第7話「消えたあの子」
日曜の夜の自室は、やけに音が少ない。
窓の外をたまに走る車の音と、遠くの踏切が鳴るか鳴らないかくらいの気配だけ。机の上ではスマホだけが小さく光っている。
チャットアプリのアイコンには5人の参加者を示す「5」のバッジ。
雄大の作成した連絡用のチャットグループだ。あの夜、雄大はグループ名を「ハートの焦げ目の会」に変更した。
そして川瀬ほのかの名前は、そもそもそこにはない。スマホを持っていなかったからだ。
この一週間、チャットには何度か彼女の話題が流れた。
『最近見ないね』
『ゼミも来てないっぽい』
『大学、合わなかったのかな』
そういう短い文が二、三往復して、やがてレポートの締切とゼミ合宿の相談に押し流されていく。昼休みの中庭でも、似たような空気だった。
「フェードアウト勢だな」「もったいねー」「でも、よくあるよね」
誰も悪意はない。ただ、世界のほうが先に意味をつける。「途中で来なくなった人」「大学が合わなかった人」として、川瀬ほのかを分類しようとしている。
あの夜、変貌した悪魔の姿は、どこにも分類できる場所はない。だからその部分だけが、斗真の中に居座り続けている。
「そろそろ、聞きたいことは聞いておけ」
本棚の上から、低い声が落ちてきた。
灰色の狼のぬいぐるみ——ウォルフが、いつもの角度で座っている。ガラス玉の目は天井の一点を見ていて、どう見てもただのぬいぐるみだが、声は喉の奥にまっすぐ届く。
「聞く」
自分の声が思ったよりはっきりしていて、少し驚く。
「まず、川瀬は……ほのかは、あの夜のあと、どうなったんだ」
「悪魔の側に戻った」
答えは、いつもどおり端的だった。
「彼女はおそらく、もとは魑魅魍魎《ちみもうりょう》のような存在だ。人間から漏れる負のエネルギーを舐めるだけだった、と本人も言っていた。最近、なにかをきっかけに低級悪魔へと“昇格”し、人間の姿に近づいたのだろう。おまえとの一夜で得た生命エネルギーで、次の段階——もっと上位の悪魔と契約する準備が整った」
「……僕のことを“初めて喰べるヒト”って言ってたよな」
あのベッドの上の声を思い出す。
「そうだ、あいつが人間を“喰おう”としたのは、おまえが最初だったのだろう。今まではせいぜい、感情の残り香や夢の端っこを齧るくらいだ。姿形のない、霧のような悪意に近い存在だった」
「じゃあ、僕との……」
「おまえとの交わりで、初めて濃い生命エネルギーを手に入れた」
ウォルフの声は淡々としている。
「言っただろ。“親密の共鳴”は、互いに惹かれているほど高まる。おまえの側に恋情があったのと同じくらい、川瀬ほのかの側にも、ちゃんと好意があったのだろう。だから、あそこまでの量になった」
「……全部、利用だったわけじゃないってことか」
「利用でもあり、本心でもあった」
斗真は別の質問を投げた。
「ほのかは、紅の魔術師とは、関係あるのか」
「ないな」
ウォルフは首を振る。
「紅の魔術師は王女を狙う側の勢力だ。川瀬ほのかは、自分が上に行くことしか見ていない。王女の存在を知らないまま、別のルートで魔力階層を登ろうとしている」
「じゃあ、白木さん——王女と、たまたま同じ席にいたってだけか」
「そういうことだ」
あのイタリアンバルのテーブルが頭に浮かぶ。六人分のグラスと、ハート型に焦げたピザ。
ほのかは楽しそうに笑っていたし、百合香も笑っていた。どちらの笑顔も、作り物には見えなかった。
「白木さんには、近づいてないんだよな」
「そこは最初から言っている」
ウォルフの声が、わずかに柔らかくなる。
「こっちに来たときから、王女には俺が定期的に魔力を送っている。こちらの世界でいう”ソナー”のようなものをな。体調が崩れたり、精神が大きく揺れたりすれば、すぐ分かる。川瀬ほのかが王女に牙を向けた痕跡はない」
「……それだけは、ほんとに助かる」
安堵と、別の種類の重さが、一緒に胸の内側でぶつかる。
ウォルフが勝手に話題を切り替える。
「それと、あの夜、俺が狼の姿になったことだが」
覚えている。ぬいぐるみじゃない、毛並みが一本ずつ立っていて、筋肉の動きで影が揺れる、本物の"獣"の存在を、斗真は初めて目の当たりにした。咆哮の振動が床を伝って、足の裏まで震えていた。
「そのあと、いつのまにか、ただのぬいぐるみに戻ってた」
「俺自身も、だいぶ不可解だった」
ウォルフは、少しだけ自嘲気味に言う。
「元いた世界では、俺には三つの形があった。人の姿と、狼の姿と、人狼の姿。この世界に来たときには、その全部を失っていて、せいぜい“言葉を喋るぬいぐるみ”にしかなれなかった」
「なのに、いきなり」
「あの夜、ほんの一瞬だけ、昔の力の一部を取り戻した。原因はわからんがな」
ウォルフは言葉を区切る。
「ただし、今のところ俺がなれるのは“狼の姿”だけだ。人間にも、人狼にも届かない。制御もまだ不安定だ」
「じゃあ、またあの姿になれるとは限らない?」
「限らない」
あっさりと言い切って、それ以上言及しなかった。
「で、川瀬の“その後”については、さっき言った通りだ」
ウォルフがまとめに入る。
「姿形のない魑魅魍魎みたいな存在から、なにかをきっかけに低級悪魔になった。おまえとの性交により、ひとつ上の階段を登れるだけのエネルギーを手に入れた。これから、どこかの上位の悪魔と契約するだろう」
ウォルフは続ける。
「そして、おまえ以外の者たちはその内に忘れていくだろう。“川瀬ほのか”という名前の女の子がいたことを」
「……むかつくな、それは」
「何に対してだ」
「……わからない」
口に出してみて、自分でも乱暴な言い方だと思う。
でも、ほかに適切な言葉が思いつかない。
ちょうどそのタイミングで、スマホが短く震えた。
画面を見ると、「ハートの焦げ目の会」に雄大からの新着メッセージ。
『ゴールデンウィーク、みんなで遊園地に行かないか?』
『オーシャン・スタジオ・ワールド。日帰りか一泊かは要相談』と、スタンプのキャラクターが画面の隅でピースしている。
「……気分転換に、外出してみるのもいいかな」
『いいと思う』と打ちかけて、消す。『行きたい』と打ち直して、送信ボタンを押す。すぐに「既読4」がついた。




