#駅舎
#駅舎
『…キキキッ。』何かの鳴き声が聞こえる。閉じた瞼を光が時折チカチカと照らしている。椅子に座って眠っていたからか、身体が強ばっていてお尻が痛い。
「…ウン…。」
目を開けようとするが、さっきからチカチカと眩しい光が視覚を刺激して、すぐには目が慣れない。手をかざし顔を背けて光を遮った。ゆっくりと目を開けると、誰もいない列車の座席が見えた。目を光に慣らしながら辺りを見廻した。フロントガラスの外には緑の木々と終点を示す列車止めが見える。列車の片側にはプラットフォームがあるが、田舎の駅のようで小さな古びた駅舎があるだけだ。人っ子ひとりいない。
駅舎の横には大きな木が立っていて、列車に覆い被さるように枝を伸ばしている。チカチカしていたのは木洩れ日だった。朝の光だ。どうやら無断外泊 してしまったらしい。また、親父にブツブツ言われるな。今何時だろう。腕時計を見て確認する。七時だった。メッセージをチェックしようかと、スマホを取り出して電源を入れる。あれ?山の中だからか、圏外になってる。使えねえ。ついでにカバンも確認したが、特に無くなったものも無さそうだ。さてどうするか。窓から外を眺めた。プラットフォームの反対側は下り斜面になっているようで、山の中に森が広がっている。木々の向こうには谷を挟んで反対側の山が見えた。ここはどこだろう?たしか路線的には登山鉄道にも乗り入れているが、温泉のある保養地だから、こんなに人気のない駅があるのだろうか。整備のために支線のひとつにでも入っているのだろうか。使えないスマホをポケットにしまうと、とりあえず外に
出ようかと席を立った。
フイに客室のドアが開く音がした。ハッとして振り返ったが、何もいない。ドアはすぐに閉まった。気のせいか?気になるので立ち上がると、通路に出て座席の列を眺めた。目の隅を小さな影が横切った。
『キキキッ。』
なんだ?小さく何かの鳴き声がする。カサカサッ。何かが動く気配もする。俺はカバンを肩に掛けると少し身構えた。何かが座席の下を通って、近づいてくるのを感じた。時折、小さな黄色い毛玉のようなモノが、座席の間にのぞいた。左右それぞれの座席の列を同じくらいのスピードでゆっくりと近づいてくる。しばらくの間、息を殺して待った。
俺が今まで座っていた座席の背もたれに小さな黒い手が掛かった。その手は一瞬でヘッドレストの白い布切れを剥がして消えた。さっきまで俺が頭を預けて少しシワになっていた布切れだ。そこにサッとシワの無い布切れが出てきて、張り替えられた。出てきたのは布切ればかりではない。小さな毛玉の正体が明らかになった。今やソレは背もたれの上に乗っかって、長い腕と小さな手を使って、布切れを平らにならしている。猿だ!しかもニホンザルじゃない。体長三十センチくらいで、黄色い短い毛が全身を覆っているが、腕と脚は身体より長くて、手と足は黒い。テナガザルの仲間だろう。そして小さな顔にはクリクリ動く大きな目がある。俺がじっと見ていると、仕事を終えた猿と目が合った。
俺を怖がるワケでもなく、興味があるワケでもない様だった。少し目を合わせた後、猿はふいと視線を外すと通路を挟んで反対の席に目をやった。そこにはもう一匹の猿が座席の上で俺をじっと見ていた。俺をどうしたらいいか、考えている風情だった。しばらく俺と見つめ合うと、ツイと通路の先の客室ドアに目をやった。何だよ。ジャマだってか?何となく、この猿達には知性があるような感覚があった。威嚇されたり、攻撃される前に立ち去った方が良さそうだ。
「…分かったよ。出て行くよ。」
俺は幾分ムッとしてカバンを肩に掛けると、客室出口に向かった。なんだか訳が分からない。とんでもない所に連れて来られた気がした。そういえば気を失っている時に、変な夢を見たような気もする。客室ドアの前に立つとプシューッと音がしてドアが開いた。一歩進んで前室に入ると、外へのドアは開いていた。客室を振り返ると、猿はさっきいた最前列のシートの背もたれ越しに、両手と目だけを出してこちらを見ている。
「じゃあな。」
俺は軽く手を振ると、ホームに踏み出した。そんなはずはないと思うが、猿も手を振り返した気がした。
ホームに出ると弱い風が吹いていた。頬にそよそよと心地よい。静かな朝のようだが、何処かで鳥のさえずりが聞こえる。一瞬清々しい気持ちになったが、周りを見ると、ちょっと心配になった。いや、かなり心配になった。小さな駅舎の隣に、列車に覆い被さるように立っている樹があった。中からは木のトンネル見たいにしか見えなかったが、外から見ると本当に覆い被さっていた。正確に言うと、木からツタのようなツルが列車の屋根へと這っていて、車両に絡みついていた。ツルは小さな駅舎にも這っていた。俺は眠り姫にでもなったみたいな気分になった。城の中で眠らされて長い年月が過ぎ去ってしまったのかもしれなかった。さっきの猿は人類が滅び去った後、地球の新しい主人になった生物なのかもしれない。たしかそんな映画があった。
「…でも、それにしては…。」
独り言が口をついて出てしまった。誰もいないと思ったからか、人の声を聞きたかったからだろうか。いや、家にいる時にも独り言を呟くことが多いのは自分でも気が知っている。誰もいない家に帰った時、明かりの点いていない玄関で照明のスイッチを探しながらの『ただいま』。ひとり食べる夕食時の『いただきます』。ベッドで常夜灯に切り替えた後の『おやすみなさい』。昨年から、定年を迎えた祖父がたまに遊びに来るから、毎日ではなくなったけど。早くに亡くなってしまった母親と、仕事で家に寄り付かない父親のおかげで、独り言は小さな頃からこの身に染み付いている。
「…やっぱり。」
俺はプラットフォームから列車を見直した。そんなに遠い未来にいるワケではないようだ。列車を覆う植物は長い時間を掛けて伸びたのではない。腕時計の示す現在時刻は七時過ぎ。この列車は一晩でツルに覆われたのだ。列車は真新しいし、ツルも若々しい緑色だった。そのうちに客室の掃除が済んだのか、先ほどの猿が二匹開いているドアから出てきた。背中には大きな袋を背負っている。恐らく、交換した布切れとか拾ったゴミなどが入っているのだろうと思った。猿はチラリと俺を見たが、さほど興味は無さそうで、プラットフォームを横切って小さな駅舎に入っていった。そして、今気づいたが、駅舎の向こうに道があって、その道を山の方へと上っていった。
「何処かの猿軍団かなあ?」
誰かが猿を清掃係に仕込んだのだろうか。たしかに人件費は浮くかもしれない。だが、猿の目には知性の光が宿っていたようにも見えて、俺は背筋がゾクッとした。
「いや、そんなことよりもだ。」
どうしたらいい?まずは目の前の駅舎に入って、人がいるかを確かめた。誰かが居ればここが何処でどうすれば帰れるかを尋ねることが出来る。しかし、そんな甘いことは無く、古ぼけた木造の駅舎は、雨風をしのげる程度の待合室しか無かった。壁際には古びたやはり木製のベンチが作り付けられている。ベンチの表面を指でなぞってみたが、ホコリが付くこともなく、毎日掃除されているようだ。あの猿軍団かな?いざとなればここで一晩くらい何とかなりそうだ。また猿に追い出されなければの話だが。ホームの反対側にある駅舎の出口から外に出るとさっき猿が上っていった道があった。周りは山林で見通しは良くない。俺は駅舎の中に戻って、ベンチに腰を掛けるとホウと息をついた。
目下の心配は飲み水と食べものの確保だったが、幸いカバンの中にお茶のペットボトルが一本とチョコレートバーが一本入っていた。見つけた途端に俺は猛烈な空腹を覚えてチョコバーにかぶりついた。昨日は夕飯をろくに食べていない。カラオケの時に乾きものを少し口にしたものの、喉を湿すドリンクで腹がタポタポになってしまった。そのこともあってチョコバーは完食したが、ペットボトルは飲み干さず半分くらい残しておいた。
人心地がついたところで、俺は猿の上っていった道を行ってみる事にした。ここで待っていれば列車が出発する時に乗り込めるかもしれないが、好奇心が勝った。猿が帰っていったということは道の先に家なり集落なり、人がいる可能性が高い。またあの猿に会うことも出来るかもしれない。そしてまた彼女に会えるかもしれない。そう考えると、俺は少しウキウキして立ち上がっていた。スウッと息を吸い込むと、カバンを担いで森の中へ続く道に一歩踏み出した。森の緑の香りの中に彼女の香りを探しに行こう。