、「眠れる獅子」ゆえに侮るべからずとの評価を得た。これは李鴻章ばかりでなく、宗棠の活躍も一役買っていなかった、とは言い切れない。
だが、その功績を誇る暇なぞ当然無く、
「白彦虎は、新疆方面へ逃げたようです」
譚鍾麟らが苦虫を噛み潰したような顔で言うのへ、
「いよいよヤクブ・ベクとの全面戦争になるか」
宗棠もまた、似たような表情をしながら唸った。
彼がかつて西太后に約束した西域奪回は、ヤクブ・ベクの乱のどさくさに紛れてロシアに奪われた新疆イリ地区を除き、ほぼ達成していた。よって「次はヤクブだ」と、密かにヤクブ・ベクとの対戦を思い描いて、宗棠は新疆ハミ市、クムルへ部下の張曜を派遣し、軍の食糧を集めさせてさえいる。
むろん、これは朝廷の許可を得ていない。その上ここでまた、
「思った通り、あの優等生がまた海防を言い立てているらしいからな」
彼にとって、頭の痛い問題が持ち上がっていた。
蘭州と甘粛、二つの工場はすでに稼動して、外国製の新式武器や紡績など、それぞれの成果を上げ始めている。だが、当然ながらまだまだ業績は微々たる物で、
「それだけでは毎年、新疆のために割いている白銀数百万両を到底取り戻せない。割に合わない。最初に乾隆帝がかの地方を平定してから百数十年経つが、その間ずっと維持費は出て行く一方で、戻ってこない。しかも新疆はもう、我らの領土ではなくなってしまっている。今回、陝甘総督の取り戻した領土で、西域はもはや十分ではないか」
李鴻章は、これ以上の出費は無駄だと言い立てているというのである。
繰り返すが、李の就いている直隷総督という地位は、総督の中では筆頭の番付だった。自然、李鴻章が清の政治家代表のようなものになってしまっていて、その言葉にはあまり強く逆らえぬような雰囲気が出来上がってしまっている。
そのことは仕方ないにしても、
「金、金というが、金ばかりの問題ではない。それは李のヤツも分かっているだろうに」
宗棠にとっては、全てが「これから」である。国同士の対等な付き合いができなければ、貿易も対等にできない。
もう遠い昔のようなことになってしまったが、かのアロー戦争の結果、無理に結ばせられた不平等条約は、諸外国が清を舐めきっている内容だった。
それから三十年は経つ現在でも条約の効力は継続中なのである。なので、せっかく紡績工場を作って製品を世に送り出そうとしても、また軍隊に物を言わせて安く買い叩かれるか「タダ同然」での取引を迫られるに違いなく、
「俺には商売のことは皆目分からんが、それだと清側ばかりが損をする、ということくらいは分かる。貴方に無駄な出費をさせた、と思わせるのが大変に心苦しいのだ」
と、一旦態勢を整えるために蘭州へ戻った宗棠は、ちょうどその時、紡績工場を訪れていた喬致庸へ、そう言って深く頭を下げたものだ。
しかし、喬致庸は首を横へ振り、
「総督。私は何も貿易のためだけに、資産を提供したのではありませんよ」
静かに笑って言う。その顔を、宗棠は多大なる感謝の念で持って見上げ、
「…李のヤツを、俺と文祥とで必ず説得する。貴方にもきっとこの借りは返せるはずだ」
再び深く頭を下げた。
この時、すでに東の日本も激動の時代を終え、異国の文化を意外なほどすんなりと受け入れて、着々と国力を充実させつつあった。
清にとって、鎖国政策を採る以前からの数少ない貿易相手国であった日本は、なるほど、日清修好条規などという条約をこちらへ呑ませはしたが、所詮は「生まれたばかりの赤子のわがまま」を聞くようなもので、「さほど恐れるには足らないが、まといつかれると少々煩い小さな蝿」のようなものとしか、清朝廷の人間にも意識されていない。
それが海を越えてやってくるとなると、確かに少々厄介であることには変わりはないが、
「そんなちっぽけな東の国を、李は恐れているのだ」
と、宗棠初め、清の有識人たちはさほど重大視していなかったのだ。
李鴻章が日本に危機感を抱くようになった経緯は、以下である。
同治帝が亡くなる前年の同治十二(一八七四)年に、日本軍による台湾出兵が行われた。これは当時の琉球王国の恭順が明らかでなかったことが原因で、王国が日本の江戸時代から日本、清の両側へ朝貢していたことに端を発する。
朝貢を受けていたにもかかわらず、清は「琉球は日本のものではないが、我らのものでもない。同様に、台湾の原住民も、化外の民であるから清とは何の関わりもない」と常々言っていた。
そんな折も折、王国の領土である宮古島の島民五十四名が、海難事故で台湾に流れ着いたところ、台湾人がこれを全て殺害してしまったという事件が起きたのである。よってこのことを、
「我が国の民が殺害されたのである」
と日本側は判断を下した。
また、このことは西郷隆盛の弟、従道や谷干城らが、新政府によって職を失った士族たちの不満のはけ口が必要である、と主張する格好の材料になった。明治政府の許可を得ない出兵であったらしいが、他国から見ればそれはあくまで日本側の内部事情でしかない。
おまけに当時の明治政府は、長く国際的な情勢に目を向けてこなかった江戸幕府の影響が抜け切っていなかったこともあり他国へ攻め入る時のいわば「お約束」であった国際慣習を知らず、台湾へ攻め入る際に清側への通達をしなかった。もちろん出兵そのものが明治政府に許可を得ないものだったので結果としてそうなってしまったという一面もあるにはあるのだが、当然ながら清に多大な影響を及ぼしていた西欧列強にとっても、「日本という国が突然の出兵を行った」ということになる。いくら明治政府が「許可は与えていない」と主張してもそれ自体が責任を逃れる為の詐術ではないかと見做されかねない。
しかし、どういう経緯でかは不明瞭だが、李鴻章や、その頃は一時的に日本に駐屯していた、かのパークスが強く抗議したにもかかわらず、清側は、イギリスの仲介によって、自分達にとっては野蛮極まりないとみるべき出兵を義挙とさせられた挙句、逆に賠償金として五十万両を支払わされているのだ。
その上当時、清はその海軍力において、東の蛮土と見くびっていたはずの日本よりも劣っていたので、琉球に対してろくな手出しも出来なかった。これでは李鴻章が日本に対して強い危機感を持つのもやむを得ないし、再び金や海防についてやいのやいのと言い立てるようになるのも無理はない。
「江戸幕府とやらが倒れて、新しく天皇を頂点に据えたばかりの新政府は、明治政府というらしいがな。まだ間がある。日本にはまだ、本格的にこちらへ攻め入ってくるだけの軍事力は整っていないはずだ」
北京からわざわざ報せてくれた文祥の手紙を眺めながら、宗棠はひとりごちた。
日本に新たな政権が樹立されて、まだ両手で数えることが出来るほどの年数しか経っていない。よって、もし万が一、対立することになったとしても、海軍建設にはまだ間に合うだろう。と、宗棠でさえもそう考えていたのだ。世界中の誰もが、この時点で日本が後年、目を見張るほどな発展を遂げるとは思わなかったのである。
とにかく、これによってまた、新疆への出兵は議論に上る所となった。李鴻章らに反対する文祥ら陸防派は、あくまでイリ奪回を主張しており、そのためには、宗棠をかつて林則徐も就いた事のある役職、欽差(特命)大臣に任命する勅許を西太后から得ることも厭わない、とまで言っているのである。
かつて林則徐も任じられていたこともある欽差大臣というのは、国内領土の揉め事処理ばかりでなく、諸外国との交渉をも行わねばならないという、いわば外交官も兼任しているポストであり、
「忙しいことだ。また北京へ戻らねばならん」
金順や劉錦棠らへこぼしながら、それでも宗棠が労を厭わず北京を再び訪れたのが、彼が奪回した領土がすみずみまで落ち着いたと思える同治十三(一八七五)年のことである。彼にとってはまさに「尻を暖める暇もない…」精神状態であったに違いない。
この時には、中興を成し遂げた同治帝が年明け一月十二日、まだ十九歳という若さで亡くなっており、わずか三歳の載湉が光緒帝として立てられていた。
彼は西太后の妹の子、つまり甥に当たる。苗字が同治帝(載淳)と同じであるため、本来ならば清の法に照らすと後継者として認められないところを、西太后のゴリ押しで即位させられたのだ。
(またあの女が、僭越なことを)
再び北京へと馬を走らせ、苦笑しながら思いつつも、
(あれで男であったら)
と、宗棠もその行動力には舌を巻かざるを得ない。悪いが、穏やかで心根の優しいと評判であった亡き咸豊帝が、妻の一人である彼女を疎ましがったのも頷けるような気がする。
とるものもとりあえず、彼が北京へ着いた頃には、李鴻章が西太后へ海防を諄々と説いている所で、
「君は、ずいぶんと痩せたな」
以前と同じように、自分を出迎えに来た文祥の顔色を見て宗棠が言うほど、陸防派の文祥も李鴻章の舌鋒にやりこめられているといった状況だったのだ。
文祥は苦笑して、
「君は相変わらず、憎らしいほどに頑丈そうだ」
言葉を返しながら、目に見えてこけた頬を少しほころばせた。
このところ、李鴻章との議論のせいばかりでなく、文祥の体調は思わしくないらしい。そんな彼に、
「俺が来たからには、君にもうこれ以上の心配はかけさせぬさ。まあ、黙って見ておれ」
勇気付けるようにかけたその言葉通り、
「先だっても申しあげましたたように、今、ここで新疆を失えば、反って国勢は衰えます」
西太后の前で、宗棠は持ち前の強気さでいきなり奏上した。
彼を見て、たちまち嫌な顔をする李鴻章には目もくれず、
「陛下のご威光を持ちまして、西域領土は我がほうへ奪還しつつあります。ですがここで、もと我が清帝国の領土でありました新疆を、もうよいからと放置してしまえば、我らは民の支持を失います。海ばかりではなく、陸においてもイギリス、ロシアの脅威に怯えながら過ごさねばならぬことになりましょう。となると、彼らは我らを一層侮り、海防にも支障が出ること、間違いありません。なにとぞ再考を」
一気に言い終え、宗棠は平伏した。
あどけない顔をした帝の椅子の後ろには、相変わらず御簾が下がっている。その後ろで、西太后はどうやら彼の様子をじっと見つめているらしい。
簾越しとは言いながら、その視線にまるで射られるような熱さを感じていた彼の耳に、やがて大きなため息が聞こえ、
「陝甘総督を、欽差大臣及び督弁新疆軍務に任じる。引き続き、新疆の奪回に当たるよう」
西太后の良く通る声が響いた。
彼女の言うところ、すなわち決定である。百官と同じようにひれ伏しながら、
(この女は、最初から俺の言おうとするところを察し、賛同してくれていたのではないか)
宗棠はそっと顔を上げ、簾の向こうの顔をうかがった。
建前上、貴人の姿、しかも女性の姿を見ることは許されていないが、それでも六年前にちらりと見たとき以上に、彼女の頬は鋭く尖り、小柄な体から発散されている威圧感は増したように思う。
恐らくは、李鴻章の意見にも、彼女のカンに触るところが多々あったに違いない。だが、その感情を抑えてよく耳を傾け、さらには彼と反対の立場である宗棠の意見も聞き、出来る限り公平を貫こうとしていように見える姿勢は、
(俺であったら出来たかどうか)
男性であっても、いや、男性であったら余計に出来ぬことかもしれない。「たかが娘ほどの年齢の女だ」と思い込むことで、己の心に自然とわきあがってくる尊敬の念を、否定しようとしてもしきれぬ自分自身へ、今となっては宗棠もいささか困惑している。
とにかく、
「このたびも、君には本当に骨折り頂いた。感謝する」
今回もまた、あっけないほどに宗棠の意見は通った。乾いて冷え切った風が、容赦なく吹き付ける紫禁宮の階段を、並んで降りながら彼が文祥に頭を下げると、
「いや、私は何もしておらぬよ。君の功績が多大だったから、そんな君を信頼されて母后も納得された、そういうことだ」
文祥は、寒風で冷えたせいばかりではなさそうな、青黒い頬をして微笑む。
「君はもう、我が国にとっては無くてはならぬ大黒柱…君のしたいこと、すなわち清のためになることなのだからな。そのために私だとて労は惜しまぬよ。愛国心は、君には負けぬつもりだ」
「俺は、また西に戻らねばならん」
そんな年下の友を心配しながら、宗棠はつとめて明るく言った。
「君の目の黒いうちに、新疆を取り戻してやるか」
「相変わらず言ってくれる。君こそ、流れ矢などに当たって死なぬように、せいぜい気をつけることだ」
憎まれ口を叩き合いながら文祥と別れた宗棠は、翌、光緒二(一八七六)年四月、兵糧が目標の数に達したのを機に、いよいよヤクブ・ベクと直接対決するため、新疆地区へ向かうことを決定した。
宗棠の後任として陝甘総督に任じられたのは、彼もよくその気性を飲み込んでいる楊昌濬である。宗棠の仕事がやりやすいように、というわけで、文祥が口ぞえしたのだが、勿論、宗棠ほどではないいせよ、楊昌濬とて一州の総督を十分にこなせる能力があると見られた上でのことだ。
「さすがは文のヤツだ、気が利いている。楊になら安心して俺の後ろを任せられるものな」
言い言い粛州城へ入った彼は、劉錦棠、金順らを副将とし、
「錦棠は北路、金順は南路を取れ。二手に分かれて出発し、先鋒部隊の張曜とクムルで合流しろ。抜け駆けは許さん。途中で遭遇した場合の反乱軍の処置については、各自に任せる。新疆方面への道沿いにある拠点に駐屯している清軍兵士も併せろ」
と、命じた。
この時期における宗棠総指揮下の軍勢は、以下のように記録されている。
劉錦棠率いる湘軍二十五営、張曜軍十四営、徐占彪の蜀軍五営。これに新疆方面各拠点の清軍を併せて、歩兵、騎兵、砲兵総勢百五十営の八万人。
「これだけの大勢でヤクブを懲らしめられんとなったら、俺達の恥だぞ」
宗棠は彼らを前にそう激を飛ばし、
「俺はもう年寄りだ。身体はお前達のようには良く動かん。その分、頭を使おう。ここから指揮させてもらうさ」
続けてニヤリと笑った。彼がそう言ったのには、ここらで自分は引っ込み、若い者達にも功績を立てさせてやろうと思ったのが理由の一つである。
この討伐には、宗棠は彼が宣言したように直接加わらず、粛州城から全ての指示を出すことにして、事実そうしている。もちろん、彼自身が直接軍を率いずとも十分な勝算があると見たからであり、
(ヤクブ・ベクは民心を失っている)
カシュガル王国の君主、と持ち上げられてしまって、調子に乗りすぎたのだろう。ヤクブは人々から搾取しすぎた。その結果、彼の「王国」の住民、ことに天山南路沿いに住む人々のことごとくが、彼からそっぽを向いているという情報を得たのが、宗棠自身が出馬しなかった理由の二つ目だった。
民心がヤクブから離れているとなれば、ヤクブの兵がいくら城を守ろうとしても、民がその門を開く。よって回民を鎮圧した時よりは征伐は容易かろう。
こうして、劉錦棠の北軍、金順の南軍は出発していった。軍隊が出発するのと入れ替わるように、北京から粛州城へやってきた使者は、彼にとって二番目の親友であった文祥の死を告げて、
「…アイツも、逝ったか」
宗棠はただ呆然と呟いた。
胡林翼を亡くした時ほどには嘆かなかったが、
(どうやら世の中は、俺のようなひねくれ者ばかりが生き残るように出来ているらしい)
そういう意味では、李鴻章もある種のひねくれ者と言えぬこともない。密かに寂しく苦笑しながら、
(俺も、いつまで生きていられるか)
同時に己の寿命のことを思った。彼ももう、六十代の半ばである。あれもこれも―特に福建の海軍建設などは―中途半端に手をつけたままだと思うと、苦い笑みが日焼けした頬に浮かぶ。それに、彼に好意的であった文祥が亡くなったとなると、これから彼がやろうとしていることへの風当たりはまた強くなるかもしれない。
(だが、俺がやらねば誰がやる)
宗棠は白髪首を振った。少なくとも、これから彼が取り戻そうとしている西域は、決して悲観的な状況に陥っているわけではないし、また、
(悲観的になっていては取り戻せるものも取り戻せぬ)
いつもの彼のごとくそう思って、気力を奮い立たせたのだ。
ヤクブ・ベク討伐のために出発した軍が目指したクムルは、新疆地区にある都市の中で、粛州から一番近いところに位置している現ハミ市である。古くから西域交通の中心地であったこの都市は、現在では、蘭新鉄路や三一二もの国道が通っており、西に約百キロ離れた所にあるアイティン湖の周りにはオアシスが広がる。
粛州から一番近いとは言っても、クムルへはチーリエン山脈沿いの道、すなわち河西回廊を北西に進み、安西で砂漠を手前に右の道を取り、さらに四百キロほど北西へ行かねばならない。
ここへは、アイティン湖ほとりに位置している都市、トゥルファン手前二百キロのところで北路を取った劉錦棠軍が、先に到着した。
彼は金順の到着がまだであると見て、宗棠が命じた通りその先には行かず、ウルムチ近郊のジムサルを攻め、これを陥落させたのである。
そのうちに金順も到着、クムルにいた張曜とも合流し、西へ進んで光緒二(一八七六)年八月上旬、ウルムチ北の米泉を包囲した。さらに同月十七日には大砲で城壁を破壊、城内に入って数日の激戦の後、これをついに清側へ取り戻している。
この間、ヤクブ・ベクとて決して手を拱いていたわけではない。清軍にとって因縁のある白彦虎をウルムチへ、白彦虎の部下である馬人得、馬明らを新疆地区の要地に配備、自身はトクスンにあって、主力の二万の兵をトクスンとトゥルファンに分けて駐屯させ…といったように、彼なりに清軍の侵略に備えていたのである。
勝ちに乗じてこのまま攻め入ってしまおう、と主張していた劉錦棠へ、
「ウルムチを守っているのは、あの白彦虎らしい」
金順が微妙な苦笑いで持って告げた。すると錦棠は怒りに燃える目で、
「だったら、尚更だ。いつまでも鼠のようにチョロチョロと逃げ回る卑怯者。ここで息の根を止めてしまわねば」
金順、張曜を振り向き、言ったのである。劉錦棠にとっては、親以上に思っていた叔父を殺した、仇の一人でもあるのだ。
清軍の猛攻の末にウルムチも落ちたのだが、白彦虎はまたしても戦渦をかいくぐってトクスンへ逃れた。よくよく、逃げることの好きな大将であったらしい。
「まあ、致し方ない。俺達が進めばまたいつかは直接戦える」
歯噛みをして悔しがる錦棠を他の二人で慰めながら、彼らは再び西進を開始した。
天山山脈を挟んでタリム盆地北にあるトゥルファン盆地及びジュンガル盆地にある主要都市のうち、サンジ・シャヒリ、フトビ、マナス北城のトルキスタン兵は戦わずして撤退。ついでマナス南城を陥落させ、東路と天山北路を再び清側へ取り戻したのが、それからわずか三ヵ月後の十一月六日。そこで粛州城の宗棠から休息の命令が届いた。
寒さが厳しくなるから、というのがその主な理由である。
砂漠地帯であることに加え、盆地でもあるせいで、この地方は、真夏になると四十度以上を記録することもある代わりに、冬になると気温が氷点下になる日が毎日続く。夏の暑さは、乾いた風のせいで思ったほどにも苦にならないが、冬の厳しさは洒落にならない。
古代より西域へ派遣された軍隊は数多くあるが、運輸の他に気温の寒暖の差がありすぎるというのも、それらの軍が西域討伐に多くの時間を割かざるを得なかった原因の一つだったのではないか。
この時の征西軍も、翌年の四月までウルムチに留まり、同月十四日に天山南路に向けて再び進軍を開始している。
地図上では、ウルムチから少し引き返すような格好になるだろうか。その先にあるイリ(現・伊寧)へは行かず、天山山脈の裾に沿うようにウルムチを南下した劉錦棠軍は、その二日後にはヤクブ側の主要拠点の一つであった達坂城を包囲、十八日には城外に砲台を築いて、早速その翌日から攻撃を開始したものだから、ここに篭っていたヤクブ・ベク側の「カシュガル王国軍」は、逃げ出そうにも逃げ出せず、全員が投降したという。
これらの処置を粛州の宗棠へ託した劉錦棠らの元へ、
「トゥルファンとトクスンに駐屯したヤクブ・ベク軍を、二手に別れて攻めよ。時期を置いてはならぬ」
との返事が来たのが、それから一週間も経たぬ四月二十四日。それでは、というので、劉錦棠軍がトクスンを攻め、陥落させたのが二十六日。この時、トクスンにいたヤクブは彼らの猛攻を支えきれず、さらに西のカラシャールに逃れ、タリム盆地の東北にある都市、コルラを己の子の一人に守らせている。
トクスン陥落と時期をほぼ同じくして、張曜軍と徐占彪軍は、劉錦棠の軍から寄越された羅長祐率いる湘軍と協力してトゥルファンを陥落させた。逃れた先のカラシャールでそれを聞いたヤクブ・ベクは、ついに自殺したのである。一説には、毒殺されたかもしれないという。
ヤクブが死んでも、その長子のベク・クーリ・ベクと白彦虎が残っている。彼らは人心が離れてしまっても、未だに抵抗を続ける構えを見せていた。
粛州でヤクブ死亡の報せを劉錦棠から受け取った宗棠は、むろんこのことを正直に朝廷に報告している。が、
「あと一歩のところで、またしばらく休憩しなければならんとは」
手入れするのを煩がっているため、唇の周りには鼻の下から生えた白髪髭が、まさに伸び放題にのさばっている。それを忌々しげに引っ張りながら、彼はそう呟いた。
「あの優等生めが」
ヤクブ・ベクが死んだのならもういいだろうということで、朝廷から兵を休ませるようにとの勅令が下ったのである。
「軍費がかかりすぎるから」
というのがその理由で、そのような理由を振りかざすのは、李鴻章を代表とする海防派以外にありえない。それに対して、
「ここでヤクブの匂いを少しでも残していては、またこれが後日の災いの種になる。ロシアがオスマン帝国と戦っている今こそが、背後を気にせず、また、これ以上軍費をかけずに勝利を収める絶好の機会なのだ」
宗棠を始めとする陸防派は、あくまでそう言い張っていた。両者の主張はこの期に及んでも平行線を辿っている。
陸防派が主張するように、実際この時、ロシアはオスマン・トルコ帝国と戦っている真っ最中で―この戦争を日本では露土戦争と呼んでいるが―ヤクブ・ベクのことにまで手が回らない、と考えることも出来たのだ。
いかなオスマン帝国と戦っているとはいえ、ヤクブ・ベクの元へ形だけでも軍隊を割く余裕すらなかったとは考えにくいが、ともかく、ロシアはヤクブを助けなかった。イギリスとて、戦が起きている陸路をわざわざかいくぐってまで、ヤクブを助けようと思わなかったのだろう。もしもイギリスやロシアが助けていたら、いかに民心がヤクブから離れていたからと言っても、清軍はここまで容易く西進出来なかったに違いない。
よって左宗棠は右のように返事をし、戦いを続けることを主張した。海防派へ向かって、というよりも、むしろ彼は、彼らの後ろにいる西太后の「聡明さ」に期待してそう提案したのである。
(長い目で見ると、きっと清に良いように動くのだ。あの女なら、俺が話すそういったところを、きっと分かる)
その期待に違わず、西太后は戦の継続を命じてきた。朝廷からの返書を額に頂いて、
(女の癖にでしゃばりで強情で、いかにも我の強そうな…)
若い頃はどうだったか知らないが、昨年簾越しにうかがったところを思い出すと、お世辞にも美人とは言えない。そんな西太后を宗棠は懐かしく思い、
(俺と似たようなところがあるかもしれんわい)
相手は国母であるにもかかわらず、不遜にもそう考えて、密かに苦笑したものだ。
こうして、新疆討伐は続けられることになった。
「金順へは、あまり勇むなと伝えろ。イリへ行くにはまだ早い」
西進再開を告げさせるべく、タリム盆地へ向かわせる使者へ、宗棠はそう添えるのを忘れなかった。「露土戦争」で、金順が「よい機会だから、イリも奪い返しましょう」と言って寄越したことへの返事である。
「隙に乗じてコソコソ動くのは、火事場泥棒と同じだ。正々堂々と取り返さねば、俺達も謗りを免れん。ロシアと同じになるぞと言え」
事実、ヤクブ・ベクの乱に乗じてロシアがイリを占拠したのだから、宗棠がついそう言ってしまったのも無理はない。己でその失言に苦笑しながらそう付け加えた後、
(これで、俺もこれ以上の嘘吐きにならずに済むか…)
彼は粛州から走っていく馬の一団を見送った。
この新疆出兵の折には、何と言ってもあの喬致庸に、かなりの経済的な負担をかけてしまっている。この借りは、己の功績と引き換えにしても必ず返すと、宗棠は心の中で密かに固く誓っていたのだ。
そして九月、清軍が天山山脈南にある都市、カラシャールとコルラへ進むと、それらの守備兵も戦わずに西のクチャへ撤退、十月十八日には劉錦棠がそのクチャを攻め、守っていた白彦虎は、またしても西に逃げた。それを追った清軍は、さらに二十四日にはアクス、二十六日にはウシュトゥルファン、といった風にタリム盆地北東の四つの城を、わずかな期間で奪い返している。
その噂を聞いた盆地南西のヤルカンド、イェンギサール、ホータン、カシュガルの守備軍は、これも清軍を恐れて散り散りに逃げて行ってしまった。これでは戦も何もあったものではない。よって、劉錦棠はやすやすとこれら四つの城を落としたのである。
天山、カラコルム、崑崙、アルチンと、四つの山脈に囲まれたこのタリム盆地には、その「入口」に彷徨える湖ロプ・ノールと、有名なローラン遺跡がある。それらの山脈の裾を縫うように、中央にタクラマカン砂漠をぐるりと抱え込むように配置されていたそれらの城の陥落を聞いて、山の中に潜んでいたキルギス人たちも降服し、イリ以外の東トルキスタン地方すなわち新疆地方の大部分は、再び清に所属することになった。これが、光緒二(一八七七)年十二月下旬のことである。
カシュガルの南にあってヤクブ・ベク軍が放置したホータンも、翌年の年明け早々に清軍がその都市機能を回復させているから、ヤクブを討伐するのにほんの数年しかかけていないという計算になる。
結果的にこの遠征は、俗な言い方をするなら「大成功」だった。彼の後を継いで陝甘総督に就いていた件の楊昌濬が、
「兵ヲ用ウルニ、善ク機ヲ審カニシ、堅忍耐労ナリ。人ヲ用ウルニ、材器ニ因リテ使イ、政ヲ為スニ、時ニ因リテ宜シキヲ制ス…」
つまり、辛抱強く不平を言わず、人材を上手く使いこなす上に、敵の力を良く見極める才がある、と、日頃から手放しで賞賛していたように、
「甘粛の回民討伐にかかった以上の年月は費やさぬ」
と、朝廷で大見得を切った左宗棠の面目躍如といったところであろう。
この素早い「征西」を成し遂げられたのは、ヤクブ・ベクが住民から見限られていたということも一因であるが、それを計算していた宗棠の眼力も、むろん高く評価されて然るべきである。
ちなみに、ベク・クーリ・ベクと白彦虎は生き延びてロシア領側へ逃げている。こうなれば、いかな宗棠とてもう手出しは出来なかった。
この時、白彦虎と共に逃れた回民の子孫が、現在、キルギスのビシュケク市から、カザフスタンはアルマトイ市の間に位置するフェルガナ盆地在住のドンガン人である。
「それくらいは許してやれ」
せっかく勝利を収めたのに、肝心の白彦虎を捕まえられなかった。そのことをやたらと劉錦棠が悔しがっているという報せが届いて、宗棠は苦笑しながら言い送ったものだ。
「後は、イリだ。俺達は泥棒ではない。堂々と戦って取り戻すのだ」
そして彼は密かにその準備を始めてさえいたのである。
よって、その準備が整ったと思えた二年後の光緒五(一八八〇)年、彼は勢い込んで新疆地方を「省」として清の支配下に置くことと、イリの武力奪回を清朝廷へ主張した。
その折、彼は同時に、
「新疆討伐に莫大な資金を寄せてくれた喬致庸へ、その資金を返済下さるよう、彼の希望をぜひお聞き届け下さるよう」
とも申し送っている。喬致庸の希望というのは、先述の「清帝国全領土における共通為替手形の発行」だが、どうしたものか、今度ばかりは西太后からも、宗棠の期待していたような返事は届かなかった。むしろ、
「一介の商人ごときが、国家経済にまで口を差し挟むとは片腹痛い」
と言われたばかりか、
「新疆省の設置と、イリ返還についての交渉をするというのには賛成であるが、武力奪回は認めかねる」
と、宗棠の主張は跳ね除けられてしまったのである。
清朝廷側にも言い分がないではない。確かにロシアはオスマン帝国と戦って、いささか疲弊はしているかもしれないが、当然ながら国力は桁違いなのである。武力奪回では、一歩間違えばまた国際紛争に発展しかねないのだ。
もしもそうなった場合、今の清に「海千山千の」ロシアを相手取って、対等に渡り合えるだけの交渉力があるか。中国が鎖国を強制的に止めさせられてから、まだ半世紀も経っていないのである。
勅令ばかりではなくて、李鴻章が私信まで添えて寄越して右のような内容を伝えたところを見ると、李はよほど宗棠の行動を危ぶんでいるらしい。
「俺になら出来るはずなのだがな。なぜ李のヤツは、俺がちょっと何かやろうとするとすぐに邪魔をする」
その手紙を見ながら宗棠が言ったのへ、傍らで聞いていた劉錦棠らはこっそり顔を見合わせて苦笑した。
老いても「先生」の気概は衰えるどころか、いよいよ盛んである。それは大いに喜ばしいことなのだが、
(残念ながら今回ばかりは、李鴻章の判断が正しい)
彼らにでさえ、そう思えたからである。宗棠の「俺に任せろ」という言葉は、すぐに戦争を連想させてしまうのだ。
彼のことだから、勝算があってそう言っているというのは分かるのだが、力で捩じ伏せることばかりがいいとは限らない。ことに外交能力においては、やはり「なるべくしないですむ戦争を避けて、国家の疲弊を出来る限り抑えよう」という態度を取っていた李鴻章のほうが、宗棠よりもよほど柔軟な頭脳を持っており、よって手腕は格段に上であるように見える。
ただ、宗棠自身はそのような自分の欠点をよく承知しているし、
(アイツはアイツですごいヤツだ)
と、李鴻章の才能も十二分に認めているつもりなのである。ただ何歳年を経ても、自意識過剰なところだけは衰えず、つい思ったままを口に出してしまう奇妙な素直さが、未だに時々欠点として表に出てしまうため、気心の知れているはずの部下にでさえ、
「才能はずば抜けているが多分に保守的で、他人を認めることの少ない…」
と、誤解されてしまうことが多かった。胡林翼も文祥も亡き今、宗棠の人となりを良く知ろうとする人間がいなくなったのは、彼にとっても大いに不幸であったろう。ともすれば傲岸不遜とられかねない言葉とは裏腹に認めるべきところはたとえ不満があっても認めることもできる人物だと見抜いてくれる者がいなくなってしまったのだから。
ともかく、ひょっとして自分に任せてもらえるかもしれぬと期待していた分、彼の落胆も激しかった。宗棠が清朝廷に対して、少々ではあるが失望を覚えたのはこれが最初である。さらにはあろうことか、彼が新疆平定から帰ってくる少し前、かの喬致庸が西太后に睨まれて牢に入れられていたのだ。宗棠はこのことを、粛州城にやって来た和平大使の崇厚から、その訪問と同時にようやく知らされたのである。
「やれ、尻が冷えることだ。よくもまあ、君達はこのようなところで戦ったものよ」
光緒七(一八八〇)年二月、気温が氷点下を示す粛州城へ、尊大に言いながらやってきた「戸部右侍郎兼盛京将軍代理」という長ったらしい肩書きを持ち、おまけに北洋通商大臣まで任されているのだからと自負する崇厚に対し、多少の胃のむかつきを覚えながらも、
「喬致庸の消息を詳しくお伝え願いたい」
彼にとっては最大級の丁寧な言葉で宗棠が頼むと、
「よろしい」
この小柄で、目と態度ばかりが大きい文官は、薄っぺらい胸を反らせて頷いた。
崇厚が語るところによると、喬致庸は以前から共通為替手形の流通を申請していたものの、なかなか清朝廷の許可が降りない。だもので、彼は独自に票号(銀行)の開設に踏み切ってしまった。これが西太后の気に触ったらしい、というのである。
(…俺はやはり、嘘吐きになってしまったか)
胡林翼にも、文祥にも、それぞれ約束したはずの領土の回復を見せないまま逝かせてしまった。その上に今回の喬致庸の件である。
結果的には喬致庸が新疆討伐のために捻出した費用も、言葉は悪いが清政府が踏み倒すことになってしまい、
(嘘吐きと泥棒にだけはならぬ、というのが俺の信条だったのだがな)
宗棠は、ため息とともに心の中で呟いた。牢屋に囚われている人間には金は返せない。かといって、喬致庸が捻出した莫大な軍費を、商人でもない彼が個人で返す方法など考えも着かぬ。
余談ではあるが、喬致庸がその名誉を回復するのは、宗棠が亡くなった後、西太后が義和団の乱を避けるために北京から山西へ逃れてきた時である。その折の彼女へ、旧怨を忘れて援助することで、ようやく喬致庸の希望は容れられる事になるのだが…。
さて、崇厚に話を戻す。イリへ向かう直前に、彼はお気に入りの占い師に、
「交渉が長引いて、なかなか北京へ帰ることが出来ない場合は、幾々日までに死ぬ」
と、何日かは定かでないが、期限付きでの彼の死を予言されていたという。なんとも馬鹿馬鹿しいことだが、どうやら本人はそれを信じているらしい。従って長居は無用とばかりに、宗棠に儀式的な挨拶だけ残して、彼はそそくさとイリへ向かおうとした。
誰に頼まれたわけでもないが、万が一、交渉が上手く行かない時の後押しをしようと申し出、老いた身ながら自ら新疆ハミへ兵を率いる算段を整えていた宗棠は、
「そんなものは要らない。私のこの舌で十分である」
「そうですか。それは差し出がましいことを」
さも自身ありげに崇厚が言うのへ、彼には珍しく苦笑いしただけで一旦引き下がった。相手が彼よりも身分が上であるから、というためばかりではなくて、
(ひょっとすると崇厚が勝算ありげなのは、本当に崇厚の中で最良の策が立てられているからかもしれない)
清朝廷側にも李鴻章ばかりではなくて、時代の流れを冷静に把握している人間がいるかもしれないと思い直したせいもあるし、
(文官にも一度、外交の厳しさというものを、身を持って味わってもらったほうが良い)
とも思ったからである。もちろん、宗棠自身には後者の思いのほうが強い。
李鴻章の名ばかりがこの西域にも聞こえてくるのは、中央官僚たちが外交方面を李に頼りきり、任せて安心だとばかりに安穏としているからに違いない。そんな彼らの一人である崇厚に、かの林則徐でさえ警戒していたロシアを、果たして裁ききれるものかどうか。
(相手はあのロシアだ。一筋縄ではいくまい)
そう考えることで、実は煮えくり返っている我が心を辛うじて押さえ、平静を保とうとしたのである。よって、宗棠は息を潜めるような思いで、粛州城で交渉の結果を待つことに決めた。
護衛をつけようと提案したのだけは、顎を反らせて当然のごとく受け、それら護衛兵とともに轟然とイリへ出発する崇厚を見送りながら、
「山西の若旦那があの女に睨まれるだろうことを、もっと早く気付けばよかった」
そう周囲の者へ零して、
(俺もついに老いたか。愚痴が多くなった)
宗棠はもう何度目になるか分からぬ苦笑を漏らした。これこそ「老いの繰言」というやつなのかもしれない。
陝甘総督に任じられて西方へやってきて、はや十年。身は欽差大臣にまで登る栄達を受けたが、もう七十歳に手が届く年になった。砂漠の乾いた沙は、彼の老いた顔に変わることなく吹き付ける。