レポート:黒羽麗子の憂鬱
三郎が料亭で打ち合わせをしていたそのころ――。
ドーナツ状のビル検非違使庁舎にある研究室で、黒羽麗子はひとり、水槽に浮くピンクの脳味噌を眺めていた。特にグロテスクな趣味があるわけではないが、世話をしているうち愛着も湧いてきた。
その脳味噌は、なんらの悩みもなさそうにふわふわと浮いている。いや生きているからなにか考えているはずなのだが。彼の外見はあまりにファニーすぎた。感情を推定するためにはモニター内の脳波計を確認するしかない。こうしてみると、動物が進化によって獲得した「表情」というものが、情報伝達の手段としていかに効率的であるかが分かる。
麗子はコーヒーをすすり、代わりに溜め息をついた。
この脳は、あまり長くは持たないだろう。
三角の細胞を使った再生医療はまだ実験段階で、成功率が高いとは言えなかった。腕や足だけならともかく、彼の場合は脳以外のほぼすべてを回復させねばならないのだから。
つまりこの脳は、ただ衰死を待つ身である。
衰死――。
この言葉で麗子が思い出すのは、六原一子のことであった。
もちろん一子はまだ生きている。しかし麗子が初めて対面したとき、衰弱しきってかなり危険な状態であった。
黒羽と六原の抗争が起きたあの日、一子は山へ逃げ延びた。それが捜索隊によって発見されたのは数日後。もし事件当日に発見されたのであれば、その場で殺害されていたことであろう。しかしすでに東京の宗家から介入があった。殺害ではなく生け捕りにせよと命じたのは黒羽アヤメ。麗子の母だ。
人道的な理由からそうしたわけではない。六原の能力は、ザ・ワンの復活に必要な力のひとつだった。
アヤメは一子を手に入れると、研究所に監禁して解析を始めた。およそ少女の人格を無視した、一方的かつ苛烈な内容だった。その報告書を目にしたとき、麗子は言葉を失ったほどだ。摘出された卵子がなにに使われたのかまで詳細に記録されていた。
アヤメは、金のためなら命など容易に玩弄する人間だった。
金のために妖精をバラし、金のためにウイルスをバラ撒いた。そして金のために一子の自由を奪った。
黒羽一族は、にわかに金で成り上がった一族だ。この傲慢さを維持するためには、常に金が必要だった。癒着や買収は平然とやった。ハバキとつるんで妖精学会をつくり、妖精を家畜のように売買した。
功績もある。
容赦のない研究のおかげで、能力者についての理解が飛躍的に進んだ。妖精の生態についてもそうだ。日本がこの分野で世界と戦えているのは、まったく黒羽の力が大きかった。
そうはいっても、当時まだ若かった麗子には我慢がならなかった。研究所に乗り込み、強引に一子を救出したのだ。おかげでアヤメの怒りを買い、主たる研究には一切参加できなくなってしまったが。
当時、一子はかなり衰弱しており、自分の足で立てないほどだった。痩せてアバラ骨が浮き出ており、目は落ち窪んでいた。
麗子はその後、勢いに任せて一子を引き取った。
それはいいのだが、一子との共同生活はなかなかに苦痛であった。
彼女は基本的に無言である。一日中黙っていても平気だ。かと思うと急にニヤニヤし始める。夜中になるとシクシク泣き出す。ふらりと外へ出かけては動物の死骸を食って帰ってくる。しかも食中毒になって下痢や嘔吐を繰り返し、倒れ込んだ。
一子が少ししっかりし始めたのは、行き倒れの三郎が見つかってからであった。
黒羽中造が三郎をかくまっているのは公然の秘密ではあったが、まさかその中造を殺害して三郎が里を出るとは誰も想像していなかった。のみならず、空腹で行き倒れて病院に搬送されるとは。
宗家の手のものが動き出すより先に、麗子は長野へ急行して三郎を保護した。この件でもアヤメから厳しく追求されたが、もはや聞く耳など持たなかった。これ以上、悲劇を繰り返すわけにはいかなかった。
三郎が家へ来ると、一子は別人のようにまともになった。いや、まともではないのだが。少なくとも動物のような生活から、やや人間らしくはなった。お姉さんぶるようになり、責任感も芽生えた。
雰囲気が暗いのは相変わらずであったが。どうやら一連の事件のせいでそうなったわけではなく、幼少期からずっとそんな調子であったらしい。
一子がもっとも熱心だったのは、三郎に狩猟を教えることだった。風を使って小動物を狩る方法だ。三郎は乗り気ではなかったが、一子はじつに嬉々としていた。
だが麗子は一抹の不安をおぼえた。
一子も三郎も、風使いとしての才が抜きん出ていたのだ。これを放っておけば、近い将来、黒羽にとって脅威となるだろう。
六原は風使いの一族だ。もちろん全員がエキスパートというわけではない。一子と三郎の父はほとんど風を扱えなかったし、母親にいたっては微塵もその才が備わっていなかった。
一子たちの能力が隔世遺伝なのか、あるいは危機感によって開花したものなのかは分からない。ともあれ、ふたりの能力には目を見張るものがあった。特に一子だ。近くのターゲットを切り裂くしか能のない三郎とは違い、一子の風は自由自在だった。少し距離があろうが、物陰に隠れていようが、お構いなしだ。切り裂くだけでなく、優しく押すこともできる。エネルギーの総量でいえば三郎のほうが上だが、仮に戦えば一子が圧倒するだろう。おそらく麗子でも勝てまい。
結局、三郎はすぐに家を出てしまった。
学校に通わせようともしたのだが、その話を切り出す前に行ってしまったのだ。一子は夜間学校に通わせて、なんとか義務教育だけは終わらせることができた。しかし結局のところ、あの性格が災いし、一般企業への就職は失敗に終わった。のみならず、彼女には組合の仕事がピタリと合った。
できれば汚い仕事はさせたくなかった。しかし人より稼げる仕事だ。本人が天職を見つけたのに、麗子が辞めさせるわけにもいかない。
ナンバーズには政府からの補助金が出されていたから、すぐに働かなくてもよかったはずだが、一子はかたくなに受け取らなかった。麗子にくれるという。しかしそれでは問題があるので、勝手に一子の口座を作って貯金することにした。かなりの額になっているが、麗子は手を付けていない。
水槽の脳味噌を横目に、ぬるくなったコーヒーをすすっていると、研究室に来客があった。
一子だ。いつにも増して暗い顔をしている。髪を伸ばし放題にしているから、まるで怨霊のようだ。もう見慣れたが。
「あら、どうしたの? 珍しいわね」
「お邪魔します……」
周囲の空気すら重たい。いや実際、無意識に周囲の空気を操作して重くしているのかもしれない。
一子はずるずると身を引きずるように、患者椅子へ腰をおろした。
「浮かない顔ね。なにか相談事?」
「サブちゃんが……」
その名を聞く前から麗子には予想がついていた。一子が落ち込む理由は、ほかにない。
「三郎くんが?」
「大人になった……」
「えっ?」
「結婚……したいって……」
「ああ、そのこと。いいじゃない。結婚したいと思える相手がいるって。素敵なことよ?」
もちろんその場しのぎの表面的なトークだ。麗子にとって、家庭には苦い記憶しかない。息子は交通事故で亡くなった。夫は浮気で離婚。母は金にしか関心がない。姉も自分の研究のことしか考えない。姪のさやかの世話をしたのは、ほとんど麗子だ。
思い返すだけでうんざりする。
なのに、人間そのものを嫌いになることはなかった。やはり人は、心のどこかで自分以外の人間を求めてしまう。世話をしていれば、脳味噌だってかわいく見えてくるものだ。
一子は子供のように口をへの字にした。
「うん……本当は嬉しいの……けど……なんだかね……」
「一子さん。あなたの気持ちはよく分かるわ。けれどもね、いつまでも三郎くんばかりじゃダメよ。あなたもあなたの人生を生きなきゃ。なにか楽しいことを見つけて、前向きに頑張らないと」
「うん……でもね……」
歯切れが悪い。
もともと一子は言いたいことを言うほうではない。だから麗子も追求しない。構っていたらそれだけで一日が終わる。
「ちゃんと祝福してあげなさいよ? たったひとりの肉親でしょう? 三郎くんも、新しい一歩を踏み出そうとしてるんだから。ねっ?」
「うん……そうなの……けどね……」
「なに? なんなの? まさか人の恋路を邪魔する気? そんなことして、縁を切られても知らないわよ?」
「違うの……あのね……私……」
今日はえらく子供じみた態度で食いさがってくる。
話題が話題だけに仕方がないが、麗子もさすがに心配になってきた。
「どうしたの? つらいの?」
「分からないの……私……私は……サブちゃんに幸せになって欲しいの……けど……」
「けど?」
「サブちゃんの家族を……私が奪った……のに……」
またこの話だ。
麗子は息を吸い込んだが、なんとか溜め息を噛み殺した。
「待って。待ちなさい。それは違うって何度も言ったでしょ。あなたの家族を奪ったのはうちの一族よ。しかも事の発端はファイヴなの。あいつがけしかけたせいで、必要のない抗争に発展したの。あなたは被害者なのよ」
当時、ナンバーズにおけるツートップは六原と黒羽だった。六原は名誉職たる書記長を務め、議会における拒否権をただひとり有していた。一方、黒羽は金にモノを言わせて強圧的な発言を繰り返した。この両者がいる限り、他のメンバーの提案はほぼ通らない状況だった。
ナンバーズをビジネスのために使おうと画策していたファイヴは、それで六原と黒羽を争わせることにしたのだ。両者を同時に弱体化させることができれば、自分の提案が通りやすくなるという算段だ。
じつにくだらない政争のために、多くの血が流れた。
だから一子は純然たる被害者だった。
問題は、殺害された家族の遺体を、一子が食い始めてしまったことだ。もともと動物の死骸を拾い食いするような少女であったから、そうなるのも必然ではあったのだが。
一子に言わせれば、衝動と義務感があったという。あのまま放置しておけば、家族の死体がどのような扱いを受けるか分からない。どうせ他者の手にかかるのであれば、自分が食うしかない。それに、食えば自分の血肉となる。
しかし三郎には許容できない行為であった。目の前で起きた凄惨な行為に、とにかく嫌悪だけが沸き起こったという。それで止めに入った。
事情が事情だけに、もちろんお互い正気ではない。三郎の妨害も、はじめは言葉によるものであった。しかし次第に体をつかむようになり、一子も鬱陶しく感じ始めた。とにかく目の前の事態に対処せねばならない状況だ。いつまた黒羽に囲まれるかも分からない。一刻の猶予もなかった。
結果、一子は風の力により、三郎を血だるまにした。致命傷ではない。しかし少年が抵抗をあきらめるには十分な傷であった。
長い沈黙に耐えきれず、麗子はつい溜め息をついた。
「あなたが自分を責めるというのなら、私も自分を責めるしかないわ。当時、いくら東京にいたとはいえ、私たちは黒羽の宗家だったんだから。こちらにも責任はあるわ」
「でも先生は……私を助けてくれた……」
「なに言ってるの。そもそも私たちは、ああいう事件を起こさないことだってできたはずなのよ。なのに、その努力をしてこなかった。結果、ファイヴにつけこまれてあのザマよ」
のみならず、当時サーティーンだったアヤメは、事件で欠番となった書記長の座を狙ってさえいた。結果として成功しなかったが。ファイヴと共謀して事件を起こしたわけではないのだが、抗争自体を歓迎していたフシはあった。
一子がまた黙り込んだので、麗子は肩をすくめた。
「とにかく、その反省はもう飽きるほどしたでしょ? これからは未来のことを考える時間よ。三郎くんだけじゃなく、あなたも幸せになっていいの。なにか楽しいことを見つけて、人生を楽しむべきよ。あなたをかばって亡くなった両親だって、後悔したまま生きて欲しいなんて思ってないはずよ。幸せを願って逃したはずなの。できるわよね?」
「……」
一子は返事をしない。異様に思い詰めている。まさか木下に手を出したりはしないだろうが。麗子もさすがに警戒をおぼえてきた。
「はい、この話はおしまい。今日はなにが食べたい? お肉? ギュウでいいかしら? それともトリ? 言っておくけど火は通すからね」
「ブタさん……」
「いいけど、火は通すわよ?」
「うん……」
ひとまず強引に話を打ち切った。
しかしなんとかしなければならない。麗子に策はない。いつもそうだ。策なんてない。目の前の出来事に忙殺されてきた。
いまだってそうだ。
この忙しいさなか、スマホが鳴った。業務連絡だろうか。画面を見ると、情報屋からのメッセージが来ていた。
>例の依頼について、六原一子が情報を買ったわ。
>必要なら相談に乗る。
>もちろん有料。
麗子はスマホを叩きつけたい衝動をぐっと抑え、白衣のポケットに戻した。
「お仕事……?」
一子が申し訳なさそうな顔になった。
三郎の前ではお姉さんぶるくせに、麗子の前では少女のような表情を見せる。年の近い娘のような存在だ。見捨てるわけにはいかない。
麗子はガラにもなく作り笑顔を見せた。
「ううん。なんでもないわ。ちょっとした私信ってとこ。それより、今日のディナーは期待してなさいよ。いつもよりおいしい料理にしてあげるから」
「ふふ……楽しみ……先生のお料理……好き……」
一子の表情にようやく笑みが見られた。しかし、どこか無理して笑っているようでもある。
なにげなくモニターに目をやると、水槽の脳から「不安」の脳波が出ていた。この脳は、研究所で起こるあらゆる出来事をよく「見て」いる。そしてその見解は、たびたび麗子の意見とも一致した。
世話を焼くのは嫌いじゃない。けれども、今回ばかりは少し嫌な予感がした。
(続く)




