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倒魔くんとナンパの人狼  作者: 首藤蓮


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第6話「女選び」


 思考が停止する音がした。


————初めて喰べるヒト。


 脳が理解するまでに、数秒かかった。

 比喩だと思うには、声の温度が違いすぎた。軽口でも冗談でもない。

「……どういう意味?」

 問いながら、喉がひどく渇いていることに斗真は気づく。

 ほのかは、ようやくこちらのほうに体を向けた。瞳の色が、さっきまでよりも深く見える。照明のせいだけではない。黒目の中に、琥珀色の縁取(ふちど)りのようなものが滲んでいる。

「そのままの意味だよ」

 声は淡々としていた。

「わたし、ずっと、人の発する“負のエネルギー”だけ舐めて生きてきたの。嫉妬とか、後悔とか、諦めとか。心に裂け目ができたとき、こぼれてくるやつ」

 ウォルフの言葉と、図書館で見た“影のひび”が、そこで急に繋がる。裂け目、こぼれるもの。

「でも今日は違う。ちゃんと“(せい)のエネルギー”をもらった」

 ほのかは、ベッドの上でゆっくりと身を起こした。シーツが静かに滑り落ちて、肩のあたりに影が濃く集まる。


「これで、ようやく、もっと高いところの悪魔と契約できる」

 悪魔、という単語はこの部屋のどこにも似合わないのに、彼女の口から出てくると奇妙に馴染んだ。

「……冗談じゃないよね」

「冗談だったら、よかったのにね」

 ほのかは、少しだけ笑った。

 その笑いが、さっきまでの照れや優しさを含んでいないことに、ようやく気づく。

 そのとき、部屋の空気の密度が変わった。

 彼女の体温が、じわじわと上がっていく。近くにいるのに、手を伸ばしたら火傷しそうな感覚。肌の色が、冴え冴えとした白から、うっすらと影を帯びた色に変わる。

 照明はさっきと同じ明るさなのに、ほのかの輪郭だけがくっきりと浮かび上がる。

 背中のあたりで、かすかな音がした。

 関節が鳴るような、乾いた「ぴしっ」という音。肩甲骨の下から、黒いものがゆっくりと膨らんでいく。

 影が実体を持ち始める。薄い膜のようなものが広がり、やがて「翼」と呼ぶしかない形をとる。

 瞳孔が縦に細く歪んだ。灯りを飲み込むような目だ。口元の笑みは、人のものより少しだけ大きく広がり、そこから覗く暗がりは、底の見えない穴のように見える。


「本当はね」

 その声は、もうさっきまでのほのかの声ではなかった。

 高さは同じなのに、響き方が違う。部屋の壁に当たって、少し遅れて耳に返ってくる。

「ゆっくり味わうつもりだったの。ディナーのデザートみたいに」

 ベッドの上で後ずさろうとして、背中がヘッドボードにぶつかる。逃げ場はない。足が震えて、シーツがくしゃりと音を立てる。

「でも、我慢していたけれど、もう無理みたい」

 翼がわずかに動くだけで、空気が揺れた。

 部屋の匂いが、さっきまでのバニラと洗剤の混じったものから、鉄のような、湿った土のような匂いへと変わっていく。

 喉が言葉を忘れた。声を出すという行為のやり方そのものが、急に思い出せなくなる。

 ほのか——もう、そう呼ぶのがためらわれる存在——が、ゆっくりと首を傾けて、斗真の顔を覗き込んだ。

 目が合う。

 そこには、好意も躊躇(ちゅうちょ)もなく、ただ「対象」としての斗真だけが映っている。

「安心して。全部は喰べないから」

 口の中の暗がりから、何か鋭いものがちらりと光った気がした。

 見ようとすると、目の焦点が勝手にずれる。脳が、防御のためにピントを合わせるのを拒んでいる。

 近づいてくる。息がかかる距離。甘い匂いの奥に、別の匂いが混じる。焦げた何かと、湿った何かと、知らない何か。


 その瞬間、窓ガラスの向こうで空気が裂けた。

 バン、と乾いた音がして、カーテンが内側へ大きく膨らむ。次の瞬間、ガラス戸が弾かれるように開き、夜の冷たい風と、銀色の何かが同時に部屋へ飛び込んできた。

 それは、狼だった。

 ぬいぐるみのデフォルメされた姿ではない。本物の、筋肉の塊としての狼。月光を塗ったような銀色の体毛が、照明と外灯の両方を反射している。四肢が床を抉るように着地し、低い唸り声が喉の奥から漏れる。その声は、胸の骨に直接響いた。

「ずいぶん悪趣味なグルメだな」

 ウォルフの声だった。ぬいぐるみのときと同じ声なのに、今度は口の動きと一致している。

 牙の間からこぼれる声は、さっきの悪魔の声よりもずっと地に足が着いていた。

 次の一瞬で、銀色の影が弾丸みたいに動いた。

「お望みならデザートをやるよ」

 前脚の一撃が、悪魔のほのかの胸元——正確には影の中心——を捉える。

 壁際まで吹き飛んだ彼女は、石膏ボードをひび割れさせてから、床に落ちる。翼がバサリと音を立てて揺れた。

「この世界で、そんな姿まで出せるなんて、何者なの?」

 悪魔は、信じられないものを見る目でウォルフを睨んだ。さっきまでの人間の顔の名残と、異形の輪郭が気味悪く混ざり合っている。

「貴様こそ、知らん悪魔だな。低級位か」

 その一言で、悪魔は口元を歪める。

 ウォルフは、低く唸りながら、一歩一歩間合いを詰める。床板が、そのたびにわずかに軋む。銀色の毛並みの下で、筋肉が滑らかにうねるのが分かる。

「ここでやり合ってもいいが、お互い無傷ではいられなさそうだ」

「そうだねえ。私も今回はこれで十分。生命のエネルギーはいただいた。これで、もっと高位の悪魔と契約できる」

 あっさりとした声で、「帰るよ」と悪魔は言った。

「邪魔が入ったせいで、ディナーは楽しめなかったけど」

 翼を大きく広げると、部屋の空気が一段冷え込んだような気がした。

 悪魔の目が、もう一度だけ斗真を見た。

 そこには、人間としてのほのかの名残が、ほんのわずかに揺れていたような気がする。それが錯覚なのかどうかを確かめる余裕は、今の斗真にはない。

「次に会うときには、もっとおいしくなってるといいね、斗真くん」

 翼が大きく羽ばたいた。窓から流れ込む夜風が強くなり、カーテンが激しく踊る。

 悪魔の身体は、その風に乗ってふわりと浮き上がり、窓の外の暗闇へと溶けていった。

 蝙蝠とも鳥ともつかない影が、夜空に一度だけ輪を描いてから、見えなくなる。

 部屋には、斗真と、銀色の狼だけが残された。


 膝が笑って、立ち上がろうとしても力が入らない。シーツを握る指先だけがやけにしっかりしていて、布地の感触だけが現実を繋ぎ止めている。

 ウォルフは、しばらく窓の外を見つめていた。やがて息を吐き、振り返る。琥珀色の目が、まっすぐに斗真を捉えた。

「……これが、"女選び"を間違えたときの、最低のケースだ」

 冗談とも説教ともつかない口調で、そう言った。

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