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【第一章】アンチ・シンデレラ(Ⅱ)

見合い―――シーボルトが詳しい意味を教えてくれた。富太郎にしてみれば「面接」としか訳しようがなかったのだろう―――の当日、美津が無事に姿を現したので私はほっとした。

私は青山一家にひたすら、一刻も早く美津を公使館に移住させるように、と繰り返した。さぞ好色な男と思われてしまったことだろう。しかし、私は美津を喜八の手元に置いておくのが心配で仕方なかったのだ。

私は頑固な父親というものが嫌いだった。

美津はほとんど喋らなかった。彼女には主体性など与えられてはいなかったのだ。彼女は能面の様に無表情で、時折私と目が合ったが、その顔は白人の様に青白かった。

私がするのもおかしな話だが、私は彼女にひどく同情してしまった。

彼女は最後に「お世話になります。よろしくお願い申し上げます」と言って三つ指を付いて頭を下げた。

こうして美津は私のもとへ来ることになった。

美津と結ばれるまでに、私は男として様々に思い煩った。

私は自分にはもう女性を愛したり愛されたりする資格が無いと思っていたから、美津に対するひどい罪悪感に苛まれたのだ。だがもしかすると、これは神が私に与え給うた贖罪の機会、むしろ恩恵なのではないか。神は私に過去を償う為に美津を救い彼女を護れと仰せなのではないのだろうか。私としてはそう思う他に無かったのだが。

また、東洋の女性と結ばれることで、社会人として、国際人として、さらに深刻で大きな懊悩と煩悶を抱えていたのだ。

だがそれも、美津が抱える苦しみに比べたらまだしもというべきものだっただろう。一番辛いのは美津だったのだから。


美津が公使館に移ってきた日、二人で寝室に入った夜、美津は可哀想なくらいに怯えていた。どう抑えても抑えきれずに体が震えているのが私にも見て取れた。

私は精一杯彼女を宥めようとした。

「ミツサンハ、カワイイヒトデス。ワタシハ、コワクナイデス。ダイジョウブ…」

そう言って美津に触れようとした瞬間、どこに隠していたのか、美津は小さな剃刀を取り出して両手で柄を握り、胸の前に構えた。

私を殺そうとしたのか、自殺しようとしたのか、どちらかは分からない。しかし、すぐに私を殺すのは不可能と悟って諦めたものか、刃を自分の方に向けて後退あとじさった。

僅かながらに度胸が意思に追いついていないらしかった。当然だろう。そう簡単に自らの命を絶つ決断などできるものではない。

私は身をもってそれを知っていた。

よく日本人は必要があれば潔く自らの命を断つと言われるが、それは誤解であるはずだ。滅多なことだからこそ人の印象に残り、難しいことだからこそ美化されもするのだ。

私は彼女がほんの少し躊躇ためらった隙を見逃さず、寸でのところで彼女の手から剃刀をもぎ取った。

「もっと自分を大切にしろ!」

私は生まれて初めて女性を怒鳴りつけてしまい、思わずドイツ語で叫んでしまったことに気付いて、しまったと思った。美津には通じていなかっただろう。

刃の方を握って奪い取ったので私の手は切れて血が滴った。

命がけで拒まれて、私の心も傷ついていた。

私はネクタイ(*当時の幅の広いスカーフに近いもの)を外して手に巻きつけた。

美津は私の足元に泣き崩れ、私に必死に訴えた。

「お許し下さい…どうぞ、お許しを!

家族やお国は関係無いのです。すべて私が一人でしたことです!罰するなら、私一人を罰して下さい!

お願いします!どうか…」

そういうことを何度も繰り返しては土下座した。

私にはまだ全ては理解できなかったが、幾つか聞き取れた言葉と彼女の様子から、何を言っているのかは察しがついた。

「オチツイテ、クダサイ、ミツサン」

私はベッド脇のサイドテーブルの上の水差しからコップに一杯水を汲むと美津に差し出した。

美津が恐る恐る受け取って口に含んでいる間、水差しの横に置いてあった缶からチョコレートを摘み出して―――美津の為に用意しておいたのだ―――さらに差し出した。

どうやらチョコレートは彼女の口に合ったらしい。

少しだけ落ち着いた美津は涙の残る目で私を見上げ、私は無事な方の手を差し出して無言で起立を促した。

私が指で美津の涙をそっと拭うと、彼女は初めて恐怖ではなく恥じらいの色を見せて目を伏せた。

私はゆっくりと彼女の黒髪を撫で、そっと白い額に口付けた。

腕の中に彼女を柔らかく抱き寄せ、再び優しく頭を撫でる。

美津はもう抵抗しなかった。

死ねなかった以上、従うしかないことを悟ったのだろう。

抱き上げてベッドに載せて横たわらせると、私は彼女の頬に指を滑らせ、唇に軽く触れるだけのキスをした。

何か言ってやりたかったが何も言えず、ただ美津の名前を囁いた。

その夜、美津は私のものになった。


私は決して何もしなかったが、富太郎は居辛くなってしまったのか間もなく辞職してしまい、彼の仕事はシーボルトが後を引き継ぐことになった。

美津を囲いだしてしばらく経った頃のある夜、公使館に十人ほどの賊が侵入はいった。

よく門番の目を盗めたものだが、それでも彼らは運が無かった。

シ―ボルトはフェンシングの名剣士で日本の剣道の道場にも入門していた。バービックは常の男が持ち上げられないような岩をも持ち上げられる強力の持ち主だったし、私の銃器の腕前は世界レベルで、リオに駐在していた頃仕留めた虎の大きさは白人としてワールド・レコードになっていた。賊でも日本人にピストルやライフルを使うつもりはなかったが。

賊達は日本人で匕首―――ドスというらしい―――を持ち、明らかに私の命を狙っていたが、しかし私はたとえこちらが被害者でも問題を起こしたくなかったので二人に命じた。

「シーボルト、バービック、日本人を殺すなよ!」

三人に反撃された十人は、ある者達はサーベルで肩を突かれ手足を切られ、またある者達は手首を折られ鼻を砕かれ、無事な者がいなくなると形勢不利と見て私を殺すどころではなく逃げ出した。賢明な選択だ。

逃げ遅れた者の尻をバービックが窓から蹴り出すと、私達は顔を見合わせて笑ってしまった。

美津には寝室に鍵をかけて出てこないように言ってあった。

寝室に戻って美津の名を呼びノックすると、ドアが開いて涙を浮かべた美津が私に抱きついた。この娘がこんな大胆なことをするのは余程のことだ。血の気を失った顔色がひどく悪い。それは、単に賊が恐ろしかったからだけではなかった。誰が私の命を狙って刺客を差し向けたのか―――それは容易に察しのつくことだった。

喜八というのは思いの外に大胆な男であるようだった。事もあろうに一国を代表する公使を暗殺しようとは!

ばれないと思っていたのか、あるいは私さえ殺せればもう刑罰や国際問題など構いはしなかったのだろう。

この事件は私に決心を固めさせた。

私は美津に言った。

「何があっても、命を懸けても私は君を護ってみせる。君を何よりも大切にする。だから、私に付いて来てほしい…」

私達はまだ完全にはコミュニケーションをとれていなかったが、私は彼女に伝わるまで何度も繰り返した。

彼女は初めて自分の意志を言葉で表した。

「私はもう、あなたのものです」

彼女にはもう私の他に頼るべき者はいなかった。


夜が明けると朝一番で私はシーボルトと一緒に喜八の家を訪れた。

喜八は自分から白状したりはしなかったが、私の姿を見るとすっかり観念しきった様子になった。

だから私が彼を逮捕しに来たのではなく結婚の申し込みをしに来たのだと分かるまでしばらく時間を要した様だった。

まさか異人が本気で彼の娘と結婚をしようとしているとは思いもかけないことらしかったが、ようやく事態を飲み込むと彼は打って変って激怒した。

「ふざけちゃあいけねえ。伯爵様だか王様だかぁ知らねェが、俺ぁ毛唐にやっちまう為に娘ぇ育てたんじゃ無えんだよゥ!

殺すってんならとっとと殺しゃあがれ!どッちみち生き恥さらしちゃあ、ご先祖様に申し訳が立たねえや!」

私は頭から茶を浴びせられ、茶碗が宙を飛んで私の額で欠け落ち座敷に転がった。それほど厚手の物でなかったのが幸いだろう。

シーボルトが色をなしてサーベルに手をかけ、それを抜いて立ち上がろうとするのを私は手を出して鋭く制し、通訳を続けるように言った。

私は切れた額から流れて頬を伝う血を掌で拭うと、それを喜八の前に広げて見せた。

「眼や髪や見た目の色は違っても、この体の内に流れる血の色はあなた方と同じです。私にも魂があり心がある。それを全て美津さんに捧げることを誓います。

―――どうか、美津さんと結婚させて下さい」

私は血を流したまま喜八に土下座した。

本気だったが、ここまでメロドラマチックなパフォーマンスをすることになるとは思わなかった。

私は頭を上げて喜八の顔を見た。

敗北を悟った男の顔だった。

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