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【第五章】エディプス王の死(3)

ハインリッヒは几帳面な人で、七歳の時からずっと日記をつけていた。

彼は以前から、もし自分が死んだらそれらの日記は燃やすようにと言っていた。

それらの日記は、一個人の日記ではあったが、ハインリッヒの知性と洞察力を考えれば、おそらく当時を知る貴重な記録であり得ただろう。

プライベートなものであるから仕方が無いが、史料的な部分だけでも、ハインリッヒが公表してくれていたらと思うと少々残念なことである。

バービックと美津は、ハインリッヒの遺言に従うべく彼の書斎に立ち入った。

日記は鍵の付いた戸棚に収められており、バービックはその鍵を委ねられていた。

バービックが日記を取り出して積み上げていく横で、美津はぼんやりと主をなくした書斎を眺め、机の上に目を遣った。

ここで、ハインリッヒの畢生の大作が生まれるはずであったのに…。

机の上は物が多かったが、ハインリッヒらしくきちんと整頓されていた。

沢山の書類や筆記用具、そして幾つかの小物が並んでいる中に、手の平に載る程の小さな金の壺が置かれてあった。

結局、美津が先に壺に入ることは無かった。

結核で死にかけたことはあったが、夫との年齢差を考えれば、美津が残される方が自然であったのである。

ふと壺を持ち上げ、手に取ってみると、中からカランと乾いた金属音がした。

―――中に何か入っている。金属でできた小さな物が一つだけ。

蓋を開けてみると、それは小さな鍵だった。

一体どこの鍵だろう。どうしてこんなところに隠していたのか。

鈍色の小さな金属の塊を見つめながら、美津は既に嫌な感じがしていたが、それだけに尚更、確かめずにはいられなかった。

バービックが止めるのも聞かず、書斎中のあらゆる鍵穴を試してみたが、その鍵に合うものはなかなか現れなかった。

美津は色々探し回っている内に、ようやく本棚の中の分厚い一冊の本が実は本物では無く、書物に擬した木箱であることを発見した。

表紙のような蓋を持ち上げると、その下にさらに鍵穴の付いた蓋が現れた。

鍵を差し込んでみると、手応えがあって、思った通り箱は開いた。

そして美津はとうとう見付けてしまったのである。マリーに関する手紙を。

美津は死者のプライバシーを暴くことに抵抗を感じたが、目の前に明らかに怪しい物が出て来てしまっては、その不安に耐えることはできなかった。

手紙を読み終えると、美津は悲鳴を上げ、うずくまって床を叩きながら泣き崩れた。

なぜ夫が自分を愛してくれなかったのか、やっと分かった!夫の心には、子までした別の女が既にいたのだ!

美津は激しい嫉妬に駆られた。

夫にとって、自分は最後まで負担でしかなかったのだ。結局、これまでずっとただの片想いであったのだろうか。

美津を助け起こそうとするバービックの手を振り払って、美津は書斎を駆け出し、ハインリッヒの棺の前で泣き崩れて、同じことを何度も繰り返して喚いたり呟いたりした。

「愛してるわ、ハインリッヒ…こんなにも愛してる…愛してるのよ、ハインリッヒ…ハインリッヒ!」


騒ぎを聞きつけて来た年長の子供達にバービックが事の次第を説明し、父の秘密を打ち明けた。

子供達にも、いずれは知れてしまうことだった。下手に他人の口から変に聞くよりは、自分の口から告げておく方が良いと判断したのだ。

子供達は幾分青ざめてはいたが、落ち着きを失わなかった。

子供達は誰も責める気にはなれなかった。

子供達は父と母の二人の悲しみに同情したのだ。

さらに、正直なことを言えば、子供達は偉大な大黒柱を失って、これから先の不安と恐怖を感じていて、「それどころではなかった」のである。

バービックは、美津がひっくり返して散らかした部屋を片付け再び日記を運ぶ為に書斎に戻った。そして日記の間にページからはみ出して挟まっていた紙片を一枚見つけたのである。

おそらくは栞として使われ、ハインリッヒが毎日眺めていたものであろう。

そこにはこう記されていた。


「私の義務は三つ。

力の限り神を愛すること。貧しい者達を助けること。美津を幸せにすること」


バービックはその紙を棺の前ですすり泣いていた美津に手渡した。

美津はそれをじっと眺めていたが、やがて再び、今度は静かに涙を流し始めた。

美津はハインリッヒに失恋してしまったが、ハインリッヒは美津に恋する以上のことをしてくれたのだった。

美津が泣き止むと、バービックは美津と二人で日記に石油をかけ、遺言通りそれらを焼いた。

日記の山から立ち上る煙を見ながら、ハインリッヒの妻子や忠臣、家族は、それぞれの思いを胸に抱いて、彼に別れを告げたのだった。


ハインリッヒの没後、美津は彼の包括相続人となっていることが分かった。ハインリッヒは美津に全てを譲り、任せたのである。

ハインリッヒは、美津にとって夫であり、父であり、師であった。

美津がハインリッヒを信頼していたように、ハインリッヒもまた美津を信用してくれたのである。

しかし、美津をよく知らない親族達にとってはそうではなかった。

親族達は美津の能力に疑問を抱き、財産と子供達の管理を任せるように美津に迫ったのである。

これは、よく言われるように、親族が財産を狙ったという訳では無かった。

親族達は皆それぞれ自分達の財産を十分に持っていたから、わざわざそんなことをする必要は無かった。

親族達は、美津が世事に不慣れなヨーロッパでもやっていけるように、親切で財産や子供の管理を引き受けて面倒をみるつもりであったのだ。

親族達は、ホームシックになっていた美津が子供達を連れて日本に帰ってしまうことを恐れた。そしてまた、美津がくだらない男と再婚してしまうことを恐れた。

親族達は美津と子供達をクーデンホーフ家から手放したくなかったのである。

親族達は、ハインリッヒの愛した女が他の男のものになったり、ハインリッヒの血を受け継ぐ子供達と縁が切れてしまうことなど我慢ができなかったのだ。

しかし、美津にとっては、子供達を取り上げられてしまうような気になったに違いない。

美津は、子供達の教育はともかく、養育を自分以外の人間の手に委ねるつもりは全く無かった。それに、美津はもう、自分の人生に誰にも口を出してもらいたくなかったのだ。

だから、美津は親族達の干渉をはっきりと拒んだのだ。

親戚達は、美津を交えて親族会議を行った。

しかし、マリエッタ叔母様も既にこの世にいない今、美津と親族達との話し合いは、なかなかうまく進まなかった。

美津はついに怒って―――それは恐いというより可愛くさえ見えてしまうものであったが―――髪からヘアピンを抜き取ると、「これ以上、この話をごちゃごちゃ言うなら、これで目を突きますよ!」と、それでツンツン自分の指を突いたので、親族達は苦笑したり溜息をついたりした。


結局、話し合いはまとまらず、親族達は裁判所に決着を依頼した。

この審理の間も、美津と親族達は子供達の為を思って、関係を悪化させること無く親戚付合いを続けたのだった。

美津は優秀な弁護士を雇い、自分も将来の為に法律を学び始めた。

もともと、法学博士であったハインリッヒの法的処理に問題など在るはずも無く、そのことは親族達も十分に承知していた。

どちらかと言えば、法的な勝利よりも、審理の間は美津と子供達はヨーロッパに留まらざるを得ないから、それを狙ったものであっただろう。審理の間は、余所の男に注意も向かないだろうと思っていたのかもしれない。

この審理には数年かかり、結局、美津の全面的な勝利に終わった。

美津と親族達は和解した。

元より美津は、子供達が成人しない内は、日本に帰る気など無かった、というより、帰れないと思っていたのだ。

美津は、ハインリッヒとの間に設けた子供達を、ハインリッヒのような立派なヨーロッパ貴族に育て上げるつもりであった。

美津はハインリッヒの「一番大きな子供」から五人の子供達の「母親」に成長せざるを得なかった。

美津にはこれまで自由は無かったが、父や夫の大きな庇護に安座していた。

他人には人形や奴隷のように見えていただろうが、そう育てられてしまった美津にとって、自主性など、ハインリッヒの奴隷でいられる安心と幸せに比べたら取るに足らないものだったのだ。

それが今、突然自由を与えられて右も左も分からない世の中に放り出された。

美津はこれから、たった一人で五人の子供を守って厳しい社会を自分の裁量で生き抜いていかなければならなかった。

素晴らしい船長を失ってしまった船に取り残された人々は、歴史の荒波に翻弄され、難破するかどうかは美津の舵取り次第であった。

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