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【第五章】エディプス王の死(1)

「私は現在五十歳に近い年をとった子供であるが、私自身はこれまでずっと一介の学究の徒である。

(中略)これまでの過去十一年間は国家に仕えたことがあり、現在では私の子供の教育の一部を受け持ち、さらにボヘミアの所有地とハンガリーの所有地を自ら管理している。しかしながら、私はいつも勉強してきたし、私の命のある限り勉強を続けるつもりでいる。

誰にも指図されないで、しかもこの世の富、すなわち、かなり全てのものに恵まれており、極言すれば有り余る程のものに恵まれていて、ただ真実に仕える為に著作に従事するだけの贅沢を許されている。

(中略)私は自らを、偏見無しに、かつ無条件に真実を求めている人々の従僕であると思っている」


【ハインリッヒ・クーデンホーフ著「ローマ離脱運動の特質」の序文より】



        *        *        *        *        *



ハインリッヒはヨーロッパに帰郷し、外交官を辞めてからは、実業家及び哲学者・文化学者として転身し―――彼にとっては本来の自己への回帰であったかも知れない―――、亡くなるまでの十三年間に幾つかの著作を出版している。

ここに、彼の著作家としての活動の例を幾つか挙げてみたい。


「誉れのミノタウロス」

これは当時名誉を守る方法として認められていた決闘を野蛮な風習として否定し、法学博士のハインリッヒらしく争いに対して文明的な法による決着を説いたものである。

当時、貴族や将校の間では決闘は名誉の花として尊重されていたから、この本を出版することはハインリッヒにとってとても危険なことだった。

既に「反決闘協会」というものも結成されていたが、そういう人々はまだ少数派だったのだ。

「反決闘協会」の会長であったレーベンシュタイン侯爵は、ハインリッヒを心配して、匿名で出版することを勧めたが、ハインリッヒは何(はばか)ること無くこれを実名で出版した。

ハインリッヒは軍においては竜騎兵の予備大尉の地位にあったが、これを出版する前に自ら地位を返上して軍を除隊した。

しかし周囲の心配とは反対に、この冊子は高評価を以て世に受け入れられた。

この冊子は広く読まれたが、予想外に反発は少なく、ハインリッヒの勇気と見識に対する賞賛はそれを遥かに上回るものだったのである。

この冊子はフランス語にも訳されてよく読まれたという。ハインリッヒはこの冊子によって「反決闘協会」の名誉会員に選ばれた。

ハインリッヒの法治主義、平和主義が窺える一冊である。


「ユダヤ人排斥主義の本質」

ハインリッヒの著作としては、最終的にはこの本が代表作となっていると言える。

これは出版の十数年前に既にハインリッヒが若年の頃に書かれていたもので、修正を加えて博士論文としてまとめられたものである。

ハインリッヒはプラハ大学に通っていて、美津の勧めによって四十二歳の時に哲学博士の学位を取る試験を受けたのである。

これはその時に提出されたものであるが、当時の情勢を考えてハインリッヒはこの論文を選んだのであろう。

この論文によって、ハインリッヒは法学と哲学の二つの博士号を持つことになった。

一八六〇年代の自由主義の台頭や多民族国家のオーストリア=ハンガリー二重帝国の成立による民族融和政策などによってウィーンにも多くのユダヤ人が流入し、社会、経済、文化の中心となるまでに勢力を伸張させていった。

それと共に、ユダヤ人に競合できなかった各方面からの反発が起こり、帝国内の他の諸民族のユダヤ人に対する妬みと脅威感や伝統的なユダヤ人への蔑視と反感などが募って、ユダヤ人排斥運動となって当時の帝国に巻き起こっていた。

それはヨーロッパ中でも同様であり、ハインリッヒの少年の頃から、そうした傾向は強まっていた。

ハインリッヒはそういうユダヤ人に対する人種的な憎悪や宗教的な嫌悪に対して、科学的な調査と理論的な分析によって反論を加え解明している。

彼は「ユダヤ人」なる「人種」というものは存在せず、宗教的・言語的伝統を共有しているグループがあるのみである、と説いている。また、歴史的に、古代パレスチナのユダヤ人と、その子孫とされている現代のユダヤ人との血縁が虚構のものであることを述べている。

ハインリッヒにとって、無知蒙昧故の偏見というものがいかに我慢のならないものであったかが窺える。

ユダヤ人排斥運動は、伝統的なユダヤ人に対する偏見に加え、近代化の上で噴出した膿の一つでもあった。

ハインリッヒはユダヤ人問題の解決方法として、二つの方法を挙げている。

一つはユダヤ人が暫時ヨーロッパにおける居住地に同化していくこと、そしてもう一つはユダヤ人が自身の国家を持つことである。しかし、ハインリッヒはパレスチナはユダヤ人国家の地として向いていないと述べている。

真偽のほどは定かではないが、リヒャルトはユダヤ人国家建設を目指すシオニズム運動の創始者テオドール・ヘルツルの運動にこの本は影響を与えたのではないかと述べている。

ハインリッヒはこの著作によってユダヤ人に関する百科事典に名が載せられ、著名なユダヤ人の精神科医ジグムント・フロイトは晩年にこの本を「ユダヤ人問題に関する最良の書」と述べた。


「オーストリア=ハンガリーに関する政治的考察」

これもまた多民族国家であった帝国の民族融和を説いたものである。

リヒャルトは「回想録」の中で、この本についてこう述べている。

「(この本は)このドナウ君主国の改革について論じてある。オーストリアのスラブ人に対して完全な同権を与え、オーストリアがドイツ主義とスラブ主義、すなわちドイツとロシアの間の橋渡しをすべきであると述べて、一つの連邦組織を提案している」。


「ローマ離脱運動の特質」

ローマ離脱運動とは、反ユダヤ主義者でドイツ民族主義者であったゲオルク・フォン・シェーネラーによって始められた運動で、多民族国家であったオーストリア=ハンガリー二重帝国をまとめている原理の一つであったカトリシズムからの離脱を勧めたものである。

ハインリッヒはこの冊子でこれに反対し、カトリシズムを擁護している。


「否定の世界」

これはハインリッヒのライフワークであったが、結局作品として実現することなく終わってしまった。

ハインリッヒが到達した哲学的な境地を総括した大著になる予定であったが未完に終わり、その一部だけが、既述の「ローマ離脱運動の特質」に記された。

しかしながら、その構想と概要は、ハインリッヒの遺稿や収集していた資料などからかなり明らかにされている。

ハインリッヒは世界中の宗教哲学を総覧して、その根底を貫く真理となるものを発見しようとした。

彼は世界の様々な哲人・聖人の例を挙げ、それらの人々の到達したところの真理は、自我エゴを滅却することによって宇宙との合一を果たすことであるとした。それは自我が無限に広がることであるとも言える。

ハインリッヒは、禁欲と博愛によって無我の境地に達し、そうして神との結合によって超自然的な奇跡を成し得ると考えた。

死への恐怖や生への執着、そういう自然の作用を持つ精神や肉体を隣人愛と無私無欲によって克服し、世界との和合を成し遂げる聖なる奇跡こそが、あらゆる宗教の持つ真理、人間の追求する真髄であると考えたのである。

同時代の日本では、夏目漱石が「則天去私」の境地を見出しているが、これなどもハインリッヒの思想に近いものであるかもしれない。

ハインリッヒは、この本を書く為にインドを中心に日本からも資料を集めていたというが、東洋の思想に通じているハインリッヒらしい思想である。

リヒャルトは「回想録」の中でこう述べている。

「私の父が彼の畢生の著作を書くだけの長生きをしていたならば、父は有名になっていたであろう。しかしながら、父の外交官生活が早く中断されたのと同様に、父の哲学的著作も早死にした為に未完のままで終わった。

私は名声と人物との間の繋がりがいかに空虚なものであるかということ、父より小さな同時代の多くの人々がいかにして世界的名声を博したか、それに反して、ロンスペルクの世捨人である父が、ユダヤ人排斥に反対する彼の著書による以外には、ほとんど知られないままで死んでいったことを、縷々思い出さずにはいられなかった」。

ハインリッヒは著作家としても成功を収めたが、ハインリッヒを知る人間には、これでもまだ彼の才能に比べれば報いとしては物足りないように思えてしまうのであった。

おそらく、ハインリッヒのように、世界的な才能がありながら世に隠れた天才というのは、いつの時代もいるものなのであるのかもしれない。

リヒャルトはハインリッヒの没後、父の遺稿を見付けて熱心に読み耽っていたという。後の彼の思想には父の多大な影響があったことは確実である。


以上の著作に見られるように、ハインリッヒの人生を貫いていた博愛と協和の精神は、息子のリヒャルトにも受け継がれ、世界を動かす大きな運動へと繋がるのである。

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