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【第六章】雪の女王達(クラブ)

一九二一年に第一次世界大戦は終わった。

この大戦の終わりによって近代が終わり、そしてハプスブルク帝国も終わった。

大戦末期のヨーロッパを覆った厭戦と革命の気運によってハプスブルク帝国の諸民族も相次いで独立の旗を揚げ、帝国の最後の皇帝カール一世は退位を表明して国外へ亡命した。

大戦後、帝国の為に自分の相続分の財産を戦時公債にしていたゲロルフは全財産を失ってしまった。

一文無しとなったゲロルフは帰還後、ハンスの世話になりながらプラハ大学に入学し、ハインリッヒと同じく法学を学んで博士号を取っている。

帝国は分裂して小国家群となり、ロンスペルクはチェコスロヴァキア領に組み込まれた。

チェコスロヴァキアとドイツの境にあるドイツ人の多いズデーテンラントでは強引なチェコ化が押し進められ、抑圧されたドイツ系住民の反発を高めた。

もちろん、ズデーテンラントに含まれるドイツ=オーストリア系のロンスペルクのハンス・クーデンホーフ=カレルギーもその一人だった。

新しい共和国では、無くなってしまったハプスブルクの貴族など白眼視される存在になってしまい、肩身が狭く風当たりもきつかった。

主筋のハプスブルク家が没落してクーデンホーフ家は祖国を失った。

美津はこの事態をどの程度理解していたであろうか。帝や王の居ない国や政治というものを果たして理解できたのだろうか。

一度祖国を失った美津は再び二つ目の祖国をも失ってしまったのである。

一方、既に勘当されて帰るべき故郷も財産も失っていたリヒャルトにとっては、ハプスブルク家も貴族の地位もどうでもよかった。むしろ故郷が共和国になったことを喜んでいたようである。

リヒャルトは大学を卒業後、ハインリッヒと同じように哲学や歴史の学者や教授になりたいと思っていた。

イダはリヒャルトを学業だけでなく社会人としての事業においても助けた。

リヒャルトはイダの妹の夫が編集長を務める雑誌に論文を載せてもらったのをきっかけに有名誌からも執筆のオファーが来るようになり、文壇の新星としてデヴューした。

終戦後間もなく、リヒャルトはフリーメイソンに入会している。おそらくこの結社の友愛・慈善の精神に共鳴したのであろう。もともと父親譲りのロマンチストで神秘的なものを好む性質たちでもあった。

現在のEUの思想の生みの親はフリーメイソンの影響を受けた人物だったのである。


一九二二年の四月初めに、イダとリヒャルトは公演の為にバイエルンの首都ミュンヘンに滞在していた。

当時ミュンヘンは戦後のワイマール共和国成立後も革命路線を続け、急進化の道を歩んでいた。

そんな中でも演劇は人々の娯楽として生き残っており、イダの公演のチケットも毎晩完売であったという。

二人がミュンヘンに来ておよそ二週間が経った頃、突如街中に「バイエルンは共和国の成立を宣言する!」というポスターが貼り出され、夫妻が宿泊しているホテルにも赤い腕章を付けた兵士達がやって来た。夜中の三時にである。

まずイダの部屋にやって来た重装備の兵士達は、荒々しいノックで「国家警察だ!開けろ!」と言うなり部屋に乱入してきた。

一番最初に足を踏み入れた兵士は、叩き起こされて寝間着のまま立っているイダの姿を目にして思わず立ち止まった。

起きぬけにも関わらず彼女には寝乱れた様子も寝呆けた感じも見受けられず、化粧もしていないのに美しい顔で寝間着でもドレスを着た女王の様に毅然として兵士達の前に立ちはだかった。

彼らはその威に打たれて歩みを止めてしまったのである。

「あんたの―――いや、あなたのお名前を聞かせて頂きましょう、ご婦人(フラウ)―――?」

「イダ・ローランですわ」

「ああ、そこの劇場でってた芝居の―――。そうですか」

どうやらその兵士はイダのことを知っていたようである。

「どうぞ興奮なさらず。パスポートを拝見できますか」

興奮しているのはそちらだろうに、と思いながらイダはパスポートを持ち出して兵士に渡した。

「おや、あなたは伯爵夫人なのですね」

「わたくしの夫は伯爵ですが」

「今どちらに?」

「隣ですわ」

そうして兵士達は今度はリヒャルトの部屋に押しかけて来た。彼らは夫の方には遠慮が無かった。

兵士達はリヒャルトが何か武器や反共産主義の書物などを持ってはいないかと部屋中をひっくり返した。

「あんたが反革命分子ではない(・・・・)という証拠がありますかな、伯爵様?」と一人の兵士が意地悪く笑って言った。

青ざめるリヒャルトの横でイダが激しく抗議を始めた。

「伯爵だからどうだというのです!トルストイだって伯爵だったではありませんか!」

ミュンヘンの共産主義者達はトルストイの博愛主義を自分達の理想として宣伝していた。

この時イダはとっさにそれをバイエルン訛りで話したという。恐ろしい機転である。

たじろぐ兵士にイダはリヒャルトがプラトンについて述べた論文が載っている雑誌を手渡した。

プラトンの主義がどんなものであったか、とっさに判断することは難しい。要するにイダは時間を稼いだのである。

上官にそれを見せに行った隊長らしき兵士が戻るまで、断りも無くタバコをふかす不躾な兵士達の吐く煙の中で二時間、二人は生きた心地もせずに待たされた。

リヒャルトは自分が貴族であるせいでイダの身に何かあったら、芸術界に大きな損失を与えてしまうと思っていたし、イダは自分に付いて来たせいでリヒャルトの身に何かあったら美津に顔向けができないと思っていた。

お互いに相手を護ろうと必死だったのである。

ようやく隊長が戻って来ると、彼は二人に雑誌を返して笑顔を見せた。

「もう結構です。どうもお邪魔しました。どうぞお休み下さい」

こうして夫婦は危うく虎口を逃れたのである。

後にリヒャルトはこの夜のイダの「武勇伝」を誇らしげによく語ったという。

イダの見事な機転は夫の命を救った。結果的に彼女はその後の平和の歴史を護ったのである。

その後リヒャルト・イダ夫妻は密かにミュンヘンの友人達の家を泊まり歩いた。共産主義共和国で貴族がうろつくことの危険を知っている者の幾人かに匿うことを拒まれたりもしたが。

やがて約一ヶ月後、中央政府からリッター・フォン・エップ率いる義勇軍フライコールが派遣されてきた。リヒャルトは匿われていたホテルの隠し部屋からこの戦いを目にしている。

この時の指揮官エップは、後のドイツ第三帝国の指導者の一人となる。

こうしてミュンヘンの労兵協議会レーテ共和国が滅びると、夫妻はようやく列車でミュンヘンを脱出することができたのであった。

これは戦争に行かなかったリヒャルトが初めて経験した戦争の恐ろしさだった。


第一次世界大戦は世界で初の近代的大戦だった。これまでの馬や銃剣や大砲の古式ゆかしい戦争とは全く違っていた。

戦車や戦闘機や潜水艦や毒ガス、ガトリング砲といった近代兵器は戦禍を際限なく拡大させ、大量生産された兵士達の人命と物資の果てしない消費を増大させた。これまでとは桁が違う破壊と荒廃が狂気と恐怖を肥大させた。

戦争に行かなかったリヒャルトでさえ、このことをひしひしと感じていた。また歴史を学んでいたリヒャルトはこのことを大きな時間軸で考えることができたのである。

ヨーロッパを復興させ、また世界に新しい秩序をもたらさなくてはならない。二度と世界大戦を起こしてはならない。

近代兵器は、それを生み出した人類にとってさえ手に余るものになる。次、戦争が起これば、間違いなくこの大戦を上回る想像を絶するとんでもない悲劇が起こる。

ここで食い止めなければならない。世界に平和と軍縮を!

では新しい秩序とは何か。平和をもたらすにはどうすればいいのか。

―――そうして生まれたのが「パン・ヨーロッパ」の思想であった。

第一次世界大戦の後、疲労しばらばらになり弱体化してしまったヨーロッパの各国には強い不満が鬱積している。そして戦争によって勃興したアメリカと革命により新興したソ連の存在が重くのしかかっていた。

リヒャルトが最終的に目指していたのは地球の全世界共同体化であったが、とてもそんな状況ではない。

リヒャルトはまず世界をヨーロッパ、イギリス領連邦、ソ連、南北アメリカ、東アジアの五つの共同体のブロックに分割してバランスを保つことを考えた。そしてその為にさらにまずヨーロッパを一つの共同体にすること、ソ連の軍事力とアメリカの経済力に対抗し得る存在として統合すること、を提唱したのである。

植民地という概念を含んだままであったのが、この時代の人間としてリヒャルトにも限界があったことを感じさせるが、それでも気宇壮大なアイデアではある。

ヨーロッパの各国が国益を共有して一つにまとまり世界の平和共存を発展させる。

現在のEUは、このお坊ちゃんの青年貴族の一見夢としか思えないような話から始まったのである。

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