表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/28

【第一章】アンチ・シンデレラ(Ⅲ)

それでも頑固者の喜八はなかなか承諾を与えようとしなかったが、私はその後も喜八のところへ通い、頼み続けた。

ようやく「勝手にしやがれ」というお言葉を頂戴したので、私達は勝手にすることにした。これでも上出来としなくてはいけない。

美津の母親のつねは、比較的早く私を気に入ってくれたようだった。

私はつねを美津の母親として、そして何より一人の女性、一人の人間として尊重したし、つねも薬を作って人に分け与えたりする慈善家的な面があったから―――美津は、つねの薬で却って人が当たらないか心配だったなどと笑って言っていたが―――、よく慈善活動を行っていた私にも好感を抱いてくれたようだ。私のことをしばしば褒めていると美津が教えてくれた。

私は外国人ということを除けば娘の婿として申し分のない男なので、それがかえって父親には気に入らず、母親には受けがいい―――らしい。

もちろん、つねは喜八に逆らったりはできなかっただろうが、ささやかな味方でもありがたかった。

私は喜八に結納金として通常の十倍以上の額を払った。

何だか妻を金で買うような風習だと思ったが、日本では妻をもらう男の側の器量と誠意を示すものであるというから、出し惜しみはしなかった。

この時ばかりは喜八は素直に受け取った。

かわいい娘の嫁入り支度を豪華にしてやれるし、私のことはなかなか受け入れられなくても、私の金はすんなり受け入れられるらしかった。

日本の両親の方がとりあえず何とかなると、今度は私の家の方を片付けなくてはいけなかった。

私の母はすでに亡くなっていたが、私の方も問題は父親だった。どれほど反対されることか、考えただけでも頭が痛くなる。

しかし、今度こそはもう父に邪魔などさせるつもりはなかった。私は自分の意思を貫いて思い通りにしてみせる。私はもう立派な成人男子なのだから…。

喜八は親戚を宥めるために形式上は勘当という形を取って美津に財産を継がせなかったが、私は逆に先手を打って、こちらから父の遺産分与の権利を放棄するという旨を美津との結婚報告と共に書きつけて送ってやった。

私は長男だったが、クーデンホーフ家は弟が継げばいい。私は、日本人と結婚してもし外交官を続けられなくなったら、ジャワでコーヒー園でもるとしようか…。

結婚はめでたいことであるはずなのに、何だかヤケになっている様なことを考えてしまった。男にもマリッジ・ブルーというものがあるらしい。


私達は築地の教会で式を挙げ、その馬車と出席した各国外交使節団は人目を引いた。

日本で知り合った西洋人達は、皆私達のことを祝福してくれた。

日本人と結婚した私は後にウィーンの社交界では少々苦労するが、日本にいる西洋人達は、わざわざ世界の辺境の島国を選んで来るような人々だけあって、私と同じ様に冒険家で、ロマンチストで、変人だった。

私達はよく気が合った。

私は休暇を取って美津と蝦夷地へ旅行に出かけた。つまり新婚旅行だ。

旅行といえば後にはウラジオストックや朝鮮にも行った。

私はすでに美津に籍を移す前からオーストリア=ハンガリー二重帝国のパスポートを発行しており、美津はこの時二重国籍だったことになる。

当時はこういう無茶もできたのだ。

しかし、どれほど盛大な式を挙げ、実質を備えて美津を妻として扱おうと、美津と正式な婚姻を結び、公式な形式を整えることはしばらくはできなかった。

紙切れ一枚でできた壁はなかなかに厚いものだったのだ。

当時外交官が任地の人間と結びつくのは良くないこととされていたから、正式な婚姻を結べば私は日本公使の任からは外されるだろう。

美津を国外に連れ出す為には色々と教育する時間が必要だったし、私も、せっかく来たからにはしばらく日本にいたかったのだ。


羅紗緬らしゃめんという言葉がある。

本来は綿羊のことだが、当時、西洋人の船乗りは航海中の食欲と性欲の不満足解消の必要に迫られた場合の為に船内に羊を飼っている、という風聞が日本人達の間でまことしやかに流布しており、そこから西洋人の愛人となる女性のことを指すようになった。

吐き気のする様な話だ。

私は美津をいつ迄もそんな風に呼ばせておく気はなかったが、私達が公式な結婚をするまでに三年かかった。

約二五〇年に渡り鎖国令を布いていた幕府が倒れ、明治の世になってまだ二五年に過ぎない。

近年になるまで外交官は日本国内に妻を伴うことが許されず、外国人が日本人と結婚することも認められていなかった。

外国人の男性は基本的に女性とは娼婦としか接触できず、そういった偏見は今でも根強く残っていたのだ。

日本人に女性を差し出されたのは私だけではなく、過去には初代のアメリカ総領事のタウンゼント・ハリスが日本政府に看護婦を要求したところ芸者を派遣おくられ激怒したという話がある。

きちというその女性は恋人と引き裂かれて差し出された上、ハリスの体調が回復するとすぐに追い返されてしまったが、彼女はその後羅紗緬として差別され不遇な人生を送り自殺してしまう。

彼女が勤めたのはたった三ヶ月で、聖公会信徒だったハリスは一生独身で童貞だったのだが…。

美津は大店おおだなのお嬢様だったが、私が美津を追い返せる訳がなかった。

また、小シーボルトと呼ばれる私の書記官が生まれる前、彼の父である大シーボルトはお滝という芸者との間にいねという娘を設けたが、大シーボルトが日本を追放された後、彼女は羅紗緬の娘としてさんざんひどい目に会ったらしい。

しかし彼女は困難にもめげず父親と同じ医学を学んで藩主の覚えもめでたい日本初の産科女医となり、父同様来日した異母弟である小シーボルトは彼女を援助して産院を開かせ、彼女が引退した後今も腹違いの姉の余生の面倒を見ている。

そういう身近な例もあって、私はこうした状況に一石を投じ、異国の男女の真っ当な国際結婚に先鞭をつけるべく、美津との結婚を決意した面もある。


もっとも、私も決して完璧な聖人君子ではなかった。

美津の体を開いてからしばらくは、私は美津との性に溺れた。

マリーに死なれて以来、随分とお綺麗に過ごしてきたが、若い男の悲しいさがで、体の方はやはり結構飢えていたらしい。

両手で掴めそうな程ウエストが細く、ギリシア彫刻も敵わないような美しい美津の体を貪りながら、一体どこの誰が女はいらないと言ったのか思い出しては苦笑した。

私は自分でも可笑しくなるくらい潔癖だったが、決して淡白ではないことを思い知らされた。

美津も、私がよろこび満足しているのは嬉しいことの様だった。

休みの日には一度ならず二人で一日中寝室に閉じ籠ったことがあり、休み明けの朝に顔を合わせたシーボルトにニヤニヤとした表情を向けられ―――決して非好意的なものではなかったが―――、私が照れ隠しに咳払いをするのを見てバービックが笑いをこらえるという場面もあった。

美津は私の身も心も癒してくれ、私も美津の全てを可愛がった。

私達はすぐに子宝を授かり、いつ迄も公使館を新婚家庭にはしておけないので、美津が懐妊すると私達は当時珍しかった洋館の借家を見つけそこに移った。ドイツ留学の経験のある日本のある医学博士が建てたものだった。


子供は双子だった。

初めて長男のハンス―――日本名は光太郎こうたろうと名付けた―――と長女のオルガ―――日本名は美津の一字を取って美子よしこと名付けた―――を抱き上げた時、私は感極まって泣いてしまった。

この私が夫となり、父となるとは…!

数年前までは家庭を持つことなど想像もできなかった。

美津と私は、恋した惚れたではなく、慈しみ慕い合う、情愛と親和によって結びついている夫婦だった。

私は自分の心の迷宮に決して彼女を立ち入らせなかった。彼女はミノタウロスの迷宮ラビュリントスを解いたアリアドネではない。迷子になってしまうだろう…。彼女には酷というものだ。

日本女性というのは賢く、よくわきまえていて、彼女も私の心に深入りしようとはしてこなかった。

彼女は私に恩謝と信頼と尊敬の念を抱いてくれたが、それ以上のものを示されたら、私はきっとひどく困っただろう。

しかし、ようやく私達には子供という絆ができた。二人で心を通わせることのできるものが生まれたのだ。

私に再びこんな幸せが許される日が来るとは思わなかった。

今度こそ、私は自分の妻と子を幸せにしなくてはならない。

今度こそ…。

娘と息子の顔立ちはほとんど白人に近かったが、目と髪の色は深く濃かった。

私達の子達がいつか西洋と東洋の架け橋となってくれると良い…。

次の年には次男のリヒャルト―――日本名は栄次郎えいじろうとした―――が生まれた。

そしてその後間もなく、父の訃報が母国くにから届いた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ