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【第三章】伯爵夫人ミツの西遊記〈グラフィン・ミツのウエスト・クエスト〉(一)

東京を出発したのは一月も終わる頃だった。ロンスペルクには真冬を避け春に到着するように予定していた。

出発に先立って夫と父がまた一悶着起こしてしまい、父は私とだけ別れをして夫と顔を合わせないように見送りには来なかった。

後から思えば、三年と約束はしていたものの、父はもう私とは会えないことを予感していたのかもしれない。

夫が私を二度と日本へは戻さないと思っていたのかもしれなかった。そんなことは無かったのだけれども。

私の方はこの時はまだ日本に戻って来られるつもりでいたから、一緒に日本を離れて連れていくことになった乳母達を慰めるくらいの余裕さえあった。

日本の港を幾つか経て外洋に出ると、波がひどくて私はやはり酔ってしまった。しかし大抵の者がそうで、平気だったのはハインリッヒとバービックくらいのものだったのだ。

真冬のシベリアでは身の凍るような寒さだったが、それから一・二ヶ月しか経っていないのに香港ホンコンやシンガポールやインドではもう夏のような暑さになった。短期間に私は随分と緯度を上下したものだ。

インド洋に入ると海は鏡のような穏やかさになり、私にとってはかなり楽になったのだった。

「ギゼラ号」という長旅の船の中では、私達一家は人気者だった。

ハインリッヒはあっという間に船長と並ぶ船の中心人物になってしまい、船員や乗客達は彼の可愛い盛りの子供達や珍しい日本人妻をも可愛がってくれたのだ。

子供達が歩いたり喋ったりするようになる度に船中が喜んだ。そして食事時の私のテーブルのナプキンにはいつも誰かからの小さな贈り物が隠されているようになり、ハインリッヒは毎回誰かにお礼を言った。

私達は大家族のようであったのだ。

ある時子供達がおもちゃをトイレに投げ込んでしまい、排水管を詰まらせて水道を使えなくしてしまうというハプニングもあったが、びっくりして頭を下げる私達に怒る者は誰もいなかった。


日本にいるときからそうだったが、この船の中でも、私はまるで私もハインリッヒの子供であるかのように扱われていた。おそらく彼自身が私をそう扱っていたからだろう。

私は彼の甘やかされた大きな子供のようなものだったのだ。

そういう立ち位置は決して居心地の悪いものではなかったが、私は同時に少し寂しくも思ってしまった。

子供扱いされることに対するそれこそ子供っぽい反発もあったし、いつの間にか、私はハインリッヒに本当に妻として受け入れてもらえることに憧れるようになっていたのだ。

ハインリッヒは私をとても可愛がってくれ、色々な呼びかけで愛情表現してくれた。

「大好きなミツ」「可愛い私の娘」「大切な神の賜物たまもの」…。

しかし彼は決して私に「我が愛する妻よ」とだけは呼びかけてくれなかった。

とても正直者だったから、嘘は言えなかったのだ。

元々愛し合って結婚したのではないことはお互いに承知していた。しかし、日本を離れるまでには、私の方はすっかり彼にぞっこんになっていたのだ。

だがもちろん、そんなことは彼に言えるはずも無かった。

自分が彼の愛情を得てよい程彼に釣り合う女だとは微塵も思えなかったし、愛していると思いつつも、彼の奥深さを理解し、受け止めるだけの器を持てるようになる自信など有りはしなかったのだ。

彼は私を傷つけないように巧妙に計らいながらも、それでいて断固として私を心に深入りさせようとはしなかった。誰に対してもそうだったのだ。

彼のことを本当に理解できる人間など誰もいなかったに違いない。

私は彼に値せず、彼を本当には理解してもいなかったが、それでも彼を愛してしまった。

私はつまらない女だけれど、それでも彼は私をかわいがってくれ、大切にしてくれる。彼は愛してもいない女を助け護る為に、多大な犠牲を払って私を伯爵夫人の座に据え、側に置いてくれているのだ。

義理の結婚でも、彼は申し分のない夫として誠実と慈愛を示してくれている。

それ以上を望むのは贅沢というものだろう。

しかし、それでもやはり思ってしまうのだ、私が彼に焦がれている十分の一の熱さでもいいから、彼が私を女として愛してくれたなら―――と。

元々、当時の日本では恋愛結婚など稀だったし、私も普通に家同士の社会的結合として感情とは無縁の結婚をすることを何とも思っていなかったはずなのだ―――彼と出会う迄は。

私は十八歳まで未婚だったが、当時としては結婚年齢として既に早いとは言えない年だった。

父は箱入り娘に良い縁談を待っていたのか、それとも実はあまり本気で娘の結婚相手を探したくなかったのか、どちらかは分からないが、そのくせよく「いくらうちが「あぶら屋」だからって、お前まで油ァ売ってちゃあ娘も骨董品になっちまう」と言って笑っていた。

娘を大事にしすぎて結局大嫌いな異人に持っていかれてしまったとは皮肉な話だ。

ハインリッヒと結ばれることとなったときはゾッとしたが、今では彼と出会っていなかったらと思うとゾッとする。

彼は私に恋を経験させてくれ、人を愛することのできる幸せを与えてくれた。愛してもらえる喜びまで求めるのは―――特に彼程の男からの愛は―――過大な希求というものだろう。

初恋の苦しさと混乱に耐え切れず、私は明治の日本女性の鑑になるしか他になかった。

はしたなく恋などで夫に迷惑をかけてはいけない。

だから私にできることといえば、彼への想いを胸に秘め、彼を困らせず、分を弁えて、彼の望みにただ従うこと―――それだけだった。


インド洋を横断し、紅海を北上してスエズ運河を抜け、私達は地中海に入った。

セイロン島、インドのボンベイ、ハイデラーバード、アラビア半島の南端近いアデン、聖地エルサレム、エジプトのアレクサンドリア、カイロ…。

美しい港や都市や人々…。本当に色んなものを見た。

陳腐な言い種だが、やはり、百聞と一見には天地の隔たりがある。この数年外国について学んではいたが、世界は想像以上に広かった。

小さい頃から自分達とは違う人々の住む外国というものがあるのは知っていたし海を見たことはあったが、その無限に続くように思える海原の向こうにどんな国が在りどんな人々がいるかなど、私などには想像もつかなかったのだ。

いま、こうして、予想だにしなかった外国人の夫を持ち、海外に出てみると、今まで私の全てだった世界が、地球の上ではいかに小さなちっぽけなものであったかを思い知った。

私はこれまで、この広い世界の中の針で突いたような一点だけを自分の場として、何も知らずに過ごしてきたのだ。

それが幸せだったのか不幸だったのかは分からないけど、私は、鳥のように世界を俯瞰する高みに飛ばせてくれたハインリッヒに感謝していた。


私は日本も美しいと思っていたけれど、西アジアや中東の国々の美しさもまた、まるでお伽噺のようだった。

何というか、すべてが詩的で絵画的なのだ。

私の目にはアジア人やヨーロッパ人よりも、インド人やアラビア人の方が一番美しい顔立ちをしているように思えた。

ただ、天国の様に美しい国々が、地獄の様に暑かったのには少々閉口したが…。

ハインリッヒは色々な場所に連れて行ってくれ、私に説明してくれた。

彼と私にとって、この旅は大規模で豪華な修学旅行のようなものだった。

彼は様々なものを私に見せ、私の興味を呼び起こし、私に自分の頭で考え、自分の心で感じることを教えようとしていたのだ。

私は美しい国にはまた不気味で恐ろしい一面があることも知った。西アジアや中東では恐ろしい死を目にすることがしばしばあった。

ボンベイで見た禿鷹達が死体を貪るという鳥葬の「沈黙の塔」、アデンで見た海面上にマストだけが突き出ていた沈没船など…。船員達の死体は海の中で魚や海老に食われているに違いない…。

不気味だけれど奇妙に詩情を煽るような死の光景を、私はこの旅で幾つか目にした。

ハインリッヒはあれだけ陽気で明朗快活な人なのに、よく好んでこういった死の話をした。

哲学者だったから、「死を忘れるな(メメント・モリ)」という訳だろうか。

彼はいつも精力的で生命力に溢れ、人生の盛りである活力と華やぎに満ちた青春を生きていた。おそらく彼は老人になったとしてもそうだったに違いない。

彼は常に生の光に輝いている人だったのだ。

だからこそ、その反面である死の闇に惹かれ、魅せられていたのだろうか。

彼程色濃く生と死を感じさせる人間は他にはいなかった。


ハインリッヒは、インドで、今回は行くことはできなかったが、以前に見たことがあるというタージ・マハールという建物の話をしてくれた。

インドの皇帝が、お産で亡くなった愛妃の為に建てた、白く大きく美しい霊廟なのだそうだ。

愛する男の子供を産んで亡くなった女を、死後も愛し続ける男―――。

とてもロマンチックな話だ。

ハインリッヒはよく、もし私が死んだら、私の髪を金の壺に入れて机の上に飾り、ずっと側に置いておくのだと言っていた。

私はまるで子供のように若くて元気だったけれど、それなら彼より先に死ぬのも悪くないとその時思った。

しかし、こういう美しい死の話ならともかく、ハインリッヒがカイロで本物の死体―――干からびたミイラの頭―――を買おうとしたときはゾッとした。

その時ばかりは、私が強く反対したので、さすがに夫も諦めてくれたようだった。

私の金の壺の横にそんなものを置かれてはたまったものではない!

ハインリッヒは研究の為だと言っていたけれど、そんな気味の悪いものを欲しがるなんて、夫の趣味と興味はいつも私の理解を超える。


エジプトの観光の前に、スエズ運河を抜けたところで、ポートサイドの港で、私達の家と家族のようになっていた船と船員達とはお別れしていた。

子供達とバービック、二人の乳母達ともそこで一旦別れ、彼らは一足先にウィーンへ向かうことになっていた。

シリア・エジプトからヨーロッパへは、以前のシベリア・朝鮮旅行のように私達夫婦二人きりだった。

後から思えば、この時も私達の絆を深める好機であったのかもしれないが、この時は子供達への心配が頭から離れなかった。

以前の旅行では子供達は両親に預けていたが、今回は夫の家族とはいえ、私にとっては見知らぬ人々に託すことになったのだ。

もちろん、バービックが付いていてくれたから、彼のことは信頼していたのだけれど…。

アレクサンドリアからイタリアのブリンディジへと渡り、私達はついにヨーロッパへと上陸した。

そこで私達は、子供達が無事にウィーンに着いてロンスペルクに至り、温かく受け入れられ世話をされているという知らせを受け取って、ほっとしたのだ。

私達はロンスペルクへ急ぎ始めた。

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