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【第三章】伯爵夫人ミツの西遊記〈グラフィン・ミツのウエスト・クエスト〉(二)

【オペラ「椿姫ラ・トラヴィアータ」あらすじ】


パリでパトロン達と享楽的な生活を送る女ヴィオレッタは、ある日紹介されて自分の屋敷のパーティーにやってきた誠実で一途な貴公子アルフレードと恋に落ちる。

華やかな生活を捨てパリ郊外の屋敷に移り共に暮らし始めた二人だが、ヴィオレッタがその為に財産を売却していたことを知ると、アルフレードはそれを取り戻すためにパリに向かう。

彼の留守の間にアルフレードの父ジェルモンがヴィオレッタを訪問し、息子と別れてくれるように懇願する。ヴィオレッタは愛する男の家族の為を思い身を引く約束をするのだった。

ヴィオレッタは元のパトロン達との生活に戻るという手紙を残して屋敷から消え、去っていく。

ジェルマンは息子にプロヴァンスに戻るように言うが、ヴィオレッタに裏切られたと思い込んだアルフレードは雪辱の為に彼女がいるパリに向かう。

アルフレードはヴィオレッタのパトロンになったドゥフォール男爵と賭けをして大勝し、ヴィオレッタに復縁を迫るが彼女に拒まれ、激昂して「借りは返した」と札束を投げつけてしまう。

ショックのあまりヴィオレッタは気を失い、ドゥフォール男爵はアルフレードに決闘を申し込む。アルフレードは決闘に勝利して国外に去っていく。

度重なる心労でヴィオレッタは持病の肺結核が悪化してしまい、ジェルモンはついに彼女との約束を打ち明けて息子にヴィオレッタのもとに戻るように記した手紙を送り、ヴィオレッタにもそのことを知らせる手紙を送る。

二人は再会するが、ヴィオレッタの病は重く、アルフレードに看取られて息を引き取るのであった。



        *        *        *        *        *



私達はブリンディジからローマへ向かった。

ローマは本当に美しい都だった!

私達は先を急いでいたので―――私は早く子供達に会いたかったのだ―――、五日間しか滞在せず、美術館や史跡など、最低限見るべき所にしか行けなかった。

しかしローマというのは街中が美術館であり、史跡の中にいるようなものだった。

惜しくらむは、私がまだヨーロッパの美術や歴史に詳しくなかったので、結局見た目の美しさを堪能しただけで終わってしまったことだった。

きっと、長く滞在していたところで同じだっただろうと思う。

もっと後になってからなら、歴史的な背景も楽しめ、美術品のテーマやモチーフなどの意味も分かって理解が深まっただろうに。

それでも私は絵が好きだったから、かなり刺激的で勉強になったのだ。

ローマに来たからには、ハインリッヒは本場のオペラを観ない訳にはいかなかった。彼は大変な音楽愛好家だったのだ。

特にワグナーには熱を上げていて重度の中毒者ワグネリアンだった。彼と私はヨーロッパに戻ってからは毎年夏になるとワグナーが自作上演専用に建てた「神殿」のバイロイト祝祭劇場の音楽祭へ出かけて行ったものだった。

久しぶりにヨーロッパのオペラを聴けて彼は有頂天になり、私も初めての西洋の劇場とお芝居に興奮していた。

この時ちょうど彼が一番好きだという「椿姫ラ・トラヴィアータ」が上演されていた。

彼は前もって私にあらすじを説明してくれたので、だから場面の内容は分かったけれども、歌詞の方はさっぱり分からず、何だか不思議な音楽と声が耳の中にやたらと響いた。

しかしハインリッヒは楽しんでいた―――はずだ。

彼は大好きだというオペラを観ているはずなのに、何故かひどく辛そうな顔をしていたのだ。お芝居に入り込みすぎていたのだろうか?

私も悲しいお芝居ではよく泣いてしまうことがあった。しかし彼はいつも演劇を客観的に、芸術的な批評の眼で見ているように思っていたのだが。

入った時とは打って変わって、劇場を出ても彼は珍しく陰鬱な表情のままだったので、私は少しでも雰囲気を変えようと何か話題を探し出し、このオペラを観て不思議に思ったことを質問してみた。

「椿姫は病み衰えて死の床についていたのでしょう?

どうして、そんな死にかけている人があんなに全力で長々と歌えることになっているのかしら?」

彼はそれを聞くと吹き出して、さっきまで暗かったのが嘘のように笑い始めた。

「君は、私が笑えないと思っていたことでも笑えるようにしてくれる。

君は自分がどれだけ私を幸せにしてくれているか知らないだろうな」

結局、質問の答えにはなっていなかったけれど、再びいつものように彼の機嫌が良くなったので、私にはもう言うことはなかった。


オペラと言えば、ハインリッヒは彼自身歌うことが好きで、そのよく通る美しいバリトンでしょっちゅう何かを歌っていたのだ。

よほど西洋のオペラが恋しかったらしく、日本では彼自身が歌手としてオペラを演じてしまった程だ。他の西洋外国人達も彼と同じ気持ちだったらしく、この企画に乗ってきた。

それは日清戦争のときで、戦傷病人の為に赤十字社へ寄付する義捐金を募る慈善公演だった。

ハインリッヒは外交官として以上に、宗教哲学や音楽演劇など、文化人としての活動で日本に貢献するところが大きかったのだ。

この時の演目はグノーの「ファウスト」で、「書斎の場面」とやらだけだったそうだ。ハインリッヒはメフィストフェレスを演じた。

私はこの時栄次郎(リヒャルト)を身籠っていて、かなりの早産で予定日が迫ってしまい、観に行くことはできなかったが、この神の様な男が悪魔を演じるとは面白い話だ。

これは日本で初めてのオペラの上演だったらしい。新聞にも載って大好評だったのだ。

ファウストはイタリア語で、メフィストフェレスはドイツ語で歌っていたから、見る人が見ればさぞおかしなものだっただろうね、とハインリッヒは笑っていたが。

ハインリッヒはよくチャリティ・コンサートなども行っていた。

ハインリッヒにはいるだけで場が明るくなる様な華があり、何かを演出するということも上手かった。

彼はよく私に本の朗読をしてくれたが、淀みなく生き生きと、とても聞きやすく話してくれて、贔屓目を抜きにしても素人離れしているように見えた。

多分、彼は俳優になったとしても、成功したのではないだろうか。

時々思うのだが、一体このひとにはできないことというのは在るのだろうか…。

何でもできて、むしろ腹が立ってきてしまうくらいの人だ。

私が知る限り、彼ができなかったのは、自分でネクタイを結ぶことと、ボタンのついた靴のボタンを留めることという、たった二つのことぐらいだったように思える。


日本を出てから、色々な人に会った。

ハインリッヒは公的、私的に世界中を巡っていて、その至る所に人脈を築いていたのだ。

彼は世界中に友人、知人がいて、誰もがハインリッヒを尊敬していて親愛の情を以て私達を迎えてくれた。

彼がこの旅で初めて会った人もいる。

例えば、イギリス政府によって政治犯としてセイロン島に島流しになっていたエジプト独立の勇士アラービー・パシャ。

ハインリッヒは彼にとても興味を持っていて、面会できることを喜んでいた。

そしてバチカンでお会いしたローマ法王レオ十三世聖下。

ハインリッヒは私を地球レベルで「偉い人達」に会わせてくれた。世界に冠たる王侯貴族、権力者、学者、英傑達…。ハインリッヒ自身、その一人であったのだ。

この旅では最下層から最上層まで色々な人々に出会ったが、敬虔なカトリック信徒の私達にとって、法王聖下は極めつきの方だった。

もちろん、私も謁見する前から聖下のことは存じ上げていたが、正直、信徒の長で最大の司教という説明通りの認識しか無かったので、この方がどれ程権威があり、世界中の信徒の崇敬を集めているお方なのか、まだよく理解していなかったのだ。

だから、サン・ピエトロ大聖堂のミサでも、落ち着いていたものだった。

しかし、謁見の前のハインリッヒの緊張した様子を見て、私まで急に緊張してきてしまった。

あのハインリッヒが緊張している!

まるで皇后陛下に拝謁する前の私のような有様だった。

私はようやく、大変なお方に拝謁するのだということを感じ始めた。

謁見をすることになっていた何組かの人々が、聖下と共にプライベートなチャペルに移り、再びミサが行われた後順番を待った。

いよいよ私達の順番が来た。

私達は跪き、聖下の御み足に口付けて礼を尽くすとお話をした。

法王聖下は恐ろしく力強い存在感と眼差しを持ったお方で、私はとても感銘を受けたのだ。

私には分からなかったが、聖下とハインリッヒはフランス語で、日本をはじめとするアジアの情勢や私達の結婚や私の信仰生活についてなどを話していたらしい。

聖下は私の信仰心があついことをよみし給うて、私の手を取って頭を撫でて下さった。

その瞬間、私は何だかとても感激してしまい、涙が溢れてきてしまったのだ。

それ程神々しい場の雰囲気だった。

私達の謁見は、他の人達よりも長かったらしい。

謁見が終わり、部屋を出ていく際に、聖下は片手を上げてハインリッヒに「ブラボー、クーデンホーフ!」と仰った。

それまでも、それからも、私はこの時ほど誇りに輝いていたハインリッヒの顔を見たことが無い。おそらく、彼の生涯で一番栄光に満ちた瞬間だっただろう。

私達のヨーロッパでの第一歩は、とても素晴らしいものになったのだった。

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