鑑識作業とは、地味な作業が多いのです
私の名前は平林郁美。
広島県警刑事部鑑識課所属の巡査。
子供のころから科学に強い興味があって、将来は鑑識員になるのが夢だった。
念願かなった今はとても嬉しいし、毎日忙しいけどそれなりに充実してる。
警察という男社会で、女性だというだけで色眼鏡で見られたり、セクハラを受けたりするってよく言われるけど、幸いなことに私のまわりの人達はみんな紳士だ。
ただ一人、長のつく人を除いては……。
「……郁美、おい。郁美!!」
無視よ、無視。
何度言ったらわかるのかしら、このオジさんは。
『ファーストネームで呼ぶのはやめてください』
私はあなたの娘でも妻でもありません。
だいたい、他の人が聞いたら妙な誤解をするじゃないですか!!
……って言ったのに、まるで右から左なんだもん。
本人いわく名字が5文字で名前が3文字なら、短い方で呼ぶのがいい。
『心配するな、俺はこの県警一愛妻家として知られている』とか、そんなこと知らないし……。
まぁ確かに。この年代で未だに毎日、愛妻弁当を持参してくるとは、真実かもしれないけど。
今度その呼び方したら、返事しませんからね!!
……って言ったのに、全然聞いてないし。
「……返事、した方がいいんじゃない?」
隣に座って黙々と作業している仲間の岸田さんが言うけど、私は首を横に振る。
だって今、忙しいのよ。
足跡鑑定っていって、主に泥棒が現場に残した跡を調べる作業をしている。
靴のサイズやメーカーはもちろん、靴底についた泥なんかの残留物から発見できることもあるし、足跡からは犯人の身長や歩幅、歩く時のクセまで割り出すことができるのよ。
明日までに仕上げろって言われて、追われてるところなの。
「なんだぁ~? お前、耳が聞こえんなったんか。せっかくええ話を持ってきてやったって言うのにのぅ~」
この人の【いい話】はたいてい、新しい鑑定作業を今夜中に仕上げておけ、だもの。
「12月24日。確か、お前確か非番じゃったの?」
私が返事をしてもしなくても、このオジさんは勝手に話し始める。
「……その日なら!! 岸田さんに代わってくださいってお願いしました!!」
「……ほうじゃったかのぅ?」
「そうですよ、班長。つい今朝も言いましたよね?」
と、岸田さんが援護してくれる。
「……はて?」
ボリボリと剃り後の濃い顎を撫でながら、班長と呼ばれた私の直属の上司……相原警部補は首を傾げた。
そう。世間一般で【クリスマスイブ】と呼ばれるカップルのためのイベントの日。
毎年、このシーズンが近づくと……切なくなる。だって。
ぶっちゃけた話、私は悲しいぐらい異性に縁がない。
学生時代はずっと勉強してたし、就職してからは仕事に追われて、気がつけばあっという間に時間だけが過ぎている。
出会いはあるのよ、それはね。
好きな人もいる。今はまだ片想いなんだけど。
けど……これが全然思うようにならなくてね。
去年たまたま、この日が非番で、どうしても用事があって街に出かけたら……どこもかしこもカップルだらけ!!
こんなことなら徹夜ででも、仕事してた方がマシ。
そういう苦い思い出があるので、今年も同じ日に非番となった時、私は迷わず勤務シフトを変わってくれと同僚にお願いした。
彼女持ちの岸田さんは二つ返事で了解してくれて、これでお互いハッピー、と思っていたんだけど。
「ほんなら、断っとくか……」
え? なにを?
「一番ええ日じゃと思ったんじゃが……仕事の方が大事じゃ言うんなら、向こうも納得するじゃろう」
「……何ですか……? 何の話……」
すると班長。
ニヤリと悪人面に笑顔を浮かべて、
「お前のぅ、忘れとるんか。それならそれでええんよ、別に。ワシは可愛い部下の幸せを願って……」
え? なに、何?!
「な、なんですか?」
「お前、和泉の奴とデートしたいですぅ、なんとかして約束を取りつけてくださぁい、ってワシに泣いて縋ったじゃろうが?」
何を言ってるのかしら、このオジさんは。
「泣いて縋った覚えはありませんし、和泉さんのことを【奴】だなんて……え……?」
えええ――――――っ!!???
がたっ!!
私は思わず椅子を蹴り、上司の胸ぐらをつかんで揺さぶった。
「ま、ま、ま、まさか本当に……ほんとうなんですか?!!」
ついさっき、催促してやろうと心に決めたばっかりだったのに!!
「平林さん、力入れ過ぎだよ!!」
「え?」
やだ、班長ったら白眼剥いてる。大げさなんだから……。
「……ごほげほっ……お、お前……ワシを殺す気か?!」
「班長なんて、殺したって死なないでしょ?! それで、本当なんですか? いつの話なんですか?!」
「……」
さっき12月24日だって言ったよ……と、岸田さん。
「夢ですか? 悪戯ですか? それとも、現実なんですか?!」
私は思わず、自分のではなく班長の頬を叩いた。
「ええ加減にせぇーーーっっっ!!」
はっ、いけない。私ったら……。
ぜえはあ、肩を上下させつつ、私の上司は怒鳴った。
「……悲しいぐらいに現実じゃ」
それは日本語としておかしいけど、この際たいしたことじゃない。
「うそ……」
「まだ疑うんか? まぁ、ええ。じゃけど。お前がデートよりも仕事したいっちゅうんなら、今から断りに……」
「岸田さん、ごめんなさい!!」
「え……?」
「やっぱりあの話はなしで。ほんと、ごめんなさい!!」
「えーーーっ?! 何言ってんだよ、今さら……!!」
「この借りは必ず埋め合わせますから!!」
いいじゃない、次の日だって世間的にはクリスマスよ。