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【第二章】西洋源氏物語(参)~青い瞳の光源氏とドレスを召した紫の上~

ハインリッヒは日本に駐在している間、日本との外交上特に目立った働きがあった訳ではなかった。言ってしまえば何もしなかった。

すでに述べたように、当時の日本におけるオーストリア=ハンガリー二重帝国の外交官というのはこれまでも大体そうなのだった。

しかし、ハインリッヒが駐在していた時期には日本では日清戦争が起きている。

帝国主義のヨーロッパ列強国が極東に進出し、アジアの国々の泥沼の争いに乗じて爪を伸ばし牙を研いでいたときに、オーストリア=ハンガリー二重帝国の公使ハインリッヒは何もしなかった(・・・・・・・)

もちろん彼の無為は無視では無かった。着任したときから、彼の目と耳は最大限に開かれており、日清戦争が始まると本国に向けてせっせと戦況報告と見解具申を行っていたのである。

ヨーロッパ列強国の外国人達が皆、大国清に対する小国日本の敗北を予想していた中で、ハインリッヒだけは日本の勝利を予見していた。

皆はハインリッヒが日本人の愛妻を持っているせいだろうと笑っていたが、ハインリッヒの予測の正しさは間もなく証明されることとなる。

日清戦争の勝敗の原因は色々あるが、主には国体や軍備の近代化の成否、軍事・政治・外交の挙国一致と門閥・軍閥によるまとまりの欠如、上層部の質実剛健と汚濁腐敗という違い、そしてこの戦争にかける必死さの差などが挙げられるだろう。

後からこれらのことを分析するのは容易であるが、先見の明を以て見抜いている者はそうはいなかった。

美津は、日本の勝因を「日本人は恐ろしく義務感があって、鉄の意志を持ち、無私の心があって…」など安直な精神論で考えていたようであるが、もちろんハインリッヒはそうではなかった。

当時の外交官には珍しくじかに日本人と話のできたハインリッヒは、首相や皇族を筆頭に日本の要人にも知己が多く、またあらゆる場所に出向いていたというから、何か日本の勝因を見て取ったのだろう。

ハインリッヒは未来の多くのことを見通していたという。

軍の武器庫なども見学したことがあり、その在庫の豊かさと質の高さに驚嘆して日露戦争や日英同盟や満州鉄道の設立を予言した報告書を本国に送っている。

ハインリッヒの情報収集能力と分析力は、他人の眼には予知能力を持っているようにさえ思える程のものだったのである。


しかしハインリッヒも予想できない意外な事態も起こってしまった。

下関講和条約の後、ハインリッヒは清国の李鴻章から電報を受け取った。

このとき、李鴻章からクーデンホーフにどのような電報が送られたのか、詳しい内容は伝わっていない。

美津夫人が後に残した手記によれば、オーストリア系のユダヤ人が何か清国政府や日清戦争に関わり、大金が絡んでいるということらしかった。

下関講和条約で清国は日本に二億テールの賠償金を支払うこととなっており、その後三国干渉によって遼東半島を保持する代償にさらに三千万テールを支払うこととなる。

アヘン戦争以来、主にイギリスやその植民地の系統であったが、ユダヤ人商人は極東の戦争ビジネスにも進出していたから、何かその辺の金銭事情にそのオーストリア系ユダヤ人とやらが絡んでいたものでもあろうか。

後にヨーロッパ列強はその賠償金を工面する清に対する借款をきっかけに清に租借地を得て半植民地化するのである。

ハインリッヒは迷った。

今迄は傍観の立場を取っていたが、これから一体どうするべきか。

オーストリア=ハンガリー二重帝国はヨーロッパ列強国の中では稀に、アジアに対してそれ程帝国主義的な行動はしていなかった。もともと帝国の構成からして領土内に植民地を抱えているようなものだった。

ハインリッヒはイギリスの産業革命以来世界最先進の高度な文明と高貴な文化に心を奪われ、その本土の狭小さに比べて広大な植民地を持つに至った武威に目を奪われてはいたが、一方でその「文明国」が「野蛮国」に対してはいかにそれ以上に野蛮で野卑になれるかをよく知っていた。

だからオーストリア=ハンガリー二重帝国が弱肉強食の帝国主義のリングに上がっていないことを幸いに思っていたのだが、しかし一方では、これはその点において出遅れているとも言える帝国が極東に進出する機会であるかもしれない、という思いも心の内に湧いてきてしまうのである。

ハインリッヒはとりあえずシーボルトと話そうと思った。

シーボルトはハインリッヒにとって有能な部下であり有力な情報源でもあった。

電報を受け取ったのは夜遅くであり、考えあぐねている内にすでに深夜になっていたが、ハインリッヒは人力車を呼んで出掛けようとした。

その時、美津はとうとう思い切ってハインリッヒに意見を述べた。

「今オーストリア=ハンガリー二重帝国の公使が動いていることが目立ってはよろしくないのではございませんか。

現場の判断すべき域を超えている可能性があるのなら、暗号にしてウィーンの外務省に直接お伝えになって、回答をお求めになった方がよろしいように思われるのですけれども…」

最後の方には美津の声は小さくなってしまっていた。ハインリッヒが目を見張って彼女を見つめていたからである。

美津は一瞬、自分はとんでもなく愚かなことを言ってしまったのだろうかと思ってしまった。

しかし、ハインリッヒはふっと表情を和らげると美津に微笑んでこう言った。

「君の判断は正しい。ミツ。

君のアイデアに従ってみることにしよう。私は賢い妻を持って幸せだ」

半分は美津を思っての言葉であった。

美津が夫の仕事に口を出すなど、余程思いつめていたのであろう。

必死な美津の表情を見て、ハインリッヒは一瞬でも帝国主義的な思いを抱いてしまった自分を恥じた。

美津の提言に従ったというより、その行動自体がハインリッヒに本国に警告と牽制をしておく決意を促した。

ハインリッヒは公使館に向かい、執務室で徹夜で暗号文を作成すると、朝一番で本国に電報を送った。

極東の泥沼に関わるべからず、というハインリッヒの警告に対する帝国外務省の回答は「とんでもない」というものだったので、ハインリッヒは大いにほっとしたのであった。

そして数日後、ロシア・フランス・ドイツの三国干渉が起こったが、帝国の同盟国のドイツは名を連ねていたものの、もちろんオーストリア=ハンガリー二重帝国を含めた「四国干渉」は起こらなかった。

美津も一緒に夫婦で安堵したのであったが、もっとも日本や清や干渉国にとっては大変な事態であったことには違いない。


美津は自分が賢いなどとは少しも思っていなかった。

しかし、人間一生に一度くらいは実力以上にすごいことができることもある。この時は必死だったし、そういうまぐれが美津にも訪れたのであろう。

実際、美津がハインリッヒの仕事に口を出すことなどこれが最初で最後であった。

美津はしばらく興奮していた。

もしハインリッヒが帝国に違うメッセージを送っていたなら、そしてもし美津がハインリッヒに違うことを述べていたなら、もしくは何も言わなかったら、もしかするとその後の情勢も少し違ったものになったかもしれないのである。

極めて間接的に、また不確定的にではあるが、自分は極東の歴史を動かすことに参加したのだ!

ほんの数年前の自分とは何という違いだろう。

美津にとっては生涯でこれっきりだったが、ハインリッヒはこれまでこういうことをしてきたし、これからもしていくのだろう。

美津は自分の夫が以前の自分のように歴史に動かされる側ではなく歴史を動かす側の人間であることをしみじみと感じたのだった。


当時のオーストリア=ハンガリー二重帝国の駐日公使は、同時にまた清国・朝鮮・シャムの公使の仕事も兼ねていた。要するに「駐東アジア公使」ともいうべきものだったのだ。

しかし日清戦争の後、ハインリッヒは情勢にかんがみて最早それではカヴァーしきれないことを悟った。

着任したときは太平楽に骨董屋通いと美津との婚活に明け暮れていられたが、今やリポートに忙殺されている。

軍事的にはともかく政治的にはオーストリア=ハンガリー二重帝国ももっとアジアに進出すべきだと考え、ハインリッヒは帝国外務省に北京ペキン大使館の設置を進言した。

帝国外務省はそれを受け入れて、新大使館の下準備をクーデンホーフに全て一任したのであった。

国際情勢において極東の重要性がここまで増すと、「駐東アジア公使」など、アジアの言語を含めて十八ヶ国語を話し、東洋の思想にも精通しているハインリッヒでもなければ、まともに務めることなど不可能だった。

ハインリッヒは人間に完璧を求めることの無益さをよく知っていた。

日清戦争が終結した年、シーボルトは上海シャンハイのオーストリア=ハンガリー二重帝国総領事館に総領事代理として赴任している。ハインリッヒの推薦によるものであった。

シーボルトはギムナジウムを卒業もしない内に若すぎる年齢で兄の後を追って日本にやって来ている。

彼は各国の在日公館で下積みを重ねながら考古学のフィールドワークに従事する道を選んだので、その知性にも関わらず学歴が無く、キャリアを進展させることが難しかった。

ハインリッヒがいなければここまでは望めなかったに違いない。

しかし残念ながら、シーボルトはこの頃から体を壊し始め、すぐにその任から降りなくてはいけなくなってしまったのだった。


日清戦争の後、ハインリッヒの身辺は危うくなった。

西洋人に東洋人の見分けがつかないように、日本人もまた西洋人の区別など理解できるはずが無かったのだ。

三国干渉によって外国人全体に対する見境の無い反感が高まり、それに関わっていない国の外国人達までもが暗殺や襲撃に会いかねなかった。

各国公使館には警備の者が詰めるようになり、外交官やその家族にまで護衛が付けられた。

ハインリッヒも内心では緊張していたに違いない。しかし彼はそんな素振りは少しも見せなかったのだ。

明治の文明の世になって以来、公には武器の携帯を許されていなかったから、ハインリッヒは常に服に内ポケットを作ってピストルを忍ばせ、当時の警官が用いていたような杖に擬した仕込み刀を持ち歩いていたという。

そして彼の肩くらい迄しかない身長の日本人護衛官にそれを見せて親しげに肩を叩き、「私も貴方を護ってあげましょう。我が友よマイ・ディア・フレンド」と言って不敵に笑うのだった。

護衛官は皆ハインリッヒの豪胆さと気さくさに驚いたという。


ハインリッヒは日本の時代の変動期に居合わせてその青い目に焼き付け、怜悧な知性を以てその先行きを眺望していた。

日本に来る以前と日本を発った後とでは日本に対する思いはどう変わったのか。

ただ一つ言えるのは、帰国後も彼が日本を愛し続けていたことだけは確かであった。

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