オン・ユア・マークス
世界はしかし、あまりに気を抜いていた。
ある晴れた朝、三郎は近所をジョギングをしていた。まだ朝の六時だから、通勤する会社員の姿もほとんどなかった。
代わりに見かけたのは検非違使の特殊車両だ。猿ぐつわをされた野良スクリーマーが、檻にしがみついて暴れていた。白いワニのような胴体に、人間の手足をつけたような妖精だ。最近かなり数を減らしていたはずだが、まだこんな住宅街にいたらしい。
三郎はしかし気にせず、自分のペースで走り抜けた。春の朝の空気はじつにうまい。
帰宅してテレビをつけると、緊急ニュースが流れていた。
「アメリカ政府の発表によりますと、日本人とみられる武装集団が巨人を人質にとり、敷地内に立てこもっているとのことです。いまのところ映像はなく、あくまで目撃情報のみとのことで、アメリカは専門の調査チームを派遣して事実関係を確認中とのことです。日本政府も実態を把握しておらず、現在対応に追われています。なお、犯行グループからの声明などは出されておりません」
官邸前のアナウンサーが原稿を読み上げている間、ワイプで司会者が露骨に不快そうな顔を見せていた。
テレビは「神の子」という表現を避け、必ず「巨人」と伝えてきた。既存の宗教に対する配慮であろう。そのせいもあってか、視聴者にとって彼らは「希少な巨人族」くらいの認識でしかなかった。もちろん希少ではあるにせよ、しかし話題になったのは最初の数ヶ月だけだ。新大陸ブームも一年もたなかった。
それよりも、武装勢力が「日本人」ということのほうが彼らには大事らしかった。
「なにが目的なんですかね? これがホントなら、同じ日本人として恥ずかしいですよ」
お笑い芸人が真顔でジョークをカマした。
三郎はノートパソコンを開き、ネットを覗いてみた。
「ジャアアアアアアアアアップ!」
「特定マダー?」
「日本人を名乗ってる外国人じゃないの?」
「もう戻ってくんな」
「新大陸って誰の土地でもないんでしょ? 何が問題なの?」
「射殺しろ。日本の恥だ」
ニュースサイトのコメント欄は平常運転だ。
ナンバーズとしては、こういう事態が起きる前に神の子を始末しておきたかったはずだ。しかし事件が起きる前に手を出してしまえば、それこそが事件となってしまう。後手に回らざるをえないのだ。この勝負、事件を望むテロリストに利がある。
ナインは心中穏やかでないはずだ。そう思いつつスマホを手に取ると、何件もの着信があった。電話をする気分でもなかった三郎は、メッセージにだけ目を通した。
>緊急事態だ、今すぐ来てくれ
内容も告げずこれだけ。
先にニュースを見ていなければ完全に無視していたところだ。
窓ガラスの業者は昨日来たから、今日は特に予定がない。ナインに言われるまま行ってやってもいい。しかし行ったところで何人集まることやら。
コップの牛乳を飲み干し、三郎は深呼吸をした。スズメが鳴いている。
仮に神の子が暴走すれば、東京に出てくる可能性があるという。そうなればスズメたちは死ぬ。ジョギングの途中で見かけた猫も。よく行くスーパーも、コンビニも、本屋も、すべてがなぎ倒されるだろう。まだ開花していない桜並木さえ。春の穏やかな気配は、一瞬で破壊される。
三郎を生かしているこの社会は、深刻なダメージを受けることになる。
正義のヒーローになりたいわけじゃない。しかし生活を壊されるのは、たしかに不快だった。窓ガラスも新調したばかりだというのに。
「よし、行くか」
テロリストを殺すついでに神の子も殺せば、罪らしきものは全部そいつらになすりつけることができるだろう。少なくとも参加賞で一千万もらえる。
*
六本木のマンションには、予想よりも人が集まっていた。
「ごきげんよう、思ったよりお早い到着ですわね」
朝から完璧に着飾った黒羽さやかが、皮肉めいたジョークとともに紅茶をすすった。大仕事だというのに、ひどく落ち着いている。
三郎は冷蔵庫から勝手にバドワイザーを取り、ラッパ飲みし始めた。
「学校はどうしたんだ?」
「お休みに決まっているでしょう。わたくし、もうナンバーズ・サーティーンなんですもの」
「それで? もう行くのか?」
この言葉はナインへ向けられた。
そのナインは厳しい表情だ。
「もう少し待ってくれ。関係各所と調整中だ」
「そうか」
部屋にはトモコとセヴン、それにテンとイレヴンがいた。計七名。急な招集にしてはよく集まったほうだろう。
三郎がソファに腰をおろすと、トモコが不安そうに口を開いた。
「三角さんと連絡がとれないそうです」
「そういや出産の世話してたんだっけ?」
もし交戦したとすれば、殺害された可能性もある。妖精というのはそんなに強くない。三角自身も再生能力こそ高いものの、これといった技は持っていない。
ナインにとってはかなり気になる出来事だろう。しかし彼は慌てた様子も見せず、ただ関係各所からの連絡を待っていた。
リビングの大型テレビは、朝と同じニュースを繰り返していた。新たな情報もないまま、何度も何度も同じことばかりを言い続けている。気の毒なことに、マスコミに囲まれた官房長官は、なにを聞かれても「その件は現在調査中です」としか言えなかった。
調査チームを派遣して以降、アメリカからは特に音沙汰がなかった。専門チームを統括しているとかいうデイヴィッド・エンジェル中佐が所見を述べていたが、三郎にはちんぷんかんぷんであった。
「なあ、セヴンさんよ。あんた情報屋だろ? なんかないのかよ?」
これにセヴンは三白眼の目を細め、チロチロと舌を出した。
「知ってることは全部ナインさんに教えたわ。あらためて聞きたいなら金払いなさいよ」
「金、金って、キンタマもねーくせしやがってよく言うぜ」
「そっちのタマはあるわよ失礼ねっ! LGBTいじると炎上するわよ?」
「知ってるぞそれ。たしかベーコン・レタス……」
「違うっつーの」
「なんで急にメシの話なんかしたんだ?」
「これは一杯食わされたわね。ってなに言わせんだコラ」
ペシリと頭を叩かれた。
「なんだよ痛ぇな。なにも叩くことないだろ」
「いまのでタダにしてあげる。けど、よく聞きなさい。驚くべきことに、この情報屋でさえロクに情報を掴んでないのよ。なにせ他界は管轄外だからね」
「ま、そうだよな。情報掴んでたら高値でグイグイ売り込んでくるはずだし」
「ホント生意気なガキねあんた」
言動はガキであるが、三郎はすでに成人している。今年で二十二だ。
セヴンがそっぽを向くと、代わりに巫女服の女が口を開いた。
「六原さん、現場にはお姉さんもいるかもしれません。もしご希望であれば、私たちで対応します。しかしそれを望まぬのであれば……」
ナンバーズ・テン。卜筮長の名草梅乃だ。三郎と同じ二十二歳。あまり会話を交わしたことのない相手だ。
三郎は、しかし素直に感謝する気持ちになれた。
「ありがとう。できれば一対一で勝負をつけたいが……。ま、チームで動く仕事だからな。ワガママを言うつもりはない。どっちにしろ、混戦になったら目の前のヤツとやるしかないわけだし」
「それでも、可能な限り協力はするつもりです」
「よろしく頼む」
しかし隣にいたさやかが、ぐっと三郎の服の裾を掴んだ。
「戦わないという選択肢はありませんの?」
「ない。そんなつもりなら、そもそも現場に出てこないだろうしな。覚悟はとっくに決まってる」
ニュースに変化があったのはそのときだった。
「えー、どうやら新たな動きがあったようです。現地からの映像が入りました。V出ますか? 出ない? 出る? はい。それではご覧ください」
スタジオも混乱しているようだった。
映し出されたのは他界の映像。
複数のヘリから強烈なスポットライトが照射され、神の子のいるドーム周辺が照らされていた。そこには、さながらハロウィンの渋谷駅のように、なぜか無数のスクリーマーのひしめき合っていた。しかし攻撃のためではなく、むしろドームを守っているかのようだ。
「ご覧頂いている映像は、午前十時過ぎの現地の映像です。たくさんのスクリーマーが見えますね。ドーム内部の様子は分かりません」
三郎のスマホが鳴った。椎名からのメッセージだ。
>ニュース観てる?
>あのスクリーマー、全部操られてる
>黒羽アヤメが実験してたヤツだ
黒羽がスクリーマーをなにかに使っているという話はあったが、まさかこんなことになっていたとは。
もしスクリーマーがブラックアウトの制御下にあるのなら、ドームに近づくためにはあれらすべてと戦わねばならない。
かと思うと、スクリーマーたちが一斉に吠え始め、サイレンのような音を出した。映像を観ている三郎たちに影響はないが、遠くのヘリコプターが一台墜落を始めた。おそらくパイロットが意識を飛ばされたのだろう。撮影者も英語で口汚く罵った。
「これは事実なのか?」
三郎は、さやかにスマホの画面を見せた。
彼女はしばらく黙読していたが、やがて目を閉じ、うんざりと嘆息した。
「お婆さま……」
「責めてるわけじゃない。なにか対策があれば教えて欲しい」
「いいえ、存じませんわね。確かに祖母は、スクリーマーの声についても研究していましたが……。おそらく、なんらかの音声を発生させ、それで操っているのではないかと」
となれば、その装置を破壊すればスクリーマーとの戦闘は避けられるかもしれない。
問題は、こうなってしまった以上、ナンバーズとブラックアウトだけの問題ではなくなったということだ。いま現地にはアメリカのチームがいる。もし交戦を始めれば、三郎たちが出動する前に終わる可能性がある。
なにやら電話を受けていたナインが、険しい表情でリビングへ戻ってきた。
「アメリカは撤退するそうだ。日本政府に任せると」
これにセヴンが目を細めた。
「それで? 日本政府は私たちに任せるって?」
「そう言っている」
いくら在庫のあまっているアメリカとて、自国に損害を出したくはないのである。火薬や燃料だけでなく、戦死した兵の手当にも金がかかる。のみならず、自分たちの戦闘で神の子を殺したとあっては、世界中に恥をさらしてしまう。人質ごと始末するのは得意だが、そうでない戦術は彼らの不得手とするところであった。
日本人が問題を起こしているのだから、その始末も日本に任せた、という体裁を作ることもできる。もし日本人が神の子を殺したら、被害者の顔をしてチクリと皮肉を言えばいい。
その後、来客があった。ナンバーズのメンバーではない。キャサリンだ。ペギーとサイードを引き連れている。
「ハロゥ、ナンバーズ。ってなんだか少ないわね。あなたたち、十三人いたんじゃなかったの? まあいいわ。機構からも援軍を出すことにしたから、ありがたく使って頂戴。もし作戦が成功したら、うちとの共同作戦ってことにするのよ。もちろん失敗したらなにも言わなくていいわ」
現れるなりこの調子だ。
セヴンも眉をひそめた。
「どこにでも首を突っ込んでくるわね。好奇心は猫を殺すって言うわよ」
「知らないの? 猫は八回まで死んでもセーフなのよ」
「だったらとっとと九回死んで欲しいわね。たったの三人で援軍気取り?」
「誤解してるわね。三人じゃないくて二人よ。私は参加しないもの。というのはイギリスン・ジョークで、ちゃんと黒服軍団もつけるわ。ナインさん、神の子の肉片が手に入ったら、一番デカいのをこっちに回しなさいよね。分かった?」
肉片ということは、ミンチになる前提である。機構でさえ生け捕りをあきらめているということだ。
ナインはしかし困惑顔だ。
「一番デカいのはアメリカが持っていくに決まってるだろう。その次が中国、ロシア、イギリス、フランス、そして日本。機構はそのあとだ」
「兵隊も出さない連中を優先するの?」
「その代わり、資金と装備の援助がある」
「ショー・ザ・フラッグ!」
「俺に言うな」
キャサリンはしかしフッと不敵な笑みを浮かべた。
「装備ならうちからも出せるわよ。その名もヘパイストス! 敵の能力を超長距離から封じることができるわ。有効射程はワン・マイル。技術者とセットで貸してあげる」
それはかつて、ザ・ワンの動きを封じるために開発された装備だ。いまのところ米軍でさえ保有していない。
彼女はこの上ない得意顔で続けた。
「効果は実証済みよ。ご希望とあらば、空をなぎ払うことだってできるわ」
青き夜の妖精をけしかけるという山野の作戦は、すでにナインからキャサリンへも伝えられていた。ヘパイストスがあればそれも可能ということだ。空を覆っている妖精たちの屋根は、物理攻撃には強いが、アンチ・エーテルの前には無力だ。妖精たちはこの挑発を無視できないだろう。
空をつついている余裕があるかは不明だが、戦略の幅が増えるのは間違いない。
ナインも笑みを浮かべ、乱れてもいないネクタイを整えた。
「まいったな。機構の優先順位をあげないといけない」
「ただのカルトじゃないって理解してくれた? うちは科学も取り入れたカルトなのよ」
キャサリンは言いたいことだけ言った挙げ句、さっさと帰ってしまった。
ナインはしかし、まだ動こうとはしない。なにかを待っている。電話が来て、彼はリビングから出ていった。
(続く)