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【第三章】伯爵夫人ミツの西遊記〈グラフィン・ミツのウエスト・クエスト〉(三)

「ボヘミア平原の西端の小さな丘の上にそびえているロンスペルクの城は建築家が一定の様式を以て建てたものでもなく、また予め考えた計画に従って建てたものでもなかった。この城は幾百年もの間に次から次と建て増しをして段々と広く、大きくなったのである。そして今では一体を成して、一本の老樹の面影があった。

所々三メートルもの厚みの常春藤きづたの這った石壁は、度々の包囲軍に堪えてきており、真紅の急な屋根は、高くそびえる煙突の煙によって黒ずんでいた。

雛鳥が雌鶏の周りに群がるように、この大きな城は小さな建物によって囲まれている。これは管理事務所や、従僕達の住居や、厩舎や、温室である。十八世紀からの迎賓館が吊り橋によって城と繋がっている。

ロンスペルクは、西方へボヘミアの森から成る山を越えて、バヴァリアとの国境に及んでいる領地の真ん中にある。この領地の大部分は樅や松の森林から成っている。平地には畑や、草原や、ジンメンタール種の牛や、羊の群れの居る農場が三つある。山の麓には第二の城シュトッカウがあり、ここは領主の酒造場と養鱒場がある。

ロンスペルク城は多くの色々な樹や、運動場や、花壇や、泉水のある極めて古い庭園に囲まれていて、高い石壁によって、この小さな世界は周囲の大きな世界から切り離されている」


【リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー著「回想録~思想はヨーロッパを征服する~」より】


        *        *        *        *        *


ローマを離れた私達はいよいよロンスペルクへと近付いて行った。

故郷が近付くにつれてハインリッヒは浮かれ始めた。

久しぶりの帰郷だったから無理も無い。それに彼は大人の落ち着きと同時に少年めいた愛嬌を持ち合わせている人だったのだ。

彼はとても興奮し、ご機嫌ですごくお喋りになった。

ドイツ語圏に入ってあるレストランで食事をした時、はじめハインリッヒは懐かしい料理に大喜びだったが、私達のテーブルに付いたボーイのサービスがなぜか悪かった。

ハインリッヒは次第にむっつりとして、とうとうボーイを呼びつけた。

私はハインリッヒがボーイを叱り飛ばすのではないかと思ったが、彼はボーイに穏やかに問い質しただけだった。

ボーイが言うには、彼の母親が重病で、心配のあまり注意散漫になってしまったのだそうだ。

ハインリッヒはバックヤードの従業員に尋いてそれが事実であることを確かめると、プロ意識についてたしなめながらも孝行息子に金をやり、後日には彼の母親に薬を贈ってやったのだ。

何ともお甘いお人だと思ったが、きっと嬉しい気分に水を差されたくなかったのだろう。ハインリッヒらしい慈善家ぶりだ。

やがて、とうとう私達はクーデンホーフ家の領地に入った。

すでにクーデンホーフ家は政治的な支配を離れていて、ちゃんと地域の長がいたが、それでも伯爵家は広大な所有地を持つ大地主で、その権威は巨大だった。

さきのご領主様が亡くなられて一番上の若様が新しい殿様としてお戻りなさる。奥方様は日本とかいう遠いお国のお方だそうだ―――というので、私達は随分と手前の地から盛大な歓迎を受けたのだった。

大きく「心から大歓迎」の文字を飾った美しいアーチが設けられ、礼砲が鳴り響き、可愛い女の子が歓迎の詩を読んで花束を渡してくれた。

日本国旗も混ざったたくさんの旗を振って私達の馬車についてくる人々の列…。

そんな大名行列で私達はついにロンスペルクにやってきたのだ。

私は写真でしか見たことが無かったロンスペルクの城を見上げた。

何という大きなお城!

これでも田舎城であるというからびっくりしてしまう。

そして、出迎えてくれた百人を超える―――もしかしたら二百人以上だったかもしれない―――使用人達。

東夷あずまえびすの国で彼らと同じ平民だったちっぽけな少女のような私が、これからこの城で伯爵夫人として彼らの上に立つのだ―――しばらくの間だけれど。

私はようやく、いかに自分が分不相応な身分に押し上げられてしまったのかを実感した。

望みもしなかった「出世」に対して、驕りよりも怖れを感じてしまうくらいだったのだ。

自惚れた喩えをさせてもらえば、月の都に昇ったかぐや姫か竜宮城に流れ着いて乙姫になった気分だ。彼女達ほど堂々とはしていなかったが。

乙姫というよりも、金魚鉢から大海に放り出された金魚といったところだっただろう。

ハインリッヒは奔流のような人だった。突然現れて、あっという間に私を取り込み、海に押し流してしまったのだ。

龍王に相応しい乙姫になるには、私はまだ泳ぎの下手な金魚だった。

一度に色んなものを見て、聞いて、知った私は、万華鏡のようにめまぐるしく押し寄せては渦を巻く海の中で溺れそうになっていた。


子供達は元気だった。

バービックや乳母達とも再会し、皆ハインリッヒの弟妹達と仲良くうまくやっていた。

私達の息子のハンスやリヒャルト、そして私の洗礼名のマリア・テクラなどはハインリッヒの弟妹の名前を名付けたものだ。ハインリッヒは自分の身内をとても愛していたのだ。

彼の弟妹達は、もちろん日本人を見たこともなければどんな国かもよく知らなかったので、私の写真を見るまでは、金の鼻輪をしていたり、刺青があったり、纏足をしていたりするのだろうかと思ったそうだ。

写真を見てからは、文明化された普通の女に見えたのでやっと安心したのだそうだ。

皆変わった兄嫁を持つことに不安があったに違いないが、それを上回る兄への信頼と愛情が、多少ぎこちなくも寛大に、彼らに私を受け入れさせたのだろう。

私も初めの頃は西洋人のことを奇妙に思っていたのだから、何だか笑えてしまう話だ。

ヨーロッパに来てからは、なるほど、ハインリッヒは日本でこんな気分だったのかと思うことがしばしばあった。

ハインリッヒの弟妹達は皆素敵な人々だった。洗練されていてピアノやバイオリンなど音楽が得意だった。亡きマリーお義母様の影響だそうだ。

私は義理の両親に会えないのが残念だった。特に子供達に慕われていらしたお義母様にはぜひお会いしたかった。

彼女はハインリッヒが子供の頃、彼にアラビア語の本をプレゼントしてくれたそうだ。さらに、当時には珍しかった日本の写真を見つけて飾っていたという。

そういうことがハインリッヒに語学の才能を目覚めさせ、異国、特に東洋への興味を掻き立てたのだそうだ。

彼女は世界に目を向けていた本当に賢い女性であったらしい。ハインリッヒがひどいママ溺愛者であることを除いても、やはりとても魅力的な女性だったのだろう。


ロンスペルクに着いて一息つくと、間もなく私達はヨーロッパ中の夫の親類達への挨拶回りを始めたのだった。ロンスペルクへも、大勢の客が訪れた。

親戚の中でもハインリッヒの叔母のマリエッタはとても素晴らしい女性ひとだった。

老齢だが美しく、優しく、貴婦人の貫録があり、修道院に籍を置いていて未婚だったが私達を実の子供のように可愛がってくれたのだ。

私達がヨーロッパに留まってからは、よくロンスペルクを訪ねてきてくれ、面倒を見てくれた。

古風な優雅さと教養があり、おそらく身近な親族の内でハインリッヒとまともに議論ができたのはこのマリエッタ叔母様くらいのものだっただろう。

お互い自分の意見をしっかりと持っている二人は、見ていてこちらがはらはらするくらいの激しい議論をすることもあったのだ。しかし、日本人の私にははじめは分からなかったが、ヨーロッパでは議論とは多くがそういうもので、それはお互いに忌憚なく意見の言える尊敬と、同等に近い知的レベルを持っていることの証なのだった。

マリエッタ叔母様はハインリッヒに尊敬されていて、彼女もまたハインリッヒを尊敬し、その妻である私のことをも、とても尊重してくれたのだ。

私と夫の弟妹達、親族達とのぎこちない関係の潤滑油にもなってくれた。彼女はいつも私達夫婦の支えになり力になってくれたのだった。

私はマリエッタ叔母様を第二の母の様に慕うようになったのである。


私は社交界へも連れ出され、ハインリッヒの友人や帝国の名士達のパーティーに招かれた。

私が最初に参加したパーティーは、「会議は踊る」のウィーン会議を取り仕切ったことで有名な元オーストリア宰相メッテルニヒ伯爵の未亡人、メラニエ夫人―――彼女は夫より三十二歳も年下だった―――の催したものだった。

ハインリッヒは社交界でも評判が良かったが、それでも偉大すぎる人間は卑小すぎる人間の嫉妬を買うもので、彼を妬んでいる人間はいたし、私の方も、ハインリッヒと結婚していることで、思いがけず妙齢の令嬢達の嫉妬を買ってしまっていたのだ。

心無い人達は私達の結婚について、「生真面目な伯爵が任地の女にひっかかり、まんまと責任を取らされた」と陰口を言ったりもした。

私に対して過敏なくらい過保護になっていたハインリッヒは、そういう人々に対しては断固として毅然とした態度を取ったのだ。

やがて社交界では、クーデンホーフ伯が「私の妻に対してヨーロッパ淑女と同等以外の礼儀を示す者には、誰であろうとピストルによる決闘を申し込む」と宣言したと噂になった。

実のところ彼は、私を淑女として扱わないそういう人間に対しては、こちらも紳士淑女として扱うことは出来かねる、とたしなめただけだったのだが、ハインリッヒのピストルの腕前から、ピストルによる決闘という威勢のいいものに変えられてしまったのだろう。

もちろん、そんな命知らずは現れなかった。

ハインリッヒはこういうことに余程うんざりしたに違いない。次第に社交界からは遠避かり、後には決闘に反対する冊子を書いているくらいだった。

彼は自分も望まない相手と結ばれてしんどかったに違いないのに、いつでも、自分と結婚したことが私にとって些細な苦痛にすらならないようにと気を遣ってくれていたのだ。

私達は、私達以外の人間の目には、さぞ熱愛し合っているように見えただろう。―――いつか本当にそうなればいいと、私だけがそう思っていた。

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