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【第六章】雪の女王達(ダイヤ)

「私が子供の時から持つ夢がある。

誰か私自身であって、しかも女性である人はいないか。

例えば双子の姉妹のような女性で、私の考えも私の憧れも、言葉に出さなくても分かってくれる女性に巡り会いたかったのだ。

思いがけなくも、この夢は実現したのだ。

ウィーン社交界のぞよめきの真っ只中で、我々は別人でありながら、私は最も内密な考えも夢も打ち明けられたし、彼女も私達お互いが子供の時からの知り合いであるように話した」


(*プラトンの「饗宴」にある男女半身論に触れて)

「多謝す、神よ。

我が運命は、幾千万の女性の中から、その失われた半分に、とうとう巡り会うことができたのだ」


【リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー著「回想録」より】


        *        *        *        *        *


皮肉なことに、初め、リヒャルトとイダが出会うきっかけを作ったのは美津だった。

リヒャルトがテレジアヌムを卒業してウィーン大学に入学した年の冬、芝居好きであった美津はリヒャルトを連れて、当時の社交界で話題になっていた名女優イダ・ローランがロシアの大女帝エカテリーナ二世を演じた「ロシアの女帝(ツァリーナ)」を観劇に出掛けたのである。

そこで美津とリヒャルトはイダの圧倒的な魅力に心を掴まれた。

その後美津は社交界でイダに紹介され、二人の友人付合いが始まったのである。

ある日イダにディナーに招待された美津は、長男のハンスがこの時留守であった為、次男のリヒャルトにエスコートをさせて劇場を訪れ、イダの「白痴」を見た後ホテルで共に食事をした。

この時のリヒャルトは、母親の美津が驚いた程、常に無く饒舌であったという。

リヒャルトは「白痴」の作者ドストエフスキーについて話し、文学論を述べ、イダと演劇論や芸術論について語り合ったが、イダは内心では、この堅物の少年がこれでも一生懸命自分と話題を繋げようとしているのだと悟って苦笑していたに違いない。

リヒャルトはイダと出会った時ことを「回想録」でこう述べている。

「私は貴婦人に会うものと予想していたところ、私の前に立ったのは、全然気取ったところの無い、極めて質素で、しかも非常にチャーミングで無邪気な女性であった。

顔色は明るくて、ほとんど透き通る程であった。顔は細長い卵型で、前額は雪のように白く、銅色がかった金髪が軽く波打って縁取っていた。

眼は明るくて、口元は引き締まって美しく、歯は白くきらめき、彼女の表情が変わる度に美しさを発揮していた。

鼻はスフィンクスに似ており、手は華奢で、非常に綺麗であった」。

男子校育ちであまり女性に触れる機会も無く女性馴れしていなかったリヒャルトの目に、知性と美貌と芸術性を備えたヨーロッパ世紀の大女優がいかに輝かしい存在に映ったのか、想像に余りある。顕現した芸術女神ミューズのように見えたであろう。

人形のような母の美しさに比べて、生き生きとしたイダの美しさも新鮮に見えたのかもしれない。

リヒャルトにとっては、イダこそが自分の女性の半身だった。

たとえ彼女がユダヤ人でリヒャルトより十四歳年上の離婚歴のある子持ちの女性であったとしても。

ディナーから五日の後、イダが所有する「国民劇場フォルクス・テアーター」で仮面舞踏会が開かれた。

リヒャルトはそれまで学業一途な学生で社交には義務として参加する以外はほとんど顔を見せなかったが、この時初めて自ら進んで社交界のパーティーに参加しようとしたので、美津はとても驚いたという。

シャンデリアとシャンパン・グラスのきらめきに官能的な音楽と仮面を着けた人々の笑い声―――、きらびやかで頽廃的な雰囲気を醸し出している仮面舞踏会の中で、マスクで顔を隠しながらも妖艶なイダの姿を、リヒャルトはすぐに見つけることができた。

イダもまたリヒャルトの姿を認め、夢のような場の中で、その「柔らかいビロードのような声」で囁いた。

「きっと、来ると思っていたわ。

今夜、私はあなたに会いに来たのよ。あなたに会う為だけに来たの…」

大女優の手管にうぶなリヒャルトはすっかり魅惑された。それが単なる社交辞令であったとしても構わなかった。

必ず、彼女を本気にさせようと、彼はこの夜心に誓った。


ハンスはテレジアヌムを卒業後、領地を継ぐ為に農業の専門学校に進学している。

ハンスはリヒャルトに「異常な文才がある」とも評されているが、弟ほど学才は無かったようだ。

ハインリッヒの没後に見付かった人形棺に入ったミイラに興味を示して、それを題材にした詩などを書いている。

日本人を妻にしたハインリッヒやヨーロッパ文明を捨ててアフリカに隠棲してしまったハンスの兄弟の例に止まらず、クーデンホーフ家の変わり者の血筋は、やはり脈々と受け継がれていたようである。


仮面舞踏会の後、リヒャルトとイダは毎日のように会ったという。

リヒャルトが猛アタックしたのであろう。イダもなついてくる美少年を可愛く思ったに違いない。

しかし、やがてすぐに二人は本当に男女の愛を通じるようになったのである。

二人の愛の成就の前には数多くの障害が待ち受けていることが明らかであったが、しかしそれさえも乗り越える決意を固める程、二人の愛は深くなっていったのである。

イダは一体リヒャルトのどこを愛したのであろうか。

リヒャルトは確かに稀に見る美少年ではあったが、イダは別に少年趣味では無かったようだ。

金銭目当てというのが一番ありがちな見方であろうが、実はそれが一番違っていたようである。金銭を目当てにするならリヒャルトよりも良いカモ(・・)はいくらでもいたであろうし、イダはむしろ後にリヒャルトを金銭的にも支援したのである。

女優としての虚栄心という点でも、坊や一人をものにしたところで大した勲章にはならなかったであろうし、むしろ実際は後には未成年をたぶらかした女として不名誉を被ってしまったのだ。

結局、リヒャルト自身に、様々な条件の悪さを克服して一人の偉大な女優の愛を得るだけの魅力があったのだろう。

問題の多すぎる二人の愛は、当然周囲の人間の反対を招くことが予想できた。

リヒャルトはまだ未成年だったし、大学生で学業の途中でもあり、十四歳も年上の子持ちの女優との結婚を身内が歓迎するはずも無かった。

また、イダの方でも、未成年とのスキャンダルで彼女の評判を落としてしまうことや、若いリヒャルトが女優のヒモのようになって甘い汁を吸った挙句、後にイダを捨ててもっと若い女に走ることを、イダの関係者達が心配するに決まっていたのだ。

周囲の目には到底、「運命的に合致する半身同士」などとは見えなかったに違いないことはよく分かっていた。

だからリヒャルトとイダはしばらくは二人の関係を隠さざるを得なかった。

しかしやがて、オーストリア=ハンガリー二重帝国をはじめにガタが来ていたヨーロッパの安定が崩壊し、第一次世界大戦が勃発してしばらくした後、二人の関係は露見してしまったようである。


第一次世界大戦は、バルカン半島においてパン・ゲルマン主義とパン・スラブ主義が衝突したサラエボ事件をきっかけにヨーロッパ中に爆発を引き起こし、アジアにまで飛び火してどの国も予想していなかった大規模な長期戦、総力戦へと発展してしまった。

この大戦には伯爵家の御曹子であるハンスとリヒャルトまで徴兵されてしまったのである。

しかし、リヒャルトは肺に僅かな疾患が見られるということで徴兵を免れ、大学での勉強を続けることができた。

この時から既に平和主義、反戦主義であったリヒャルトは、隠すことなく戦争に行かずに済むことを喜んだ。

勉強を続けられるし、イダの側にもいられるというものである。

ハンスは戦地で後に妻となるリリー・シュタインシュナイダーという女性と出会っている。

彼女もまたユダヤ人で、ハンスより二歳の年上なのだった。

リリーはこの時戦地の野営病院で看護婦をしていたが、元サーカス団の馬術師で、オーストリアで初の女性飛行士でもあった。

戦地から戻った後、ハンスはリリーと結婚する。

美津にとっては、イダもリリーも息子達の結婚相手としてはとうてい受け入れられない女性であった。二人の息子達が年上の派手で狡猾な女達に手玉に取られているように見えたのである。彼らの愛を何一つ理解できなかったに違いない。

特にイダに対する憤怒はすさまじかった。

―――あの女は頭がおかしい!

離婚歴のある子持ちの我が身も顧みず息子程も年の離れた少年を愛するなど、どう考えても気が違っているとしか思えない。

あの女のせいで賢かった息子迄もが狂ってしまった!このお国の一大事に女にうつつを抜かしているとは!

美津は後に言われたように、イダやリリーがユダヤ人であったからとか身分違いだったから反対した訳では無かった。自分自身、日本人の平民であったのだから反対できるはずも無い。

美津はひたすら、彼女達個人の特性、属性が気に入らなかっただけである。まあ一般的には身内として受け入れがたい女性達ではあっただろう。

イダは後に「日本人・・・(*美津の子供達は世間でそう扱われていた)はヨーロッパ人に比べたら遥かに誠実な人種だと思われていた。だからリヒャルトと結婚したのよ」と冗談めかして語っている。

美津は分かっていなかった。日本人の血が混じってしまった田舎貴族など、人種のるつぼの帝国で同じく異端視されていたユダヤ人くらいしか本気で相手にしなかったのだ、ということを。

美津は激怒したが、二人の息子達の選んだ相手は、世界諸民族の融和を願い、日本人の妻を持ちユダヤ人を擁護したハインリッヒの息子達らしいと言えばらしかったであろう。

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