同棲解消
通勤途中、きよかは声をかけられた。
——けれど、心は動かなかった。
若い男性。
きよかより年下に見えるが、背は高く、きちんと着こなされた服装から品の良さが伺える。
顔立ちも整っていて、軽い気持ちで声をかけてくるようには見えなかった。
見た目だけなら、きよかの好きなタイプだったはずだ。
「いつも、バス停を降りて歩いていく姿を見てて……
なんか、目で追っちゃってて……」
必死に言葉を探す彼の声を聞きながら、
きよかの頭に浮かんでいたのは、ただ一つだった。
——早く、元樹に会いたい。
それだけ。
恋愛感情は、わかなかった。
元樹との同棲生活が始まって、すでに一週間以上が過ぎていた。
毎朝、同じように目を覚まし、声をかけ、
夜は同じように話しかける。
完璧な日常。
けれど、きよかは分かっていた。
——そろそろ、終わりだ。
ソファに座り、元樹を見つめる。
愛おしさと同時に、胸の奥がきりきりと痛んだ。
「この生活が、永遠ならいいのに」
ぽつりと零す。
「でも……これ以上一緒にいたら、
私が愛した元樹が、朽ちてしまう」
どれだけ手を尽くしても、
どれだけ大切にしても、
それ以上は保てない。
エンバーミングの限界。
その現実に、悔しさが滲んだ。
「元樹、大丈夫だよ」
きよかは微笑む。
「離れても、私が元樹を愛する気持ちは、変わらないから」
言い聞かせるように、優しく。
「それにね……これからは、
私が愛する人と一緒に過ごすの」
少しだけ、無理に明るい声で続ける。
「今までみたいに、一人で家で待つこともなくなるし。
きっと、いいことだよね?」
答えは、返らない。
きよかは、長く、深いキスをした。
「元樹……愛してる」
その言葉を、何度も胸の中で繰り返す。
そして、実家へ向かった。
冷凍コンテナの前に立ち、鍵を開ける。
「ただいま」
中へ入り、静かに語りかける。
「この前、話した元樹くんだよ」
三つのショウケースに並ぶ顔を、順に見回す。
「これからは、四人で仲良く過ごしてね」
元樹のショウケースを、空いていた場所へ置く。
きれいに、ぴたりと収まった。
その瞬間、涙が頬を伝った。
きよかは慌てて拭い、すぐに笑顔を作る。
「また、すぐに会いに来るからね」
振り返りたい衝動を必死に抑え、
冷凍コンテナの扉を閉めた。
車に乗り込み、エンジンをかける。
一人きりの運転席。
隣に元樹がいないことに気づいた瞬間、
堰を切ったように涙が溢れた。
前が見えなくなるほど、泣いた。
それでも、きよかは車を走らせる。
——次の生活へ向かうために。




