ダンジョンで見かけられたのが、彼の最後の姿である――になって堪るか
暫らく進むと、十字路にでた。相変わらず壁床天井は淡い光を放ち続け、ある程度の視界が確保し続けられるのはありがたい。
「とはいえ…変化がねぇな」
取敢えず、頭の中に地図を描きながら左に折れる。割と方向感覚はいいほうで、見知らぬ土地でも帰路だけなら何とでもなるありがたい能力を持っていた。
そのまま進み続けようとした時だ。
フォン――
背後でそんな感じの、不思議な音が生じる。
正直、いやな予感しかしなかった。ここが遺跡だとすれば、ひょっとしてひょっとすると、守護者みたいなのがいるんじゃないかなーと、映画とかの影響で想像してたのだが。
振り返る。目の前に、壁とかと同じ位の光の粒子が密集していく光景。それが徐々に、手、足、腰、胴体、そして頭というパーツを模っていく。
「…マジか」
逃げた方がいい、と頭の中でガンガン警鐘が鳴り響くが、この異常事態に呑まれた俺の手足は、固まったように動いてくれない。
そして完全に、ソレは姿を確定させる。
漂ってくる、腐った腐肉のような、獣の油のような臭い。俺の腰ほどの背丈に、躰に襤褸を、腰に藁蓑ぽいのを巻きつけ、手には木の棒を持っている。
尖った耳に、そこまで裂けた様な歪んだ口を開けば、黄ばんだ乱杭歯がむき出される。
眼球は濁った黄色で、ソレがぎょろりと動き、俺の姿を拘えた気がした。
「ひ…っ」
思わず声が漏れる。そいつは、俺がビビッているのが判ったかのようにニヤリと笑い、手にもつ棒を振り上げる。
咄嗟に避けられたのは僥倖だった。飛び退いた先で、壁に叩き付けられ嫌な音を立てて、圧し折れた棒を目にする。かなりの太さだった筈だが、どんだけの力を込めて殴ったんだ、殺す気か!?
「ゴギャアアアッ!」
ソレは、俺が避けた事が気に喰わないのか、癇癪を起こしたように手に残った木切れを床に叩きつけ、地団駄を踏む。
そうして呻りながら、こちらに一歩踏み出した。
「ぅ…うわああああああああああああああああああああああああああっっ!!?」
その時初めて、自分の迂闊さを呪った。真物の、殺意。獣のような相手だが、人型のそれから向けられたのは、正にそれだ。
顔から脂汗が浮かび、呼吸が苦しくなる。恐怖のままにソレに背を向け、通路を走り出した。走り出してから、元の場所に通じているであろう小部屋が、向こう側だったことに気づくが。
たたたたた――っ
俺の足音じゃない足音が、後ろから追って来る。
俺に選択肢は無い、ただ只管、相手が諦めるまで逃げ回るか、どうにか回り道を探して小部屋に戻るか。
だが、そんな甘い考えは通らないとばかりに、進行方向に新たな光の塊が生じる。
「冗談じゃねぇ!」
すぐ手前にあった分かれ道を右折する。だがその先でも、更に先でも…狙い済ましたように行く先々で化け物が生まれでて、俺を追い回し始める。
ただ只管、逃げて逃げて逃げて…頭の中に描き続けていた地図だけを便りに、ようやく戻れた小部屋に飛び込む事ができたんだ。
あとで識った事だが、此処は『初心者用』とみなされている場所で、他の場所でこんな走り回れば数分もしないうちに罠を踏み抜いてお陀仏だ、と知り合った相手から聞かされる事になる。
●
小部屋に無様に転がり込んだ俺は、すぐさま手近にあった錆びた武具を漁り、どうにか芯を残していそうな錆びた棒を手に取ると、ばっと今し方飛び込んできた『扉』の方に構える。
心臓が嫌になる程脈打ち、鼓動の音が耳鳴りのように響く。
武器術の心得は無いが、あんな既知外の化け物に、ちょっと喧嘩慣れしてる程度の人間が素手で勝てると思うほど自惚たりはしない。
一分、二分、三分…五分経っても、すぐ後ろまで迫っていた筈の足音の主たちは、壁から現れる事はなかった。
「…助かった、のか? あいつらは、この壁を通れないんだ…はは、はははは…生きてる、助かったぞ俺は!」
暫らく狂ったように哄笑を上げて、味わった恐怖を誤魔化し続ける。
だがそれも落ち着き、我に反って自分の惨状を確認する。全身汗だくで、張り付くシャツが気持ち悪い。手足には、そこここに痛みが走る。
化け物の攻撃は全部避けた心算だったが、実際には幾つか擦っていたらしい。アドレナリンの分泌で痲痺していた痛覚が戻ると、擦り切れや小さな打撲痕がしくしくと痛みを訴えてきた。
「…帰ろう、ここは俺のいるべき場所じゃねぇ……」
ふらりと魔法陣に踏み込む。あの気持ち悪い感覚は嫌だが、死の恐怖に比べたら遥かにましだ。
早く帰って、塗のように眠りたい…いや、腹が減ってるから、先ずは飯を…。
取りとめもなく色々と思い浮かべながら、光に包まれ、俺はこの世界から姿を消した。
そう、世界。
この時は未だ知らなかった、此処が俺のいた地球とは別の、異世界だったなんて。