新秩序
その世界には、長らく風がなかった。
太陽もなかった。
いまだって空が回復したとは言い難い。夜を好む一部の妖精たちが、世界を闇で覆い尽くそうとステンドグラスの「屋根」を設置しているせいだ。
約半年前、この隠世へ乗り込んだ人類は、妖精たちを撃ち落とそうとムキになって戦闘機を飛ばした。おかげで空は、まるで戦争中のようなやかましさとなった。大気を切り裂くようなジェットの噴射音や、けたたましいプロペラ音がひっきりなしに響いている。
かつては静謐を閉じ込めたような、本当になにもない世界であったのに。
人類に「発見」されたこの領域は、一部からは「他界」と称された。
しかしアメリカはこれを「新世界」と呼称したし、西側諸国も日本もそれにならった。
だからこの世界は、いまや単に「新世界」と呼ばれている。
ここは五千年前、現代人の住む地上とは切り離された神話の世界だった。だから、神話の生き残りがいる。新世界ではなく、旧世界なのだ。
そこへ人類は科学を武器に乗り込み、開発を始めていた。
いま六原三郎はその地で、敵と対峙していた。
敵――。秘密結社ナンバーズのファイヴ。餌食長。死体から死体に乗り換える異形の存在。今日は現場作業員の死体に寄生している。通称「腐敗の王」。蟲喰み。
対する三郎は風使いの一族だ。真空波を操り、敵をバラバラに切り刻む。自称「最強」。
熱を感じるほどのライトに照射されているせいで、コンクリには強烈な影が落ちた。
ここは再開発が始まったばかりの「ドーム」前。かつてアメリカが開発しようとしたが撤退し、代わりに日本政府が調査に乗り出した。三郎はその下請けの下請けだ。
「六原三郎、また我の前に立ちはだかるつもりか」
ファイヴは微苦笑を浮かべた。
両者は因縁浅からぬ仲である。六原の一族は、かつてファイヴの策で虐殺された。三郎はその生き残りだ。何度か対決してきたが、決着がつかず今日へ至っている。
三郎も不敵な笑みで応じた。
「お前のそのツラも見飽きたぜ、と、言いたいところだが、毎度毎度ツラを変えやがるからな。見てて飽きないよ」
「不快な躯喰みよ、死ね」
ファイヴが腕をふるうと、コンクリ上を黒いものが駆けた。びちびちみちみちと不快な音を立てたそれは、腐敗の波であった。
避ける三郎は素早い。
風の力を使って駆けるから、人間のスピードをはるかに凌駕する。あっという間にファイヴの背後へ回り込み、まずは真空波で右腕を落とした。
「ちょこまかと……」
ファイヴが振り返り、腐敗の波を放ったときには、三郎はすでに距離をとっていた。
「どうした? 動きが鈍いぞ」
「今回の宿主はハズレということだ。こんなに腹が出ているのではな」
ファイヴが寄生しているのはでっぷりとした中年男性だ。機敏そうには見えない。
三郎は鼻で笑った。
「いいのか? 因縁の対決だぞ? このままじゃ秒殺だ。ま、もったいないから秒じゃ殺さないけどな。お前、両手両足を失ってから命乞いするハメになるぞ?」
「貴様のような下賤に命乞いなどせぬ」
「そうか」
ヒュッと風を切って駆け、三郎はすれ違いざまファイヴの左腕を落とした。
切断された腕は半回転しながら地面に落ち、コンクリに赤い模様を描いた。野球場のナイターのような明るさだから、血液もやけに赤々と映えた。
「それで? お前はまだ戦えるのか?」
「……」
ファイヴは表情こそ変えなかったものの、口をつぐんだまま返事さえしなかった。
すでに両腕を失い、切断面から粘っこい血液をしたたらせている。あるいは足からも腐敗の力を出せるのかもしれないが、そんな余力があるようには見えなかった。
「ま、戦えなくてもやるけどな。こっちは家族のカタキを討たなきゃならない。妹のぶん、おふくろのぶん、親父のぶん、爺さんのぶんと……あとはまとめて親戚一同のぶんだな。腕ごと落とすんじゃなく、指一本ずつにすればよかった」
とはいえ、三郎にはもはや家族のカタキを討つ気などなかった。感傷はすでに薄い。金になるならやるし、ならないならやらない。ビジネスだからやっているだけだ。
そもそも、今回はファイヴと交戦する予定でさえなかった。ドームを調査するため、組合の木下を案内するだけのシンプルな仕事のはずだった。それが、なぜか敵に遭遇した。だから戦っている。
「あ、分かった。じゃあちょっとずつ切り落としていくか。たしか、そういう拷問あったよな。だが待てよ。時給換算するとコスパが」
「貴様、自分の心配をしたほうがいいのではないか?」
「はっ?」
三郎はぽかーんとなった。
すでに勝負は見えている。敵の援軍が来る気配もない。こんな状態で、逆転の秘策でもあるというのだろうか。
ファイヴはニヤリと笑った。
「ただの狂犬だな。戦いが始まれば、目先の敵にしか注意がいかなくなる。おかげで我の放った腐敗の力が、後ろの女に当たったことにさえ気づいていない」
「!?」
三郎が振り返ると、そこにはうずくまった女の姿があった。
木下だ。組合の非戦闘員である。彼女がドームへの調査へ行くというから、三郎はボディーガードを買って出たのだ。それが、こんなことになっている。
ファイヴはかすかに嘆息した。
「あのまま放っておけば、ヤツの体は腐敗する」
「どうにかしろ」
「それが人にモノを頼む態度か?」
完全に勝ち誇った表情だ。
三郎はふたたび駆け、真空波を水平に放った。直後、両足をその場に残し、ファイヴの胴体は仰向けに落下した。
「我を殺せば、その女も助からんぞ」
「そこをなんとかしろ」
「バカか貴様は。我がタダで手を貸すわけがなかろう」
「次は首を刎ねる」
「やってみよ。あの女は永遠に助からん」
木下は苦しそうに脂汗を浮かべ、ドス黒くなった右足を抱えてうずくまっていた。過去には、この腐敗が原因で足を失ったものもいる。いや、足だけならまだいい。放っておけば木下は死ぬ。
木下は、三郎にとって特別な女だった。
こんな業界で働いているくせに、血を見るのがなにより苦手で、死体を見ればすぐにへたりこんで役立たずになった。それでもいつも気を強く持ち、現場に出てくる。
血の気の多い組合員の中には、木下をバカにするものもいた。邪魔だとか、消えろとか、心無い言葉を浴びせるものもいた。それでも木下は、けなげについてきた。
そんな木下を、三郎は心の中で応援していた。非戦闘員なんてたいした金にならないはずなのに、転職しようと思えばいくらでもできるはずなのに、木下はあきらめなかった。手に負えないデカいものと戦っているように見えたのだ。あるいは弱い自分自身と戦っているように。
なんとかしてやりたかった。
同情といえば同情かもしれない。しかし三郎が好きになったのは、なによりそのひたむきさだった。
こんな気持ちになったのは、よちよち歩きを始めた妹を見たとき以来だ。
三郎、殺人業に感傷を抱かぬわりに、こういう一生懸命さには弱かった。弱い人間がもがいているとき、手を貸したくなる。
かつて自分がそうされたように。
三郎は闇夜を見上げ、大きく呼吸をし、そしてこう告げた。
「分かった。彼女を助けて欲しい。そのための条件はなんだ?」
これにファイヴはふんと鼻を鳴らした。
「腐敗を抑えるためには、我が寄生する必要がある。つまりあの女の体を、我が使うということだ」
「お前……」
三郎は首こそ刎ねなかったものの、ファイヴの肩口を大きく切り裂いた。骨が見えるほどの裂傷だ。
ファイヴは、しかし顔をしかめもしない。
「ふん。であれば、最初の一撃を貴様が受ければよかったのだ。そうすればあの女が苦しむこともなかったろうに。ま、貴様を殺したのちは、あの女も同様にいたぶるつもりであったがな」
三郎はしゃがみ込んで襟首を掴み、拳でその横っ面をぶん殴った。
「分かるか? 俺はいま、血管がキレそうなほど頭に来てる。俺は木下さんと結婚して、家庭をもうけるつもりだったんだ。なのにお前が彼女に寄生したら、お前と結婚するハメになる」
「それは吐き気のする提案だな」
「ほかになにかないのか? 脳味噌だけで生きてるヤツもいるんだ。腐ってる部分さえ切り捨てれば、なんとかなるんじゃないのか?」
「その方法で助かった女が、そういえば検非違使にいたな。あやつは自分の刀で足を切り落とした。貴様の真空波もその役に立つかもしれない。だが、ひとつだけ忠告しておくぞ。検非違使の女は、すぐさま搬送されて黒羽麗子の手当を受けた。だがここは他界だ。医者などおらぬ。足など落とせば、いずれ失血死するぞ」
「……」
三郎には医療の知識などないから、応急処置もできない。そもそも応急処置でどうにかなるレベルでもなかろう。
「彼女が死ぬまであとどのくらいだ?」
「腐敗が脳に到達するまで、約半日といったところだな。それまでは苦しみながら生き続けることになる」
「頼む、一緒に考えてくれ。お前と結婚したくない」
冗談で言っているのではない。三郎は本気だ。木下のボディーガードという話だから、今日だってたったの三十万でこの仕事を受けた。
さすがのファイヴも苦笑だ。
「なぜ我が考えねばならぬのだ」
「彼女は非戦闘員だ。それを攻撃したのはお前の責任だろう」
「ふん。非戦闘員など、組合が勝手に言っているだけだ。戦場に立つものは例外なく死の可能性にさらされる。その覚悟がないのなら、安全な場所にでもいることだ」
「頼むから」
「選択肢はふたつしかない。我にあの女の体をよこすか、あるいは腐って死ぬのを待つかだ」
ここへは組合のハイエースで来た。車は輸送するのが専門だから、作戦が始まる前には撤収するし、ふたたび安全が確保されるまでは迎えにも来ない。
ふと、青いエーテルを噴きながら少女が舞い降りた。
輝くような金髪をなびかせた妖精。名は三角。ナンバーズ・スリー。妖精長。白いワンピースを着て、やわらかな裸足でコンクリートの床を踏みしめている。
「取り込み中、失礼します」
「失礼するな。失せろ。殺すぞ」
三郎は殺気立っていた。
が、プシケは無表情。舌戦に乗るタイプではない。
「六原さん、ファイヴを殺害しないでください」
「はっ?」
「彼は……いえ、彼女かもしれませんが、とにかくファイヴは、いま我々の計画に欠かせない存在なのです」
交渉のカードが増えた。
三郎はなるべく表情を変えず、こう応じた。
「じゃあ殺さないでやってもいい。その代わり、木下さんを助けてくれ。あんた、空を飛べるんだよな? 医者のいるところまで彼女を運んでくれないか」
「人を運んで飛ぶ力はありません。ただし、私の足なら提供することができます」
「足?」
「木下さんの足を切り落として、代わりに私の足をつけるのです。そうすれば、彼女はすぐにでも歩けるようになります」
「それはいいことを聞いた」
次の瞬間、三郎の真空波がプシケの左足を切り落としていた。
プシケは背面からエーテルを噴き、倒れないよう浮遊しながらも片眉を釣り上げた。
「彼女に必要なのは、逆の足のようですが」
「そうか。よく確認してなかった」
真空波でもう一方の足も切断。切り裂かれたワンピースごと、やわらかな足が地面に落ちた。
「切り落とすにしても、まず許可をとってから切るのがマナーでは?」
「時間がないんでな」
「傲慢ですね。やはり人類は殲滅する必要がある……」
プシケの苦言を無視し、三郎は右足を拾い上げた。
木下は苦悶の表情を浮かべ、呼吸を荒げていた。かなり発熱しているらしく、汗だくだ。
右足の腐敗は膝にまであがっていた。皮膚はドス黒くぶよぶよになり、壊死しているかのようだ。ところどころ裂けてもいる。
「木下さん、いま治してやるからな」
聞こえているのかいないのか、木下はかすかに首を左右に振った。もはや意識も朦朧としているのだろう。なのにすぐには死ぬこともできず、こんな状態が半日も続くというのだ。放っておくことはできない。
「少し痛むけど、我慢してくれ」
「……」
木下は返事をしない。
いや、返事を待つ気もない。
三郎は真空波を放ち、木下の右足を切り落とした。
*
プシケの足は、吸い付くように切断面にフィットした。拒絶反応を起こしている気配もない。
はじめは苦痛にうめいていた木下も、やがて呼吸を落ち着け、安堵したような表情を見せ始めた。回復に向かっているようである。
成人した女の体に、少女の足をくっつけるという荒業ではあったが。見殺しにするよりはるかにいい。
一方、プシケは間違って切断された左足をくっつけ、一本足で立っていた。その足元には手足のないファイヴ。異様な現場だった。
三郎はひとつ呼吸をし、彼らへ向き直った。
「いちおう礼を言っておく。だがなぜここにいる? このドームは、あんたらにとって重要な場所なのか?」
「……」
プシケは答えない。ファイヴも答えない。
三郎はぽりぽりと頭を掻いた。
「いいか? 俺たちは検非違使の依頼で調査に来たんだ。連中は成功するまで依頼を出し続けるから、次はもっとデカい戦力で来る。今度は生きて帰れないぞ。いちおうそれだけ警告しておく」
するとようやくプシケも口を開いた。
「私たちからも警告しておきましょう。人間たちは、ここへは近寄らないことです。お互いにとってプラスにならない」
「上には伝えておく。ただの挑発にしかならないと思うけどな」
「結構」
幼い顔立ちに似合わず、超越的な態度だ。
かつてこのドームには、一部から神と目される存在「ザ・ワン」が眠っていた。巨大な蛭子だ。しかしそいつは抗争に巻き込まれて死亡した。ここにはもうなにもないはずだ。
ともあれ、事実を確認している余裕はない。依頼は失敗だ。三郎は撤退せねばならない。
*
地上へ戻ると、木下はすぐさま病院へ搬送された。医者が言うには一命はとりとめたようである。
仕事に失敗したから報酬は手に入らないが、三郎にとっては不幸中の幸いであった。
*
疲れ果てた三郎がクソ汚い自宅アパートへ戻ると、世間はすぐさま新年を迎えた。
遠くから除夜の鐘が聞こえる。それに呼応する野良スクリーマーたちの遠吠えも。すぐさまサイレンが鳴り響き、対処のために検非違使庁が出動した。
せっかくのニューイヤーだというのに、少しもめでたい雰囲気ではない。
スクリーマーというのは、他界から来た「害獣」の一種だ。人間の体にワニのような頭を持った白い妖精である。その名の通り、ウーウー叫びながら人間を襲う。
彼らは半年前、警告もナシに地上へ飛び出してきた。
準備をしていなかった人類側はロクな対処もできず、大損害をこうむった。紛れもない災害だった。スクリーマーは政府から害獣と指定され、駆除の対象とされた。
その駆除のため、専門の省庁も置かれた。それが検非違使庁だ。もともと裏では存在していた機関であるが、コトがコトだけに今回は公然と設置された。おもに他界に関する行政を管轄する。
ともあれ三郎は、街の喧騒を遠くに聞きながら、缶ビール片手に録画したアニメを再生した。どこに野良スクリーマーが出現しようが、正式な依頼でない限りは対岸の火事である。殺したところで一円にもならない。
『20XX年、世界は神の炎に包まれた!』
その不謹慎なナレーションを発しているのは、三郎の愛好するアニメ「びょーどーちゃん」だ。これまでにも様々な風刺を連発してきたが、このネタではさすがに世間からの袋叩きにあい、ついに打ち切りとなった。いまテレビから流れているのは、問題となった最終話である。
スクリーマーたちの這い出してきた穴は、通称「ワーム」と呼ばれている。地上と他界をつなぐワープゾーンのようなものだ。大きなものが大田区の埋立地にひとつある。
日本政府からの要請を受けた米軍は、妖精駆除のため、そこへミサイルを撃ち込んだ。結果、埋立地は焦土と化した。だから正確には「神の炎」ではなく「ミサイルの炎」に包まれたのである。かなりの精度の高いミサイルであったらしく、座標から外れることなく正確に埋立地だけを焼き払った。
スクリーマー以外にもいろいろな妖精が出てきたのだが、それは日米の共同部隊が射殺した。神話の世界の異形も、高度な科学力で武装した人類の敵ではなかった。
この勝利を喜んだ各国は、逆に他界へと乗り込み、まるでケーキでも分けるように利益を切り分け始めた。他界には、未知の資源とメカニズムが眠っている。乗り込めば金になる。
三郎は、そういう連中の仕事を引き受ける賞金稼ぎであった。
軍隊が動くようなデカい仕事は回ってこない。来るのはもっと個人的な、局所的な仕事ばかりである。たとえば他界の調査の護衛とか、そういうものだ。
今日の仕事は失敗だった。
三郎の殺人技はプロフェッショナルだ。しかし味方を守ることにかけては、トーシロ同然であった。
テレビの中ではびょーどーちゃんが、平等を強要する「びょーどーチョップ」で人間と妖精をシバき倒していた。
(続く)