Voi che sapete
その後、さやかたちは、三郎がこたつで寝ている間にいなくなっていた。なぜかきちんと施錠までして。仕事は受けていない。
早く寝たせいで午前四時に起床し、三郎は二月の寒さにうんざりしながら顔を洗った。賞味期限の切れた牛乳を飲み、数分後には腹をくだし、トイレでまた寒さに責めさいなまれた。
長野の里だって寒かった。しかし東京も寒い。
こたつに戻って柿ピーを食いながら、三郎はテレビをつけた。時間が早すぎて交通ニュースと天気予報しか映らなかった。レコーダーをいじって録画したアニメのリストを眺め、異世界転生の字面を確認して画面を消した。
代わりに、ノートパソコンをつけた。ウェブサイトを巡回し、繰り返される同じやり取りを眺め、そして閉じた。
いきなり「巨人」や「妖精」が現れ、「新世界」が発見され、そして「超能力」の存在が公認されたというのに、日本人の様子にはあまり変化がなかった。経済的に疲弊しており、神話どころではなかったのである。いかにして昨日と同じ今日を繰り返すかが重要であり、よく分からないことは専門家に任せておけとばかりの態度であった。なにかが変わることを期待してテンションをあげているのは、学生などの若い連中だけだった。
スクリーマーが東京を襲い始めたとき、永田町はたまらず京都へ退避した。しかし議員のほとんどは東京に利権を持っていたから、彼らはなんとしても東京を復興させようと躍起になり、そして実際にやり遂げた。税金を投入した力技だった。
おかげで東京は復興し、110番にかければすぐさま対スクリーマー部隊が急行するようにまでなった。
いま街に潜んでいるスクリーマーは、巣を失い、行き場を失った野良スクリーマーばかり。山で遭遇する野犬のようなものだ。危ないときもあるし、安全なときもある。
公園で野良スクリーマーに餌をやっていた中年男性が、近隣住民から集団訴訟された事案もあった。しかしこれとて、歴史の繰り返しに過ぎない。鳩や猫が、スクリーマーに置き換わっただけだ。人類の営為というものは、かくも頑固なものであった。
一般に「新世界」で知られる他界には、いまのところ民間人の立ち入りは許可されていなかった。安全が保証できない、というのがその理由だが、そもそも移動のための設備が開放されていなかった。
移動にはワームを使う。
かつては妖精を変異させてワームにしていたが、それでは人ひとりが通過できる程度の穴しか開かなかった。いまは機械で代用する。しかし重機の出入りできる巨大な人工ワームは、日本には二基しかなかった。かなり高価なのである。アメリカでさえ四基しか保有していない。
国内においては、新たに設置された「花園開発庁」が人工ワームを管轄した。他界へ重機を入れ、道路を敷設して標識を設置した。
しかし他界の探索が進めば進むほど、「なにもない」ことが判明してきた。
見慣れないものは山ほどある。しかし実益になりそうなものは、すでにそれぞれの国内で研究が始まっていた。わざわざ税金を投入して他界へ行く必要はないのでは、という意見も出始めた。なにせ超能力は全人類に備わっているのである。いまいる人類を調査したほうが安上がりだった。
いまや他界は、技術的には到達可能なのに、誰も行こうとしない月のような扱いになってきた。あるいは南極でもいい。すべてはコストの問題だった。
むしろ各国は、新世界で見つかる「益」よりも、新世界から入り込んでくる「害」への対処にシフトし始めていた。新世界の妖精たちはしばしばワームを作る。件数は多くないものの、勝手に穴が開き、妖精たちが這い出してくるというアクシデントも発生していた。
専門家は、新世界にしか存在しなかったエーテルがこちら側へ流入したせいで、怪異が発生しやすくなったと分析していた。
*
午後一時二分。
都内某所、検非違使庁舎。
暇になった三郎は、黒羽麗子の研究室へ遊びに来ていた。しかし麗子に会いに来たわけではない。無謀なヒーローごっこにチャレンジしたせいで、脳味噌だけになった仲間に会いに来たのだ。
脳味噌がひとつ、眼球がひとつ。ランキング九位の山野栄は、いちおう生きているという判定になっているものの、もはや人体標本と変わりがなかった。半透明な液体の中でぷかぷか浮いている。
「山野さん、教えてくれ。どうやったら女にモテるんだ?」
三郎にとっては切実な問題である。が、この言葉に、デスクワーク中の麗子が凄まじい形相で振り返った。
黒羽麗子――。ナンバーズ・サーティーン。薬師長。白衣にメガネにひっつめ髪という、いかにもな格好の研究者だ。さやかの伯母にあたる。若く見えるが年齢不詳。
「なに? あなたモテたいの?」
「俺は山野さんに質問してるんだ」
「そうは言っても、彼、答えられないわよ」
「……」
脳だけだ。口もない。まばたきもできない。コミュニケーションの取りようがなかった。
麗子はビーカーで淹れたコーヒーを出してくれた。角砂糖はみっつ。
「私でよければ相談に乗るけど」
「……」
心の底からお願いしたい。しかし相手は宿敵の黒羽一族である。いや、宿敵というほどの敵でもないのだが。いまさらお願いするのは気が引けた。
麗子は、しかし三郎の性格をよく知っている。返事など待たずにこう続けた。
「木下さんのことでしょ?」
「な……だ、誰から聞いたんだよ?」
「聞かなくても分かるわ。あなた分かりやすいのよ。そうでなくとも、木下さん経由で仕事を依頼すると、かなりの確率で受けるでしょう? 統計的な裏付けもあるのよ」
「……」
いまは独身だが、麗子には結婚経験があった。子供もいたらしい。しかし真相は闇の中だ。一子に聞いてもその話題は避けたがるから、触れないほうがいいらしい。
ともあれ、結婚した女の言うことだ。参考になるはずだ。
「ああいうタイプは押しまくったほうがいいわよ。自分でなにかを決定するタイプには見えないから」
参考になりそうもない意見が出た。
「いや、そういうのはさ、俺あんまり好きじゃないっていうか」
「だったら一生そうしているの? ほかの男に取られちゃうわよ?」
「はあ?」
「この世界にいるのは、あなたと彼女だけじゃないのよ? 誰も彼女にモーションかけてないと思う? あるいはもう誰かと付き合ってるのかも。既婚者だったりして」
「や、やめろ……」
想像するだけで胃が収縮する。
ほとんど日常的な会話すらしたことはなく、口を開けば事務的なものばかりで、現状特に親しくも接点もなかった。それでも好きになってしまったのだ。守りたいという欲求は日に日に高まってゆく。その気持ちのピークは、先日木下の足を切断した瞬間だった。アレはヤバかったと、三郎はいまでも懐古する。
麗子は肩をすくめた。
「ま、結婚はしてないみたいだけどね。でも本気なら早くしたほうがいいわよ。事務的なまま時間を過ごすと、本当にただの他人になっちゃうから」
「けど、押すってどうやって……」
「顔を見かけたら話しかけるのよ。フレンドリーにね。ロクに会話もしてない男から求婚されたら、普通は誰だって断るからね」
「それでしつこいって思われたら? もしフラれたらどうするんだよ?」
「そこが重要なんでしょ。ダメならダメでフラれなさいよ。そうしないと前進できないでしょ」
「イヤだ。俺は木下さんと結婚したいの」
「思ったより重症ね……」
麗子は嘲笑するように笑い、ブラックコーヒーをすすった。
三郎もコーヒーをすすり、あまりの苦さに顔をしかめた。興奮しすぎて砂糖を入れるのを忘れていた。踏んだり蹴ったりだ。
「あんた、結婚してたんだろ? 俺も結婚できるようにしてくれ。なんらかの力で」
「あなた、なかなか常人には思いつかない要求をするわね。バカなの? いえ、実際バカだったわね。ハバキのサバいてる新型麻薬でも使ったら? 結婚した気分になれるかもよ」
「マジで?」
「冗談よ。座りなさい」
本気すぎて冗談が通じないこともある。仕方がない。
麗子は笑いながらも、深い溜め息をついた。
「あなた、顔はまあまあいいのに頭が残念すぎるのよね。まるでお姉さんみたい。世の中、すべてを手に入れるってのはムリなのかしらね」
「いや、姉貴とは一緒にしないでくれ。俺はあそこまでじゃない」
「諦めなさい。ソックリよ」
「ソックリじゃない」
「負けず嫌いなのは結構だけど、まずは自分の欠点を認めるところから始めないと、改善もできないわよ」
「ぐっ……」
さっきから麗子は急所を突きまくってくる。さすがの三郎もそろそろ憤死しそうだ。モテないだけならまだしも、姉にソックリとは。
麗子はやや笑いをこらえながら、悪い顔を見せた。
「ま、奥の手もなくはないけど」
「なんだ? 教えてくれ」
「けどこの方法、かなりギリギリよ? それでも聞く?」
「金ならいくらでも払う」
「いらないわ。方法はこうよ。誰か頭のアレな依頼主が、彼女の誘拐依頼を出すのよ。それで、あなたが受ける。あるいは他の誰かが受けたところを、あなたが救出するんでもいいわね」
「黒羽らしいセコい手口だな。俺はそういう手は使わない」
だが麗子は一枚上手だった。
「あなたがそういう手を使わなくとも、あなたのライバルが使ったとしたら?」
「はあ?」
「ライバルが汚い手段を使ってくるのに、あなたは指をくわえて眺めてるだけなの? この手段を誰かが使った瞬間、木下さんはそいつの手に落ちるわよ。ま、私には関係のない話だけど」
そんなライバルなどそもそも存在しないのだが、三郎はそれどころではなかった。いもしない架空のライバルを、必要であれば殺すつもりになっている。だがもし木下がそのライバルを選ぶのだとしたら。三郎には殺すことはできない。
「くっ、俺はどうしたら……」
「どうもしなくていいわ。ちょっと意地悪しすぎたわね。いまの話は忘れて」
「けど、ライバルが……」
「うん、まあ、そのときは頑張って……」
医者も匙を投げた。
*
結局、麗子には煽られ、山野からは回答が得られなかった。収穫はない。いや、ある。ハバキの新型麻薬だ。しかし三郎、麻薬はアルコールしかやらないと決めていた。これ以上脳細胞が死んだらと思うと、我がことながら戦慄を禁じえなかった。
ニューオーダーでビールを飲んでいると、木下が来た。
いや、見間違いではない。木下だ。
「あの、来ちゃいました」
「あ、えっ……」
会うなと言われていたはずである。
見慣れたスーツ姿で、クリップボードを胸に抱えている。
「えーと、仕事? なにか依頼が……」
「いえ、その……。キャサリンさんからは、二人きりで会っちゃダメって言われてるんですけど……。でも、仕事の依頼をするフリをして……」
「座る?」
「いえ、依頼のフリなので」
「あ、ああ、そうだよな。依頼のフリね。うん」
理解できなかった。
木下は遠慮がちな表情で、薄く笑んでいた。すべてが控えめで地味だ。美人でもない。しかし不満もない。なんらの主張も感じられない。ややぼんやりとした顔つき。じつに安心する顔だ。オカッパのようなボブカットも、その無個性に拍車をかけている。
「先日は悪かったな。その、姉貴がストーカーみたいなマネを……」
「いえ、いいんです。一子さん、そういう人ですから」
「あと、足も切っちゃって」
「それも謝らないでください。私を助けるためですから。むしろきちんとお礼を言ってなくて……。その、ありがとうございました」
「いや、こっちこそ護衛なのに全然ダメで……。殺すほうはだいたいイケるんだけど」
まるでフォローになっていないが、木下はそこを突くほど邪悪ではない。
「ふふ、冗談ばっかり」
「えっ」
「あの、それで、もしよかったらですけど。たびたびこうしてお話ししたいなって思うんですけど……。ご迷惑じゃないですか?」
「あ、ああ。俺はぜんぜん構わないぜ。どうせビール飲んでるだけだしな。ところで木下さん、誰かと結婚してたりする?」
この会話の流れには、さすがの木下もぎょっとなった。
「えっ? いえ、してませんけど……」
「そうか。いや、気にしないでくれ。ただの世間話だから」
「あ、はい。大丈夫です。気にしません。じゃあ、あんまり長くいると怪しまれるんで、今日はこの辺で」
「ああ。またな」
「はい、また」
木下はふたたび薄い笑みを浮かべ、小さく辞儀をして向こうへ行ってしまった。
三郎はその背を眺めながら、ビールを口にした。至福である。悩む必要はなかった。努力は報われることもある。それに、流れるようなトーク。問題があったことは三郎も自覚しているが、そもそもいままでこの程度の会話さえしてこなかった。大躍進と言えるだろう。
「ヤバいぞ。これは結婚まで秒読み段階だな……。式場どこにしよう。あれ、そういや俺んち仏教だったっけ……いや神道かも……。どうしよう。なんも分かんねーぞ」
早くも酔いが回っていた。
ビールがいかに危険な麻薬であるかよく分かる。
「生きた女の……内臓が食べたい……」
対面の席に、一子が腰をおろした。ギリシア彫刻のような硬質な微笑である。あるいは仮面のようだ。
「おい、いまいい気分で飲んでるんだ。ブスは失せろ。土に還れ」
「サブちゃん……うちは仏教だか神道だか判然としない……民間信仰の……なんだかよく分からないやつよ……」
「よくよく考えたら、うちがあの辺仕切ってたんだっけ。ただの農家じゃなかったな」
「六原宗家よ……そして……お姉ちゃんが巫女です……」
「邪教かよ。俺らの代で廃止にしようぜ」
どうせ儀式と称して人肉を喰らうに決まっている。廃止したほうがよかろう。
一子は笑顔を消し、怪訝そうに目を細めた。
「サブちゃん……あの子と……結婚したいの……?」
「答える義理はないが、特別に教えてやろう。結婚したい。だが姉貴には関係のない話だ。つーか、なんでここにいるんだ? 自分の墓を掘る仕事に戻れよ」
「第六感が……働いたので……」
「六原だけにな。まあそんな愉快なジョークはいいとして。いい加減、俺のストーカーはやめろ。一生結婚できないぞ。姉貴だけでなく、俺までもがな」
「お姉ちゃんは……地球と結婚……するの……」
「そうか」
土に還ってくれるならそれでいい。三郎は満足してビールを飲み干した。
未来が約束されたいま、三郎に障害は存在しないも同然だった。あとは神に絡んだ仕事のついでにナンバーズを殺し、ランキングの一位となり、木下とのフラグを立て続けて結婚する。それで三郎の人生は完成する。
勝利は目前だ。
すべてが好転している。
(続く)