原始的な愛
ボロアパートに帰宅した瞬間、人の存在に気づいた。
というより、露骨にいる。
玄関の電気がついているだけでなく、空気が暖かかった。
隙間風の入るこのアパートでは、いつもなら室温は外気温と等しい。なのに暖かいということは、ストーブがつけられているということだ。
リビングに入ると、こたつで姉が寝ていた。
黙っていれば穏やかそうな女である。栄養状態だけはいいらしく、伸ばし放題の黒髪はしなやかに艶めいていた。
姉の寝顔は、記憶の中の母によく似ていた。まだ三郎が幼かったころ、この世のすべてのような包容力で、物静かに微笑し、優しく見守ってくれた母の顔だ。人を殺して食うような女が、いまその母と同じ顔をしている。
こたつの上には、ラップされたおやきが置かれていた。幼少期、母がよく作ってくれた。この食人鬼は、動物の死骸をその場で食うくせに、料理だけはなぜか人並みにできた。のみならず、思い出の中の母の味さえ完全に再現できた。
いったいどういうつもりなのかは分からない。
三郎はこたつに足をつっこみ、おやきを食った。ひえている。しかしそれでいい。あたためてから食べたら、きっとあの味になってしまうだろう。ろくに味も分からないまま食べたほうがいい。
「あら……帰ったのね……」
一子は眠たげな顔をあげ、薄い笑みを見せた。
世間の男は、この物憂げな女を美人だと言う。しかし三郎にとっては忌むべき顔だ。いわく言い難い気持ちになる。あるいは殺意さえ芽生える。
「姉貴、勝手に入ってくんなって言ったろ」
「ふふ……おやき……おいしい……?」
「まあまあだな」
「ちゃんとあたためた……?」
「どっちでもいい」
しばらくもそもそ食べてから、三郎は指先で口を拭った。
「なあ姉貴、なんで俺を付け回すんだ? 木下さん、かなり怖がってたぞ。おかげでろくに会話もできなかった」
この精一杯の苦情に、一子は首をかしげた。
「私の……せい……?」
「自覚ないのかよ。不気味に思われてんだよ。ハッキリ言って邪魔だ。俺の人生を妨害するな」
「けどサブちゃん……仕事とアニメの話以外に……女の子とおしゃべりできるの……?」
「は、はあ? ふざけんなよ。できるよ。俺はなぁ、わりとニュースとかも観るんだよ。いまの総理大臣が誰かも言える。あと、なんだっけ、テレビによく出てくるあの防衛大臣の……。待て、顔は思い出せるんだ……」
「哀しいわね……」
「そう思うんだったら、女が興味を持つような話題を提供しろ。人を殺して食う話以外でな」
「カナブンは……生で食べないほうがいい……」
「クソが」
そもそもこの姉に相談すべきではなかった。普通の女じゃない。というより、普通の人間じゃない。会話が通じるなどと思わないほうがいい。
三郎は深く溜め息をつき、コンビニのレジ袋から缶ビールを取り出した。
「だいたい、なんなんだよ? 暇なのか? ナンバーズの仕事はどうしたんだよ?」
「仕事……ない……ほぼ無職……だからサブちゃん……養って……」
「そのまま野垂れ死ね」
ナンバーズは、かつてザ・ワンを管理するために組織された秘密結社だ。しかし他界のごたごたに巻き込まれてザ・ワンが死亡してからというもの、ナンバーズもその存在意義を失い、いまや完全に形骸化していた。
「ファイヴと三角が他界でなんかやってたが、参加しなくていいのか? 姉貴が敵側で出てきてくれたら、遠慮なくぶっ殺せるんだがな」
「お姉ちゃんは……なにも知らない……」
「マジで仲間はずれなのかよ。なんなんだよ。もうナンバーズなんてやめて普通の仕事につけよ」
「普通の仕事は……面接で落ちるの……氷河期よ……」
「……」
落とした面接官はまともな判断をしたと言えるだろう。一子は目つきが虚ろだし、口調もどこかハッキリしない。そして突然笑い出す。パソコンもスマホも使えない。その上、昆虫などを見つけると即座に追い回しておやつにする。
なんでも食べるわけではない。実家が農業をやっていたからか、その害となるものだけを率先して食べる。食べていいものと、そうでないものの区別が、いちおう存在する。例外は、すでに死んでいる動物だけ。
仕事上での食事でさえ、食べるために殺すのではなく、殺してしまったからやむをえず食べるという理屈であった。三郎にしてみればどちらも同じに聞こえるが。
「姉貴、料理だけは得意なんだし、誰かと結婚したら? もちろん本性は絶対に隠せよ。少しでもバレたら一緒にいられなくなるからな」
「ふふ……鶴の恩返しみたい……ね……」
「ああ、正体がバケモノってところが特にな。山野さんが生きてれば、押し付けてもよかったんだけど。姉貴のこと美人だって言ってたし」
「あの人は……ない……」
「なんで? 悪い人じゃないだろ」
「あの男は……サブちゃんと……仲がよすぎる……」
もはや対処不能である。三郎は返事もできず、缶ビールをごくごくやった。
動物の死骸をその場で食うような女だ、受け入れてくれる人間もほとんどいないだろう。旧知の山野は、その数少ない人間のひとりだった。いや山野も完全には受け入れていなかったが。少なくとも嫌悪して遠ざけるようなことはしなかった。
*
翌日、三郎はニューオーダーへ寄った。
ほかにすることもなかった。貯金は二億を超えているが、それでも心は満たされない。自己の存在を証明するためには、是が非でもランキングの一位を取らなければならなかった。
「邪魔するぞ」
女ふたりのテーブルに、三郎は割り込んだ。
ひとりはペギー、もうひとりは彼女とコンビを組んでいるスジャータという少女だ。両者ともに機構の出身。
ペギーが片眉をつりあげた。
「珍しい。ランカーの六原さんが、私たちみたいな無名になんのご用?」
「女について教えてくれ」
「ぶふっ」
さすがのペギーも、余裕ぶって飲んでいたルートビアを噴きそうになった。
「あの、聞き間違い……じゃないよね? もしかして口説いてる?」
「そうじゃない。木下さんと会話するにあたって、なんらかの話題が必要だと思ったんだ。どうやら俺には、仕事とアニメの話題しかないらしいからな」
「自覚なかったの?」
「いいから教えてくれ」
頭から布をかぶったスジャータは、生まれてからずっと暗殺術のみを叩き込まれて生きてきた。いまペギーが普通の少女へと再教育中である。
となると、この質問に応じられるのはペギーだけだ。
「でもなあ……。基本的には、清潔感をもって堂々としていればいい気もするけど。女って言ってもいろいろいるからね。『こうしたら好かれる』っていうより、『こうしたら嫌われない』ってほうが重要かもね」
「どうすればいいんだ?」
「最低限の話からするね。この業界、こんなことすら分かってないのがいるから。まず、いきなり子供を作ろうとしないこと。そして、いきなり結婚しようとか思わないこと」
「いや待て。そんな考えだから少子化になってるんだろ。このままじゃ日本が滅ぶぞ」
「やれやれ、完全にそっち側だね。そうやってすぐ話を大袈裟にするのもダメだよ。もっと身近な問題として考えて。相手はひとりの人間なんだから。パートナーのことをよく知った上で、好感を抱くから結婚したくなるんでしょ? いきなり結婚なんて引くよ」
三郎だって分かっているつもりだ。というより、こんな初歩的な説明から来るとは、かなりナメられている。だいたいなんなのだ「そっち側」というのは。
三郎もつい反発を覚えた。
「そういうあんただって、山野さんと結婚しようとしてただろ」
「はあっ?」
「機構の船に乗れって言ってたじゃないか。つまりは結婚ってことだろ? それといまのと、なにが違うんだよ?」
ペギーはひどくさめた目になり、溜め息混じりに肩をすくめた。
「あのときは、機構の仲間になって欲しかっただけ。そしたら私たちの船に乗ることになるでしょ? まあ、船の上ではみんな家族だけど……。私と結婚するって意味じゃない」
「じゃあなんで山野さんの銃なんて使ってんだ? まだ未練があるんだろ?」
「戦友が遺した銃を使うの、そんなにおかしいこと? それに、山野さんとはそういうんじゃないから。彼が兄だったらいいなと思ったことはあるけど……。ああ、なに言ってんだろ私。とにかく、全然違うから。くだらないこと言うならあっち行って。これは私と山野さん、両方に対する侮辱だよ」
「なんだよそれ。ちっとも分かんねーよ」
「いいからあっちに行って。もう話したくない」
スジャータがテーブルの下で蹴ってきたので、三郎はやむをえず席を立った。
「クソ、もう聞かねーよ。時間のムダだ」
*
スジャータの関節蹴りは地味に効いた。さすがは暗殺者だ。
三郎はもう仕事をする気分でもなくなり、ビールも飲まず店を出た。それからなぜか、特に親しくもない知人の自宅へ足を向けていた。
六本木のタワーマンションだ。
名を告げたらすぐに迎え入れてくれた。
「歓迎するよ友人。しかし珍しいな。雪でも降るのか」
ナンバーズ・ナイン。散華長。通称「灰の紳士」。平日でもスーツにネクタイという堅苦しい格好だ。
三郎は許可も得ず、どっとソファへ身を預けた。
「世間話をしに来た」
「おやおや、これは。仕事以外の用事で、俺に会いに来てくれるとはね。コーヒーでいいかい? それともビール?」
「ビールをくれ」
窓からは都内が一望できる。隙間なくみっちりと建てられたコンクリの建造物たち。重苦しい群青の下に夕焼けが沈滞し、地平線いっぱいにカクテルのような層を作っていた。
いかにも金持ちが住むようなマンションだ。三郎のボロアパートからは、こんな景色は見えない。
ナインはバドワイザーの瓶をふたつ持ってきた。
「それで? なんの話をしたいんだ? 俺でよければなんでも相談に乗る」
「あんたいま無職なのか?」
まずは軽いジャブから入った。ナンバーズが無職なのは周知の事実だ。三郎に気遣いなどというものはない。
ナインも分かっているから、顔をしかめもしなかった。
「ザ・ワンは死んでしまったからね。ナンバーズとしての仕事はなくなった。しかしあくまでサイドビジネスのひとつがダメになっただけさ。本業まで失ったわけじゃない」
「本業?」
「君と同じだよ。組合に所属している」
「他界にザ・ワンのガキがいるらしいぞ。ファイヴと三角がそいつを巡ってなんかやってる。あんた、一緒にやらなくていいのか?」
するとナインは栓抜きでフタをあけ、瓶のまま三郎へよこした。
「神という名のビジネス、か。たしかに莫大な金が動く。しかし一連の騒動で分かったことは、結局のところ、これは金持ちが金をあっちへやったりこっちへやったりするだけのマネーゲームだったということだ。その結果、神は死んだ。俺たちの手にはハシタ金が残った。ほかにはなにもない。虚しいとは思わないか?」
「あんたはゲームを動かしてた側だろ?」
この問いに、ナインは苦い笑みを浮かべた。
「まさか。俺は駒のひとつに過ぎないよ」
「口八丁でナンバーズを動かしてたように見えた」
「努力はしたさ。センチメンタルな理由でね。俺が金にこだわっていたのは、友人たちのモチベーションをあげるためだよ。分かりやすい目標があれば、組織は結束する。その結果、この日本で、俺たちのような能力者の地位が向上すればいいと考えていたが……。すべては水泡に帰した」
「ナンバーズは終わったのか?」
「そう結論する日も遠くはあるまい。数列の起点となるザ・ワンが死んだんだ。ナンバーズはすでに役目を終えた」
つぶやくように言って、ナインは遠い目でビール瓶に口をつけた。
窓の外では闇がいっそう濃くなり、点のようなライトが冬の街々に輝き出した。機械の発する空虚な光だ。ここから見下ろすと、人間の気配がしない。
「それで、本題は? こんな話をしに来たわけじゃないだろう」
「女と仲良くなる方法を教えてくれ」
三郎は取り繕うことなく切り出した。
もはや女心が分かりそうなら誰でもいい。ナインは、三角と恋人同士であったはずだ。三角が実際どう思っているかはともかく、少なくともナインの認識ではそうだった。
ナインは、しかし眉をひそめた。
「差し支えなければ、相手の名前を聞いても?」
「き、木下さんだ」
「そういえばそんなことを言っていた気がするな。ジョークかと思って聞き流していたが」
「ジョークじゃない。本心だ。彼女は、この薄汚い世界でマッチを売り続ける孤独な少女だ。いつか俺が保護しないと」
「保護? 慈善事業のつもりか? まずはその高慢な考えを改めるところから始めたほうがいい」
「でも、戦ったら俺が勝つぞ?」
三郎の素朴な感想に、ナインは唖然として顔をしかめた。
「なぜそうなるんだ。人と人との付き合いというのは、そういうものじゃない。君は彼女を支配下に置きたいのか? 対等な関係になりたいんじゃないのか?」
「対等だ。支配なんて考えてない。ただ、得意分野ってのがあるから……」
「分かった。そこは当事者同士の価値観の問題だから、俺は口を挟むまい。しかし君は、人間関係というものをどう考えているんだ? 俺以外に、対等な関係の友人はいるのか? そもそも君は、同性同士でさえ仲良くできていないじゃないか。そんな人間が恋人を作るだと?」
「友人がいないのは否定しないが、それを言えばお前だって友人じゃない」
「……」
一事が万事この調子である。三郎は、およそ他者に相談を持ちかけて成功したためしがない。今回だって、切羽詰まっていなければやらなかった。
ナインはすると表情を一変させ、いきなり営業スマイルに切り替えた。
「なら、お姉さんに相談するといい。彼女なら、君の質問に最後まで付き合ってくれるだろう」
「あいつじゃ役に立たなかったんだ」
「ならほかを当たりたまえ。俺だって、友人でもないものの相談に応じているほど暇じゃない」
「暇だろ」
「友人のために時間は作れる。しかしそうでなければ……」
「分かった友人だ。分かったから」
「……」
ネット上の友人はひとりいる。しかしそいつは、どこからどう見ても女心を理解しているとは思えなかった。女の相談をすることはできない。
ここはウソをついてでもナインから聞き出す必要がある。いま聞き出せなければ、あとはファイヴか三角に聞くしかなくなる。
ナインはビールを一口やり、小さく嘆息した。
「ではシンプルに言うぞ。君はバカだ。なにも考えるな。一切の思考を停止し、とにかく金を使って自分を飾り立てるしかない。俺に言えるのは以上だ」
ド直球もいいところだ。
「おい、百歩譲って俺がバカなのはいい。けど木下さんは金でどうにかなる女じゃない。彼女をバカにするのはやめろ」
だがナインは反論しなかった。その代わり、おもむろに立ち上がり、窓際で大の字になった。
「みずからが愛を知らぬままでは、人に愛を与えることなどできない。人にそれを与えたいのであれば、まずは君自身が愛を知ることだ」
「はあ? キモ……じゃなかった。なんだよ愛って。どこに行ったら教えてくれるんだ? まさか、例のキャバクラってヤツか……」
「いや違う。まずはお姉さんに教えてもらいなさい」
「だからあいつはダメだって言ってるだろ。ただのストーカーだぞ」
「偏愛であろうと、それも愛だ。世界には、様々なかたちの愛がある。人が人に向ける好意について、もっと観察したほうがいい。なんだったらペットと触れ合うところから始めてもいいんじゃないか? 言葉がないぶん、原始的な愛を知ることができるだろう」
「確かに、ただの動物でも、ヤった後は愛着がわく感じもするな。あれが原始的な愛ってやつだとすれば……」
「……」
ナインは目を閉じ、なんともいえない表情を見せた。両者の認識には理解に相違がある。
だが三郎、動物については過去に飽きるほど触れ合ってきた。だから動物レベルはクリアといっていい。あとは人間を観察するだけ。より愛について知ることができれば、年内には木下と結婚することも不可能ではなかろう。
すべてを手にする日も近い。あくまで三郎のプランでは。
(続く)




