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 アップテンポのEDMが、場内を満たす。

 四人とも、本気の表情をしていた。


 キサラギの頰も火照り、ある種の高揚感に包まれているようだった。ホイッスルを少し長めに吹く。第一コースに婆あ、第二コースに乳女が水の中に入った。


「テイク・ユア・マークス!」

 選手らは肩まで浸かり、位置についた。

 キサラギがピストルのトリガーを引くと、鳥の鳴き声のような可愛らしい電子音が響いた。


 婆あと乳女は平泳ぎでスタートした。

 二人とも溺れかけのカエル然としていたが、流石に若い女の方が速いので、マキビは内心ホッとしていた。しかし、ほぼ十メートルの差がついた時だった。乳女に異変が起きたのだ。


「おえぇえぇ……」

 女は第一レーンを横切り、プールサイドに這い上がると、真っ青な顔でキサラギに何かを訴えた。

「救急班、急いで、バケツを!」

 キサラギが二階の監視室に合図を送ると、もう一人の監視員がすぐにバケツを運んできた。乳女はその場で嘔吐し、雌牛が餌の器に頭を突っ込んでいるような格好になった。なんかエロいな、と一瞬へんな想像をしたが、マキビは肉欲を抑えゲームに集中するよう努めた。


天晴あっぱれじゃ」

 隣レーンの爺いが唸り声をあげた。

「何が?」

「恐らく直前まで揚げ物でも食べていたのじゃろう。アスリートにとっては、自殺行為じゃ。いったい、あの女の、死をも恐れぬ闘志ファイトはどこからくるというのだ?」

 いや、腹の出た女がダイエット目的で来てるだけだろ! マキビは内心でツッコミを入れていたが、もちろん口には出さなかった。


 一方、プールサイドでは、両腕を組んだキサラギが、見下したように、乳女に質問していた。

「あらあら、まったくブザマですこと。そんな程度で、パーフェクト・ボディを手に入れられるとでもお思いですか? ふう……、棄権、ですわね」

「ま、待てよ……」女はフラフラと立ち上がり、雌牛のような胸を揺らしてファイティングポーズをとった。女に背を向けていたキサラギの目が光る。「棄権なんて、誰が言った? 勝手に決めるんじゃないよ。あんたのその、お嬢ぶったスカした態度は気に入らないけど、私にも女の意地ってもんがあるんだよ」

 特攻服を着てゼッツーに跨っていた過去を思い出し、乳女はこぶしをキサラギに打ち込んだ。

 

 パシッ!

 市民プールに相応しくない音が響く。

 

 キサラギは振り向きざまに、左手のひらで相手のパンチを受け入れると、薄笑みを浮かべた。

「うふふ、その怒りの拳、サイコーです。なんだか、ウキウキしてきましたわ。もっと、ねえもっと、あなたの持てるすべて、あなたの情念をもっと込めて、闘ってくださらない? そのためなら、私、あなたに土下座したって、なにされたって、構わない」


 キサラギの顔は上気し、恍惚とした目は嬉し涙で潤んでいた。無意識に唾液が溢れたのか、口の端から透明なよだれが糸を引いていた。

 や、ヤバイなコイツ……。直感的に危険を察知した乳女は、急いで自分のレーンに戻り、平泳ぎを再開した。

 

 ドックン、ドックン、と田中マキビの心臓は音を立てる。婆あと乳女がほぼ同時に端壁にタッチすると、二人は一気に蹴伸びした。水中で腰を何度か振り、出来るだけ潜ってから頭を上げる。ゴールには女神が立っている。

 

 ダンサブルな音楽が場内を満たす。

 ♬ダンス、ダンス、ダンス、ヘイ、ヘイ、ダンス♫ そんな感じの音楽だ。


 青い水面に、二つの白い水飛沫が描かれる。

 二人はクロールで泳いだ。はじめの十メートルこそほぼ互角だったが、徐々に爺いの方が頭一つ前に出てきた。

 クソッ! マキビはキサラギのアドバイスを思い出す。〈女神のためのその一〉だ(たった今、そう名付けた)。


 ーー、手のひらはやや内角を狙い、絞り込むようにして、掻くべし。

 グッとスピードが上がる。しかし、爺いもある程度計算済みだ。数センチ差まで迫るも、十五メートル付近でまたもや水をあけられる。


 なにか、いい策はないか……。田中マキビは水を掻きながら思考をフル回転させる。ここで負けるわけにはいかないのだ。考えろ、考えるんだ、マキビ。ガキの頃から、いつもお前は中途半端だった。小学校の徒競走でも、速いやつらのグループに入るも、たいてい結末は二番手だったじゃないか。二番じゃダメですか? いいんじゃない、別に……。過去の自分がそう囁く。だ、ダメだ、今度ばかりはダメなんだ‼︎

 ぶくぶくぶくっ!(女神様っ! と叫んでいる)

 一瞬だけ前方に立つキサラギをチラ見する。

 

「あらまあ、どうやら期待外れだったようですね。ジャイアント・キリングを見たかったのに、なんだか退屈ですわ……。ん〜〜っ!」


 キサラギが欠伸あくびをしながらノビをする。両手をまっすぐ合わせ、つま先を少し上げている。

「……⁉︎ あ、あれは?」チラ見するマキビの目に飛び込んできたキラサギの姿が、大きなヒントを与えてくれた。「〈女神のための、その二〉かっ」

 まるで、ジャブの次は右ストレートだ、とでも言うように、マキビは勝手な解釈を行なった。

 そうか、鉛筆になるんだ。イメージしろ。俺の身体の軸がブレているから、筋力に比例した速度が出ないんだ。俺の軸は、これまでの自分の人生みたいにブレッブレなんだ。


 ーー、スマート・スウィミング……か。

 たしかに、クロールといえば、上半身のスクロールばかりに目がいきがちだ。だが、よく考えてみたら、腰からつま先までの動きには無頓着だったのだ。折れ曲がっていた膝を伸ばし、足首もまっすぐ平らにした状態でバタ足をすれば、一気にフォームは改善され、速度が出るだろう。


 はたして、赤、黄、青の五メートル・フラッグを越えたところで、グッとマキビの身体は前へ進み、爺いと並んだ。


「ぬおォ……」

 爺いは左隣のレーンを泳ぐマキビの姿を見て、心の中で唸り声を上げた。実際、爺いの肉体は限界にきていた。その表情には、我が人生に悔いなし的なことを言いだしそうな懸命さが感じられた。マキビは右呼吸、爺いは左呼吸だったので、互いの表情が確認できたのだ。


 世界が白く霞む。

 一瞬、時間が止まったような気がした。


「ふ……、行けよ、若僧。(女神のキスという)ワシの夢は、おぬしに託したわ!」

「爺い、あんたのこころざしは、俺が引き継ぐ」


 ぬ、ぬグオォォォォォォォォォォっ!


 マキビの肉体も限界だったが、最後のスクロールのあと、思い切り腕を、指を伸ばし、ゴールにタッチした。

「は、ハフゥ〜……」

 キラサギは昇天したように、うっとりとマキビを見つめていた。

 

 ダンサブルなBGMとは裏腹に、マキビの中ではロッキーのテーマ曲が流れていた。


「う……、うおーっ! キッサラギさーん、やりましたよ〜! エイドリアーン!」

 唇をチューの形に尖らせた田中マキビは、その場で、端壁の上にジャンプした。キサラギは正気に戻り、襲ってくる孤狼にボディ・ブロウを喰らわした。


「うげっ⁈ 」

 その場で蹲るマキビを見下ろしながら、キサラギが吐き捨てるように言った。

「調子に乗らないでください。私が好きなのは、ロッキー・バルボアではなく、矢吹丈」

「ゔ、うううう……、キスは、女神の、キスは?」腹を押さえながら、マキビは声を絞り出す。

「もちろん、約束は守りますわ。はい、これ」

 キサラギは一尾の魚をクーラーボックスから取り出し、マキビに見せて微笑んだ。

「さ、魚のキスかーいっ!」


 なんてベタなオチなんだ、と誰もが思った瞬間だった。キサラギは田中マキビの頰にキスをしてから、プールに突き落とした。ドッボーンっ! キサラギは恥ずかしそうに俯いていた。監視員としてはあるまじき行為だったが、そこにいた全員が爆笑した。


「んじゃ、今夜は、ワシの店で天麩羅パーティーじゃ! 鱚の天麩羅をふるまうぞ」

 実は天麩羅屋、の爺いが右腕を振り上げると、みんなも歓声をあげた。老若男女、そこにいた誰もが青春の只中にいた。

 

 ーー、さて次は、この男に何をしてもらおうかしら?

 ただ一人、看護師のキサラギは、暗闇の猫のように目を光らせ、欲望を満たしてくれる奴隷に向けて舌なめずりをした。【了】

 

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