第8話「オーシャン・スタジオ・ワールドへ」
ゴールデンウィーク初日の朝五時半、目覚ましより先に目が覚めた。
カーテンの向こうがもううっすらと明るい。ベッドの上でしばらく天井を眺めてから、枕元のスマホを手に取る。日付を確認して、通知をざっと流し見て、それからチャットアプリのアイコンを押した。
「オーシャン・スタジオ・ワールド」参加者チャットグループ、参加者四人。安田の名前は、ここにはない。
親指が止まる。安田との個人チャットとの行き来を、何度もやってしまう。
『OSW、安田は来ないの?』
と、一昨日の夜に送ったメッセージ。数分後に返ってきた長文。
『いやさー。最初は行くつもりマンマンだったんだけどね? 飲み会のあとで、ちょっと冷静になったわけよ。白木さん、俺に興味ゼロってのがようやくわかった。いい子だから態度には出さないけどさ、ああいうのは分かるじゃん。視線の向きとか、話振ったときのテンポとかさ。で、あれは完全にお前か雄大のどっちかを見てる。そこに割り込んでいくほど俺も鈍感じゃないのよ。それにさ、白木さん落とすには雨宮親衛隊長サマの審査も通らなきゃなんないだろ。あれはハードモード過ぎる。俺の担当ステージじゃないって悟りました』
そこで終わっていれば、少ししんみりしたのかもしれない。だが、安田はそこで終わらせない。
『んでな。諦めてマッチングアプリ真面目にやってみたら、ゴールデンウィークに9件アポ入った。9件。これはもう、そっち優先するしかないでしょ。というわけで俺はこっちで別ゲーやってくる。お前らはお前らで、青春イベント楽しんでこい。土産話、待ってるわ』
スクロールする指が止まる。
白木百合香の視線の向き。話を振ったときのテンポ。どちらかといえば雄大のほうに向いている、と思ったことは、一度もないわけではない。それでも、「お前か雄大のどっちか」という言い方は、安田らしくもあり、妙に真ん中を突いてきているようでもあった。
「……9件は多いだろ」
小さく独り言を言って、スマホをベッドに伏せる。
七時に新幹線の駅集合。神奈川から大阪までは、だいたい二時間半。日帰り強行軍だ。眠気より先に、胃のあたりが妙な熱でざわついている。
灰色の狼のぬいぐるみは、リュックの中で何も言わずに鎮座している。目の光も、口元の縫い目も、動いている気配はない。
ウォルフは昨夜、妙なことを言っていた。
「少し気になることがある。俺が明日、何も反応しなくても、必ずこのぬいぐるみの身体を同行させろ」
その言葉通り、リュックの中のウォルフを確認してから、家を出た。
七時少し前、新幹線のコンコースは、ふだんよりも家族連れが多かった。キャリーバッグを転がす音と、子どものはしゃぎ声が混じっている。
待ち合わせの場所には、雄大が先に立っていた。リュックを片肩にかけて、チケットの封筒を手に持っている。
「おー、斗真。ちゃんと起きられたか」
「……今日はさすがに」
答えると、雄大は「だよな」と笑って、封筒をひらりと振った。
「指定席、四枚まとめて取ってある。現地まで乗り換えなし。帰りの時間も押さえたから、安心して遊べ」
「幹事力、高すぎない?」
「こういうのは、段取り命だからな」
軽く言って、スマホをチェックする。
「雨宮と白木、もう改札の中かも。連絡来てる?」
ちょうどそのタイミングで、チャットに新着メッセージが入った。
『着いたー』『今、15番ホームのエスカレーター降りたとこ』
エスカレーターの下のほうで、未夢が手を振っていた。その隣で百合香がトートバッグを抱えて、少し眩しそうにこちらを見ている。
飲み会以来の姿だ。
「おはよー、男子ども」
未夢がいつもの調子で近づいてくる。白いシャツに薄手のパーカー、デニムのパンツ。旅行仕様のスニーカー。
百合香は薄いベージュのワンピースに、カーディガンを羽織っていた。髪はいつもよりゆるくまとめられていて、駅の空調が当たるたびに先端が揺れる。
「おはよう、斗真くん」
名前を呼ばれて、ほんの一瞬だけ、胸のどこかがひやりとする。あの夜のことが、喉の奥で硬く丸くなる。
「……おはよう」
後ろめたさと、一緒に出かける嬉しさとが、うまく混ざらない。視線のやり場に困っていると、未夢がじろりとこちらを見る。
「何その顔。寝不足?」
「ちょっと早起きしただけ」
「ふーん?」
あまり深くは追及されず、代わりに雄大が手を叩いた。
「ほら、時間ギリだぞ。乗り遅れたら、今日一日台無しだからな。行くぞ、ハートの焦げ目ーズ」
「その名前、まだ続けるんだ……」
未夢が呆れたように言い、百合香がくすっと笑う。その笑い声だけで、罪悪感の輪郭が少しだけぼやける気がした。
新幹線の車内は、思ったより空いていた。指定席の列に着くと、雄大が慣れた手つきでシートを回転させる。
「四人で向かい合わせにしようぜ。旅行感出るし」
「さすが慣れてるわね、明智くん。合宿の移動とかいつもやってそう」
「まあな。じゃ、窓側は女子優先で」
進行方向に向かって前向きの席に、窓側から百合香、通路側に斗真。向かいの後ろ向き席に、窓側が未夢、通路側が雄大、という配置になった。
発車のアナウンスが流れ、車体がゆるやかに動き出す。ホームの人々がゆっくりと後ろに流れていく。百合香が、窓の外を見ながら小さく息を吸った。
「天気、良かったね」
そう言って、振り向く。瞳の中に窓の明かりが映っている。
「晴れてよかった。雨だったらどうしようかと思ってたよ」
斗真が返すと、未夢が腕を組んだ。
「でもさ、予想より暑くない? 今日。服、もっと薄くしてくればよかったかなって若干後悔してる」
「分かる。わたしも家出るときちょっと迷った」
百合香がカーディガンの袖をつまんで笑う。
「でもほら、テーマパークって夜は冷えるし。昼暑いくらいでちょうどいいよ、きっと」
「経験者は語る、ってやつだな」
雄大が頷く。
「OSW、俺は二回目なんだ。高校のとき、サッカー部の遠征のついでにさ。昼はアトラクション、夜はパレードと花火。あれはマジで一見の価値あり」
「はい来た。OSW布教マン」
未夢がため息交じりに言って、すぐ乗ってくる。
「でもさ、絶叫系、どれくらいあるの? わたし絶叫大好きなんだけど」
「お、来たな。まず入口近くの“ダイブ・オブ・ポセイドン”は乗っとけ。あれ落ちるときの浮遊感ヤバいから」
「名前がもう物騒なんだけど」
「ポセイドンだし。海の神様だし」
未夢と雄大の会話を聞きながら、斗真は少しだけ体をずらして、百合香のほうを見る。
「百合香さんは、どこ行きたい?」
「えっとね……」
百合香は指を顎に当てて、少し考えるふりをした。
「“ドラグーン・ファンタジア・ゾーン”ってあるよね? 映画のセットになってるところ。そこ、行ってみたい」
「あー、ドラゴンのやつか」
雄大がすぐ反応する。
「山と城のセットになってて、昼は普通のセット見学なんだけど、夜になるとちょっと演出入るんだよ。霧とか、光とか。あそこいいよな」
「ドラゴンがちゃんと“飛べなさそうな感じ”なのが好き」
百合香が、小さく笑いながら言った。
「翼が重そうで、羽ばたくのも大変そうで。でも、それでも飛ぼうとしてる感じがするの」
図書館で見た幻獣図鑑の挿絵と、彼女の最初の一言が、自然に重なる。あのときの小さな竜と、これから見に行くはずの巨大な作り物のドラゴンが、同じ線の上に乗る感覚。
「じゃあ、午前中はそっち優先で回るか」
雄大がスケジュールをまとめる。
「午前中にファンタジー系、昼にちょっと軽いライド、午後に絶叫系、夜はパレードと花火。ざっくりそんな感じでどう?」
「異議なし」
未夢が即答する。
「絶叫は午後から本気出す。午前中は助走でいいや」
「私は、どこでも楽しみ」
百合香がそう言うと、雄大がにっと笑う。
「じゃ、現地のルートは俺がざっくり組んどくから、歩きながら微調整な」
こういうとき、自然に舵を取るのはいつも雄大だ。チケットの手配も、時間の設定も、ルートの組み方も、気づけば彼が先に動いている。
自分には、ああいうふうに人を引っ張ることはできない。図書館の席取りや、資料探しならうまくやれる自信はあるけれど、今日みたいな場所では、動き出す足の速さが違う。
足元に置いたリュックの中には、灰色の狼のぬいぐるみがひっそりと入っている。中身が本物の人狼騎士だなんて、もちろん誰にも言えない。遊園地まで連れてくるのもどうなんだ、と自分で思わなくもないが、置いてくる勇気もなかった。
窓の外に視線を逃がす。住宅街が途切れて、低いビルが増え、やがて遠くに海がちらりと見え始める。新幹線は、うなるような音を響かせながら速度を上げていく。
ほのか、という名前は、頭の中で意識的に避けていた。あの夜の部屋の匂いと、今の車内の消毒液の匂いは、共有できるものではない。だから、その間にはっきりと線を引こうとする。
けれど、百合香の笑い声が聞こえるたびに、線は少しずつ揺れる。
「そういえばさ」
しばらくして、未夢がペットボトルのキャップをいじりながら言った。
「安田くん、結局来ないんだね」
「あいつはあいつで、ゴールデンウィーク忙しいらしいぞ」
雄大が苦笑する。
「昨日も言ったけどさ、マッチングアプリで9件アポ取れたとか抜かしてた」
「9件って。体力どうなってんのよ、あのチャラ男は」
未夢が呆れたように言い、百合香も目を丸くする。
「すごいね……。でも、安田くん、飲み会のとき優しかったよ。注文とりまとめてくれたり」
「チャラさと気遣いはまた別スキルだからな、あいつ」
雄大が肩をすくめる。
「まあ、今回のメンバーはこの四人ってことで。少数精鋭」
「精鋭ねえ」
未夢がじと目を向ける。
「男二人はちゃんとエスコート頼むわよ。女子二人を楽しく遊ばせる義務があるからね」
「プレッシャーがすごい」
斗真が思わず本音を漏らすと、百合香が小さく笑った。
「そんなに気負わなくていいよ。みんなで一緒に行けるだけで、もう楽しいから」
その一言が、妙に真ん中に刺さる。「楽しいから」という主語の中に、自分も含まれているのかを確かめたくなるが、ここで確かめようとするのは、少し違う気がした。
新幹線は、いつのまにか都市部を抜けて、田畑と低い山の続く風景に入っていた。遠くの雲が、夏の手前のような形をしている。
窓ガラスに映った自分の顔は、思っていたほど暗くなかった。眠気と高揚と不安とが混ざって、中途半端な熱を帯びている。
やがてアナウンスが流れ、減速の振動が足裏に伝わる。
「まもなく、オーシャン・スタジオ・ワールド最寄り、海都かいと駅です」
車内アナウンスの声が告げる。
荷物を持ち直し、座席を元の向きに戻す。立ち上がる直前、ふと窓の外を見ると、遠くに見慣れない形の塔が見えた。海沿いに建てられた巨大なスタジオの象徴、ライトを何本も抱えたクレーンのような塔。それが、朝の光の中でゆっくりと回転している。
ただの遊園地のシンボル。今日一日の入口。
——このときの斗真はまだ知らない。
ここから過ごす一日が、この4人で過ごす最後になることを。




