第十一話:おさまらぬ怒り
実験中止の翌朝。午前九時。マンションのリビングルーム。
圭太は寝不足の体を、高級ソファに沈めていた。両目は重いまぶたによって半分ふさがり、焦点が合わないまま、テレビ画面に向けられている。
右手にコーヒーカップを持ち、せわしなく、口に運んでいる。もう、何杯のコーヒーを胃に流し込んだろうか。圭太の舌は、蛾の羽のように気色悪く茶色に染まっていることだろう。胸の動悸が激しく、呼吸が落ち着かない。
圭太は自作DVD達――芳樹の写真を見て以来、ほとんど刺激を感じなくなった――を、もう三時間も見続けている。いや、見てはいない。何となく視界に入れているだけだ。
寝不足で鉛のように重くなった脳から、一握りの思考力をしぼりだす。圭太は真っ赤なスタンガンの実験の進め方を探していた。
圭太は、特定の女性達を実験対象からはずすことにした。圭太自身の辛い思い出を重ねてしまうような女性。自分の容姿が美しくないことを自覚している女性。わがままを言わず、つつましく生きている女性。
圭太は、他の少年犯罪者にはできない、高度な内容の実験にしたかった。
(俺は、道端で女に声をかけるのは得意だからな。これを生かしたい)
とびきりの美人に声をかけて親密になり、その上で裏をかいて重大な危害を加える。そうすれば、女性に正面から声をかける勇気がなく、一方的な、いわば奇襲のような犯行しかできない――それでいて自分は歴史に残る凶悪犯だと自称する――他の少年犯罪者に大きな差をつけられるだろう。
(女に声もかけられない奴らと同じことはしたくない。実験の時でさえ、とびきりの美人を選ぶんだ)
圭太は妥協のない、完璧な犯罪者になると決意した。
ふと、昨晩、後ををつけまわしてきた男のことを思い出す。
一般市民は、犯罪に対して無警戒に暮らしていると思い込んでいた。だから、駅前で立っている時の表情、通りすがる女性への視線のやり方、これらにわずかな不自然さがあっただけで、尾行をされたことは驚きであった。
「あの野郎。俺をつけまわして正義のヒーローのつもりか!」
尾行などという、刑事ドラマまがいのことを、一般市民の男にされたことが気に食わなかった。あの男は、女性を救う、かっこいいヒーローのつもりだったのか。見ず知らずの女性を救うことで、世の女性達から人気を得たかったのか。そのような姑息な売名行為のために、後をつけまわしてきたのか。
圭太はソファから立ち上がった。こぶしは、固く握り締められている。ソファーの上にあるクッションを、あの男に見立てて怒鳴りつけた。
「一般人のくせしてつけ回してきやがって。俺を捕まえれば、お前は世間のヒーローになって楽しい人生を送るんだろうな。でも、俺は大恥をかくんだぞ!そんなことも考えられないのか! どんな時だって、人を蹴落とすような真似をしちゃいけないんだ!常識を学べ!」
こぶしを振り上げ、クッションにえぐるようなパンチをお見舞いした。さらに数発殴りつけたが、クッションは柔らかく、しかもソファの上にあるので、手ごたえがない。そこで、今度は足蹴りをお見舞いすることにした。クッションはソファから吹っ飛んで、壁にぶち当たった。
「常識を学べ!! 常識を学べ!! 常識を学べ!!」
出せる限りの大声を、クッションに、いや、あの男に向かってぶちかます。
「人の人生を何だと思ってるんだ!!」
床に転がった「あの男」を、両足で踏み散らした。頭蓋骨が砕け、内臓が破裂する姿を想像しながら、「あの男」を数十発踏みつけた。
圭太の怒りはそれでもおさまらなかった。飛び出し式ナイフを握り締めると、マンションから飛び出した。自転車にまたがり、T駅に向かって爆走した。
「あの野郎。ナイフでメッタ刺しにしてやる!」
怒鳴り散らしながら、住宅街を駆け抜けた。大声に驚いて、振り向く通行人がいることが心地よく感じられた。
「メッタ刺しにしてやるよ!」
暴走自転車は、あっという間にT駅前に着いた。額に吹き出た汗は放っておいて、圭太は西口を見渡した。ティッシュ配りを三人見つけたが、これは全員女性だった。あの男はいないようだ。
「あの野郎。逃げやがって」
ティッシュを配っている女性達は、全員、あの男と同じ水色のポロシャツを着ている。同じ店の従業員なのだろうか。
「あの野郎の女なのか。こいつらは」
三人とも今時の雰囲気の、可愛らしい顔立ちをしていることが、かえって気に食わなかった。
(あの男が俺をつけまわしたことは、世間的には正しいんだろう。特に女達にとって、あの男はまさに、正義のヒーローだろう)
圭太は、女性達の目の前へ自転車を止めた。そして、もったいぶってゆっくり降りると、女性達を睨みつけた。2人の女性は、圭太の異様な雰囲気を察したようだ。関わりたくないと思ったのだろう。体の向きを変えて、他の通行人にティッシュを配るようにしている。だが、残る一人は、圭太の殺気と憎悪に気付くことができなかったようである。彼女は圭太に近づいていって、ティッシュを渡そうとした。圭太は瞬間、頭に血が上った。差し出された彼女の手を、思い切り殴りつけた。
「痛い!」
衝撃で女性の手首はひん曲がり、ティッシュは地面に叩きつけられた。
「お前はあいつの女なのか! お前もあいつの味方をするのか!」
怒声が駅前中に響いた。
女性は赤くなった手を、もう一方の手でおさえ、呆然と圭太を見ている。三秒ほど沈黙した後、ティッシュを拾おうとしゃがみこんだが、その頭上に、圭太の怒声が浴びせられた。
「あいつを呼んでこいよ! メッタ刺しにしてやるよ!」
「あの、私、何かしましたか?」
女性は圭太を見上げながら、必死に事態を把握しようとしている。
「意味がわからないんですけど」
「意味がわからないじゃないだろう? 無難なことを言って逃げようってのか? 俺の言ってることに答えろよ。あいつを呼んで来い! お前あいつの女なんだろう?」
他の2人が駆け寄ってきた。2人もまた、圭太が怒鳴る理由が分からないようだ。通行人達も足をとめて、何ごとかと、こちらを見ている。圭太は周囲の視線は無視して、しゃがみ込んでいる女性を怒鳴り続けた。
「早くあいつを呼んでこい! お前はあいつの女なんだろう? 早く呼んでこい!」
女性は腰が抜けたのか、立ち上がれないようである。唇は小刻みに震え、何か言わなければと急いているようだが、言葉が出てこない。
「黙ってれば逃げられると思ってるのか! 早くあいつを呼んでこいよ! 人の人生を何だと思ってるんだ!」
横で見ていた二人のうち、一人が東口へ走っていった。残った一人が口を挟む。
「あの、あいつって誰なんですか?」
「うるさい! お前には聞いてない! こいつに聞いてんだよ!」
彼女のことは相手にせず、涙目で座り込んでいる女性を、さらに怒鳴りつけた。
「黙って済まそうとしてんじゃねえよ! 俺の言うことに答えろよ!」
その時、圭太は東口から不穏な気配を感じた。女性の気配ではない。屈強な男の気配である。振り返って見ると、東口に向かった女性に連れられて、男が三人、こちらへ駆けてきている。男達は三人とも、水色のポロシャツを着ていた。
「どうした? 絡まれたって?」
男達が目の前にきた。そして、圭太と女性の間に割り込み、立ちふさがった。
圭太は三人を見上げた。一人と目が合った。目が合った男は紛れもない、昨晩、圭太をつけまわしたあの男だった。
「しまった!」
圭太は体を回転させ、自転車に飛び乗ると、猛スピードで人だかりに突っ込んでいった。反動で、腰の曲がった老人を転倒させた。それにはかまわず、駅前から、あっという間に消えていった。
散々怒鳴られた女性は、呆けて座り込んでいた。男達は彼女を抱え上げ、今の子供は一体何者なのかと問い掛ける。女性はショックで何も答えられない。だが、圭太と目が合った例の男だけは、自体を飲み込めたようである。
「あのガキ。昨日見た奴だな」
圭太は駅から少し離れた、T団地の入り組んだ路地に身を潜めていた。
散々呼べと言っていたにも関わらず、いざ男が現れると逃げ出してしまった。
「今ごろT駅前では人だかりができていて、皆で俺を笑ってるだろう。 威張っていたくせに、いざ男が来たら逃げ出しやがったと、大笑いしているに違いない」
圭太は団地を出て、市内の巡回を始めた。そして例の、自転車で追い抜きざまに女性の尻を触るという痴漢行為を始めた。真昼間に痴漢をするのは、これが初めてである。
触るというよりは、尻を引っぱたくという表現の方が合うだろう。今までにない乱暴な触り方になっていた。