The Beginning Of The End
通常、額のデカい仕事は数人で受けて分割する。
しかし三郎は五千万の仕事をひとりで受けた。もちろん成功しなければ一円ももらえない。それでも賭ける価値があると感じた。
標的は陳禄山。機構の残党を束ねている。神の子を狙い、裏で行動を開始しているとかいう話だ。
なにも一度のチャレンジで始末する必要はない。危なければ引いてもいい。イレギュラーさえ起きなければ、このロジックで問題はない。
だが現場に到着した瞬間、三郎はイレギュラーに出くわした。
午前零時十二分。
埼玉県蕨市――。
剣菱のバンで三郎が待機していると、運転手からおおむろに通達があった。「協力者」とやらが合流することになったらしい。
これは報酬の五千万から差っ引かれるわけではない。だから三郎は、剣菱からの通達を黙って受け入れた。
やがてドアが開き、おもむろにふたりの「協力者」が乗り込んできた。六原一子、そしてナンバーズ・ナインだ。
三郎が口を開くより先に、ナインが手で制した。
「事情はきちんと説明する。まずは落ち着いて聞いてくれ」
相変わらずのスーツ姿だ。真冬だというのにコートも来ていない。
一方、無言のまま席についた一子は、痩せた身に寒さが厳しいのか、きちんと防寒していた。麗子から借りたらしい細身のトレンチコートに身を包み、マフラーまで巻いている。三郎を見つけても口も開かない。
代わりにナインが言葉を続けた。
「俺と一子くん宛てに、非公開で依頼が来た。隠していても仕方がないから言うが、依頼主は麗子くんだ。仕事の内容は君と同じく、陳禄山の暗殺。だから顧客同士の合意によって、君との共同作戦ということになった。おっと驚くのはまだ早いぞ。もっとも肝心なのはここだ。なんと報酬がたったの三十万という点。これで引き受ける人間がいるというのは、じつに驚嘆すべき事実だと思わないか?」
三郎が成功すれば警察から五千万が支払われる。なのに一子もナインも、黒羽麗子からは三十万しか受け取れないという。たしかに引き受けるほうがどうかしている。あえてアメリカの陰謀に乗せられれば、一子だって五千万を手にすることができたはずなのに。
ナインは肩をすくめた。
「疑問はあるだろうが、すべてに答えることはできない。そもそも俺自身、なぜこの仕事を受けたのか不思議で仕方がないんだからな」
「あんた、このマネーゲームから手を引いたんじゃなかったのか?」
「ナンバーズとして来たんじゃない。組合員のひとりとして来たんだ。名指しで依頼された仕事くらい、受けたって構わないだろう」
「どうせ保護者面しに来たんだろ。ま、せいぜい使わせてもらうけどな」
三郎がそう断言すると、一子が無表情のまま振り向いた。本当に、表情が消え去っていた。いつもの過保護でもない、かといって叱責する様子でもない、機械のような顔だった。
彼女は静かに応じた。
「安心して……保護者面するのも……これが最後だから……」
「そうかよ」
三郎はなるべく興味なさそうに返事をしたものの、自分でも信じられないことに、手が震えそうになった。
ついにこのときが来た。
一子はかなりの決断をした上でここにいる。もちろん敵として戦うためではなかろう。味方として来たのだ。だが言った通り、これが最後だ。
*
街のやや外れ、道路沿いに寂れた雑居ビルがあった。細長い五階建てだ。
情報では、そこが陳禄山たちのアジトになっており、陳禄山も滞在中という話だ。
深夜だというのに窓からは明かりが漏れている。起きている人間がいるのだろう。見張りは立っていないが、エントランスには監視カメラがあるかもしれない。
ヘリポートはない。
もし地上から攻め込めば、敵は逃げ場を失う。しかしこの場合、三郎は上を目指しながら戦うことになり、形勢としてはかなり不利となる。敵は銃で武装している。閉所で撃ち込まれれば逃げ場はない。
では外壁を登るなりして上階の窓から奇襲するのはどうか。身軽な三郎ならそれも可能だ。しかし階下へ逃げられるおそれがある。
もしひとりでこれをやるのだとしたら、かなり難しい仕事になっただろう。しかし一子もナインもいる。ふたりを作戦に組み込めば難易度はぐっとさがる。
ビルからやや離れた車内で、ナインがふむと嘆息した。
「上から行くか、下から行くか、といったところだな。じゃあこうしよう。君たちふたりは屋上で待機。俺がエントランスから侵入して注意を引きつけるから、タイミングを見計らって上から挟み撃ちにしてくれ」
ほぼ不死身なのをいいことに、損な役を買って出た。三十万しかもらえないのに、献身的なことだ。
三郎もさすがに警戒した。
「こっちにとっては都合のよすぎる提案だな。なにか裏があるのか?」
「仮にあったとして言うわけがないだろう。しかし必然的にこうなるのも疑いない事実だ。なにせ君たちは銃で撃たれたら死ぬが、俺は死なないんだからな。いや何発も撃たれれば死ぬかもしれないが。難所を俺が担当するのは適材適所だ。上から奇襲するにしたって、機動力のある君たちのほうが適任だろうしね」
たしかに、いま考えうる最良の布陣だ。
下から頑丈なやつが乗り込んでいって射線を引きつけ、混戦になったところを上からスピードで叩く。メンバーの長所を活かした戦術ではある。
一子が腰をあげた。
「じゃあ……それで行きましょう……」
*
いくら身軽とはいえ、二月の深夜という底冷えする空気の中、冷え切ったコンクリートをかじかむ指で登るのは至難の業であった。
一子はさすがというべきか、するすると登っていった。まるで蜘蛛のようだ。三郎も負けじと指の感覚を殺して這い上がった。幸いというべきか、隣接するビルとはかなり密接していた。配管や窓の縁などをつかみ、登ることは不可能ではなかった。吹きつける風はすべてコントロールできる。
屋上へ到達すると、眼下には街の明かりが見渡せた。とりわけ高いビルというわけではないし、周囲にはもっと高いビルもいっぱいあるのだが。それでも深夜であるせいか、茫洋とした空間に小さな明かりのぽつぽつとある世界が、どこまでも広がっているように感じられた。
三郎はふと、里から逃げるときに地蔵塚から見えた光景を思い出した。いまにして思えばあれは長野市の明かりであったろう。外の世界には、たくさんの光があることを知った。集落にあんな明かりはなかった。せいぜい抗争で焼け落ちる家々を見たくらいだ。
冷たい空気を肺いっぱいに吸い込み、呼吸を繰り返した。
戦いの前に酸素を入れると、頭がくらくらしてくる。そうするとトランス状態になって、本能で戦える。もちろん理性によるコントロールもする。両方使う。
三郎は、ちらと姉を見た。
やはり表情がない。醒めきった目で夜景を見下ろし、ただ立っていた。
一子にはいろんな顔がある。弟を溺愛する姉の顔、あまえる少女のような顔、殺害した敵を喰らうときの狂気の顔、そして思い詰めたときのこの顔だ。
かつて祖父は、一子を評してこう言った。
「本物だ」
実際、能力は際立っていた。父も姉も、一子の力には警戒していたくらいだ。
父はしつこくこう繰り返した。
「一族の力は、この平和な時代にはもう必要のないものだ。その力のことは隠しておきなさい」
そして母はこう言った。
「イッちゃん、その力は、なにがあっても絶対に使ってはダメよ。人を傷つけるだけなんだからね」
だが力を忌避していた父も母も、敵の暴力によって殺害されてしまった。妹の瑠璃子さえ守れずに。
三郎としても、おそらく親の言ったことは正しいだろうと思っている。しかしそれも、例外が発生しなかった場合の話だ。こんな状況になってしまった以上、人の選択すべき手段というのは、そんなに多くない。
階下から怒声が響いた。そしてけたたましい銃声。
非公開の仕事だから、敵もさすがに襲撃の情報は掴んでいなかったようだ。完全に後手に回っている。つまり、上階からの奇襲は成功する。
姉は屋上から身を投げるように、真っ逆さまに落ちた。
三郎も慌てて後を追った。
姉は窓ガラスを風で叩き割り、そのガラス片を巻き込んで室内に撃ち込んだ。巻き込まれた蛍光灯も割れた。渦巻く風は室内で暴れまわり、待ち受けていた敵を容赦なく切り裂いた。
最上階にいたのはたったの四人。銃で武装したアジア系の男がふたりと、事務員とおぼしき女がひとり、そして陳禄山。全員が窓に背を向けていた。
もちろんガラス片だけで即死させられるわけではない。こんなのはただの挨拶だ。一子は手のひらから圧縮した空気を撃ち込み、まずは武装したふたりを壁に叩きつけた。
女が投げてきたナイフを回避し、続いて陳禄山の打をかわした。狭い室内をジグザグに移動する複雑な挙動だ。この移動にも風を使う。
そして風が通り過ぎた直後、女と陳禄山が同時に血液を噴いた。床に倒れていた男のひとりが銃を向けてきたが、その腕は真上から切断され、半回転して床へ落ちた。
この空間すべてが、一子に支配されているかのようであった。
もはや勝敗は決した。
うつ伏せに倒れていた陳禄山が、なんとか仰向けに向き直った。背面からガラス片を受けただけでなく、胸元から肩口へ大きく切り裂かれ、苦しそうにヒューヒューと呼吸をしながら。
「六原か……」
「……」
一子は返事をしなかった。
かといって殺しもしなかった。様子を見ている。敵の様子をではない。三郎の様子をだ。
完全に出遅れた三郎は、参加すらできなかった。しかしそれだけに、よく見ていた。今日の一子は普通ではない。ただ切り裂けば敵を殺せるのに、やたらと手の込んだ技を使った。まるで見せつけるかのように。
陳禄山はうめきながらも、獰猛な笑みを浮かべた。
「ふん、みずから蟻地獄に踏み込むとは、愚かな連中よ。どうせ、なにを相手に戦っているのかも理解しておらんのだろう。お前たちの依頼主が誰かは知らんが、伝えておけ。もはやすべてが始まっている。俺たちを殺してもなにも変わらぬとな」
「……」
彼らが独立して行動していたわけではなく、何者かがバックについていたようだ。
しかし三郎とて代理で殺しに来ただけである。老人の遺言を持ち帰るくらいはしてもいいが、大袈裟な陰謀論に付き合う気はない。
陳禄山はしばらく苦しそうにしていたが、口から大量の血液を吐き、そのまま事切れた。
長期に渡る大仕事のはずであったが、たったの一晩で終わってしまった。
だが三郎の気は晴れない。一番危険な人物がまだ生きていて、じっとこちらを見つめているからだ。
「姉貴、さっきからこっち見てなんなんだよ? なにか言いたいことでもあるのか?」
「ない……いまは……」
「なんだよそれ。じゃああとで教えてくれ。黙ってちゃなにも分からんからな」
「……」
存在そのものが刃物のようだ。触れることさえできない。
かつて母は、三郎を抱きしめてこんなことを言った。
「イッちゃんが悪い道に進んだら、サブちゃんが止めるのよ」
あのとき三郎は、同じ家族なのになぜそんなことを言うのかと哀しくなったものだ。しかし母が一子を警戒していたことはよく伝わった。
この一件だけではない。母は普段から一子を避けていた。「怪物を産んでしまった」という言葉を、一度だけ耳にしたことがある。なにかの冗談だと思って聞き流していたが。いまにして思えば、姉のことを言っていたのであろう。
だが三郎は思う。
まともなのは姉のほうに決まっている、と。
いつでもそうだ。雰囲気だけは不気味だが、集落ではみんなの姉であった。ひとりでいる子を見つければ話しかけてやるし、怪我をした子には手当してやった。三郎の自慢の姉だった。
だからもし姉と戦うなら、三郎は自分が死んだほうがいいと思っている。そもそも死ぬために戦っているのだ。相手が姉ならなおいい。もちろん手は抜かない。全力でやる。それでも勝つことはできないだろう。なにせ相手はあのナンバーズ・シックスだ。そこらの有象無象とはモノが違う。
(続く)