空の器
ややすると、ヒステリックに喚き散らしながら黒羽麗子が戻ってきた。
「信じられない。どうしてこんなことになるの? 話し合いで解決できないワケ? みんな類人猿にでもなったの?」
同行しているナインは、さすがに困り顔だ。
「ま、実力組織なんてのはどこもこうだろう。そのための力なんだから」
「それ、どっちのこと言ってるの? 検非違使はともかく、黒羽は実力組織じゃないわ」
「似たようなものだろう」
「話にならないわね」
麗子は憤慨しつつ椅子へ腰をおろし、それはそれは深い溜め息をついた。
ナインは部屋の片隅にて無言の着席。完全にひとりの世界に入ってしまい、まるでロダンの「考える人」だ。
事情を知らない三郎にとっては、ただ扱いづらいだけの雰囲気となった。空気を読まないという長所を活かすならいまだろう。
「で、婆さんはまだ生きてるのか?」
「ええ、生きてるわ。死んでなくてごめんなさいね」
「いや、謝るのはこっちのほうだ。仕事をミスったわけだからな」
「それで? もう元気になったワケ? だったらここから出ていっていいわよ。このままだと精神衛生上よくないから」
「そうするか」
怪しい薬のおかげで、すでに左肩の穴は塞がっていた。寝ていても意味がない。
スジャータは寒そうにガタガタ震えていたが、おそらく副作用によるものだろう。ペギーが付き添って看護している。
診察台から降りると、ナインも立ち上がった。
「出るのか? 少し話をしないか」
「はっ? まあいいけど」
ナインはこの場にいたくないだけだろう。三郎はしかし恩を売ってやることにした。ちょうど話し相手が欲しかったところだ。
*
ふたりは、図々しくも空中庭園へ向かった。
部外者で、しかもこの騒動の発端だというのに。
カフェは無人だったから、ことわりもなく席を使った。ウォーターサーバーからは水が出た。さすがにカフェだから水道水ではなかった。
「ビールでなくてすまない」
「気にするな」
グラスには清冽な水が満ちていた。
まだ夕刻ですらないのに、深夜のような暗さだ。カフェや庭園に非常灯はついているが、それ以外は漆黒であった。本当に浮いているように見える。
しばしグラスの水をやってから、三郎から切り出した。
「あの三角ってヤツ、行かせてよかったのか? 神の子をどうこうするんだろ?」
「やむをえまい。まだこちらも準備が整っていないんだ」
「準備? あんなヤツ相手に、満足行く準備なんてできるのか? どこかで見切り発車しないと、いつまで経っても終わらないと思うぜ」
この言葉に、ナインは顔をしかめた。
「君にしてはまともなことを言うな」
「もっと素直に褒めろ」
ナインはしかし鼻で笑い飛ばし、こう続けた。
「実際にどうなるかは不明だが、主要国との交渉は進めている。主要国というか、おもにアメリカだが。彼らは意外と俺の話を聞いてくれてね」
「はっ? また大物ぶってるのか?」
「そうじゃない。もともとアメリカもそういう考えだったんだ。他界のあれこれについて世界で奪い合うより、協力して研究したほうが効率がいいからな。国際宇宙ステーションみたいなものだ。争い合っても費用が余計にかかるだけだし、そうなると税金を納めてる国民たちも納得しない。しかし協力すれば、費用は各国の分担になる。どうせ一国で研究したところで、その成果はすぐ流出してしまうんだからな」
「すまん。分からん。誰が得するんだ?」
「全員だ。金がかからなくて済む。その共同研究に機構もねじこんだ」
「けどガキを殺すんだろ? そのことについても納得したのか?」
するとナインは遠方へ目をやった。ただ闇が広がっている。
「できれば生きたまま、という話だが。それが難しいことは誰もが理解している。いいか。あのまま神の子が解き放たれれば、間違いなく俺たちの世界に出てくる。そのときは、街がひとつ吹き飛ばされることになるんだ。特に大田区。あそこは穴が開きっぱなしだからな。最初に破壊されるのは東京だろうと言われている」
「俺のアパートが……」
「それだけじゃない。君の好きなアニメショップもメイド喫茶も、すべてが消えてなくなる」
「引っ越そうかな」
「違うだろう。止めるんだ、俺たちで。生け捕りなんて悠長なことは言っていられない」
「金は?」
「一千万払うと言っただろ」
「思ったんだが、黒羽麗子でさえ二千万なんだぜ? その親は五千万だ。一千万はやっぱ安すぎる気がするぞ」
これにナインはやれやれと肩をすくめた。
「君は足し算しかできないのか? 引き算は?」
「はっ? 何桁の? 筆記用具があれば引き算くらいできるが?」
「いや実際に計算する必要はない。例え話だから。しかし考えてみてくれ。街が破壊されれば、君の契約しているアパートも消えてなくなるよな?」
「そりゃまあな」
「そして行きつけの店もすべて消し飛ぶ。それらすべてを算定してみろ。とんでもない被害額だぞ」
「それは俺が払う金じゃない」
「引っ越しにも金がかかるし、行った先での生活基盤も築かなくちゃならない。だいたい君は、まっとうな仕事に就けるのか? 組合もなくなるんだぞ?」
「そしたら地元で農家やるよ」
「アパートが壊れるということは、君の溜め込んだコレクションもすべて破壊されるんだぞ。録画した番組さえな。それらすべてを諦めて、無人の里に戻って農家をやるのか? 心の支えはあるのか? 東京が滅んだら、アニメなんて放送されなくなるんだぞ。毎日毎日、朝から晩までニュース番組だ。かといっって溜め込んだはずの録画は、そのときすで失われている。君はその生活に耐えられるのか?」
「ぐっ……」
里にも無線は飛んでいるから、ネット環境はある。しかしだからといって、それですべての趣味を代替できるわけではなかった。農家をやるのは、もう少し老成してからでなければならない。
三郎は声を絞り出した。
「オ、オンライン配信が……ある……」
「決済のシステムが生きていればいいな。あるいは配信元が生き延びていればな。それらの機能がどれだけ東京に集中していると思ってるんだ? すべてが失われるんだぞ」
「クソ、どうすれば……」
懊悩する三郎に、ナインは微笑で応じた。
「簡単さ。戦うんだ。そのための友人もいる。俺たちナンバーズとなら、それも可能だ」
「ナンバーズ……」
「もう分かっただろう、ともに戦うべきだってことを。世界を守るんだ。べつに英雄になれって言ってるんじゃない。自分の生活を守ること、大事なものを守ること。そのための戦いだ。ひとりひとりの力は微力でも、みんなが自分たちの土地を守れば、おのずと世界も救われる」
「ああ、どうやらあんたの意見が正しいようだな。俺が間違ってたよ。目がさめた」
じつのところ、神の子が東京に出てくるかどうかはまったくの未知数なのだが、そんなこと三郎には考えもつかなかった。口車に乗せられたと言っていい。
神の子がザ・ワンの痕跡をたどれば、大田区に行き当たるのは間違いない。しかし妖精花園さえ作れる場所ならば、どこにでも巨大ワームを用意できるし、そいつで神の子を誘導することも可能だ。問題は、その妖精花園を作るにもかなりの資金と設備が要るということだが。少なくとも東京の復興よりははるかに低予算で済む。
*
その後、超越者は約束通り帰還用のワームを用意した。
だから人間たちは無事戻れた。しかし庁舎は置き去りだ。微細なコントロールが効かないから、庁舎をもとの位置には戻せないと超越者は言う。確かに建物同士がぶつかれば大きな被害が出る。
というわけで、検非違使は庁舎を失った。
三郎の知ったことではないが。
数日後、ナインの自宅マンションにふたたびナンバーズが集められた。参加したのはナイン、アベトモコ、そして六原三郎の三名のみ。ナインは完全に求心力を失っていた。
「哀しいことに、世界の歯車はときおりこうして噛み合わなくなる。俺たちの意思とは無関係にね」
「……」
この虚しい演説に、三郎もトモコも返事さえできなかった。
三角は神の子の世話をしているから参加できない。しかしその他の面々は、仮に暇でも参加するわけがないのだ。またナインの正義感を強要されるのは分かりきっている。完全に自業自得だ。というより、呼んだら来ると思っている時点でナインもおかしい。もしかしたら彼は、じつのところ救いがたいバカなのかもしれない。
彼はすでに会議をするつもりもないらしく、客のもてなしにシフトしていた。
「ベルギー製のチョコがある。食べたまえ」
三郎はビール、トモコは緑茶を飲んでいた。そこへチョコレートをぶっこんでくるのだから、さすがのナインもやや動転しているようだった。
しかしいい機会だ。三郎は皿に盛られたチョコをつまみ、こう尋ねた。
「なあ、トモコさんよ。エネルギーの壁を通過するとき、山野さんに会ったんだが。あれはなんだ? 夢なのか?」
トモコは目を細め、茶をすすった。着物姿のオカッパだから、和人形のように見える。いやコケシだ。かつて三郎の実家にも飾られていた。
「夢ではないと思います。あそこには魂が集まっていますから。ただし、どれも空の器です。私たちの記憶に反応して、一時的に人の形をとるに過ぎません」
「それはつまり……じゃあ俺が見た山野さんも、俺の記憶の産物ってことなのか?」
「おそらくは」
父や母、それに妹は記憶の産物と言われても納得できる。三郎が幼少期に聞いたような言葉しか発しなかった。しかし山野は違う。やけに饒舌だったし、三郎の知らないことまで喋っていた。あれも妄想だというのだろうか。
「どうも組合の杉下ってのが、そいつらと会話しているみたいなんだが」
「ああ、杉下さんですか……。黒羽先生の投薬を受けて、早い段階から覚醒していましたね。けど、どうでしょう。あの人の場合、いろんなお薬を使ってますから……」
「じゃあやっぱイカレてるだけってことか」
しかし気になることは気になる。このあと冷蔵庫にあるビールを飲むだけ飲んだら、組合に行って確認してみてもいい。
*
組合の経営するバー「ニューオーダー」は、いつもより賑わっていた。いや、実際には静まり返っていたが、頭数だけは普段より多かった。
それもそのはず。庁舎を失った検非違使の一部が、なぜか当然のように居座っていたからだ。虎のマスクの川崎源三に、一班と二班。実行課のメンバーがフルで揃っている。
三郎は特に用事もないから彼らをスルーし、カウンターでビールとつまみを買って杉下のテーブルへ向かった。
杉下耕介は、幻聴と会話しながら金属バットを振りまくる危ない組合員だ。チームで動くこともあるが、大抵はひとりで飲んでいる。
「よう、少し時間あるか」
三郎の言葉に、杉下は力なく顔をあげた。
「お、お前は……えーと……たしか、俺の親戚にお前のようなヤツはいなかったような気がするんだが」
「親戚じゃない。六原三郎だ。前に何度か会ったよな」
「思い出した。数秒ド忘れしてただけだ。で、なんだ? 仕事か? 俺はいま失意のどん底にいる」
もともと神経質な性格で、愛想のいいほうではない。しかしいまの杉下はひときわやつれていた。なにかに取り憑かれたような顔で、目の下にはクマさえある。
「なにか問題が?」
「じつはだな……。いや、その前に、俺がカナコとの楽しいトークを生き甲斐にしてるのは知ってるよな?」
「お、おう……」
「たまに謎のおっさんが混ざってくるが、そいつにも慣れてきたところだ。おっさんはハムスターに変形する。そうするとカナコも笑うんだ。なにが面白いのか俺には分からないが……。だって意味不明だろ?」
「おう……」
すると杉下はカッと目を見開いた。
「なのにだ! 最近、山野を名乗る脳味噌が、このトークに混ざって来やがる。興醒めだろ。ハムスターもおっさんに戻るレベルだ。しかもなんだか……難しいことを言ってきやがる。だいたいなんで脳味噌なんだよ。キモいだろ。俺はともかくカナコがさ……」
山野が脳だけになった事実を、杉下は知らないということか。なのに脳だけで出て来るということは、やはり「会っている」のかもしれない。あるいはどこかで小耳に挟んだ情報が深層心理にあったか。
三郎はミックスナッツをすすめた。
「まあ食ってくれ。それで、山野さんはなんて言ってるんだ?」
「基本的にキャバクラとビールがどうのって話だな。カナコの前でそういうこと言うのヤメて欲しいんだが。あ、あとアレだ。空が高いから屋根がどうとか……。ポエムなのか? 俺はねぇ、そういうの全然ダメなんだよ。小学校で俳句の宿題が出てさ、松尾芭蕉のをそのままパクったくらいなんだから。いや待てよ。そうなると俺が松尾芭蕉なのでは……」
杉下が山野と会話をしている可能性は、ある。しかしまずは、杉下の言葉を翻訳する人間が必要だ。このままでは会話が成立しない。
ふと、隣のテーブルから手招きされているのに気づいた。たまに杉下と仕事をしているマリーだ。同席には星もいる。渡りに船だ。
三郎はナッツを置いたまま立ち上がった。
「ありがとう、杉下さん。また聞かせてくれ」
「松嶋や、ああ松嶋や、松嶋や……」
聞いていない。
しかもそれは松尾芭蕉の句ではない。
(続く)