過去からの刺客
ナンバーズのごたごたがあってから、しかししばらくの間、三郎はなにごともない日々を過ごしていた。
なにごともない、というのは、仕事がないのとイコールだが。
ニューオーダーには顔を出している。組合員たちの噂も聞く。しかしこれといった動きも見られなかった。というより、現場で想定外のことが起きるのは日常茶飯事だったから、少しくらいの異常では話題にさえならなかった。
事態が動き出したのは、三郎が自宅にいたある晩だった。
アパートの窓を開き、網戸で過ごしていた。三月もなかばに差し掛かり、ゆったりと生暖かい空気が心地よい朧月夜だ。
缶ビールをやりながらノートパソコンでサイトを巡回する。三郎にとっては、心休まる贅沢な時間だ。
その楽しいひとときに横槍を入れたのは、歪んだチャイムの電子音だった。いや、それ以前に、このボロアパートでは、誰かが階段をあがればその音が全体に伝わる。
前触れもなくやってくる客にはロクなのがいない。
三郎は重い腰をあげ、警戒しつつ玄関へ向かった。ドアの向こうから伝わる気配はごく静かだ。どうせまた例の青村放哉か、あるいは黒羽さやかだろう。
内鍵をとり、ドアを開いた瞬間、しかし三郎は戦慄に総毛立つのを感じた。
事態を理解するより先に、体が反応した。体の奥の奥にある動物の部分が、命の危機を直感したのだ。
そいつは迷いもなく一直線に来た。
巻き起こったのは風だ。
三郎も、敵も、同時に風を使った。
そいつは庭木の手入れに使うような刈込鋏を手にしていた。凄まじいスピードでリビングに突入し、反転して三郎と対峙した。
「いや、待てよ……」
三郎はついひとりごちた。襲撃があるのはいい。しかし問題は、それをしてきた相手だ。さっきからずっと動悸が止まらない。
そんなはずはない。しかしそうとしか思えない。とはいえ――やはりそんなはずはない。
「姉貴なのか?」
「……」
そいつは答えない。
顔だけ見れば、幼少期の姉に瓜二つ。しかしあまりに小柄だった。背格好からは小学生としか思えない。
姉が若返ったか、あるいはどこかで隠し子を作っていたか、そのどちらかでなければ説明がつかないレベルだ。ただし、出会い頭に風をぶつけた感じでは、その扱いはかなり雑であった。
六原同士が戦えば、真空波を打ち込んでも相手の風に殺される。さっきすれ違いざまにそれをやった。もしそいつが本当に姉ならば、三郎の防御などお構いなしに切り裂いてきたはずだ。が、そうはなっていない。だいいち、姉は武器など必要としない。
「お前、誰だ?」
「マゴット……」
長い髪をばさと伸ばしたその少女は、ひび割れた唇からかすれた声を発した。
聞いたことのない名だ。
「マコト?」
「マゴット……」
「ガイジンか?」
「……?」
するとマゴットはしばらく首をひねった挙げ句、急反転してベランダへ飛び出した。風で窓ガラスを叩き割り、凄まじい勢いで。
結果、三郎の部屋から窓ガラスが失われた。
「お前、なにも窓を割らなくても……」
おかげで今日はこの部屋では寝られない。さいわい六室すべてを借りているから、ほかの部屋で寝ればいいだけだが。
三郎はスマホを拾い、セヴンにメッセージを送った。
>いまの誰だ?
>百万出すから可能な限り教えろ
返事はすぐに来た。
>数日待って
>いま調べてる
情報屋に分からないということは、三郎が考えても分からないということだ。
しかし三郎にしか分からないこともあるだろう。
>姉貴に似てた
>あいつ風を使ったぞ
>六原一族ってこと?
>ちょっとその線で探ってみるわ
六原一族とて、いつまでも土地に縛られ続けていたわけではない。さすがに現代ともなれば、気軽に外に引っ越すものもいた。だから例の虐殺をまぬかれた六原もいることはいる。
とはいえ、マゴットはあまりに姉と似ていた。
三郎はさらにメッセージを送った。
>姉貴の隠し子かも
>あとやっぱ百万じゃなくて十万にマケてくれ
>ふざけんなボケ!
三郎はスマホの画面をオフにした。
人に命を狙われるようなおぼえはない。いやなくもない。仕事上では何人もの人間を殺してきたし、ランカーというだけで目の敵にされることもある。しかしそんなことを言い出したらキリがない。やはりブラックアウト絡みだろうか。
三郎は改めて部屋を見回し、溜め息をついた。缶が倒れてビールが溢れ出してしまっている。ノートパソコンが無傷なのは不幸中の幸いか。
ただの警告ではあるまい。あの攻撃は、確実に殺しにきていた。寝ている間にまた襲ってくる可能性もある。というより、そうしなかったのはマヌケとしか言いようがないが。まだ少女だからあまり夜まで起きていられないとか、そういうしょうもない理由があったのかもしれない。
三郎はふたたびスマホの画面をオンにし、数少ない友人へメッセージを送った。
>しーぽん、しばらく泊めてくれ
返事はこうだ。
>その名で呼ぶな
>だがいいだろう
>理由は聞かない
>恩に着る
*
しーぽんというのは、かつてネットで知り合った友人だ。その正体は検非違使庁の職員、実行課二班の椎名九太郎である。
彼は大田区の賃貸マンションに住んでいる。二階という低い位置ではあるが、三郎のいるボロアパートよりは安全であろう。
夜分だからというわけではなく、椎名は基本的にテンションが低い。今日もその冴えない態度で三郎を出迎えた。
「よく来たな」
「ビール買ってきたぜ」
「そうか」
「ピーナッツもあるぞ」
「まああがってくれ」
あまり整理されているとは言い難い室内だが、三郎の部屋ほど散らかってはいない。ゴミを溜め込んだりもしていない。
「悪いな、急に。なんだか分からないヤツから襲撃を受けてな」
「はっ!? 襲撃? 誰に?」
世間話のように切り出した三郎に、椎名はカッと目を見開いて向き直った。
「だから、誰だか分からないんだって。いま情報屋に問い合せてるけど、あいつらにも分からないらしい」
「そ、それでなぜウチに……」
「ほかに友達いないんだから仕方ないだろ」
「……」
椎名はおもむろにキョロキョロし始めた。
ここが戦場になることを恐れているのだろう。
「ちゃんとマいたの?」
「分からんが、とりあえずタクシーで来た」
「……」
露骨にイヤそうな顔になった。
が、三郎、もはや帰るつもりはない。
「そんな顔するなって。俺と椎名さんの仲だろ。『びょーどーちゃん』を偲ぶ会でもしようぜ」
「毎秒忖度しろ」
それは作中でびょーどーちゃんが連呼していた口癖だ。意味は「空気読め」。
びょーどーちゃん愛好家として、戦いを仕掛けられていると見るべきだろう。ここは同じく名ゼリフで対応するのが礼儀だ。
三郎は満を持してこう応じた。
「知ってるか? 埼玉では一分間に六十秒が経過している」
「いや違うっ! そうじゃないのっ! 帰って欲しいの俺はっ!」
「ああ、そういうことか。悪いがほかに行くアテがない」
「お金! お金あるでしょ? 貯金が二億超えたとか言ってこないだ自慢してたでしょ? お金使って泊まりなさいよ!」
そういえばそんな自慢をした気がするが、三郎はあえて反省しなかった。
「いま三億に近づいているが、そこらのホテルに泊まるわけにはいかない。民間人を巻き込む可能性があるしな」
「ここだと俺が巻き込まれるんですけどっ!? 少しは考えろ小卒ぅーっ!」
「いや小卒ですらない。小学校中退だ。しかもなんか分校みたいなやつ」
「訂正ありがとう。しかし待て。待ってくれ。俺も危ないってことだよそれはっ! いま業務時間外なんだぞ。誰かに襲われても給料出ないんだぞ。サービス残業じゃないか」
「俺が応戦するから安心しろ」
「そうしてくれ。俺だけだと毎秒死ぬ」
「俺、びょーどーちゃんの録画に失敗してる回あるから、それ観せて」
「いやアニメ鑑賞会なんてしてる場合じゃねーからっ! さすがに理解して? あーっ! カップ麺が伸びるぅー!」
椎名は慌ててリビングへ駆け込んだ。
これには三郎も苦い笑みだ。
「珍しく元気だな」
自分がその元凶であるという自覚はない。
*
その後、椎名はカップラーメンをすすりつつ、キーボードをバチバチ打ってなにかを調べ始めた。
「椎名さん、タイピング速いな。また誰か煽ってるのか?」
「誰も煽ってねーっ! 例の襲撃者について調べてんのっ!」
「そんな情報、ネットにあがってるのか?」
「いや、本庁のデータベースにつないでる。ホントはダメなんだけど……。でも緊急事態だからっ! で、そいつは風を使ったって? 該当するのが二人も出てきちゃったんだけど……。うわー、しかもこれ……」
「二人って、俺と姉貴ってこと?」
「いや、そのほかに二人」
風使いはもちろん六原一族だけではない。出雲のカマキリも似たような技を使うし、海外にも似たような能力者はいっぱいいる。
椎名はラーメンをすすり、深く溜め息をついた。
「女の子って言ってたっけ? となると、黒羽の研究所にいるほうか。まだ十歳だって。けどこれは……ヤバいな……」
「黒羽? なにがどうヤバいんだ?」
「いやー、それがさー」
「そういや名前はマゴットとか言ってたぜ」
「いや、データベースには名前さえ載ってない」
「顔が姉貴にソックリだった」
「そういうことになるよな……」
妙に納得した様子で、椎名は椅子の背もたれに身をあずけた。
三郎にはなにがなにやら分からない。
「姉貴の隠し子なんじゃないかって思うんだが」
「近いかもしれない。けど、君のお姉さんも存在を知らないんじゃないか。おそらくだけど、黒羽が培養してた試験管ベビーだよ。もしかするとクローンかもしれない」
「……」
「そういえばこれ、前にうちの一班が調査に入ったけど、結局見つけられなかったヤツじゃん。やっぱり実在してたんだな……」
検非違使は野良スクリーマーの駆除だけでなく、もっとマシな仕事もしていたというわけだ。成果はひとつもなかったようだが。
一子がアヤメにつかまって人体実験されていた話は、三郎も知っている。おそらくそのとき採取されたものが使われたのだろう。
黒羽一族には「夷をもって夷を制す」という考えがある。今回の件についていえば、「六原をもって六原を制す」ということだ。
ともあれ、マゴットを放ったのは黒羽で間違いなさそうだ。
椎名が口をへの字にして向き直った。
「あれだけ隠してたのを使ってきたってことは、そうとう焦ってるってことだな。六原くん、なにしたの?」
「さあな。普通に働いてただけだけだが」
「ブラックアウト絡みじゃないの?」
「どうせ全部知ってるんだろ?」
「ごく浅いところだけだ。けど、これってテロリストと黒羽がつながってるってこと? 試しに警察にリークしてみようかな。でもこの件、なんか警察の動きが鈍いんだよなあ」
「ナインさんも同じこと言ってたぜ」
「マジで? じゃあ危なそうだしやめておこう」
こういう世間話が命を救うこともある。
もしすべてが裏でつながっていた場合、椎名が警察をつついたら、あとで反撃を食らう可能性もある。
ともあれ、黒羽アヤメをなんとかする必要が出てきた。三郎の記憶によれば、そのアヤメの殺害依頼を出し続けていたけなげな少女がいたはずだ。どうせやるならそいつと手を組んでもいい。
「椎名さん、ちょっと相談したいことがある」
「ヤバくないヤツなら」
「いや、ヤバいヤツだが聞いてくれ」
「……」
黒羽一族は、敵に回すにはデカすぎる。一人でやるのはどう考えても不可能だ。使えるコネはすべて使うしかない。
いまなら例の件をダシにして、ナインやアベトモコ、三角辺りも巻き込めるだろう。なにせ人体実験という意味では、妖精たちも直接の被害者なのだ。絶対に乗ってくる。
これは金だけの問題じゃない。生存をかけた戦いになる。
(続く)