9.さなえの決意
まだ夜の明けきれぬのに、源内達が出掛けようとしていた時だった。
「私も一緒にまいります」
「どっ、どうしたさなえ坊」
袴に大小の刀を差し、髪も髷に結い直した若侍の姿のさなえが源内達の前に現れた。
突然の登場に皆が唖然とした。一人を除いてはだが。
中でも一番驚いたのは良信だ。目を白黒させて、若侍姿のさなえをしばら見つめていた。
「今日はおなごが行く様な所ではないぞ。それに危ないわい、突然何とした事を言い出すのだ、さなえ坊」
帰雲は思ってもみなかった展開にあたふたするばかりだった。
「そうじゃよ、危ない危ないやめなされ」
良信もさなえに何とか諦めさせ様と懸命だ。
「相模屋さんもお留守じゃし」
「私も相模屋の娘、おじ様達が何をなさろうしているか知っています。どうしても駄目と言われるなら私にも覚悟がございます。おじい様一人に危ない事させる訳にはまいりません」
「ご隠居困りましたな」
諦めそうも無いさなえに、帰雲は源内に助け船を頼んだ。
「仕方がなかろ、これまでだ。帰雲さん連れてまいりましょう」
帰雲はあっけない源内の許しに「こりゃまた早い落城だ」と言葉も出なかった。
「ありがとうおじい様、私は駕籠をもう一つ用意してまいります」
さなえはチラリと豊吉を見てから屋敷の奥に歩いていった。
豊吉もさなえを見て微かに笑った。
その二人の様子を帰曇は見逃さなかった。
昨晩二人は今日の事について話をしていたのだ。
「私も明日はご一緒しょうと思っています」
「さなえさん明日、何をしょうとしているのか知っているのですか」
「ええ知っています。分かったからには女だからと言ってじっとしてはいられません」
さなえは力強い眼で豊吉を見た。
さなえの決意が本物だと豊吉は察した。
「世の中は変ってきています。これからは女の人も日本を動かす事ができる時代になると思っています」
「ありがとう、じゃこれからおじい様にお願いしてまいります」
立ち上がろうとしたさなえの手を握って豊吉が止めた。
さなえは突然手を握られてびっくりして顔をあからめた。
豊吉もはっとして握っていたさなえの手を離した。
「さなえさん、今夜は言わないほうがいいです」
「何故ですか」
「一晩あればご隠居様や帰雲様の事ですから止めさせようと色々手を繰り出してくるでしょう。こっちも策を考えなければ駄目です」
「はい、豊吉様のおっしゃる通りにします。どうしたらいいのですか」
豊吉は少し考えてから、企みを思い付き軽く頷いた。
「明日の朝、出掛ける間際にしましょう。相手に手を打つ間を与えずに正面から一本取りにいった方がいいです。速攻それに強い心の決意です。さなえさん」
「はい、何だか私ワクワクしてきました」
「二人だけの秘密ですよ」
「はい、同士ですねうれしいー」
「さあ、座敷に戻りましょう」
それから二人は何もなかったかの様に座敷に戻った。
「しがねー恋が・・・とんだ事に」
帰雲は自分の予感が当ってしまったかと苦笑した。
「やっぱりあの子は大した曲者だ。なんと私に脅しをかけおった。お前さんも知っているだろあの子の気性を、ここまま残せばあの子の事だからおおそれながらと奉行所に駆け込む覚悟だよ帰雲さん」
「そうかもしれませんな、さなえ坊ならやりかねませんな」
「でも本当によろしいのですかご隠居様」
良信が心配そうな顔でなさなえの後ろ姿を見ながら言った。
「良信さんは知らぬだろうが、あの子の腰に差した刀はだてじゃない。そこらの侍より腕は確かだ。あの小千葉のさなさんと道場で腕を競った程の腕前だ」
「何と、あの桶町千葉定吉殿のご息女。北辰一刀流免許皆伝の女剣士と名高いさな様とでございますか」
「さようでございます。さなえ坊、いやもうそう呼ぶのはやめましょう。さなえさんはこのまま町娘にしておくのはもったいない娘。いや若者です」
「それにしても・・・あっ、いやいやこうなってはしかたがありませんな」
さなえだけにはこの企ての仲間には加わって欲しくないと良信は思っていたが、これまでかと納得した。
「さあ、遅れます出立いたしましょう」
帰雲は皆を急かせて歩き出した。
源内一行はまだ暗い通りを進んでいた。
「すいませんな、私までこの様に駕籠を用意して頂いてな」
良信はさなえの用意した駕籠の戸を開けて中から帰雲に言った。
「今日は長旅になりますからな」
さなえは良信が昨夜の宴席で一人酒の量が多かったのをちゃんと見ていた。朝になっても良信の足取りが少し怪しかったのもしっかり確認していた。
「やはりさなえさんを加えて良かった様ですな」
「本当に、有り難や有り難やでございます。さなえ殿」
「そんなに、大した事ではございません」
さなえは楽しそうに豊吉と並んで胸を張って歩いていた。
「帰雲殿は駕籠で行かれなくても大丈夫でござるかな」
「何の何の、ほれこの通り」
帰曇は余計に足取り軽く歩いて見せた。
「無理をなさっちゃいけませんぜ、まだ先が長いですぜ帰雲の旦那」
調子の良さそうな素振りをした帰雲が余計に伊左次は心配だった。
「旦那、疲れなすったら言ってくださいよ。いつでもあっしの背中でよかったら使ってくだせーよ」
三吉が自分の背中を叩いて見せた。
「その時にはお願いするよ三吉殿」
「言ってくだされ私も代りますぞ帰雲殿」
何と素直な事と、良信も帰雲を気遣って声をかけた。
皆の話を聞いていた駕籠の中の源内は「だいぶ仲間らしくなってきたわい」と口には出さなかったが、嬉しそうにほくそえんでいた。
「長次郎さんも長旅の後だ、くたびれたらこの良信に言ってくだされよ」
「ありがとうございます、これくれー大丈夫ですだ。山仕事にくらべれば大した事はねーですだ」
花火を積んだ荷車の側で黙々と歩いている長次郎が帰曇は気になっていた。
「七兵様なら心配いりませんよ。店の者に江戸見物にお連れする様にと言ってまいりましたから退屈はなさいませんよ」
相模屋にひとり残った、七兵の事を心配している様子の長次郎に、さなえが声を掛けた。
「ありがとうございますだ」
一緒に江戸に出て来た七兵だったが、良信の助言もあり、疲れと歳の事を考え独り相模屋に留まる事になったのだ。
「お見事、またまたさなえ様に一本とられましたな。のう帰雲殿」
「本当でございますな、我々には分からなかった長次郎さんの心の中までしっかりと見抜いたとは恐れ入谷の鬼子母神」