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 ドボン、という音とともに、水飛沫が田中マキビの頰を濡らす。


 温水だが、まだ温まらない体には、ひんやり冷たい。平日朝の市民プールは、利用者が少なくて、とても静かだ。非番の日がたまたま平日と重なっていたのだが、多くの勤め人が仕事をしているだろうこの時間に水泳とは、背徳感を抱かないわけでもない。

 しかし非番だからといって、部屋に閉じこもり、エロ動画を観て一日を無為に過ごすのももったいないし、かといって給料日前だから、風俗や競馬のように金のかかる道楽あそびも回避したい。

 この選択は、消去法のなせる技だった。

 しかしながら運命とは不思議なもので、想定外の展開も、なくはなかった。

 

 ーー、ほんの数分前のことだ。

「ま、このだらしのない体を、ちったぁ引き締めるか」

 田中マキビは、更衣室で海パン一丁になり、自分の体を鏡にうつしだす。思わず、神妙な面持ちで上半身に力を入れて、ボディビルダーのような格好をしてしまう。ムキキ。

「ふっ……」

 ⁈ 誰もいないと思っていたのに、間仕切りのないトイレの方から笑い声が漏れ聞こえた。しまった。ついうっかり、やっちまった! 田中マキビは赤面しつつ、自分を嘲笑する輩を睨みつけた。

「誰だ? こそこそ、そんなところで……」

「ワシじゃ。もう、お忘れかな? 死線を彷徨うような熾烈な戦いを演じた、かつての好敵手ライバルを」

「ぬおっ? あの時のじじい……。てか、ライバルってなんだよ」

 そうだった。考えてみれば、便が透明になるまで下剤を飲まされて、その速さを競っただけの関係だ。冗談じゃねえ、そんな関係、まっぴらだゴメンだ。思い出したくもない。マキビはこれ以上、相手に関わらないよう、黙って脇を通りすぎるつもりだった。

「いや、ちょっと待て、爺い……」

 田中マキビの足が止まった。「な、なんだ、その肉体はっ⁈」

 目眩がした。脱ぐと凄いんです、とはこういうことだ。七十代半ばはとっくに過ぎているだろう眼前の老人の肉体……、それは徹底的に鍛え抜かれたパーフェクトボディだった。鼻毛と乳首のムダ毛を気にしなければ、贅肉を削ぎ落としたその美しさに誰もが垂涎すいだするだろう。


 ーー、俺の中で、嫉妬のような感情が湧き上がる。この爺いに、負けるわけにはいかない。

「ふっ……、ようやくおぬしにも、眠っていた獅子のような闘志に火がついたな」

 二人は互いに目を合わせ、ニヤリと笑顔を交わした。


 戦闘モード。

 耳栓をし、黒い水泳帽スイムキャップをかぶり、水中眼鏡ゴーグルを装着する。そして、二人は更衣室を出て、シャワーを浴び、殺菌処理用の浅い水槽を抜け、プールサイドに立った。眩しさに、目がくらむ。二人は黙って、準備運動を入念に行った。

 

 ドボン、という音とともに、水飛沫が田中マキビの頰を濡らす。気持ちいい。

 六レーンもあるというのに、左端の二レーンだけが完泳コースだった。フリーコースでは、端の方でウォーキングをしている老婆が一人いるだけだ。もったいない。

 爺いが、お先にどうぞ、という仕草をしたので、では遠慮なくと会釈してからマキビは水中に潜り、壁を蹴った。半年ぶりか……、久しぶりの感覚だ。学生時代、水泳部ではなかったが、泳ぎは得意な方だった。蹴伸びをして、充分潜水してから頭を出し、クロールで進み始める。


 ーー、全身が魚になったみたいだ。飛び魚か、と自賛しながらほくそ笑む。いくらなんでも、爺いがこの泳ぎについて来れるはずがない。

 その時だった。

 足の裏を、何かがチョンと触れた。指だ! 爺いの人差し指が触れたのだ。

「な、なにぃ⁈ 俺の泳ぎについて来れる、だと?」

 爺いの泳ぎは本物だった。流麗なスクロールでぐんぐん進んでいく姿は、飛び魚どころかシャークじゃねぇか! 田中マキビは、水中で叫ぶ。ブクブクブク(実際の音)!


 ハア、ハア、ハア、ハア……。

 二十五メートルを泳ぎきり、マキビは敗北感に打ちひしがれる。もうすぐ三十路とはいえ、まだ二十代の俺がこんな爺いに負けるなんて。場内スピーカーから流れてくる音楽は、なぜか森田童子の〈僕たちの失敗〉だった。鬱曲がさらにマキビの敗北感を助長した。

「ふん、残念じゃな。ワシのライバルが、この程度とは……」

 そう吐き棄て、爺いは逆方向にターンした。

 ぼうっと、爺いの後ろ姿を見つめる。なんだか涙が出てきた。


「諦めるのは、まだ早いわ」

 ピッカー! 大きな窓から射し込む光に、彼女の左頬が照らされる。女神か? いや、アルバイトの監視員……か。端壁の上でしゃがみ、マキビを見つめる美しき監視員……。

「キ、キサラギ……さん?」

 そう、そこに居たのは紛れもなく、看護師ナースのキサラギだった。何故? ダークブルーのハイレグ競泳水着が、やけに眩しい。痩身スレンダーだが、ガリのそれではなく、出るところは出ている、美しき暗殺者アサシン。バキュン、と見るものに九ミリパラベラムの弾丸を食らわす。


 ーー、俺の心臓ハートは、君にすっかり撃ち抜かれたぜ……。

「ふふ。何故って、あの病院、お給料が安いから、ここでアルバイトを始めたんです。非番の日に、ね」

「そうでしたか。でも、僕の肉体はすっかり衰えてしまいました。これ以上、キサラギさんにカッコ悪いところを見られたくない」

「左腕のスクロールの角度」

「はい?」

「あなたの弱点は左腕です。水を搔くとき、肘が体から離れすぎているんです。ぐっと締めて、内側から水を搔くようなイメージでいってみてください。手のひらはやや内角を狙い、絞り込むようにして、掻くべし」

「……‼︎」お、おっちゃん、と言おうとしたが、やめた。しかし、身体の内奥から神秘のエネルギーが湧き出してくるのを感じた。

 ーー、手のひらはやや内角を狙い、絞り込むようにして、掻くべし。

 キサラギの適切なアドバイスのおかげで、確かに速度が上がった。一回のスクロールで、グッと進みが速くなった。

 プハッと、次の二十五メートルを泳ぎ切って顔を上げると、キサラギが頭上から笑みを向けてマキビに囁いた。

「さあ、競泳ゲームをはじめますよ」

 

  ✴︎

 

 プールサイドで、監視員のキサラギが田中マキビ、爺い、そしてなぜか隅の方で歩いていた老婆を呼んで説明を始めた。

 よく見ると、老婆は〈あの時の〉婆あだった。確かスナックのママとかなんとか言っていたっけ……。

「あらあ、久しぶりね、マキビちゃん。元気してた?」

 マキビは応えに窮したが、顔を引きつらせて、曖昧に笑った。こうなると、なんか嫌な予感がする。果たして、その予感は……。


「おえぇ、また飲み過ぎたわ〜」

 妙にグラマラスな女が、フラフラした足取りで女子更衣室から現れた。〈あの時〉の戦線離脱した女だ! 市民プールなのに、なぜかその女は真っ赤なビキニ姿で、豊満な胸をユッサユッサ揺らしながらプールサイドを歩いてくるではないか。

「ふ……、役者がそろったな」

 腕を組みながら、爺いが目を光らせて呟いた。「いや、なんだよそれ? 役者って誰のこと⁈」

「ええ、役者はそろいましたわ」

「…… 」さらに悪い予感がして、田中マキビは及び腰になった。コイツらとレースって……。キサラギは二日酔いの乳女ちちおんなを指差して、「あなたは田中マキビさんと組んでいただきます」と、当然のことのように言った。

 女は、落としきれていないアイシャドウで染まる、重そうな瞼を持ち上げた。それから、「何言ってるんだ、このアマ」とマキビの耳元で呟き、頭の上で自分の掌をパーの形にした。

「それではルールを説明します。種目は自由形フリースタイル。市民プールですので、飛び込みは禁止。二人一組のチームになって、五十メートルを泳ぎ切ってもらいます。つまり、一人、二十五メートル泳げばいいのです」


 何がなんだか分からなかったが、乳女とマキビが組み、相手は年寄り組となった。

「さあ、それぞれ位置についてください」

「ま、待ってくれ」珍しく田中マキビが待ったをかけた。皆んなが一斉に振り向く。「女神……、いやキサラギさん。俺たちはいつもあんたのサディスティックな道楽に乗せられている。逆に、俺たちにもインセンティブがあったっていいはずだ。何か……」

「女神のキス」

 それなら文句はないでしょう、とでも言うように、キサラギはホイッスルとピストルを持った。ふ……。マキビは薄笑みを浮かべ、孤狼のような眼光を放ち、黙ってゴーグルを装着した。

「女性はその下腹の贅肉を削ぎ落とすことができる」と、女神は続けて女達に侮蔑の目を向けた。あからさまな挑発だった。

「ゔ……」

 婆あと乳女は、互いのたるみきった身体を一瞥すると、キサラギの完璧な身体ボディへの嫉妬もあいまり、俄然闘志が湧いてきたようだった。【to be continued 】



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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