第十二話:大転倒
「しつこい女だ!」
圭太は自転車のハンドルを強く握り、腰をサドルから浮かして、前傾姿勢になった。両足に力を入れ、目一杯ペダルをこいだ。自転車はスピードを上げていく。
猛スピードでT字路に突っ込み、体を右に倒す。景色が斜めに傾く。タイヤの右端だけが、かろうじて路面を捉える。
右折した先は、長い直線道路になっていた。
(チャンスだ! ここで振り切ってやろう)
足に鞭打って、ペダルを激しく回転させた。自転車の速度はみるみる上がり、やがて最高潮に達した。後ろを確認してみる。
「だめだ! 距離が広がってない! 女のくせに、何て体力なんだ!」
二十メートル後方に、女性が乗った自転車が、ピタリと圭太を追跡していた。女性は猛然とペダルをこいでいる。髪の毛を振り乱しながら、圭太同様、腰を浮かせ、前傾姿勢で突っ込んでくる。「待ちなさいよ!」と、怒号がぶっ飛んできた。
圭太は駅前から逃走した後、女性達の尻を引っぱたく痴漢行為を始めた。一瞬、何が起きたのか分からずに、呆然と立ち尽くす女性達の姿が、面白くてたまらなかった。これに機嫌を良くした圭太は、快調に、十個ほどの尻を叩いて回った。そして、つい三十分前に、この女性の尻を、思い切り引っぱたいたのである。
「やめてよ! この馬鹿!」
思わぬ金切り声が上がった。それまでの女性達とは、勝手の違う相手だった。この女性は立ち尽くすことはなく、すぐに走り出し、圭太を迫っかけてきたのである。
その時、彼女は徒歩だったうえに、スカートに、ヒールという格好だったから、自転車に乗った圭太を取り押さえることはできなかった。
難なく逃げおおせた圭太だったが、彼女の執念はすさまじかった。
自宅へ戻った後、ご丁寧に、スポーツ用のジャージとシューズに着替えたようだ。そして、自転車に乗って、圭太を探し回っていたようである。五分ほど前、彼女は圭太と鉢合わせするや、「謝りなさいよ!」と怒鳴り散らしてきた。そして、逃げ出す圭太に喰らい付いたのである。
(面倒なことになった。あんな女のケツなんて触るんじゃなかった)
逃走を続ける圭太は、住宅街へ入った。ぎっしりと、一戸建て住宅が並んでいる。おかげで、死角が多い。追跡者をまくには丁度良かった。
狭い小道へ、自転車を倒して突入する。次の曲がり角を素早く見つけて、猛スピードで突っ込み、姿を隠す。
彼女との距離が、少しずつ、開いていく。
(いいぞ。このままグチャグチャに曲がりくねってしまえば、いずれ、俺のことを見失うだろう)
角を見つけては突っ込んでいき、死角に潜り込む。巧みに姿を隠し、女性を引き離していく。
五分経つと、後ろを振り返っても、彼女の姿は見えなくなった。圭太は、足の回転を落とした。
(もう、大丈夫だろう)
慎重に、右左折を繰り返しながら、圭太は少しずつ、住宅街の出口へと向かった。
(あの女は住宅街の中で迷ってるはずだ。その間に脱出して、遠くへ逃げよう)
数分後、出口に着いたが、圭太は自分の目を疑った。住宅街の中をさまよってるはずの彼女が、自転車にまたがり、待ち構えているではないか。
「待ちなさいよ!」
金切り声が響き渡った。同時に、彼女は自転車を発進させた。髪を振り乱し、自転車ごと体当たりしてきた。
「あぶない!」
自転車を左へ滑らせ、間一髪でかわした。
やむなく、圭太はもう一度、住宅街の中へ戻った。
「待ちなさいよ!」
「ヒステリー女め! しつこいんだよ!」
手近の角へ突っ込み、姿を隠す。懸命にペダルをこぐ。曲がり角を見つければ、すかさず突入する。
「待ちなさいよ!」
もう一度、角を曲がる。
「待ちなさいよ!」
「いつまでついてくるんだ!」
物凄い執念だ。
小道を右前方に見つけた。せまく、薄暗く、隠れるには絶好の場所だ。
(あそこだ!)
体を右に倒し、小道に突っ込んだ。
だが、
「何だ! 人か!」
と絶叫した。
突っ込んだ先には人がいた。このままでは正面衝突するしかない。
圭太は、とっさに急ブレーキをかけた。自転車を思い切り左に倒し、後輪が相手の体をかすめた。自転車はぶっ倒れ、体は投げ出された。
その一瞬の中で、今、あやうく衝突しそうになった人物は、圭太好みの、かなりの美人であったことは見逃さなかった。
(俺はこのまま倒れて地面に叩きつけられるだろう。でも、これくらいの衝撃なら、両手で支えられそうだ。大した怪我にはならないだろう。もしかしたら、ほどよく怪我したおかげで、今の美人が話し掛けてきて、仲良くなれるかもしれない)
圭太は転倒し、地面に叩きつけられた。落下中に予想したとおり、一番最初に両手が地面に着き、しっかりと体を支えた。おかげで、顔を地面に打ち付けるようなことはなかった。手のひらを軽く擦りむいただけだ。自転車の方も、大した損傷はない。
今、衝突しそうになった女性、蓮田真理子が、顔面蒼白でこちらを見ている。
(手を擦りむいたな、ヒリヒリする。だが、そんなことはどうでもいい。美人さんは、こっちに来るかな?)
「大丈夫?」
真理子が駆け寄ってきた。
「うう、痛い。痛い」
「痛いの? どこか怪我したのかな?」
「手を擦りむきました。血がにじんで、とても痛いです」
「ほんとだ。痛そう。ごめんね。私、飛び出しちゃって。でも、大した怪我じゃなくてよかった」
(手のひらを擦りむいただけじゃ、インパクトが弱かったか)
「肘も擦りむいたし、膝もいたいです。他にも、痛いところが沢山あります」
圭太は体のあちこちを指差した。そして、ゆっくりと、時間をかけて、ふらふらと立ち上がろうとする。だが、失敗して、後ろへ倒れていきそうなそぶりをする。
「ああ、力が入らない……」
「あぶない! 頭を地面にぶつけちゃうよ!」
真理子はとっさに、圭太を抱きとめた。
「力が入らないの? 体中痛めてるのかな? いいよ。しばらく、このままで」
真理子は、地面に両膝をつき、左腕で圭太の体を抱えて、自分の膝の上に乗せた。右腕は圭太の後頭部に回し、頭を支えた。
圭太は、首の力を抜いた。頭を重力にまかせて後ろへ垂れ下がるようにし、真理子がずっと頭を支えていなければいけないようにした。
「体中が、痛いです」
「ごめんね。飛び出しちゃったからね」
「悪いのは僕です。よく確認しないまま、猛スピードで曲がっちゃったから。あなたのせいじゃありません。ところで、この辺に住んでる方なんですか?」
「うん。すぐそこのアパートに」
「そうですか」
圭太はニヤリと笑った。
「だったら、今からアパートに連れて行ってもらえませんか?」
「今から? どうして?」
「氷を頭に当ててほしいんです。転んだ時、おでこを地面に打ちつけたので」
「それは痛そうだね。でも、いきなり家って言われても」
真理子は、わずかに怪訝な表情を浮かべた。もう少し、じっくりと会話をしてから、家に行きたいと言うべきだったか。
(大きいおっぱいだなぁ)
圭太の眼前には、真理子の右胸が迫っている。胸ごしに、首から下げたネックレスが見える。
(何としても、家にあがり込んでやる)
「女の変質者に追われてるんです。さっき、自転車で追い抜く時に、肩が少しぶつかったんですよ。そしたら、お尻を触られたとか、痴漢だとか、大げさなことを言って、追いかけてくるんです」
「変質者? 」
「思い込みの激しい人みたいです。話し合って、和解できる相手じゃないですよ。だから、一旦、姿を隠したいんです。どうか、僕をアパートに入れてください」
「私の家より、警察に行ったほうが」
「そんなことをしたら、どんな復讐をされるか分かりません」
「そんなに危ない人なら、なおさら警察に行ったほうが」
(しつこいな。さっさとアパートに入れろよ)
いらだつ圭太だったが、真理子はまだ、「アパートに行こう」とは言わない。
その時、女性の怒鳴り声が聞こえてきた。
「どこに隠れてんのよ! 早く出てきなさいよ! 隠れたって無駄だからね! アタシは何時間でも待ってやるから!」
姿は見えないが、物凄い迫力だ。圭太は思わず肩を震わせ、真理子の体に潜り込む。
「今の声が、僕を追ってる変質者です」
「聞こえたよ。すごい声だね」
「こっちに、気付いてませんかね? もしも見つかったら、何をされるか分かりません」
「声の出し方が普通じゃないよね。ちょっと、イッちゃってるよね」
真理子の表情が変わった。恐ろしい女の変質者から、自分が、この小さな子供を守ってやらねばと考えているようだ。
「よし。私のアパートに行こう。相手の興奮が収まるまで、隠れてたほうがいいみたい」
「ありがとうございます。僕、すごく怖かったんです」
真理子は、圭太の手をとって立ち上がらせた。「ちょっと待って」と言って、手提げバッグからハンカチを取り出す。
「ばい菌が入っちゃうから、手のひらから、砂埃を払わないと」
「ありがとうございます」
「顔にも砂がついてるね。服も埃だらけになっちゃって」
真理子は手際よく、圭太の体をハンカチで軽くはたき、埃をおとしていく。
さらに、圭太の自転車を起き上がらせると、「私が押していくからいいよ」と、アパートへ向かって歩き始めた。
「ありがとうございます。何から何まで」
圭太は、真理子の後を付いていった。
「どこにいるのよ!」
女性の怒鳴り声が、相変わらず響いている。
「お前のおかげで、美人さんの家に行けるよ」
真理子の尻を眺めつつ、圭太は呟いた。
ふと、真っ赤なスタンガンのことを思い出す。
(怒りにまかせて家を出たけど、持ってきてたっけ?)
ポケットをまさぐってみる。四角形の、固い感触があった。間違いない。
(ついてるな。スタンガンはちゃんとある。えらいぞ、俺)