通勤バス
朝のバスは、いつも同じ匂いがした。
消毒液と、誰かの香水と、少しだけ湿った空気。
清水きよかは、窓際の席に腰を下ろし、スマートフォンの画面を伏せる。
夜勤明けの体は重いはずなのに、気持ちだけは不思議と軽かった。
——あの人に、今日も会える。
数週間前から、同じ時間帯のバスに乗る若い男性がいる。
すらりとした体格、整った横顔。
混んでいるときには迷いなく席を立ち、年配の乗客に「どうぞ」と声をかける。
それだけで十分だった。
きよかは彼を「優しい人」だと信じることができた。
病院では、きよかは評判がいい。
明るく、元気で、誰にでも笑顔を向ける。
看護師資格に加え、エンバーミングの資格も持っていることを知る人は少ないが、同僚からの信頼は厚かった。
命の始まりと終わり、その両方に触れる仕事。
だからこそ、バスの中の短い時間は、きよかにとって現実から切り離された“楽しみ”だった。
その日、少しだけ、いつもと違った。
急ブレーキで体が揺れた瞬間、彼の腕がきよかの肩に触れた。
「……すみません」
低くて、落ち着いた声。
「いえ、大丈夫です」
心臓が、少し早く打った。
降車口の前で、きよかは衝動的に声をかけた。
「あの……いつも、この時間ですよね」
彼は一瞬驚いた顔をしてから、柔らかく笑った。
「はい。俺も、気づいてました」
その笑顔で、きよかは確信した。
これは偶然じゃない。
「清水きよか、です」
「冴島元樹。25歳です」
名前を知っただけで、世界が一段階近づいた気がした。
それから、バスで会うたびに挨拶を交わすようになった。
短い会話。天気の話、仕事の話。
そしてある日、きよかは思い切って言った。
「よかったら……ご飯、行きませんか」
元樹は少し考えてから、軽く頷いた。
「いいですよ」
その返事だけで、きよかの胸は満たされた。
デート当日、元樹は終始楽しそうだった。
優しくて、距離が近くて、時々きよかをからかう。
——デートだ。
きよかは、そう信じて疑わなかった。
けれど、食事の終盤、元樹は何気なく言った。
「実は、彼女いるんですよね」
言葉は軽く、罪悪感はなかった。
「でも、清水さんは楽しいし。深く考えないなら、いいかなって」
その瞬間、きよかの中で、何かが静かに外れた。
それでも、きよかは笑った。
「……そうなんですね」
帰り道、きよかは自分の部屋に誘った。
元樹は迷わなかった。
夜は、甘く、穏やかに過ぎた。
きよかは何度も元樹の顔を見つめ、触れ、確かめた。
——この人は、私のもの。
ベッドの中で、きよかは囁く。
「明日、お休みですか?」
「有給取ってます。よかったら、またデートします?」
その言葉を聞いた瞬間、きよかの心は完成した。
しばらくして、元樹は強い眠気に襲われ、深く眠り込んだ。
きよかは、そっと彼の髪を撫でる。
「大丈夫。ずっと一緒だよ」
愛おしそうに、何度も、何度も。
やがて、きよかは静かに立ち上がり、道具を手に取った。
迷いはなかった。
——終わりは、始まりよりも、ずっと優しい。
心臓の位置を、正確に知っている。
それが、彼女の仕事だから。
きよかは、微笑んだまま、刃を沈めた。




