レポート:呪禁長
三郎がニューサンノーへ顔を出していたそのころ――。
病院のベッドでひとり、アベトモコは自分の手のひらを見つめていた。さすがに普段の和服ではなく、患者衣だ。
広々とした個室だった。レースのカーテンの引かれた窓からは春の光が差し込んでおり、室内は明るい。そしてまた、静か過ぎる。
トモコは物心ついたときから「特別」だった。
伝統ある名家に生まれただけでなく、授かった才能も他人とは比較にならないレベルであった。特に祖母から寵愛を受けた。
陰陽師の一族である。漢字で書けば名は安倍智子。しかし名前は呪術の対象になるとかで、普段からカタカナで書くよう指導されていた。実際、そんな迷信は誰も本気にしていなかったのだが、家のしきたりでそうしていた。
母には能力が備わらなかったが、特に差別的な扱いを受けていたわけでもなかった。すべては円満だった。
六歳のとき、初めて敷地の外へ出た。
ずっと隔離されていたのだ。エネルギーが巨大すぎる上、まともにコントロールも効かなかったから、普通の人間が近寄るのは危険であった。しかし祖母の指導のおかげもあり、ある程度は力をコントロールできるようになっていた。
地元の京都を出て東京の陰陽庁へ入り、初めて同い年の子供たちと遭遇した。
そこは才能ある子供たちが集められ、力の使い方を学ぶ場であった。もちろん戦闘のためではない。この世界の平和を祈願するためだ。
トモコは、しかしクラスに溶け込むことができなかった。名前がカタカナなことも、方言で話すことも、容姿についても、桁違いに強いことも、クラスの子供たちからいろいろ言われ続けた。トモコはすぐにしょげてしまい、親元へ帰りたいと懇願するようになった。しかし修行だからと祖母に言われ、仕方なく我慢した。
八歳になったある日、庁舎の庭で遊んでいたときのことだ。形代という和紙でつくられた人形を念で動かし、おままごとをしていた。
「トモコさん、ご飯ができましたよ。はーい。お風呂も沸きましたよ。はーい」
遊ぶ相手がいなかったから、トモコは家に帰ったつもりでさみしさを紛らわせていた。そこには母だけでなく、父も、祖母もいた。トモコは少しだけ幸福な気持ちになれた。
そこへ、男子の蹴ったサッカーボールが飛んできた。泥まみれのボールに、家族を模した形代がなぎ倒された。
「ごめんごめん」
彼ははじめ素直に謝った。ニヤニヤしていたのも、あとで仲間内でゲラゲラ笑っていたのも、トモコは許した。
しかしボールは、二度、三度と来た。
さすがにわざとだと言うのはトモコにも分かった。つい我慢ならなくなってボールを叩き割った。
先に手を出してきたのは男子のほうなのに、その男子が教官に泣きついたものだから、ケンカ両成敗としてトモコまで叱責を受けた。
そして後日――。
トモコがクラスへ行くと、大事にしていた形代にいたずら書きがされていた。「バカ」やら「うんこ」やらレベルの低い内容だ。しかしトモコにしてみれば、家族の顔面に心無い言葉を書かれたようなものだ。
「なんでなん? なんでいじわるするん?」
涙をこらえて抗議をすると、男子はその方言を面白がり、バカにした口調で繰り返した。取り巻きの連中は必要以上に大きな声で笑った。
我慢の限界だった。
「殺したいわ……」
「うわー、こいつ殺すとか言ってる。警察呼んだほうがよくね? ぜったい逮捕だから」
しかし本当に殺すつもりはなかった。ちょっと突き飛ばして、怖がらせるだけで済ませるはずだった。なのに、高ぶりすぎた感情がコントロールを鈍らせた。少年は二階の窓ガラスを突き破り、駐車場まで頭から落下した。
ガラスの割れる音、頭蓋骨の割れる音、そしてやや静寂ののち、耳の痛くなるような悲鳴が響いた。
頭の中が真っ白になり、わけが分からなくなった。内側で荒れ狂っていたエネルギーの奔流が、小さな器に耐えきれず表出した。
大人たちが駆けつけてきて、能力で抑えつけようとしてきた。
「ちが……違うの……これは……」
心とは裏腹に、大人たちは一瞬でひねり潰された。
トモコはこのとき、自分の持つ暴力衝動に恐怖した。力を抑えなければ人を傷つけてしまう。祖母からさんざん指導されてきたのに、結局、守れなかった。近づいてきた人間は、次の瞬間、例外なく肉片になった。
部屋は赤黒く塗られていった。
駆けつけた祖母が、命と引き換えにトモコの暴走を止めたらしい。話ではそう聞いているが、トモコ自身に記憶はなかった。気がついたら自宅の布団に横たわっていた。
責任を感じた母が陰陽庁からの撤退を決め、代わりに名草家がその職を引き継ぐことになった。
誰もトモコを責めなかった。だからトモコは、自分で自分を責めるしかなかった。
亡くなった祖母に代わり、母がナンバーズ・ツーとなった。しかし心労がたたったのか体調を崩しがちになり、会議に欠席することが多くなっていた。それで、せめて母の仕事を肩代わりしようとトモコがナンバーズに入った。まだ十二歳だった。
先にナンバーズになっていた梅乃とはすぐに仲良くなれた。家同士はライバルであったが、個人的な憎しみはなかった。
「トモコちゃん、困ったことがあったらなんでも言ってね。私、できる限りのことはするから」
「うん……」
トモコは、しかしはじめは聞き流していた。他人にそんな負担をかけるつもりはなかった。そもそも自分自身のことさえ信用していないのだ。将来なにが起きるかについては想像したくもなかった。
その後、なんだかんだとナンバーズの仕事に駆り出され、人の死ぬ瞬間に直面することも多くなった。しかしトモコが出動するときは、梅乃も必ずついてきた。戦闘が始まれば率先して正面に立ち、自らの手を汚し続けた。梅乃があとで吐いていたのをトモコは知っている。
「梅乃さん、なんでそこまでしてくれるんですか?」
ある日、トモコはそう尋ねたことがあった。
優しいお姉さんだった梅乃は、日に日に荒んでいた。
「私は、世界と戦っているの」
「世界と?」
「この世界は、ウソばっかりでしょう。なにが正しくて、なにが正しくないのか、みんな自分の損得でしか語らない。そんな世界が、私は嫌いなの」
「難しくて分かりません……」
「正直に言うわ。私の家はね、あなたが事故を起こしたとき、みんなほくそ笑んでいたのよ。安倍がダメになれば、名草に仕事が回ってくるからって。そして実際、そうなった。あの瞬間、私は一族の人間が信じられなくなった。陰陽庁の仕事は世界の平和を祈願することでしょ? なのに、他人の不幸を喜んでいる名草がそれをするって言うのよ。目の前に傷ついた女の子がいるのに、それを放ったままで……。おかしいでしょう?」
「私なんかより、死んでしまったみんなのほうが気の毒です……」
見た目を変えるのは難しい。しかし方言は必死になって直した。そうすれば、他人から奇異の目で見られることも減る。
梅乃は厳しい表情のままうなずいた。
「そうかもしれない。でもそれは、あなただけが背負うようなことじゃない。あなたという存在を理解しなかった大人たちの怠慢でもある。もしまた力が暴走したら、今度は私が止めてあげる。だから安心して」
「はい……」
しかし梅乃の決意は、トモコにはやや重いものとして感じられた。梅乃は祖母よりも弱い。その弱者が、さらに成長したトモコの暴走を止めるつもりならば、必ず命と引き換えになる。あなたのために死ぬ覚悟があると言われているようなものだ。
当時、梅乃は高校生ながらにナンバーズ・テンを務めていた。家のことでいろいろ思うところがあったのかもしれない。しかしまだ人生経験の浅いトモコには、どう受け止めるべきなのか分からなかった。
窓から差す光に手をかざし、トモコは目を細めた。
例の少年の両親によれば、彼はトモコに気があったらしい。そしてまた、ライバル視もしていたという。それらの気持ちをうまく表現できず、攻撃的な態度になってしまったらしいのだ。小学生の男子が好きな子をいじめてしまうことがあるということを、トモコもあとで知った。
もう少年の名前も、顔も、まったく思い出せない。ただ、殺したのが自分だという現実だけが残っている。
トモコはしいて忘れようとは思っていない。
そういう自分の意志は、世界の流れの前では無意味だと思っている。
心はいらない。力を発動するだけの機械だ。
なのに神の子を殺すことができなかった。そしてあろうことか、唯一の取り柄である暴力を失ってしまった。一時的なものなのか、永遠にこうなのかは分からない。
ただし、トモコは少しほっとしていた。
力さえなければ、もう二度とあんな悲惨な事件は起こらない。
自分の力で人が死ぬのは苦痛だ。叩き殺す瞬間、その人物の精神の消え去ろうとするのが分かる。人間がただの肉になる。それまで何十年生きていようが関係ない。死ねば、そこであらゆるものが終わる。
ノックがあって、梅乃が入ってきた。今日は巫女装束ではなく、薄手のカーディガンを羽織った清楚な格好だ。
普段なら気配で分かるのに、いまはノックがあるまで分からなかった。
「どう、体の調子は?」
「とてもいいです」
トモコは笑顔を浮かべ、迷いなくウソをついた。
梅乃は椅子を持ってきて座った。
「これ、前に言ってたオススメの漫画。よかったら読んで。トモコちゃんの趣味に合うといいけど」
「ありがとう」
梅乃は紙袋を棚に置いた。
「会議はどうでした?」
「出雲と和解する流れになりそう。あとは阿弖流為さんがフォーに承認されて」
「来てくれたんですか?」
「ええ。けどあの様子を見る限り、本人の承諾も得ずに連れてきた感じね。まあ、嫌がってるふうでもなかったけど……。というより、どちらでもいいって感じだったわね」
「土蜘蛛さんを思い出します」
「似てるわね、とても。ずっと寝てるの。ぐうたらな猫みたい」
「かわいいですね」
猫は好きだ。能力を使えばある程度の意思疎通もできる。会話はできないが、受け入れられているか嫌われているかくらいは分かる。
梅乃はしばし外を見てから、小さく溜め息をついた。物憂げな表情をしていた。
「トモコちゃん、ひとつお願いがあるの」
「はい?」
「もし……もしね、力が戻っても……しばらくナンバーズには来ないで欲しいの」
「えっ?」
面食らうトモコの手を、梅乃の両手がふんわりと包んだ。
「ナインさんとも話したの。もう力なんて使わずに、普通に暮らしたほうがトモコちゃんも幸せなんじゃないかって」
「梅乃さん……」
「だから、ね? 危険なことはみんなに任せて、トモコちゃんはここにいて? もう十分すぎるほど力を使ったでしょう? あのおかげで、みんなだってずいぶん助けられてきたのよ?」
「……」
それが梅乃の優しさであることは分かる。
しかしトモコにとっては、屈辱以外のなにものでもなかった。ふたりでナンバーズを抜けるというのなら分かる。ところが梅乃は、自分だけは戦うつもりでいるのだ。いつものように保護者ぶって、自分の都合しか考えずに。
トモコはやや遅れて、笑顔を浮かべた。
「ありがとう、梅乃さん。いつも私のこと考えてくれて……。とても嬉しいです。お言葉に甘えて、私はここにいようかな。もう疲れちゃいました」
またウソをついた。
力が欲しい。そうでなければ、これまでの人生がなんだったのか分からなくなる。それ以外になにも期待されてこなかったし、実際、それしかしてこなかった。力こそが存在の証明だった。
もし回復したら、今度こそ絶対に神の子を殺害する。そして終わらせるのだ。こういうバカげたなにもかもを。
梅乃の表情からは、このウソに気づいたかどうかは分からない。
「じゃあ指切りね。ウソついたら針千本だからね」
「はい。ここで梅乃さんの帰りを待ってます。お仕事が終わったら、また一緒にお買い物に行きましょうね」
「約束よ」
小指を絡めて指切りをした。
ウソにウソを重ねている。梅乃の嫌いな「世界」の一部に、トモコもなったのだ。
有史以来、人類は敵とみなした存在に対し、暴力を行使するか、あるいは金品を没収する形で決着をつけてきた。それは二十一世紀になったいまでも変わらない。ほかに方法がないのだ。そして今回の敵は、金で解決できるタイプではない。
(続く)




