Long Goodbye
三月になり、空気に春の気配が混じってはきたものの、冬の冷たさは依然として沈滞していた。
空調の効いたバーの中では、あまり関係がないが。
「それで? あれから連絡あったの? あのブラックアウトとかいう連中から」
キャサリンは当然のようにその事実を把握していた。というより、この界隈はザルだ。ひとりだけならまだ情報は守られるが、ふたり以上が知れば全員が知ることになる。
三郎はうんざりしながらカシューナッツを齧った。
「なにもない。関わり合う気もない。俺に聞くな」
「冷たいわね。私たちの仲じゃないの」
そう言って彼女はピスタチオを手に取った。三郎の対面に座しているから、長話をするつもりらしい。およそ客商売とは思えない厚かましさだ。
「そういうあんたこそ、こんなところで油売ってていいのか? 機構も神の子を狙ってるんだろ?」
この問いに、一瞬、キャサリンの手が止まった。表情は余裕ぶったままだが、額に青筋が浮かんでいる。
「ええ、狙ってるみたいね」
「みたい?」
「私抜きでやるそうよ。どうも信用ないみたいね。まあ分かってたけど」
「どうせ人のナッツを無断で食ったとか、そういう理由だろ」
「その程度で嫌われたりしないわよ」
「どうだか」
しかし同じ志を持っているはずの人間が排除的になるのだから、おそらくナッツがどうこうという低レベルの軋轢ではなかろう。
キャサリンはようやくピスタチオの殻を割り、口に放って乱暴に噛み砕いた。
「あいつら、ザ・ワンが死んだの私のせいだと思ってんのよ」
「は? それは青い妖精のせいだろ」
当時、他界の空は、太陽を嫌う「青き夜の妖精」が支配していた。完全体となったザ・ワンはその空へ挑み、あっけなく敗北したのであった。
「他界の空のために死んだのが、うちのクルーには納得できないみたい。いや、私もどうかと思うのよ? けど、あの巨人族にとっては故郷の空でしょ? それを奪還させるいいチャンスだと思ったのよ。だいいち、伝承によればこの世界を救済する神って設定なんだから、あんなところで死ぬとは思わないじゃないの。まあ死んだってことは、神じゃなくて、ただのデカい人間だったってことだけど」
その「ただのデカい人間」の子供を、いま世界は「神の子」として追っている。みんなが、もしかしたら神なんじゃないかと思っている以上、金になるのだ。仕方がない。そもそもデカくもないただの人間が「神の子」やそれに類する存在を自称している例は枚挙に暇がない。デカいだけまだマシというものだ。
キャサリンは深い溜め息をついた。
「とはいえ、五百年以上も待ち望んでた私たちの神が、あんなことで死んだわけだからね。ショックは大きいと思うわ。まともに信仰してるクルーにとってはなおさらよ。ビジネスでやってる私でさえ後悔してるんだから」
「なあ、例のブラックアウトとかいう連中もビジネスでやってると思うか?」
「さあね。ガードが硬すぎてちっとも情報が入ってこないわ。情報屋がいま必死で調査中なんじゃないかしら。そのうち誰かがお金払って買うでしょ。どうしても知りたければ、あなたが直接聞いてみたら?」
「そうまでして知りたいことじゃない」
すると横から別の男が来た。
ナンバーズ・ナインだ。
「失礼するよ」
いちおう一声かけてきたものの、返事も待たずに椅子を引き、スッと着席した。
「こちらもまだ詳しい情報を掴んでいないんだが、嫌な噂は聞いている」
三郎は内心「またこいつか」とは思ったが、暇つぶしに聞いてやることにした。ミックスナッツの皿もすすめてやる。
「ありがとう。しかし事態は急を要するかもしれない。まだ確かな情報ではないが、十二番目の友人もブラックアウトからオファーを受けているようだ」
十二番目の友人。ナンバーズ・トゥエルヴ。稲妻を操る龍神の一族。車椅子ではあるが、自力で発電して縦横無尽に動き回る戦闘狂だ。いかにもテロリストに向いている。
キャサリンが顔をしかめた。
「あの子、ファイヴと一緒にやってたんじゃないの?」
「俺もそう思ってたんだが。彼は以前から、金の話しかしないファイヴにうんざりしていたからな。手っ取り早く暴れられるブラックアウトに興味を示してもおかしくない。正式に手を結んだかどうかはまだ不明だが」
「狂犬ばかり揃えるからよ」
「友人を侮辱するのはやめてくれ」
だがトゥエルヴはナインを友人だとは思っていないだろう。
出雲を追放された青村放哉といい、くだんのトゥエルヴといい、いずれも平和的なタイプではない。三郎としては、そういう連中の同類とみなされるのは不服であった。
グラスのビールを一口やり、三郎も口を開いた。
「ま、仕事の依頼なら話がまとまってからにしてくれ。途中経過を聞かされても、俺にはどうしようもないからな」
だがナインは浮かない表情だった。グラスを手にしたまま、ビールを飲もうともしない。
「じつはもうひとつ、よくない噂を聞いていてな」
「なんだよ?」
「ブラックアウトの連中は、一子くんにも接触しているようなんだ」
「……」
想定していた事態のどれでもなかった。三郎は返事もできず、それ以前にどう解釈していいのかも分からず、ついに口ごもった。
一子は良識のある人間だ。しかしヤケになってしまえば、良識などいくらでも置き去りにされる。新しい人生がどうのと言っていたが、まさかこういうことだったとは。
「姉貴はなんて言ってるんだ?」
「それがここ数日、麗子くんの家にも帰っていないようでな。どこにいるかも分からない」
「そうか」
先ほどから木下がうろうろしているが、さすがにこういうときは入ってこない。今日は話もできないかもしれない。
三郎はひとつ呼吸をした。
「教えてくれたことには感謝する。だが現場で会ったらヤることはひとつだ。向こうも本気で来るだろうしな」
「構わない。君たちはそうするだろう。俺にできるのは、そうなる前に動くことだけだ」
「ご苦労なことだ。なんの得にもならないのによ」
「言ってもどうせ分からないだろう。説得する気もないしな。だがひとつだけ言っておくぞ。気がつくのは、いつも失ったあとだ。人間はこれを繰り返し、学習することもない。君もその当事者になるがいい」
「ふん、自分だけ分かったようなツラしやがって」
ナインはしかし力なく笑った。
「いや、俺も何度も繰り返してきたんだ。そのくせ学習できていない」
キャサリンがうんざりと溜め息をついた。
*
だが、よくないことは重なるものだった。
老人は、季節の変わり目に弱い。
ある晴れた日曜日、白骨死体となったナンバーズ・フォーが見つかった。老衰だ。限界を超えて高齢化した身体は、もはや気力だけでは維持できなくなっていたのだ。
彼はナンバーズと出雲のパイプ役でもあった。いまやなんの意味もないパイプであったにしても、ある種のシンボルではあったのだ。
このタイミングでのフォーの欠番は、ナンバーズの終焉を決定づけたように思われた。
その翌週――。
脳味噌のまま耐えていた山野栄が、ついに絶命した。
麗子の研究室。その脳は水槽に浮いていた。生きていたときと様子はなにも変わらない。ただ、麗子がいつもパソコンに出していた脳波計のウインドウは、すでに閉じられていた。
フォーの葬式には呼ばれなかった三郎も、さすがにこの場には招集された。
「そうか、死んだか」
出てきたのは気遣いの欠片もない言葉だった。が、周囲のものたちは顔をしかめもしなかった。
かつて交流のあったナンバーズ・ツーのアベトモコも駆けつけた。立て続けに起きた知人の死に、彼女はすっかり憔悴しきっていた。ペギーも言葉を発しなかった。スジャータの表情も暗い。
麗子はほつれた髪をかきあげ、かすかに嘆息した。
「手は尽くしたわ。けれども、限界だったわね」
「例の再生医療ってのをやれば、助かったかもしれないのか?」
三郎の問いに、麗子は肩をすくめた。
「どうでしょうね。あれは通常の医療とはまったくの別物だから。本人の記憶の通りに体を再生させるのよ。だからたとえば、失ってから時間の経った部位は復活しない。体がその記憶を失っている場合にはね。だから山野さんも、回復したかどうかは疑問だわ」
「そうか」
脳だけになってから半年は経過していた。いずれにせよ不可能だったかもしれない。
ナインがやってきた。
「失礼。遅くなった」
するとトモコが駆け寄り、我慢しきれずに泣きついた。
ナインはその頭をなでながら、うんうんうなずいた。
「残念だったな。どうにかできればよかったんだが。妹さんには?」
この問いに、麗子がかぶりを振った。
「まだ連絡してないわ。というより、連絡すべきかどうかも……。いえ、知るべきね」
「つらい報告になるが、やむをえまい」
「なんて言ったらいいのかしら」
「手配は俺がする。君は少し休め」
「ありがとう。お願いするわ」
トモコの鼻をすする音だけが、いつまでも響いた。
現場では、人はいくらでも死ぬ。しかしこういう場所で人の死に直面するのは、三郎にとっても戸惑う体験だった。かつて自宅の座敷で、祖母の葬式をやったのを思い出した。あのときは神主が来て祝詞をあげた。
ここに儀式のようなものはなにもない。死を悼む人間が集まっているだけだ。
やや沈黙をおき、ふたたびナインが口を開いた。
「遺体はどうする?」
「アメリカと機構から、引き取りたいって打診があったわ。もし妹さんの生活の足しになるなら、売ってもいいと思ってる」
「なかなかドライだな。しかし現実的な線か。検非違使で処理するとなると、雑草の栄養になるのが関の山だからな」
あるいは六原的には食うという選択肢もあるのだが、三郎はこういうものに食欲の湧くタイプではなかった。おそらくあの姉でも食うまい。故郷でもさすがに火葬していた。
ほかに遺品といえばペギーが受け取ったP226だが、さすがに妹に渡すわけにもいくまい。
「マンションの荷物はどうするんだ?」
三郎の問いに、麗子は力なく肩をすくめた。
「組合員の私物は、基本的に検非違使が始末することになってるわ。外部に情報が漏れるといけないから。といっても、最近ルーズになってるから、あまり徹底されているとは言い難いけど。なにか欲しいものでもあるの?」
「いや、ハードディスクの中身を消しといてやろうかと思って。でも始末するならそれでいい」
「そう」
場を和ませるジョークのつもりだったのだが、誰にも通じなかった。三郎はもう、それきり口を閉じた。
脳味噌は、間の抜けた様子でただ浮いていた。
山野はじつに理屈っぽい男だった。しかも遠回しな物言いが多いから、三郎には話の半分も通じていなかった。射撃もヘタクソだし、しょっちゅうリロードに手間取っていた。ヒーロー気取りで青き夜の妖精と戦い、米軍のミサイルに巻き込まれて体を失った。しかしそれでも、一緒にビールを飲んだ仲間だった。
ペギーが来た。
「六原さん、このあと時間ある?」
「ああ。ニューオーダーでいいか?」
「もちろん」
黒のライダースーツが、いまは喪服のようにも見えた。
(続く)